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いじめられっ子漫画家 山田花子の『隠蔽された障害』をめぐるレポート

いじめられっ子漫画家 山田花子の隠蔽された障害

虫塚虫蔵

(追悼号となった『ガロ』1992年8月号)

面識がないのに、過去のどこかで関わった存在。見て見ぬふりして、無理にも顔をそむけたその存在。つまりこの人は、弱者にとって忘れられない存在だ。(文庫版『自殺直前日記 改』西村賢太の帯文より)

1.はじめに

かつて自閉症は「治療法も分かっていない現代の難病で18歳未満の自閉症児は1万人に対して約2人」(『読売新聞』1977年4月16日付 朝刊)と説明されていたが、その症状には軽微なものから重度なものまで連続性(スペクトラム)があり、後にこれらは「自閉症スペクトラム障害」として一本化された。このため広義の意味での自閉症児(者)の割合は年々急増し、2012年に文部科学省が全国の小中学校で行った調査では、発達障害の可能性がある児童・生徒の割合は15人に約1人にまで迫ってきている。つまり今まで多くの人が自分と無縁だと感じていた自閉症発達障害は決して他人事ではなくなってきているのが現状である。

今回扱う石川元著『隠蔽された障害 マンガ家・山田花子』(岩波書店、2001年9月)は脳の障害(発達障害)から、自殺した漫画家の山田花子が生前抱えていた「生きづらさ」を精神医学的な視点で本格的に分析した臨床研究であり、人付き合いが不得意で良好な人間関係が築けないという問題を「脳」の障害でなく「こころ」の問題として「隠蔽」してきてしまった社会に対する一つの提言の書でもある。

このレポートでは、精神科医の筆者・石川元の主張を軸に第2節で山田の幼年期から自殺に至るまで全生涯の軌跡を辿り、第3節で山田の障害について検討する。第4節では山田の漫画作品から「表問題児」と「裏問題児」というキーワードを導いて山田の苦悩に迫り、第5節で本書の問題点について総括する。

 

2.山田花子の生涯

山田花子は1987年に『ヤングマガジン』の「ちばてつや賞」に入選し、同誌で華々しくデビューしたが、編集者との軋轢が絶えず連載は終了、その後はマイナー誌の『ガロ』を中心に活動していたが、1992年春に精神分裂病(現在の統合失調症)と診断され、2カ月半ほど入院、同年5月23日に退院したが、翌24日夕方に高層団地11階から投身自殺した。生前遺した単行本はたった2冊しかなく、新聞の訃報でも「漫画家」ではなく「多摩市内の無職A子さん」として報じられた。

山田花子の名前が知れ渡る契機となったのは、山田の死後刊行され、ミリオンセラーとなった『完全自殺マニュアル』(鶴見済太田出版)において「投身自殺」の例で山田が取り上げられたことで10代の若い男女を中心に注目されはじめたことである。その後、生前の日記やメモをまとめた『自殺直前日記』(父親が編集した私家版『山田花子日記』を再編集したもの。1996年に太田出版より刊行され、現在は赤田祐一の責任編集による復刻版が鉄人社より出版されている)はベストセラーとなった。この節では山田の生涯について以下に詳しく述べることにする。

2-1.幼少期~小学生時代

山田花子(本名・高市由美)は、1967年に小学校教師の母親と自動車のセールスマン(のちにトロツキストの著述家)の父親の間に東京で生まれた(同じ1967年生まれで、同じく自殺した『ガロ』系の女性漫画家にねこぢるがいる)。幼少期から内気な子どもだったようで、友達と遊ぶよりも絵本や漫画に親しみ、昆虫の飼育に熱中する一風変わった少女だった。得意と不得意が両極端で、体育などの集団行動が大の苦手だったが、誰よりも語彙が豊かで自分で子リスを主人公にした絵本を自作するなど空想家な面があり、絵本では誰にも相手にされない孤独なオオカミを描いた佐々木マキの絵本『やっぱりおおかみ』(福音館書店)をボロボロになるまで繰り返し読んでいたという。



(図1 佐々木マキ『やっぱりおおかみ』より)

佐々木マキ著『やっぱりおおかみ』(福音館書店、1973年)は一人ぼっちのオオカミが「おれににたこはいないかな」と友達をあちこち探し回るという内容である。しかし、みんなオオカミを怖がって避けていくため、オオカミは誰とも友達になれない。オオカミは一人でビルの屋上にのぼると、ロープで固定された気球が置いてあった。それに乗ればオオカミはこの世界から消え去ってしまうことも出来るが、オオカミは屋上に残り、ロープが解かれて空の彼方に飛んでいく気球を眺める(図1)。そしてオオカミは「やっぱりおれはおおかみだもんな、おおかみとしていきるしかないよ」「そうおもうとなんだかふしぎにゆかいなきもちになるのでした」とつぶやき物語は終わる。石川は臨床心理士に「この絵本を幼少期にボロボロになるまで繰り返し読んだ子供がいる」とだけ伝え、それ以外の情報や属性を明かさず、目隠し分析の上でその子供の性格特性の所見を求めたところ、提出された人物像は正に山田花子そのものであったという(石川 2001、267ページ)。

山田花子は小学生時代より成績が良く、観察面に優れ、知能面では特に問題がなかったが(ゆえに「障害」は見過ごされて「隠蔽」された)、対人コミュニケーションや人間関係の形成などに難があり、受け持った担任教師からも「とてもおとなしく、自己主張をほとんどしない」(小学校二年一学期)、「こちらから話しかけると話してくれるが、自分からみんなに向かって話すことは、ほとんどない」(小学校二年二学期)、「きいてないようで何でも理解している子」(小学校五年二学期)、「理解力は十分にもっているが注意散漫で集中力に欠ける。ただし、好き嫌いが甚だしく好きなことは集中してしまう」(小学校六年一学期)、「授業中にも私語が多く集中力に欠ける。そんなことをしていながら、結構質問に対しては正しく答えている」と通知表で評価されていた。

この頃から山田の自閉的な傾向が窺えるが、とくに小学校二年二学期の通知表にある「こちらから話しかけると話してくれる~」という評価は自閉症スペクトラム障害アスペルガー症候群)の受身型、すなわち「自分からは積極的に関わろうとはしないものの、他人からの関わりは拒否せず、受け身的に関わる内向型タイプ」であると私は推察している。このタイプは従順なぶん自己主張が弱いので、損な役目を引き受けてしまう傾向があり(山田も過去に10万円もする布団を訪問販売で買わされたことがある)、主体性がなく優柔不断にみられがちである。もちろん本書でも山田花子アスペルガー症候群との関連性が指摘されているが、筆者は「アスペルガーの〇〇型」といった具体的な細分化までは行っていない。なお、私自身の性格は自閉症スペクトラム障害に見られる「積極奇異型」から「受身型」に推移していった自覚がある。

2-2.中学入学後~投身自殺

中学二年生の時にいじめに遭い、ガス自殺未遂を図る。ほどなくして不登校になるが、「何かに打ち込む方がよい」という母親の推薦で、雑誌『なかよし』の「まんがスクール」に入る。中学三年時に「裏町かもめ」のペンネームで投稿した『明るい仲間』(図2)が「なかよしギャグまんが大賞」佳作に入選する。

1983年には『なかよしデラックス』1月号に入選作の『明るい仲間』が、同誌4月号にはデビュー作の『大山家のお子様方』(補記参照)が掲載され、同誌5月号から『人間シンボーだ』(図3)の連載を開始する(1984年6月号まで)。

(図2 講談社刊『なかよしデラックス』1983年1月号掲載の入選作『明るい仲間』より)

(図3 講談社刊『なかよしデラックス』1984年2月号掲載の『人間シンボーだ』より)

初期の作風はいしいひさいち調*1の可愛らしいデフォルメが効いた古典的な4コマギャグ漫画という印象で、後年の作風とは大きく異なるものであったが、この頃から既に「いじめ」(図2)や「同調圧力」(図3)といった人間の負の部分を描こうとする山田の姿勢が随所に見受けられる。

中学卒業後は立川女子高等学校に入学し、同時に『なかよしデラックス』誌に『人間シンボーだ』という漫画の連載を持つが、学校生活には馴染めなかったようで、引き続きいじめにも遭う。結局女子高は一年で中退し、その後は通信教育(NHK学園)に編入する。この頃から『ガロ』(青林堂)を読み始め、蛭子能収丸尾末広花輪和一などのファンになり、とくに根本敬の影響を強く受ける(根本の死体漫画を読むために蛭子能収平口広美桜沢エリカ、永田トマト、山野一杉作J太郎湯浅学霜田恵美子幻の名盤解放同盟が執筆していた自販機用成人雑誌の『EVE』を熱心に購読するほど根本の漫画にのめり込んでいた)。

また高杉弾(伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長)の著書『メディアになりたい』を読んだ影響でデザインや編集に興味を持ち、大検を取得してデザイン専門学校に入学する。また自主制作(インディーズ)音楽にも興味を持ち、筋肉少女帯空手バカボン、たま、人生、死ね死ね団幻の名盤解放同盟根本敬主宰)のライブに足繁く通い、山田も姉妹バンド「グラジオラス」を組む。

その後、専門学校在学中の1987年に『ヤングマガジン』(講談社)に投稿した『神の悪フザケ』(図4)がちばてつや賞佳作に入選し、そのまま連載作となる。内容は「いじめ」をテーマにしたもので、絵柄も『なかよし』時代とは変わってグロテスクなものとなる。しかし、一般読者からの支持はなかなか得ることができず、読者アンケート人気も常にワースト1位で、担当編集者からは「ストーリーもヤマもオチも何もない。話の辻褄が合わない。こんなの描きたかったら同人誌に描きなさい。読者を馬鹿にしているのか」と叱責される。だが、山田は元々「オチがなく矛盾だらけ」の日常生活を漫画で描こうとしており、担当の意向は不本意なものであった。しかし、山田は干されるのを恐れて担当の言われるがままにオチを付けようと表面上は従順な素振りを見せたが、次第に担当に悪意を向けるようになり、日記には「自分の個人的な見解を世間一般の“常識”にすり換えて作家を支配しようとする」担当への罵詈雑言が書かれ、連載後半からは打ち合わせ時の会話すら取らなくなった。さらに連載終了後には「セクハラを受けた」という事実無根の噂を流したり、無言電話を繰り返したりするようになる(なお、この時期の作品にも世間に対して反抗的な主人公が登場している。詳細は第3節を参照のこと)。

(図4 青林堂刊『改訂版 神の悪フザケ』より。いじめられ役の主人公は反抗する術を持ち合わせていない)

デビュー以降、メジャー誌の『ヤングマガジン』からマイナー誌の『ガロ』まで複数本の連載を持ちながら、テレビやラジオ、映画、劇団、パーティーなど漫画以外の舞台でも精力的に活動するが、1991年頃より会話の途中で突然立ち去る、執拗にメモを付ける、過剰なダイエットをする、妹を無視するなどの奇行が見られるようになる。漫画の発表本数も減少していったが、それでも毎月欠かさず『ガロ』に作品を発表する。だが、『ガロ』は慢性的な経営難のため原稿料が出ず、山田は漫画だけで生活するのは不可能だと判断し(ただし、死後に残された預金は800万円近くもあり、生活に対する過剰で病的な不安があったと思われる)、10以上の面接で落とされた末、1991年7月頃から喫茶店でバイトを始める。しかし、要領が悪く注文ミスを連発し、出勤日でもないのに出勤して居座るなど奇行が目立つようになったため、1992年2月に解雇を言い渡される*2。しかし、解雇通告後も喫茶店で働こうとしたため警察に通報され、父親が自宅に連れ戻すが、翌日錯乱状態になり、クリニックで抗精神病薬投与、筋肉注射など応急処置を受け、精神分裂病の疑いで1992年3月4日に桜ケ丘記念病院に入院する。

 (図5 青林工藝舎刊『改訂版 花咲ける孤独』より。入院前日の3月3日に製作した作品『魂のアソコ』は詩、写真、イラストのみで構成されており、漫画の体裁を取っていない。入院中の3月30日に製作した『アーメンソーメン冷ソーメン』も同様である

その後、症状の回復が認められ、同年5月23日に退院するが、翌24日夕刻に日野市の百草団地11階から投身自殺を図る(山田花子は21歳まで多摩市の百草団地に住んでいた)。退院前日の5月22日には「召されたい理由」と題した以下の文章を日記に書き遺していた。

①いい年こいて家事手伝い。世間体悪い、やっかい者、ゴクツブシ。

②友人一人もできない(クライから)。

③将来の見通し暗い。勤め先が見つからない(いじめられる)。

④もうマンガかけない=生きがいがない。

⑤家族にごはん食べさせられる。太るのイヤ。

⑥もう何もヤル気がない。すべてがひたすらしんどい(無力感、脱力感)。

⑦「存在不安症」の発作が苦しい。

自殺の件は当時、地元の新聞でも以下の内容で実際に取り上げられていた。

団地11階から飛び降り死ぬ

二十四日夜、日野市百草、住宅・都市整備公団「百草団地」一街区五の三で、女性が二階屋根部分に倒れているのを住民が見つけ、一一〇番通報した。この女性は多摩市内の無職A子さん(二四)で、間もなく死亡した。十一階の通路にいすが置いてあり、このいすを使って手すりを乗り越え飛び降りたらしい。(日野署調べ)


(UR都市機構・百草団地1-5-3棟)


(同団地1-5-3棟の11階から眺めた風景。彼女が生涯最期に見た光景である


(1992年5月27日・出棺。享年24)

 

3.隠蔽された障害の正体

障害があることが一目で分かる知的障害児はハンディキャップを抱えた存在として特別扱いされ、庇護の対象となる。一方で発達障害ASD、LD、ADHD)は見た目から知的な欠陥が認められないため発見が遅れることがままある。彼らが抱える苦悩や不器用さは「障害」ではなく「こころ」の問題か、あるいは一種のパーソナリティーの範疇として看過(隠蔽)されやすく、山田の「障害」も周囲の人間からは「個性」として見過ごされた。その後、山田は生来改善の見られない自身の要領の悪さや、周囲に適応することができないという積年の葛藤、そして自分と自分以外の全ての人間(尊敬する作家を除く)に対する敵意を回想も含めて日記に執拗に書き散らすようになり、それを漫画のネタに昇華することで何とか自我を保っていた節がある。しかし、これらの問題は生涯を通して改善することはなく、日記にあるように「一人で不安に耐える」か「互いに傷つけあう」かして、最期は「自殺」という形で自壊していった。

山田の遺した日記からは、体育の時間にゲームのルールが分からない、集団が苦手ですぐ迷子になる、非言語的メッセージをくみ取れない、体育における協調的運動のぎこちなさ、対人機微の無理解、対人関係での齟齬、激しい思い込み(あるいは優れた観察眼ゆえの他人からは想像を絶する深読み)、ワンパターンな行動、喫茶店での計算処理の拙さ、状況にそぐわない(=空気が読めない)特有の自己中心性、ストレス耐性の欠如、世の中の二重構造(本音と建前)や矛盾が容認できないことなどの問題が浮かび上がった。著者の石川はこうした問題点を鑑みて、山田は「非言語性LD」の可能性があったことを指摘している(ただし、山田本人が神経心理学的な精査を生前受けなかったことや、個人の回想や日記、妹が記入した質問紙の評価などを臨床材料としたことから、直接診断と結びつく素材が存在しない以上、ひとつの「可能性」に過ぎないという断りがある)。

それから非言語性LDを説明する前に、まずLD(Learning Disability=学習障害)について説明しなければならない。LDとは精神遅滞が見られず、知能が正常か平均以上であるのに対して、ある特定の学習能力に致命的な欠陥が見られる障害であり、言語性と非言語性の二つに大別されている。狭義の意味でのLDは読む・書く・聞く・話す・推論するなどの処理に困難がある「言語性LD」を指し、一方で読み・書きに優れているのに対し、非言語的な概念に対する認知処理に困難が見られるものを「非言語性LD」と呼ぶ。とくに非言語性LDは社会性スキルが低く、知覚、判断、対人技能に重大な欠陥が見られるなど、その症状は自閉スペクトラム症と酷似しており、石川自身も「非言語性LDとされた事例がアスペルガー症候群自閉スペクトラム症)と診断されても一向にかまわない」(石川 2001、225頁)と主張している(なお、本書の出版以降、精神医学において発達障害の体系化や診断の見直しが進んだこともあり、近年「非言語性LD」という言葉は急速に使われなくなってきている)。つまり本書のサブタイトルにある「マンガ家・山田花子と非言語性LD」が「マンガ家・山田花子アスペルガー症候群」であったとしても決して矛盾はしていないのだ。なお、石川が「非言語性LD」という聞きなれない言葉に執着する理由として、山田花子の症例と非言語性LDの成人女性の事例が非常に似通っていたということが本書の第4章で述べられている。しかし、現状においてマイナーな概念になってしまった「非言語性LD」に限定した本書の構成はいささか古臭く、出版から20年弱が経過した現在では中途半端さも否めない。筆者のそうした詰めの甘さや思い込みがレポート第5節で述べるような本書の致命的な「問題点」に繋がっていくように私には思える。

 

4.「表問題児」と「裏問題児」



 (図6・7 1990年に制作された未発表作品『天上天下唯我独尊・世界はウソつき』より。クラスで孤立している「裏問題児」の少女に対して担任の教師は「友だちと仲良くする・調和を取る」ことを強要し、マイペースを制限されてプレッシャーに押し潰された少女は全てを拒絶してしまう。この作品は山田の死後『ガロ』1992年8月号に掲載された)

後期の山田の漫画には、知的障害を持つと思わしき栗山マサエという「表問題児」(=知的障害児)と、見かけ上は健常者だが、大人びでいるため子供同士の会話に入れず、クラスで孤立している「裏問題児」(=発達障害児)の山本ヨーコの二人を対比した作品が複数存在する。なお、これら作品に登場するクラスメイトたちはマサエもヨーコもクラスの厄介者としてしか基本的に見ていないのだが、それにも関わらず担任の女性教師はマサエだけを例にして「人を差別してはいけない」「この世に必要のないムダな人間はいません」といった平等幻想を雄弁に語る。しかし、ヨーコはこうした人間平等思想を「逆に人々を不幸にする」と冷たい眼差しを向け(これは小学校教師の母親に対する強い不信感の表れと見る向きもある)、マサエに対しても「マサエなんか人間の形をしたエテ公だ」「ばかは心が純粋という定説があるけれど、ただの迷惑な奴じゃん」「コイツ見てるとイライラするよ」と辛辣な悪意を向ける。(以上『ガロ』1990年7~12月号連載『オタンチン・シリーズ』より)

4-1.差別的感覚と被差別的感覚の同居

それまでの山田の漫画に登場する主人公の多くは、内気・朴訥・控えめで、ひたすら理不尽な思いをしては、反抗することもできず、ニヤニヤとした愛想笑いを浮かべて他者に迎合するという、いわゆる被差別的な人物像がほとんどであった(図4)。しかし、後期になって登場した「裏問題児」の山本ヨーコの場合、クラスメイトから被差別的な扱いを受けつつも、自分より弱そうな人間に対しては一転して差別的で、外界に対しても常に攻撃的な考えを巡らせるか冷笑的な目線を向けており、「キレそうな」オーラすら身にまとっている。差別的感覚と被差別的感覚が同居したヨーコという全く新しい存在は山田の意識が変化したことの表れではないだろうか。

石川は、山田の作風の変化を初期と後期で見比べて「デビュー以降二年間でのストレスの掛かり方が加速度式であったことが髣髴(ほうふつ)とされる。前者はただポカンと翻弄され、後者は居直ってはいるものの自分の苦悩を誰もが理解してくれない不安と絶望に襲われ、攻撃性も募っているのが見て取れる」と指摘し、山田がヨーコという代弁者を用いて「表問題児」のマサエに対し、ひたすら差別的な言動を取らせた背景については「いじめの対象となっても教師にかばわれる存在の『表問題児』に対する(山田の)痛烈な攻撃であり、教師に庇護はおろか同情もされない『裏問題児』側の根深い、屈折し沈潜した被差別意識があると推察している(石川 2001、第4章)

 4-2.いじめられっ子でいじめっ子

ここからは私自身の見解であるが、私も過去に劣悪な環境下でいじめに近い不当な扱いを受けたことがあり、その際に自分が「弱い存在」であることを認めたくないという心理状態から自分よりも弱そうな人間にきつく当たってしまった過去がある。おそらく被差別的な状況に置かれると、差別側に回ることで保身に走りたくなるのであろうと考えられるが、生前の山田もインタビューで「いじめられっ子でもあり、いじめっ子でもありました」「一番許せないのは、業が強い自分自身かな…」(コアマガジン刊『スーパー写真塾』1990年5月号)と語っており、山田が「いじめ側」に回ったのが先だったのか、「いじめられ側」に置かれたのが先だったのか定かではないが、いずれにせよ私も山田も真に許せないのは「自分自身」であることには違いないようである。

 

5.本書の問題点

本書には至る所に問題点がある。例えば山田の漫画から病的特徴を探そうと、石川は1ページの漫画から全てのコマを切り取り、精神分裂病患者の描画と関連付け、「ノートと筆箱の比率に一貫性がない」などパースペクティブの狂いについて逐一解説を加えようとする。だが、そもそもこの試みで用いられる分析手法に何か根拠や意味があるのかという基本的な説明は全く与えられていない。また山田の作風の特徴である「明確なオチのなさ」に対しても作品的に評価をするわけでもなく、障害のそれとしか扱っていない。なお、同じガロ系漫画家のつげ義春が1968年に発表した『ねじ式』は夢を題材にしたシュールな作品で精神科医からフロイト流の精神分析まで行われたことでも有名だが、作者のつげからすれば「見当違いでしかなかった」というように、石川の試みも全くもって「見当違い」の域を出ないことであろう。だが、最大の問題は本書が出版後、遺族と石川の間で齟齬が生じ、絶版・廃棄処分という結末を迎えた事実にある。本節の冒頭に「本書には至る所に問題点がある」と書いたが、正確には「本書の内容すべて」が問題に該当するのである。

本書を読み進めると、石川と遺族の間には良好な信頼関係があり、遺族が積極的に取材・資料提供に応じているほか、診療カルテなどの極めてプライベートなものまで掲載されており、山田の妹に至っては、山田が非言語性LDだったか判断するための質問紙(RPS)の回答にも応じている(採点の結果、基準値を大きく下回ったため石川は山田が「非言語性LDであった可能性がある」との示唆を出した)。本書が絶版になった経緯については本書が出版されて1年後の2002年10月に発行された『アックス』29号(青林工藝舎)に父親と母親が詳細な内容の手記「石川元『隠蔽された障害』(岩波書店刊)成立から出版に至る経緯とその真実」を寄稿している。それによれば石川は「表現者としての山田花子の評伝を描く」として遺族に協力を要請したにも関わらず、「その真の目的をはっきり告げず、常に曖昧にしたままに終始し、また、出版に先立ちゲラ等を私達に提示し、最終的な確認と了解を得ようとせず」本書を出版したのだという。しかも遺族は出版に至るまで本書の内容を知らされておらず、出版された本書も「評伝」ではなく脳機能障害にまつわる「症例研究の報告書」であった。なお、遺族によれば本書に掲載されている診療カルテは石川が無断で入手したものであるという。

本書は対人関係の齟齬で自殺した山田花子の「隠蔽された障害」を明らかにするものだったが、それが皮肉にも著者と遺族の間で齟齬を招き、絶版という結果を招いた。山田が一貫してテーマにした「人と人との分かり合えなさ」の帰結がこれだったとしたら、もはや本書という存在自体が残酷なものに感じてくる。本書のタイトルにある「隠蔽された障害」は、この事態を予見したものでなかったであろうが、山田が抱えていた障害の真実は本書の絶版とともに封印(隠蔽)されて今日に至っている。(了)

 

世界は一家、人類皆キョーダイ

私はお花。みんなの為ならへし折られても平気なの。

夢と希望は子供を惑わすハルメンの笛吹き いつも裏切られてもういやッ!

でも歩いて行けば幸福がつかまるかも 私ってなんて甘いんだろう。

 

春の小川はサラサラ行くよ 岸のすみれやれんげの花に

姿優しく色美しく 咲けよ咲けよと囁きながら

春の小川はサラサラ行くよ エビやめだかやこぶなの群に

今日も一日ひなたで泳ぎ 遊べ遊べと囁き乍ら

 

人生は芸術

世界は一心同体少女隊

ぼくらはみんな生きてい隊

キリストはもて遊ばれたいマゾヒスト

愛は心の仕事デス

私A「あたし、もうダメ…」

私B「立て、立つんだジョー!!」

一番好きな子の正体は鏡!?

あんな奴、ハナクソだぜ

 

魂のアソコ/アーメンソーメン冷ソーメン)

 

山田花子プロフィール

青林堂版『嘆きの天使』裏表紙より23歳の山田花子(遺影)

(構図・湯村輝彦/撮影・滝本淳助

山田花子 1967年6月10日東京生まれ。

双子座、ひつじ年、血液型A型。

幼少より父親の影響で水木しげる赤塚不二夫等を愛読。暇があれば紙を束ねてホチキスで止めた冊子に漫画を描いていた。また、手持の漫画本を友人に貸し出す漫画図書館を自宅に開く等漫画好きの子供であった。その後、波瀾に満ちた学生時代を経て、日本デザイン専門学校グラフィツクデザイン科卒業寸前に、講談社ヤングマガジンちばてつや賞佳作に入選。以後ヤングマガジン誌上に「神の悪フザケ」を連載。読者アンケートでワースト1位を獲得する。連載終了後、数少ない(?)熱狂的ファンの要望により初の単行本「神の悪フザケ」を講談社より刊行。以後増々その絵柄とストーリーに磨きをかけ、1990年7月現在、ヤングマガジン、コミックボーイのコラム、リイドコミックピンクハウス、コミックパチンカーワールド、月刊ガロ等に漫画の連載を抱えるに至る。アイスクリームが好物でセブンイレブンのパフェアラモード「ドーブルの港」(バナナ味)が気に入っている。ラジオや音楽(70年代フォーク、テクノ、ロック、歌謡曲等)を聴くのが好きで、よくライブやコンサートにも行っている。本人曰く「知脳が足りない。」というように、電車の乗り間違い、忘れ物等は日常茶飯、過去に10万円の布団を買わされた経験を持つ、23歳のアジア人の女である。

青林堂版『嘆きの天使』1990年・初版の作者紹介より)

 

山田花子(漫画家)

1967年6月10日、東京都生まれ。1987年『ヤングマガジン』の「ちばてつや賞」佳作に入選、同誌で『神の悪フザケ』を連載して強烈な印象を読者に残す。その後は『ガロ』からエロ本まで幅広く連載を持ち、雑誌、単行本、映画、舞台、テレビなど、あらゆるメディアにも登場するが、1992年5月24日、異常な速度で燃焼した24年11ヵ月の生に投身自殺でその終止符を打つ。没後は、その存在自体がひとつのメディア(アイコン)となり、90年代サブカルシーンを象徴する存在として、読者の間ではトラウマに近い感覚で今日まで記憶され、脈々と語り継がれている。

筆者の書き下ろし)

 

寄稿/山田花子「自由(ラク)に生きる方法(ヒステリー治療によせて)」

この世には数え切れない価値観が互いに相反しあいながら、ひしめいている。

精神分裂病を代表とする、心の病いが生じるのも当然である。かく云うわたくしも、長年に渡るヒステリーの発作に悩まされ、友人、兄弟、親や医者に相談してみたけど、結局他人にたよってもしょうがない、という事が判っただけであった。他人なんてアテにしてる内は決して心の病は治らない。

そこで自分なりに少ない知恵をふりしぼってヒステリーの原因を考えてみた。ヒステリーとは要するに「かんの虫」である。夢と現実の落差(ギャップ)が激しいと、そのわだかまりの摩擦により、生じる発作だ。ひとの心は本来自由で悟ってるはずなのだ。しかし現世にはびこるウソと、世界の矛盾が人々の心を知らない内に屈折させ、不自由なものしてしまっている

自由を手に入れる為には「ワル」にならなければならない。なにも改造バイクにまたがって、深夜の国道を暴走しよう等というのではない。真の意味での不良だ。思うに、一般的に不良の格好をして、いかにも「反社会的」行易(ママ)を取る人たちに限って、根は前向きで、根底にあるものはしっかり「人の道」している。わたくしにとっての自由な心とは逆説の様だが「何も信じず、夢は持たない事

もちろん人に嫌われたくないから表面上、「前向き」を装いつつ、心の中には何の希望も持たない。この世の中では、前向きに、何かを信じて生きてかなきゃいけないみたいなプレッシャーがある。ダメな奴がいくら努力したってムダなのに。だが、そんなことを言ったら、にらまれてしまう。でもカラスがいくらがんばったってクジャクにはなれない。この矛盾幻想が人民を不幸にしているのを、どのくらいの人が気づいてるだろう。実際、人生は思い通りになんかならない。生まれつきのさだめを選ぶことはできない。或る者は一生不自由なく楽しく遊び暮らし、同じ時間に或る者は過酷な運命を強いられる。

この不平等、不条理、そして忘れちゃならない絶対の孤独。こんなものなのだ。もともと、この世はヒドイ所なのだ。それが「ふつう」なのだ。カタワ者達よ、泣け!わめけ!宿命を呪え!てめえの人生こんなものだ。イヤなら自殺しちまえ。

死ぬのが怖ければ仕方なくガマンして、生きて行くしか無いだろう。誰かにすがろうとしたって、味方なんて居やしない。

救いを求めようたってそうはいかない。大体、悟りさえ開けば、幸福にになれそうな錯覚しがちだが、わたくしはむしろ、悟りの心境とは空しい、やるせな~い気持ちだと思う。生きている限り、苦しみと悲しみは続くのだ。仕方ないのだ。だけど。この真実が公になってしまうと、世の中から光が失せてしまうから、人々は真実を訴える者達をいつの世でも迫害し、魔女狩るのだ。バカはバカなりに、ブスはブスなりに、さだめに合った生き方をするのが「自由」なのである。「若者のくせに老成している」となじるならすきにしてくれ。(清出版『コミックBOY』1990年10月号

何の取り柄も無く人に好かれない人生なら死んじまえ。悪いことは言わない。生きたところで負け犬。だらだらと生き続けるより思いきりよく燃え尽きよう。生きるなんてどうせくだらない。(映画『ファントム・オブ・パラダイス』より)

(自由への飛翔。単行本『嘆きの天使』所収「マリアの肛門」より)

 

解説/根本敬「マリアの肛門を見た女」

高市由美(敬称略)から初めて手紙が届いたのは8年程昔になるか。茶封筒にキタナイ字で『根本敬大先生様』と書かれ、中を恐る恐る開けると、やっぱりキタナイ字(しかも鉛筆)でノートを破ったヤツに、自分がいかにファンであるかが細々と書いてあった。礼儀として返事を書くと、それから頻繁に手紙や女性週刊誌の切り抜き(例えはケニー君の感動秘話など)を送ってよこすようになり、ある時「実は今まで描いていた」という漫画が送られて来た。

見るとちゃんと描いていて、大層見どころがあるので『ガロ』に「面白いよ」と紹介した。以後、本人も頑張って色々描いて持って行ってたのに、何故かなかなか載せて貰えず、いつしか音信も跡絶え、気が付くと『ヤングマガジン』で「山田花子」としてデビューしていたのだった。それにしても業の深い女だったと、山田花子の事を我々(特に、実の妹と私)は、よくそう言って振り返る。

業の深さといっても、輪廻転生に基づく仏教的な見地から言う処の業とは、必ずしも一致しない。ここで言う業の探さとは、まるで生まれる前からずっと続けていた課題に取り組むかの如く、そうせずにはいられない、狂おしい程の性質(亦は磁力)の強さを指すのだ。山田花子が何故そういう性質を持つに至ったか。それは自我が芽生えた頃に、世界中の全ての人々から愛されたい、そうでなければ自分は救われない、というモノ凄い大欲を抱いた(であろう)事に始まるしかし、次の瞬間直感的にそれは不可能だと悟り絶望する。愛されるどころか、世界中全ての人々から嫌われてしまう、そんな人間かもしれないとすら思い込む(当初それは、自己防衛的な側面<他人に言われる前に自分で自分に言う>もあったかも)。

これらは山田花子という小宇宙に於けるビッグバンであり、ほんの短い間の出来事なのだ(ビッグバンは、ほんの数秒間に複雑な科学変化を何段階も起こし、宇宙を形成した)。

ところが、絶望と引換えに彼女はある才能を得たんだな

人間の心の粒子は常に、『差別』と『保身』の間を揺らいでいるもんだが、その極めて微妙な変化を見てとる能力を絶望と同時に徐々に開眼し、何時しかそうした殊勝(?)な能力を獲得する。で、以後死ぬ迄、死が近づくにつれ更に拍車をかけるかの如く、その種の能力に関しては驚異的天才的偏執的な才能を文字通り「業が深い」としか言い様のない執着心を伴って発揮した。そうし続ける事(これを唱えて業が深いと言う)は山田花子の性質であると同時に全世界、全人類に対する、静かで目立たない極めて地味な、それでいてしたたかで一筋縄では行かない復讐的行為であったのだ

それにしても一人のか細い婦女子が、この能力を独り占めしている状況というのは、非常に辛いものがある。なにしろ他人の心の内を見透かす視力は千里眼的なもので、千里と言わぬまでも、まるで数キロ先の馬の数を数えるモンゴル高原遊牧民並の、83とか84だかの視力を持っていたのだから。勿論、過剰な被害妄想に依る『見間違い』も時にはあったろうが、こりゃ大変だったと思う。

但し、2、3年前はほんの一時期だが、自分の千里眼を楽しんでいる時期もあったが、当然そんなものは頭に分泌されるシルの関係で長くは続かなかった。とはいえ、ともかく山田花子千里眼は、神や仏も見落としてしまう様な人間の地味な心理や、気分や、抑圧や、ちょっとしたエゴを見逃さず、その観察の結果を愉快な漫画にしていたわけだ。

しかし、か細い婦女子が神や仏を越えてしまった以上、生きてなんかいられないわな。実は山田花子は、絶望、絶望、絶望に次ぐ絶望、更に幾つかの絶望を越えた果に、燦然と輝く桃源郷がある事を予見していた節もあるのだが、生きながらえたままそこへ辿り着くには、気力、体力共、余りにしんどかったわけだ

それにしても本当につくづく業の深い漫画家だった*3

1992年12月15日 根本敬

山田花子『花咲ける孤独』解説)

 

解説/手塚能理子「姿優しく色美しく」

山田花子が描く漫画は、いつも緊張感が漂っていた。ガチガチのぎこちない線で描かれた“たまみ”や“桃子”は、いわばヘタに人生を送っている人たちだ。『さえない、もてない、目立たない』という、できれば避けて通りたいような日常を送っている若者たちである。なぜ、山田花子は、そんな人ばかりを描いていたのだろうか…。

山田花子は人が集まるような場所では、徹底的に無口だった。しかし、一対一になるとまったく逆で、酸欠になるんじゃないかと思うくらい、怒濤のごとく喋り続ける。その姿はいつも嬉々としていて、自分の話を誰にも邪魔されずに話せることに、興奮していたようだった。

また、人前に出るときは服装などにもかなり気を使っていたようで、古着などをうまく着こなして、いつも可愛らしい格好をしていたし、痩せているにもかかわらず、過激なダイエットもしていて、ジュースや少量のビスケットくらいしか口にしなかった(以前、大手出版社のパーティでタレントの桐島カレンをみかけた彼女は、「ずっと観察していたら、ウーロン茶しか口にしてなかった。だからあんなにやせられるんだ」と興奮ぎみに話していたことがあったな)。

要するに、山田花子という女性は、誰からも愛されたい、という気持ちが人一倍強かったんだと思う。まあ、そういう気持ちは誰にでもあるのだが、彼女の場合、他人が想像する以上にそれを心から欲していた。しかし、山田花子はとにかく不器用だった。その不器用さが、他人の誤解を生んだこともあったろうし、なによりも自分自身を不安に陥れた。漫画に描いていた主人公たちは、あってはならない自分の姿であり、この世の中から絶対に消えそうもない自分への不安でもあったワケだ。そして、それがどの程度のものであれ、漫画家としては、山田花子は無類の才能を持っていたのだ。それは当時の女性漫画家の中でも群を抜いて面白かったし、多くの人が期待をよせていたことは事実だ。その期待も彼女はある程度勘づいていただろうが、別の意味でより漫画に慎重になっていった。

生前の山田花子は異常なくらいのメモ魔で、よく周囲の人を観察!?しては、それを手帳に細かい字でビッシリと書き込んでいた。これは思うに彼女の唯一の安定剤だったのではないかという気がしてならない。結果的に、そのメモは漫画の材料にもなっていたが、他人の不安材料を見つけることで、自分の不安に彼女なりの理由をつけていたのかもしれない。

こんなことをいうと、また誤解をうけてしまうのでいっておくが、特殊漫画家といわれながらも、山田花子がこの世で自分以外に愛したものは、植物や小動物、童謡や童話だった。最初にそれを聞いた時は「ウソだろ?」と一瞬疑ってしまったが、付き合ってみるとすぐにそれらを本気で愛していることがすぐにわかった。というのも、彼女の本体はメルヘンの上に成り立っていたからである。

ある日突然、「一体自分は何ものなのか?」というような疑問が生まれても、その答えはきっと誰にもわからないだろう。しかし、山田花子は知りたかった。知りたかったのに答えが出てこないばかりか、どうも自分の理想とはかけ離れているようで、そこにひとつの絶望感が生まれてくる。その絶望の中で、彼女は彼女なりに純粋な世界を作り上げていったのだ。それがメルヘンの世界だった。

だが、はっきりいって純粋な世界を作り上げるなんてなことは、現世においては至難の技だ。煩悩だらけの人間がそれを作りあげるには、残念ながら膨大なウソと膨大な自己犠牲がいる。山田花子が不器用だったというのは、そのウソと自己犠牲をほんの少しもうまく作りあげられなかったことだ。また、うまく作りあげたとしても、その結果としてやってくる孤独感こそ、彼女がこの世で一番恐れていたものかもしれない。

いや、まてよ。孤独なんてものは、どんなに仕合せであったとしても、人間であれば生涯つきまとうものだ。どんなに信頼している親子や友人があったとしても、自分や相手の本能に気づいた時には、背筋がゾッとするくらいの距離を感じてしまうことがある。これは、淋しいとか悲しいとかいう言葉と置き換えて使われる、あの“孤独”ではない。生まれたが故に背負った孤独感だ。そしてそれは人間の本体なのかもしれない。山田花子は、もしかしたら、その背負った“孤独=本体”でさえ重荷だったのかもしれない。

亡くなる直前に、彼女は病院からの帰り道、童謡歌「春の小川」をよく口ずさんでいたという。あの歌の中にある『姿優しく色美しくという歌詞は、まさに山田花子の理想であったのだろう。

私は、山田花子の漫画は今でも“メルヘン漫画”だと思っている。差別と疎外の中で、空しく呼吸するあの主人公たちは、ずっと山田花子のメルヘンの世界の裏側にピタリと張り付いて、離れることはなかった。この両方の世界を固く結び付けていたのは、まさに山田花子の誰にも負けないくらいに天晴れな業の深さである。

山田花子『改訂版 神の悪フザケ』青林堂版解説)

 

解説/阿部幸弘(精神科医)「ぎゅうぎゅう詰めの空っぽ」

山田花子は、その不器用と言うほかない生涯の軌跡の中で、ことマンガの絵に関しては例外的に器用な側面を持っていた。

そもそもマンガ家としてのスタートが、非常に早熟だ。中3の時にすでに商業誌デビューし、高1で約1年間「なかよしデラックス」に連載を描いている。フリーハンドの暖かみを強調した当時の描線は、後年の美意識とは全く異質だが、人物の表情や動作などの表現はかなりこなれており、すでにこの年令で相当に的確な人間観察の目を持っていたことが窺える。だが当然ながら、まだスタイルは一定しない。子供の頃絵本で愛読していた佐々木マキの線に近付いてみたり、突然マンガを拒絶するような写実的なペン画を挿入したり、ゆらゆらと揺れ動く。それは一方で、色々と幅のある表現がすでに可能だったことを示している。

それを裏付けるように、根本敬に強く影響された「ガロ」没原稿の時期を経て、「ヤングマガジン」で(再)デビューした時には、自らのスタイルを弱冠二十歳にしてほぼ確立していた。誰にも似ていないオリジナルの描線とテーマを自ら掴み取ることは、たとえ年令を無視しても、マンガ家誰もが必ずしも達成できることではない。

ところで、この時点までに彼女はペンネームを、“裏町かもめ”→“山田ゆうこ”→“山田花子と変えている。ここには、陰に隠れた無人称の観察者への志向が覗いている。裏町に隠れたカモメの眼から的確に人間を観察し始めた彼女は、しかし、匿名に近い個人の視線へ、即ち、自らをも対象化する更に客観的な眼を持つに至ったことになる。それゆえ、山田花子という超高感度センサーは、日常会話のわずかな擦れ違いも見逃さなかった。登場人物や作者の意識だけでなく、読み手のエゴまで裸にしてしまう抜群の拡大率と解像度。以後、作品の主題は、人間の心理的擦れ違いの微分的な接写となる。

だが、世界で起こる出来事を極小のものまで見透して、しかもそれらを感情にのみこまれることなく超越的な意味合いで把握するというのは、言いかえれば神の視点を持つということだ。微分しながら積分する、あるいは接近しながら俯瞰するとでも言ったらいいのだろうか、そんな離れ技を山田花子はある程度までこなしていたから凄い。才能、プラス、かなりのエネルギーがないと出来ないことである。その比類無いエネルギーで彼女は、頑固と言っていいほど同一のテーマを追いかけた。そのため我々はつい錯覚しがちだが、絵に関して見れば山田花子の作品はむしろずいぶんバラエティーがあるのだ。

例えば、初期の「神の悪フザケ」の描線では、鼻の穴から顔の皺、産毛のはてまで、気付いたものは何でも見たとおり描くので全体にひどく醜くなってしまう、小学生の描いた人物画のような、情け容赦の無い客観性に力点が置かれている。この方向で、あくまで突き放して人間を観察する一方の極は、「マリアの肛門 他人の顔」の「人間の顔面ってよく見るとなんだか伸び縮みするゴムのよう」という認識だろう。

だが、徐々にキャラクターの体系がしっかりして来ると、赤塚や藤子を連想させる、ハッキリと記号性の強いマンガ的表現も多様するようになって行く。そうなってからの山田花子の絵は、実はかなり可愛い。本人は「私って何て甘いんだろう」という言葉を詩に残しているが、そのようなにじみ出る少女らしさというか、ロマンチックな視線の方の極は、宮沢賢治原作になる「いちょうの実」という作品に現れている。このたった5ページの短編は、美しい。銀杏の大木の母親から離れ旅立って行く子供たちの、ワガママな姿、困った所、優等生の気取り、などなどが描かれているにもかかわらず、否、だからこそ、絶望に裏打ちされた希望が朝の光に輝いて見える

山田花子は、これだけの表現の振幅を、一つの作品の中に力技で盛り込んでいた。その世界は、ミニマムの絶望や空しさが、賑やかにもぎゅうぎゅうに詰めこまれていた。そして、衣服の皺や、指、裸体などを描く時の、微分的なぐにゃぐにゃくねり折れ曲がった描線と、ツルンと可愛らしい丸みのある、かなり抽象化しパターン化されたキャラクターの顔とが、同じコマの中に描き込まれ、かつまたそれが単なる異質な物のコラージュに終わらず、違和感は違和感として一段高いレベルで統合された個性となって、不思議な調和を放っていた。

だから、あえてギャグとして彼女の作品を評価するならば、対象を完全に突き放しきるには視点が近すぎる、爆笑するには手触りが暖かすぎるマンガと言わざるを得ない。ギャグ一般に期待されるような、ゲラゲラ笑ってスカッとする類の効能にやや乏しく、むしろどこかに苦笑が紛れ込んでしまうマンガであった。

苦笑とは、苦々しい気持ちをどこかで自覚しつつ何とか立ち直ろうとする体の反応だ。読者は例えば、登場人物の中のイジメられる側に感情移入して、惨めな気持ちを再体験したり、イジメられても仕方ない自らの鈍くささを認めたりするかも知れない。あるいはその逆に、イジメてしまう側に立って、かつて身に覚えのある怒りや攻撃衝動を思い出したり、可哀想だからと表面的に思いやる偽善的立場を自己観察するかも知れない。だがいずれかのパターンで、誰もが自らの微かな痕跡を、作品の中に嗅ぎとってしまうだろう。彼女のマンガの中を探すと、誰もがどこかに自分を見つけるのだ。

自殺に至った理由は、もちろん誰にも分からない。ただ私は、人間関係に繊細すぎる根暗のマンガ家がストレスをためて絶望したというような、世間が期待しがちな筋書きを信ずることができない。思い入れからではない。彼女の作品の数々を改めて読むほどにそう思えてくるのだ。

絶望と言うなら、山田花子は最初から絶望していた。むしろそこを起点に、矛盾を一コマにねじ伏せるカ技の描線が展開したのだった。(了)

山田花子『からっぽの世界』解説)

 

寄稿/蛭子能収「それでは山田花子さん、さようなら。」

私はこの世で一番恐ろしいのはしぬことであるから自ら死を選ぶことは絶対にあり得ないと思っていますけど、山田花子さんの実家へ線香をあげに行く時、マディさんと一緒に高幡不動の駅で根本さんを待っている時にマディさんが死ぬことよりも生きている方が辛い時もあるんじゃないのといいました。

そんなことあるかな、と私は思いましたけど私は咄嗟に「そうね、生きてる方が辛いってこともあるね」と言ってしまいました。

私はいつもこういう方法で生きているのかも知れません。山田花子さんは、こういう風には生きれなかったんだと思います。純粋な芸術を志している人だったのだと思います。

さようなら、と言うしかありません。そして感動すると言うか、よくやったと言うか、言葉で書くと私の人格を疑われそうですが、芸術を志している人が死を選ぶ時、それは命を賭けた最大の芸術を貫行したということになるのではないかと思うのです。彼女は最大の芸術を完成させ、死霊になって私達が驚く様子を見て笑っているのではないでしょうか。ウス笑いを浮かべ、私達の家の回りを飛んでいるような気がします。「どう、面白かった?」と問いかけながら。怖いです。私達はもしかすると一生、山田花子さんの霊に監視され続けるのかも知れませんから。

山田花子さんと最後に交わした言葉はこうでした。私が「山田さん最近ガロにマンガ描いてないんじゃないの?」と言うと「ガロ読んでもないくせに、読んでから言って!! それから蛭子さんは、もっと面白いマンガ描いて!!」と言うものでした。実に棘々しく言うので私は恐ろしかったですが、なぜに昔、私のファンだと言ってた年若い女の人に、こんな口調で言われなきゃならんのか?と心の中で呟きました。

だけど彼女の言うことが当たっているから自分で情けなくなっていました。ガロを読んでないと言うことと面白いマンガを描いてないことが当たり。

私は今、山田花子さんの死霊に言いたいですね。面白いマンガを描けなくても、生きてれば面白いことはありますよ、と。生きてる人に向かって反論するのは難しいけど死人に反論するのは楽だなーなんて言ったりして。

山田さんに会った回数は全部で10回位でしたが、顔を会わせると何かイヤなことを言われそうでドキドキしました。そのドキドキするのが非常に良いのです。ドキドキしないと面白くありませんから。それでは山田花子さん、さようなら。と言っても、この辺りをウロウロ見回しているでしょうけど。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/丸尾末広「短距離ランナーの孤独」

以前ある詩人から、「生きてりゃそのうちいい事があるよ」と忠告された事がある。

別にその人の前で「もう死にたい」などと言ったわけではない。いきなり、そう言われたのだ。自分には自殺の願望はない。

どうやら我が漫画の主人公が、手首を切って自殺を図る場面をそのまま作者自身の切迫した感情と解釈しての忠告のようだが、これ程人を馬鹿にした忠告があろうか。たしかにいい事は少ないが、いくらなんでもいきててもひとつもいい事がないから死んでしまおうなどと考える程情けなくはない。

いじめを苦に自殺した中学生がいる。山田花子の死を作品のイメージから、そのようなものと考えるのは短絡的に過ぎよう。岡田有希子沖雅也を見よ。自殺する人間は皆ナルシストである。死ぬ程自分が可愛いいのだ。山田花子の死に精神の葛藤の重さや、敗北者の悲惨な陰はないように思える。

女性カメラマンのダイアン・アーバスは数十回もの自殺未遂を犯し、ガスオーブンに頭をつっこんで果てた。どのような陰惨な自殺にも夭折の甘い腐臭は嗅ぎとれる。自殺の為の自殺。藤村操に代表されるような形而上学的自殺者の「人生不可解」といったいかめしいニヒリズムの鎧は今時はやりはしない。

文化の軽量化は生死の軽量化に比例する。

自分は山田花子とは一面識もなかった。たのまれてサインをした事があるけれども編集者を中継しての事だった。『ガロ』に登場した女性漫画家の中で自分は山田花子を最も高く買っていた。理由はおもしろいから。ぎこちないデッサンとペンタッチで精いっぱい漫画的デフォルメーションを排しようとしている絵には、キッチュな緊張感がみちている。

女性漫画家にありがちな、ウスバカゲロウのようなお手軽な絵で、神妙なモノローグ体の内面描写をするというパターンから見事に脱却していた。テーマはただひたすら人間関係のまずさと苦痛。身の置きどころのなさ。どの作品もページ数は少なく、例えば近藤ようこさんのような長編大河ロマンの人とは対極にあった。

漫画家をさらには人生を長く続けてゆく為にはあまりにも、脈拍が早すぎたといってよい。自分は人生だの青春だのに何の興味もないが、間違えて地球に生まれてきた人の奇妙な人生には興味がある。この世には多くの地球内異星人が隠れ住んでいる。

地球人にとって何でもない風邪のウィルスも異星人にとってはエイズウイルスにも匹敵するであろう。山田花子がどのようなウイルスに犯されていたのか、一面識もない自分は勝手に想像するしかないのだが、「強く生きる」という幻想をもった暑苦しい人々からは、ここぞとばかりに「暗い」だの「甘えている」だの「命のとうとさがわかっていない」だのと苦言が寄せられるであろう。

自分は山田花子の死に、人間の生命といういかにも重々しく語られるものが、実はいかに軽いものであるか、思い知らされているのだ。

ふけば飛ぶようなあなたと私の命。

一度も逢わなかった山田花子さん、さようなら。

一九九二年六月

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/友沢ミミヨ山田花子サン」キオクヲコエテアイタイ

熱海に行った時、彼女は珍しく饒舌で、大川興業のコントの話や、学生の頃の話、デビューの頃の「キチガイみたいに細かい線ひいてた」話などしてくれた。「今は随分マトモ。」と言って、へへっと笑った。

秘宝館のポルノ映画コーナーで、「なんだか(自分が)玩具にされてるみたい」と囁かれ、ヒゲ面の親父化して見ていた自分は、消え入りそうにごめんごめん、と思った。

海底温泉では、私だけ恥ずかしがってて馬鹿みたいだった。

誕生日のプレゼントをもらった時、「わーうれしいー」といってから、シマッたと思った。

ぱんこちゃん達と遊園地に行った。その次に会った時「こないだの写真もらった?」と聞くと「心霊写真、うつってなかったね」と即答され、マイッた。

ファンキートマトというTV番組で根本敬さんがやってた“特殊漫画教室”に出演しませんか、と誘った時の返事は図のとおり。手強かった。

テクノパーティーに誘った時は「ミミヨちゃんが行くんだったら私も行く~♡」というFAXが送られてきた。可愛いかった。

私がムクムクの服を着てた時は、目を輝かせて「かわいいー」(洋服がね)と、動物系への弱みを露わにしていた。子供のようだった。

年末の或るイベントで、彼女はコントを演った。一人六役。家族コント。大学ノートにびっしりと書かれた台本をたまに確認しながら、小物と声色で役を演じわける。エプロンを着けてお母さん、「おはよう」眼鏡をかけてタマミ、「おはよう」ちゃんちゃんこを着てお婆ちゃん「どうしたんだい」ひげシールをつけてお父さん「おい、何やってんだ」…軽快なコントのようだが、全然軽快ではない。

一切は山田花子時空(マイペース)でゆるゆると流れる。10分…20分…30分…静まりかえる客を前に、彼女はコント“その13”まで演り終えた。格好よかった。最高に孤高だった。(ひげシールをつけた時は一寸恥ずかしそうだったけど。)

記憶の羅列しか出来ない。無念です。

────────合掌。

 

寄稿/みぎわパン「ぱんこと花子の底辺の笑い」

山田花子と私の会話は、たいてい3コマ漫画でカタがつく。キャッチボールにならないのだ。

私が何か言って、それに対して山田花子が私をくやしがらせるようなことを言って、まんまとくやしがる私。で、はにかむようなくやしいような、ヘンな笑いが込み上げておしまい。

おもいでを語るネタとしちゃ、このパターンの小間切れでムリがある。

ここに、ミミヨちゃんが加わると16コマは持つ。ミミヨちゃんは、うまい。

山田花子が、珍しくしつこく話しかけてきたことがあった。

山田「ねー、いまガロでしか描いてないよね。」

私「うん。でもイラストは少しやっとる。」

山田「どこでやってる」

私「えっと……えっと……」

山田「バイトとかしないの? じゃ、漫画だけ?」

私「う…うん。安い物食ってるから。」

仕事がないのを指摘されたのかと思ってムカついた。山田花子は、例の小さな声でもって「もうずーっと?」とか「ふしぎィ~~」とか言い続けていた。私はくやしいのを通りこしてイライラした。

あとで判ったけど、山田花子、バイトをしないで済む方法を知りたかったんだよなー。バイト先や社会は山田花子にとって、やっぱしオッソロシィ所だったんだろうね。私のこともさぞやオッソロシイかろーねー。

山田花子、いい漫画はちゃ~んと大好きで、情報通とは見受けられんのに、ちゃ~んといろいろ知っていた。

山田「某さんって、もーほとんど絶筆中なんだって。」

私「えっ!? あーあ、やっぱしー。ガックリきちゃうな。夢を壊すなぁ。描いてくれんと、こっちは生きがいなくなるよ!」

山田「チョット。しっかりしなきゃだめよー

山田・私────

山田花子って、こうやって時どき“そっくりそのまま返してやりたいような言葉”を吐く。わざとお姉さんぶって、たしなめるみたいにして笑わせる。その笑いはさっきの、はにかむようなくやしいような、もどかしい種類のものだ。「くよくよしちゃだめよ」「しっかりしなきゃ」とか。わざとなの。ワザと。

山田花子は、社会の仕掛けが解ってた。たぶん、漫画に出てきた“世界の罠”ってやつだと思う。

それで、わざとお姉さんぶったり先生ぶったりしてくやしがらせてみて、いまいちど会話の中で同じコト味わって互いに笑う。漫画にも、くやしい状態がしょっちゅう出てきて私を笑らかす。

もう、新作が発表されないかと思うとガックリくる。しかし、よく描いてくれて、ありがとう。

普通、社会の罠ばかり描いてると読む側も描く側も疲れるから、新しい方向性みつけるんだけど、山田花子ったら最後まで描き続けてくれた。今読んでも、何度読んでも「こりゃ狂うわ」って、敬意をはらう。

山田花子と、やきとりを食べた。遊園地にも行った。アフリカ館は二度もはいったね。テレビ出演の応援にも行った。これからも一緒に遊ぶ(連れまわす)気でいたら、ガツーンと一発してやられた。

期待して、人生に助平になってると、ガツーンて一発夢を壊されて、恥ずかしい状態になってしまう。

“信じるものは救われない” 山田花子の漫画とおんなじパターンだ。あー、くやしい。

一般が描けなかったことを描いたのだから、正しいのだ。正しい作家と知り合えて、私は運がいい。関わることができた。しあわせだ。また会える。

山田花子!! また会おう。今度こそ、少しくらいは傷つけあって、ちんちんまんまん見せ合って、つき合おう! サバラ!!

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/赤田祐一飛鳥新社・書籍編集部)「山田花子印象記」

彼女はどう思っていたか知らないが、僕は山田花子を年下の友人のように思っていた。彼女と初めて仕事をしたのは1989年の春で、僕がまだ少女雑誌『ポップティーン』の編集部にいたころの話だ。そのころ僕は毎日のように新人で面白そうなマンガ家を探していて、彼女のマンガに出会った。『ヤングマガジン』に掲載されていた「神の悪フザケ」を読んだのだ。そのころはまだ『ガロ』に作品を発表していなかった。まわりからバカにされ、笑われ、それでもしくじってばかりいる悲しい女の子を主人公にした学園マンガだった。暗い哄笑が画面から聞こえてきた。山田花子の絵はヘタクソだった。でも、強烈なインパクトがあったので、僕は一発で気に入ってしまった。そのとき感心したのは、彼女のマンガが実にオリジナルで、誰の真似でもないところだった。登場人物がみんな昆虫みたいに見えるのだ。山田花子は日本のマンガ家というより、ニューヨークで発行されている前衛マンガ雑誌『RAW』あたりに掲載されている神経症的なコミックの雰囲気に近いものを持っていた。

イラストの仕事をお願いしたいと思って会う約束をした。JR東中野駅の線路沿いにある古ぼけた喫茶店を指定された。しばらく待っていると、ベレー帽に丸いサングラスをかけた女の子が小走りに駆けてきて、喫茶店のキイキイ鳴る木の扉を開けるた。彼女が山田花子なのだとすぐに思った。「遅れてすみません。夕方まで板橋の工場でバイトしているので…」と言ったので、若いのに大変なんだなと思った。山田花子はどこかフニャフニャした印象のある内気な女の子だった。カフェオレか何かを注文したので、打ち合わせを始めようとしたが、彼女はまだサングラスをはずそうとしなかった。それでなくても、うつむきかげんで向かいあっているから、話がしづらいなと思っていたら「自分は対人恐怖症なんです」と教えてくれた。初めての人に会う時は、必ずサングラスをかけないとダメらしい。僕たちはまるで山田花子のマンガのようだった。なかなか彼女のほうから話しかけてこないので、気まずい沈黙がしばらく続いていた。僕は焦って頭の中で話題を探していたら、「神の悪フザケ」の中に、確か大槻ケンヂにそっくりなキャラクターが出てきたことを思い出したので聞いてみたら“ナゴムレコード”の大ファンなんですと教えてくれた。初期の“筋肉少女帯”や“人生”がどんなに素晴しかったか、“死ね死ね団”の中卒が1メートル近いモヒカンをしていることなどを、実にうれしそうに話してくれた。そう言えばメジャー・デビュー以前の“たま”の存在を教えてくれたのも山田花子だった。ぼくは「山田さんはナゴムギャルなんですか?」と聞いてみた。ナゴムギャルとは、ラバーソールにニーハイにオダンゴ頭でナゴム系バンドの追っかけをしている女の子の総称だ。「以前はそうだったかもしれないけど、今は違います。最近はナゴムにも無神経なファンが増えてきて、ステージの最前列で騒いだりするナゴギャがとてもイヤです」と否定した。でも僕は、山田花子という人は、ナゴムギャルがそのままマンガ家になった女の子だと思った。“筋少”や“人生”を聞いて育ってきたひ弱な20代の中から、新しいクリエイターが生まれ始めた点に、僕は興味があった。彼女のマンガがこれからどのように変わっていくのかを見て行きたかったのだが、それは果たせなくなってしまったので残念に思っている。どうして死んでしまったんだろう。最後に山田花子を見かけたのは『無能の人』のスクリーンに登場した姿だった。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

www.youtube.com

(ビデオ『昔、ナゴムレコードがあった。』より死ね死ね団、木魚、ゲんドうミサイル、人生、ばちかぶり、筋肉少女帯、ケラ&ジ・インディーズのライブ。このビデオは今はなき豊島公会堂に於いて1986年8月29日に行われた「第2回ナゴム総決起集会」のライブを中心に構成された)

 

寄稿/加藤良一(“楽しい音楽”代表)

高市由美さんに会ったのは今から五年くらい前でした。まだ山田花子さんにはなっていませんでした。高市由美さんが山田花子さんだったというのを知ったのも実はごく最近のことでした。それで山田さんがまだ高市さんだったその当時、彼女は私が作っている音楽グループ「楽しい音楽」のかず少ない応援者の一人で、私達の作ったレコードやテープを聴いた感想を丁寧なお便りで送っていただいたりしていました。それが縁でたった一度だけ彼女は私の事務所に妹さんを連れて遊びに来てくれました。でもそれが今思うと高市由美さんこと山田花子さんとの最初で最後の顔を見てお話しすることができる機会でした。

その時の彼女の印象は明るくて暗いとっても感受性豊かな女の子だなと受けました。何かモノを造ることが好きな人だなとも思いました。高市さんはうつむいて早口でしゃべっていました。学校にもどこにも仲良しの友達がいなくて妹さんだけが自分にとってのかけがえのない親友であること。新宿のライブハウスでヘビメタの人たちとおかど違いのジョイントライブをしたこと。好きな音楽のこと。アメリーモランの唄がとっても可愛いということ。アメリーモランのテープはその時もらって今でも聴いています。他にも色々とりとめもない話をしてから帰り道に三人で一緒に豆腐ゴハンを食べてから別れました。井ノ頭線渋谷駅の階段を姉妹なかよく走って行く後ろ姿は今でも覚えています。その後ろ姿が高市由美さんこと山田花子さんを見た最後の後ろ姿でした。

それからしばらくして郵便で高市さんからカセットテープが送られてきました。それは私が是非、聴かせて下さいと言っていた高市さんの唄のテープでした。そのテープの中で彼女はオルガンを弾きながら童謡を唄っていました。とっても無邪気な唄でした。つい最近そのテープがひょっこり出て来ました。久しぶりに聴くその唄声は懐しくもありまた淋しいものでもありました。

そして五年ぶりに出て来た高市さんのテープを聴いた半月後山田花子さんの死を知りました。正直な気持ち彼女の死は現実のことと思えず別の世界での出来事のように思えてなりません。それは私の心の中では、高市由美さんと山田花子さんがイコールで結ばれていないせいかもしれません。しかし真実として私の知っているハニカミ屋で「楽しい音楽」が好きですと言ってくれた高市由美さんは山田花子さんという有名な漫画家といっしょに次の世界に旅立ってしまったのです。山田花子さんそして高市由美さんが死ぬ少し前、「楽しい音楽」の新しいレコードが出来上がりました。聴いてもらえなくてとても残念です。もっと早く出来上がっていたらと思っています。

サヨウナラ高市由美さん。そして山田花子さん。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/石野卓球電気グルーヴ

山田さんとの初めてのコンタクトは、現在も僕がやっているラジオ番組に「まんが俺節」コーナーがあり、そのコーナーあてに山田さん本人から単行本「嘆きの天使」が送られてきた事でした。ヤングマガジンの「神の悪フザケ」以来、山田さんの作品には興味をもっておりその時すでに「嘆きの天使」は持っていたのですが、同封の手紙には「山田花子という者です、漫画家をやっております。もし良かったらコーナーでこの単行本を紹介して下さい。」といった内容が書かれておりました。その後僕達(電気GROOVE)がレギュラーで出演していたテレビ神奈川の番組「ファンキートマト‘91」の中で根本敬さんや友沢ミミヨさんと我々電気GROOVEでやっていた、まんがのコーナー(お笑いまんが道場のガロ版?)で何度かゲスト出演していただき、その番組を通じて初めて本人とお会いしました。本番前に楽屋で、根本さんだったか友沢さんかに「山田花子さんです。」と紹介され、伏目がちにあいさつを交したのを憶えています。当時は「嫌われてるのかなあ。」と思いましたが、何回か会ううちにそうでなかった事が分りホッとしたのも憶えています。一度、本番終了後に、僕のところに山田さんが、かけ寄ってきて、「卓球さん、これあげます。」と言って小さな封筒を差し出して、僕に渡すと、逃げるように去って行き、封筒の中を見ると、「いなかっぺ大将」のシールが数枚入っていた事がありました。

あまりのおどろきに、断片的な思い出を語ることしか出来なく申し訳ありません。山田さんの身の上にどんな事があったのか、今現在、僕には分りませんが、自分の知り合い、しかも興味が持てる作品を生み出していた人が亡なるなんて、陳腐な表現ですが、悲しすぎます。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

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石野卓球は『電気グルーヴオールナイトニッポン1992年6月6日放送回の終了間際に田花子の訃報を伝えている。放送中はいつものテンションの卓球だったが、最後の最後で急に神妙になって山田の死を語ったのがとても印象的で、この訃報で山田の存在を知ったというリスナーも少なからずいたようである)

 

寄稿/知久寿焼(たま)

さくらももこ宅にて知久寿焼山田花子

山田花子さんは、ひと足先にこの世の地獄からぴよおんと飛んで逃げてっちゃいました。たしかに、飛び降り自殺の似合いそうな線の細い美しいはかなげな容姿の人でした。彼女の漫画を読んでると、まるで自分の事が描かれてるような気がして冷や汗をかく事がたびたびです。二百年後には今生きてる人なんてもう誰も居ないもん、と強がって出かけたお通夜では、突然ことわりもなしに涙の馬鹿野郎がでしゃばって来て困ってしまいました。天国がほんとうにありますように。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/石川浩司(たま)「お元気で。」

山田花子さんに初めて会ったのは、確か今から四年程前の事でした。友人の雑誌編集者S君が、当時アマチュアだった僕の「たま」のライブに、彼女を連れてきたのでした。

「『ヤングマガジン』に『神の悪フザケ』を連載している山田花子さんです。」メジャー誌での漫画家ということだけで、「スゴイ。そんな有名な人がライブを見に来てくれるなんて。」と単純に思ったりしました。マンガから想像されるよりも美人だな、という印象がありました。

その後、マンガの中に「ねーえ来週たま(ってゆうバンド)のライブあるよっ、行こうねー」というセリフが出てきてニヤリとしたり、ついには当時僕が発行していたせいぜい部数50部のミニコミに、作品を送っていただいたりして、「おおっ、プロの人が、ロハで!」と単純に喜んだりしました。

そうこうしてるうちに「たま」の方がちょっと忙しくなってしまったりして、顔見知りと友人の間の「中途半端な知り合い」のまま、時間が過ぎてゆきました。何かの折にひょいと顔を合わすと、お互い、一瞬、虚を突かれたお見合い状態になってしまって、「あっ、あっ、あっ、ドウモ。」と首をヒョコンとしてシドロモドロになってしまったりしました。

僕は実は、基本的には人と接するのが苦手で、いや苦手というより考えてしまうので、それが面倒臭い自分の性(サガ)なのです。この人と、争いにならない様、どうゆう話し方で、何を話したら一番相手とのコミュニケーションがスムーズにいくか。とにかく険悪な雰囲気の場所に自分が居ることが、何よりも泣きたくなってしまう程、嫌なのです。だから、そうならない様、そこから逃げる為のコミュニケーションという物が、僕にとってとりあえず、現実のあらゆる場面において一番大事なわけです。そうゆう事で、常にコウモリ会話をして生きてきたのです。が、時々、それを見透かされる人がいると、ドキッとして何も話せなくなってしまうのです。

山田花子さんの場合もそうゆう人で、多分、本人は見透かそうなどという意志はなくても、ミエチャッテルのがこっちにもワカッチャウので、お互い会話の間合いがうまくとれなくて、妙にオロオロしてしまうのでしょう。でも本当はそういう風にミエチャウものだからかえって人とのつき合いが不器用な人、社会との間がどうしてもズレちゃう人。そんな人が僕にはどう仕様もなく、愛おしいのです。自分と似ているのです。

だから、山田花子さんも、新しい暮らしを始めている事と思いますが、どうか、そのままで。そのままがいいと思います。

お元気で。─────

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/ケラリーノ・サンドロヴィッチナゴムレコード/有頂天/劇団健康/ナイロン100℃

天久聖一中川いさみ両氏に加え、山田花子さんに私が主催する集団“健康”の公演「愛と死」の脚本を依頼したのは二年前の冬のことだ。

その日、山田さんは居心地悪そうに我々の稽古場の片端にポツリと座り、彼女の原案である“ケンヂとルリ子”のコントをじっと見つめていた。僕はなんだか申し分けない気分になって

「あの、こーゆーところっていづらいですか?」

と聞いた。すると彼女もまた申し分けなさそうに「いえ、そんな、すみません」などと言うものだから、私はそんなこと聞くんじゃなかったとより一層申し分けない気分になって黙ってしまったから彼女も黙ってしまった。

帰り際に、やはり彼女は申し分けなさそうに一本のカセットテープと魚のスタンプが押してある名刺をくれたので、申し分けなさそうに受け取った。カセットテープにはパスカル・コムラードのアルバムが録音されていて、それ以来僕はトイ・ピアノの音を聞く度に魚のスタンプと、あの日の申し分けなさそうな彼女の姿を思い出してしまうのだ。

山田さん、僕も、もちろんあなたも、申し分けないことなんかなにもしていなかったのに、どうしてあんなに申し分けない気分になってしまったんでしょうね。なんて、本当はそうした心境は寸分わかっているつもりです。お互い、その申し分けなさを、居心地の悪さを武器にしてきたんですからね。また申し分けなく思いながら何か一緒に出来ると思っていたのに残念です。とても残念です。どうか安らかにお眠り下さい。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/ジーコ内山(俳優・パンク映画評論家)

山田花子さんとの出会いは、彼女が僕のライブ「エレファン島カシマシ危譚」を観に来てくれた事が始まりでした。電話予約の名簿に山田花子という冗談みたいな名前があり、もしかしたら本名かも知れないし、関西系のお笑いでこんなのいたなーと思ってたら宝島でイラストを発見し、漫画家だと分かりました。皆に聞くと変わった作風との事、コレはスゴイと思い、彼女にライブに来てもらったお礼の電話をかけました。そうしたらライブはとても面白かったと誉めてくれたので、僕も山田さんの絵が好きですと言ったら、何とその後で著作「嘆きの天使」を送ってくれたのです!! 感激して、また電話をかけ「裏表紙の写真の花子さん、キレイですね」と言うと「化粧ですよ、化粧」と笑ってた。

それから何度も電話をかけるほど仲良くなり、一緒に美術展に行く事になりました。去年7月26日文での「マン・レイと友人たち展」です。渋谷ハチ公前の交番で待ち合わせをすると、少女の様な花子さんが無表情で待っていました。歩きながら「友達の漫画家が結婚してからつまらない漫画を書く様になったので、私は結婚はしない」とか、「青林堂に勤める妹と一緒にバンド組んだ事がある」等の話を聞きました。僕が「山田花子って本名ですか?」と聞くと「秘密です」と答えたのが印象的。(亡くなるまで本名は知らなかった!)それが最初で最後のデートです。…その後も根本敬展で会うと、元気にはしゃいでいて、僕の次のライブに本物の乞食を出そうとか、鳥人間コンテストで飛びおりた人の中には何人も死者が出たとか、とても楽しそうにしゃべり、本当に少女の様な人だと感じました。

やがて年末に彼女の最初で最後の貴重な舞台を見る事が出来たのは幸運としか言いようがありません! 白夜書房関係のパーティで何と彼女は自分の漫画を舞台化してました! それも一人十役以上、衣装変えも変装もギャグとギャグの合間、段取りを無視し、客に向かって「後少しだから我慢して下さい」と延々30分以上やるというスゴさ!! 僕はそれを見て次のライブには絶対出演して下さいと頼むと、彼女も大乗り気でOKしました。

まずは3月17日の象さんのポットライブに出演依頼をしたのですが、2月頃からぷっつりと消息が途絶えてしまいました。そしてライブの前日に「今、出られない所にいます…」と電話が、かかって来ました。病院に入院していて6月には出られそうとの事。僕は何としても次回の根本さん原作「こじきびんぼう隊」に出演してもらいたかったので「がんばって下さい」と励ましました。

それから2ヶ月ほどして、突然彼女から「具合が良くなりました。この間はすみません。次の舞台で何かセリフのある役を下さい」と電話が来ました。僕は大喜びで彼女の為に役を作りました…が、数日後、彼女の父親から電話で、医者から止められていて、薬を飲むと夜眠ってしまうので出演は無理との事。本人に代わってもらい「すみません…でも絶対に当日芝居を見に行きます」と言葉を戴いたのがまさか最後になるとは…ライブの当日、僕は観客の前で彼女の死を告げました。皆、ショックを受けていました。たぶん、彼女は会場で見ていてくれたと思います。今まで僕が会った人の中で最も純粋な女性でした。純粋すぎたのでしょう…でも僕の前では、とても心を開いてくれ漫画より演劇がやりたいと今後の抱負を語ってくれました。

これからも長く友達付き合いを続けていけると思っていたのですが…その代わりに思い出という形と作品が僕の心に残り続ける事でしょう。近い内、必ず彼女の作品を舞台化したいと思います。それが彼女の意志を受け継ぐという最良の形ですから。では、最後に彼女がアンケートに書いてくれた言葉を皆様に送ります。

人生は1回切りなんだから、どんどんすきなことをやった方がいいですよ。

 青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/高市俊皓(父)「東中野辺りで『詩人・鈴木ハルヨ』を見かけたら知らせてほしい。」

一九九二年五月二四日夕刻、我愛娘高市由美―漫画家・山田花子―は高層住宅の十一階から飛び下りて自ら命を絶った。享年二四才、余りにはかなく、余りに短い生涯であった。その死顔はこの世の一切の煩悩―苦しみ、悲しみ、怒り等―から解き放たれた如くに穏やかで安らかなものであった。遺書はなかった。ただし、五月二二日付日記に以下のような記述があった。数年間に亘って書き続けてきたノート十五冊に及ぶ膨大な分量の日記の本体部分は、この日をもって終わっている。

*召されたい理由(ワケ)

①いい年こいて家事手伝い―厄介者、ゴクツブシ、世間体悪い。

②他人とうまく付き合えない(クライから)。

③将来の見通し暗い。勤め先が見つからない。(いじめられる)

④テーマがなくなった。もうマンガかけない=生きがいがない。

⑤家族にゴハン食べさせられる。太るのはイヤ。

⑥もう何もヤル気がない。すべてがひたすらしんどい、無力感、脱力感。

⑦「存在不安症」(胸痛)の発作が苦しい。

対人関係、経済生活上のいきづまり等他の諸問題を無視することはできないとしても、自ら袋小路に入り込んでしまいマンガが書けなくなってしまったことが、死を決意するに至った最大の原因であっただろうと思う。

山田花子はこの十年余り、対人関係―いじめ―を唯一のテーマにしてマンガを書き続けてきた。「いきずまり」は不可避であった。

もし山田花子が対人関係・人間関係を現存する社会の諸関連の中に置いて考察し直したならば、今後尚同一のテーマで書き続けたとしても、いきずまるどころか一層深みのある作品を生み出すことができたであろう。

現存する社会―資本制社会―においては、芸術家も含めて人はただ自己の生産物を、或いは自己自身を「商品化」することによってのみ生存することを許される。従ってまたこの社会では人と人の関係は、商品を、或いは「商品化された自己」を媒介としてのみ取り結ばれ形成される。しかも尚、商品生産社会においては、弱肉強食の競争こそが、人と人の関係を律する支配的な法則となるのである。

「この世は弱肉強食、あの世=愛と平等」(日記から)。山田花子は、来世こそ、人々が真に自由・平等であり、誰もが経済的な制約から解放されて最大限個性をのばし発揮することができるような「理想郷」であると確信することによって、現世の苦しみに耐えてきた。私は全く逆に、「理想郷」は、現世で実現してこそ意味があるのであり、また実現可能でもあると確信している。けだし、長く続く、苦痛に満ちた苛烈な闘争なしに、現世で「理想郷」を実現することはできない。もし、このことを認めたとしても、余りにも感受性が強く、また余りにも繊細な山田花子は、この苛烈な闘いによく耐え得ないであろう。

山田花子は、至福の理想郷―メルヘンの世界―の存在を信ずると共に、「輪廻転生」の思想も信じていた。山田花子が、「理想郷」に辿りつくことができたか、どうかは定かでないし、また何時転生して再び現世に姿を現すのかも定かでない。唯物論者たる私は、来世の存在も、輪廻転生の思想も信じてはいない。だが、もし万一、読者のなかの誰かが、東中野辺りで「詩人・鈴木ハルヨ」を見かけたら知らせて欲しい。

死の数週間前に、山田花子は詩人鈴木ハルヨに転生し再出発すると「予言」したのである。山田花子の日記には、詩人・鈴木ハルヨ。性格明るく、おしゃべり好き、一九七一年四月十二日生まれ、二〇才、血液型B型、新潟県出身、住所・中野区東中野1-●2-●6(●山荘D室)、TELなし、と書かれている。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

五月二十四日十九時三〇分  山田花子一周忌を迎えて一

早いもので、高市由美・漫画家山田花子が死去してから早くも一年という歳月が流れ去った。私達両親が、由美・山田花子のことを日記に基づいて一冊の本にまとめて出版しなければならないと決意したのは、九二年の夏も終わりそろそろ秋風が吹き始めたころであった。

中学・高校でいじめにあって、必死になって何かを訴えようとしていた時に、私達両親が人間的に未熟であり精神的にゆとりがなかったために、真剣に聞いてやることかできなかったことが、また病んで親元に帰ってきた時に、住宅が狭く経済的にも余裕がなかったために、十分介護してあることができなかったことが、悔まれてならなかった。

私達両親は、幾多の痛恨の悔悟の念に駆り立てられて、この生き難い世の中で、どこにでもいる「不器用でドン臭いいじめられっ子」が全力を振り絞って生き抜こうとして来た姿を、たとえ誰の目にふれることがなかったとしても、何等かの形で記録しておかなければならないと考えたからであった。

山田花子の妹・真紀がもち帰った膨大な分量の読者の追悼文や投書を読んだ時、私達両親の決意は一層固いものになった。生前山田花子を熱烈に支持し、その作品を愛読して下さった多くの読者に、山田花子の実像を知って頂かなければならないと考えたからである。

山田花子は何よりも偽善を嫌った。だが、山田花子が嘘偽りなしに生きたいという時、それは世間でいう肯定的な価値観に従って生きるということではなかった。むしろ山田花子は、できることなら自分自身の内部にある「心の暗闇」ー嫉妬心、利己心、冷酷さ、差別意識等ーを剥き出しにして生きて行きたいと思っていたが、そうはできなくてもがき苦しんでいた。山田花子自身は日記に「冷たい女、やな女と思われたくないプライド」あるからできないと書いていたが、私達両親には心優しすぎてそうはできなかった様に思えてならない。(親バカ!)

私達両親は極力飾られ美化されることのない、ありのままの山田花子像を描き出そうと努めてきた。だが、山田花子は「いくら客観的なつもりでも、人間所詮思い込みから抜け出せない」と日記に書いている。その通りだと思う。結局のところ、私達両親がどの程度客観的に山田花子集を描きだすことができたか、どうかということについては、読者の皆さんの審判を待つほかなきそうだ。

青林堂『月刊漫画ガロ』1993年7月号)

 

寄稿/高市裕子(母)「虫愛でるヒメだった娘へ」

山田花子ではなく、私にとっては、由美という存在であった娘が、私達の許をだまって去ってから、半月を過ぎました。瞼に浮かぶ娘は、無邪気に屈託なく笑っています。

子供時代、そして死に至る迄の娘は、内気で感受性が強く、やさしさを秘めた子でした。親の私にとっては、とても楽しい存在でした。雲の切れ間に見える月を眺めて「お月様が舟に乗っている。ゆらゆらゆれている。」(5才)と言って、将来は詩人になれるかもなんて、期待をしてしまいました。何気なくつぶやく言葉に私の心は踊ったものです。

2才の時に郊外の自然豊かな団地に移り住み、3才から保育園に通っていました。その当時の連絡帳があります。娘の日常生活を保母さんと遣り取りしたノートを読みかえすと、いろいろなことが思い出されます。

娘は人形よりも、虫や鳥、動物が好きな子でした。飼っていたもの:トカゲ、バッタ、テントウ虫、ハムスター、インコ、文鳥、イモリ、ミニウサギ、猫、その他多数。1才頃地面に座り込んで「アイしゃん、アイしゃん」と動き回るアリを、じっと見ていたことがあります。

叔父から4才の誕生祝に贈られた昆虫や動物図鑑読みたくて、文字を覚え、虫の名前や生態を詳しく知っていました。小学校低学年時代「昆虫博士」と言う名前を友達から貰った程です。カタツムリに夢中になっていたのもその頃です。水槽に入れて、ニンジンやキュウリの餌をやっていました。カタツムリの糞は餌と同じ色をしているのだと教えてくれました。カタツムリの卵が1~2mmで真珠色をしたとてもきれいな卵であることも、私は知りました。

3年生の頃、アゲハの飼育に夢中になり、カラタチの葉についている卵を取って来てはイチゴの空きパックに入れて育てていました。料理用の山椒の葉、パセリは丸坊主、ミカンの木も買いました。羽化したアゲハが大空に飛び立つ一瞬を2人で見送ったこともあります。保育園の頃の夢は、「動物園の飼育のおばさん」になることでした。

もう一つ、娘が夢中になっていたことは、絵本作りでした。1才頃から眠る前に絵本を読み聞かせするのが、日課でした。話を聞きながら、空想の世界に浸っていました。

5才頃から画用紙を切ってホチキスで止め、鳥や動物を主人公とした絵本を、毎日書いていました。自由に伸々と彼女の夢の世界を描いていました。私が読んでも楽しかったあの絵本の数々、大きな紙袋にぎっしり詰まっていたあの絵本はどこに行ってしまったのでしょう。何にも拘らずに空想の世界を描いていた娘は、どこへ行ってしまったのでしょうか。

小学校に入学しても、先生の話を聞かずに教科書やノートに絵ばかり描いていて、よく注意されたようです。「漫画のことしか頭にない」とお叱りを受けたこともあります。6才頃のノートに、保育園に登園する時、「ママ、固く手を握っていてね。別れる時には手を振ってね」「ママは知らないうちにどこかへ行ってしまって、帰ってこないから」とありました。仕事の都合で娘が眠っている間に出勤したり遅く帰って来る私が、どこかへ行ってしまうという不安があったのかも知れません。子供時代、もっともっといつも娘の傍らに添ってやればよかったと後悔の念がよぎります。

誰にもサヨナラを言わず、別れの手も振らずに行ってしまいました。職場の3階の窓から、娘の飛び立った高層住宅が見えます。毎日、私は窓辺に佇んでは、娘は自由な世界へ向けて空を飛んでいるのかなと思ってしまうのです。

読者の皆様、青林堂の方々、漫画家の皆様ありがとうございました。ガロの誌上をお借りしてお礼を申し上げます。1992・6・9

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/大槻ケンヂ青二才もの」の巨匠

僕は、彼女のマンガが好きではなかった。

山田花子さんが生前に、僕や、僕のバンドを支持してくれていたことは知っていたが、それでも、彼女の作品を好きにはなれなかった。

彼女の作品の根底に、コールタールのように重くたゆたう、彼女の創作活動の総てともいうべき情念(レトロでも、あえてこの言葉を使います)みたいなものが、僕から見れば、とっても気恥ずかしく思えたからだ。

彼女の情念とはつまり、思春期の少年少女特有の、肥大し過ぎた自我と自己愛の裏返しなのであり、それ以上でも、それ以下でもない、誰しもが通過し、多くの人は克服する青春の感傷に過ぎないのだ。

自我に固執するがあまり、他者を憎む、世界を呪う。愛されない自分を蔑み、愛さない他人をあなどる。コミュニケーション不全症を思い、世をはかなむ。はかなめば束の間すくわれた気分になる。

山田花子のマンガは、結局みんな、「自分が思うほど他人は自分のことなど気にかけちゃいない」という現実社会の大原則にまだ気付いていない世間知らずの青二才の物語なのだ。

青二才の気持ちを叩きつけた作品というのは、自分にも同様な青二才時代があった場合、大人になって接した時、なんともいえぬ気恥ずかしさを感じさせられるものだ。大人になると、そのころの自分の憤りが、どういう理屈で成り立っていたのか、そのカラクリがわかってしまうからだ。

高校時代、僕はまったく山田花子作品の主人公たちのような世界観で生きていた。真剣にこの世をはかなみ、他者を呪い、機会あれば何もかも燃やし尽くしてやるのだと考えていた。

しかし、大人になり、ある日ふと、灯りがつくように気付いた。

「あれは、自分が中心に宇宙が周ってると思ってたから、あんなに周りが気にいらなかったんだな」…と。

青二才もの」という文化ジャンルがあるとしたら、山田花子は間違いなく第一人者であった。その力量は、尾崎豊に勝るとも劣らぬといってもいい。どうしたって別世界に生きた二人だけれど、役どころは実は同じだった。両者とも、「青二才ものの巨匠」だったのだ。尾崎は「校舎の窓ガラス割って反抗してえ」という青二才を、山田は自閉によってせめて自己主張しようとする青二才の物語をそれぞれ綴った。

僕も山田花子と同様、自閉することでしか主張の手段を持たない青二才を主題にいくつかの唄を作ってきた。「悲しきダメ人間」「あっちの世界」「ノゾミカナエタマエ」等、山田作品のタイトルに、明らかに僕からの影響と思われるものがあるのは、きっとそのせいなのだ。

大槻ケンヂは自分と同じ物語を創ろうとしている。」と、山田さんは思ってくれていたのかもしれない。

確かに、僕は、彼女と同じ青二才の物語を創ってきた。しかし、ある時から僕は確信犯的になった。「自閉することでしか主張できない少年少女たちはこんなことを思ってるはずだ」と、分析してから青二才の物語を書くようになった。

人はいつかは大人になる。青二才だった頃を、青二才の心を、客観視できてしまう日が来る。その時、「青二才もの」を創ってきた作家は究極の選択をしいられる。

確信犯として、青二才の気持ちを分析して作品を作っていくか、それとも、自分はまだ青二才のままだと永遠に信じ続けるか。二つに一つだ。

僕は前者を選んだ。たいがいの人がそうするように確信犯として世俗にまみれる方を選んだ。

山田花子は、多分、後者しか選べないタイプの人間だったのではないか。

山田作品の主人公たちは、どれを読んでも、自分の自閉に対して、髪の毛一本ほどの疑いも見せていない。「肥大した自己愛の裏返し」というカラクリに、まったく気づいている様子も無い。それは彼らの創造主である山田花子自身が、気付いていなかったからだと僕は思うのだ。

ラクリに気付き、確信犯として生きていこうと決めた僕にとっては真性の青二才である山田花子の作品は、恥ずかしくて恥ずかしくて、なんだか申し訳が無いような気がして、読むのがつらくて、どうしても、好きになれないのだ。

青林堂『月刊漫画ガロ』1993年7月号)

 

参考文献

石川元『隠蔽された障害 マンガ家・山田花子岩波書店、2001年

佐々木マキ『やっぱりおおかみ』福音館書店、1973年

講談社『なかよしデラックス』1983年1月号

講談社『なかよしデラックス』1984年2月号

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号(追悼特集)

山田花子『改訂版 神の悪フザケ』青林堂、1995年

山田花子『改訂版 花咲ける孤独』青林工藝舎、2000年

青林工藝舎『アックス』29号、2002年

山田花子『改訂版 魂のアソコ青林工藝舎、2009年

 

山田花子の本棚

『メディアになりたい』(高杉弾JICC出版局

戸川純の気持ち』(月刊宝島編集部編・JICC出版局

『宝島』1984年10月号(JICC出版局

『宝島』1984年11月号(JICC出版局

『宝島』1984年12月号(JICC出版局

赤面恐怖症の治し方』(森田正馬白揚社

『無責任な思想』(上杉清文北宋社

小堺一機関根勤のら゛』(TBSラジオ「スーパーギャング」編・三才ブックス

『ツービートのわッ毒ガスだ』(ツービート・KKベストセラーズ

『のろいの館』(楳図かずお秋田書店

『圭だらの卵』(日野日出志ひばり書房

『ヤスジのメッタクチャバカ』(谷岡ヤスジ・コミック社)

水木しげる短編傑作集~はかない夢』(水木しげる小学館

『まんが入門』(赤塚不二夫小学館

新潮美術文庫『ミロ』(新潮社)

『続・スケボーに乗った天使・ケニー写真集』(リン・ジョンソン・KKダイナミックセラーズ

夜想5・屍体~幻想へのテロル』(ペヨトル工房

『マンガエッセイでつづる般若心経』1~3巻(桑田二郎・けいせい出版)

『マンガエッセイでつづる魂の目』1~4巻(桑田二郎・けいせい出版)

『絵本・地獄』(風濤社

『イメージの博物誌8・タントラ~インドのエクスタシー礼讚』(フィリップ・ローソン著・平凡社

『子どもの昭和史昭和十年~二十年』(平凡社

『子どもの昭和史昭和三十五年~四十八年』(平凡社

『ピクルス街異聞』(佐々木マキ青林堂

『ウルトラ・マイナー』(キャロル霜田・JICC出版局

『Let's go幸福菩薩』(根本敬JICC出版局

『地獄に堕ちた教師ども』(蛭子能収青林堂

『私はバカになりたい』(蛭子能収青林堂

『薔薇色ノ怪物』(丸尾末広青林堂

DDT──僕、耳なし芳一です』(丸尾末広青林堂

夢の島で逢いましょう』(山野一青林堂

『ぱんこちゃんになろうっ』(みぎわパン青林堂

『みいんなじろうちゃん』(石川次郎青林堂

『銀のハーモニカ』(鈴木翁二青林堂

『クシー君の発明』(鴨沢祐二・青林堂

『月ノ光』(花輪和一青林堂

『ヘタウマ略画・図案事典』(テリー・ジョンスン=湯村輝彦誠文堂新光社

『ヒゲ男』(藤子不二雄・奇想天外社)

どおくまん作品集』第2巻(どおくまんプロ)

『SF頭狂帝大』第1巻(どおくまん少年画報社

銭ゲバ』第1~4巻(ジョージ秋山・リイド杜)

『みんなの心に生きた山下清』(山下清展企画室編・大塚巧芸社)

『ねぼけ人生』(水木しげるちくま文庫

ねずみ男の冒険』(水木しげるちくま文庫

智恵子抄』(高村光太郎新潮文庫

『変身』(カフカ新潮文庫

草野心平詩集』(草野心平旺文社文庫

『真夜中のマリア』(野坂昭如新潮文庫

アメリカひじき・火垂るの墓』(野坂昭如新潮文庫

『ごんぎつね・最後の胡弓ひき他十四編』(野坂昭如講談社文庫)

『わたしの赤ちゃん』(日野日出志ひばり書房

『少女地獄』(夢野久作・角川文庫)

『家出のすすめ』(寺山修司・角川文庫)

『グッド・バイ』(太宰治・角川文庫)

『パノラマ島奇談』(江戸川乱歩・角川文庫)

銀河鉄道の夜』(宮沢賢治新潮文庫

『蛙のゴム靴』(宮沢賢治・角川文庫)

風の又三郎』(宮沢賢治新潮文庫

『にぎやかな未来』(筒井康隆新潮文庫

『ビンボー自慢』(手塚能理子・潮流出版)

天才バカボン』第29巻(赤塚不二夫・曙出版)

天才バカボン』第2巻、第17巻(赤塚不二夫講談社

『ガロ』1985年1月号(青林堂

『ガロ』1985年2・3月合併号(青林堂

『ガロ』1985年4月合併号(青林堂

『ガロ』1985年5月合併号(青林堂

『ガロ』1985年6月号(青林堂

『ピックリハウス』1984年7月号(パルコ出版

ビックリハウス』1985年6月号(パルコ出版

『魔の川アマゾン』(中岡俊哉、秋田書店

AMNESIA』(太田蛍一・けいせい出版)

『はせがわくんきらいや』(長谷川集平・すばる書店

『昆虫の図鑑』(小学館

『動物の図鑑』(小学館

『やっぱりおおかみ』(佐々木マキ福音館書店

太田出版Quick Japan』Vol.10より)

 

山田花子の所蔵レコード


『とろろの脳髄伝説』(筋肉少女帯ナゴムレコード

『子どもたちのCity』(V.A・ナゴムレコードアポロン

玉姫様』(戸川純/アルファレコード)

『土俵王子』(有頂天/アルファレコード)

『河内のオッサンの唄』(ミス花子/BLOWーUP)

『チャカ・ポコ・チャ』(パラクーダー/ミノルフォン

『黒ネコのタンゴ』(皆川おさむ/日本ビクター)

オリバー君のロックンロール』(池田鴻/キング)

『大明神』(木魚/ナゴムレコード

『さよならをおしえて』(戸川純/HYS)

『MAJORIKA』(マリ千鶴/レコード会社記載なし)

『世界によろしく』(ミン&クリナメンナゴムレコード

ヨイトマケの唄/メケ・メケ』(美輪明宏キングレコード

『孤島の檻』(空手バカボンナゴムレコード

『やっぱり』(楽しい音楽/Kuricyan)

老人と子供のポルカ』(左ト全とひまわりキティーズ/ポリドール)

死ね死ね団』(死ね死ね団ナゴムレコード

『ワシントン広場の夜はふけて』(ヴィレッジ・ストンバーズ/EPIC)

『新世紀の運河』(ゲルニカ/テイチク)

『移動式女子高生』(とうじ魔とうじA.I.R)

竹中直人の君といつまでも』(竹中直人/クラウンレコード

『人外大魔境』(太田蛍ー/アルファレコード)

ハルメンズ・デラックス』(ハルメンズ featuring 戸川純/ビクター)

『CARNAVAL』(ZELDA/フィリップス)

『ボンジュールって言わせて』(アメリー・モラン/フィリップス)

『イン・エクスタシー』(ニナ・ハーゲン/EPIC SONY

PHEW VIEW』(Phew/コンチネンタル)

『リメインズ』(ジャックス/東芝EMI

『アイム・リアル』(ジェームス・ブラウンポニーキャニオン

アンデスの笛<1>/ロス・カルチャスの芸術』(ロス・チャコス/Barclay)

『浅川マキの世界 MAKI』(浅川マキ/東芝EMI

『夢のはじまり』(須山公美子/zero)

ベトナム伝説』(遠藤みちろうJICC出版局

ヒカシュー』(ヒカシュー東芝ENI)

『しおしお』(たま/ナゴムレコード

『Imagination Exchange』(原マスミユピテル

『ほな、どないせぇゆうね』(町田町蔵JICC出版局

『猿の宝石/ミン&クリナメン』(泯比沙子/アポロン

太田出版Quick Japan』Vol.10より)

 

関連動画

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山田花子作詞

猿少女マリア

ここはブラジル 奥地の村で

親の因果か 死霊の祟りか

生まれた娘は サル少女 

体は人間 顔はおサルだよ

この子のためならお母さん

祈祷師呼んでお祓いしたけど

月日は流れ 次第に醜く

獣のような この姿

人里離れたあばら家に住み

村人たちに石を投げられ

マリアが人間になれるのは

いつの日か ああ いつの日か

ここはブラジル 奥地の村で

親の因果か 死霊の祟りか

生まれた娘は サル少女 

体は人間 顔はおサルだよ

 

グラジオラスのテーマ

明日は滅びてゆく可愛い花よ

消えてしまった子供の夢よ

あの花のように

あの花のように

さようなら

 

何もない生活

何もない 何もない 何もない生活

泣いて暮らす方がまだステキ

つまらない つまらない つまらない毎日

宅録テープ『海と百合のアリア』より)

 

そうじ当番

三班のみなさん教室そうじ

まじめな人とサボる人

くさった牛乳ロッカーから出てくる

おとなしい子は机運び

黒板ふきしかしない川口さん

ぞうきんがけでヨーイドン

ほうきのバットで野球する男子

先生はいってくるとまじめになる

みんながいやがる教室そうじ

おとなしい子は机運び

宅録テープ『海と百合のアリア』より)

 

補記(単行本未収録作品)

『なかよしデラックス』1983年4月号掲載のデビュー2作目『大山家のお子様方』






中学生の根暗的感性といしいひさいちっぽい画風が合体した学園漫画。冒頭に登場人物紹介もあるがキャラクター設定にそこまでの意味はない。ただしヤンマガ時代のギクシャクした痛々しい描線と比べると比較にならないほどユルい画風と作風であり、少なくとも「裏町かもめ=山田花子」という予備知識がなければ同一著者とは殆ど誰も気が付かないだろう(分かる人には分かるかもしれないけど)。

 

『なかよしデラックス』1983年12月号掲載作品『人間シンボーだ』




山田花子名義の作品は画風こそ根本敬をリスペクトしたものだったが、もっと根っ子の部分には、やはり少女的な感性(メルヘンの世界と言い換えても良いだろう)が根ざしている。それは裏町かもめ作品を見れば一目瞭然だ。そしてそれは傷ついた少女の無垢な「抵抗」にも「悪意」にも「追憶」にも似た、とても純粋な世界だったのではないか。もし彼女が存命なら童話作家になっていたと思えてならない。

 

あとがき

初めまして、虫塚虫蔵と申します。

私は97年生まれの大学生でして、このレポートは私の通っている大学のゼミで夏期課題用に作成・提出したものです。

山田花子さんのことはガロ系の漫画やナゴム系の音楽に耽溺するようになった高校時代に知りました。なぜ、こんな青二才の若造がこんなマニアックなレポートを書いたのかというと、山田さんのことは昔からとても他人事と思えず「いつか自分がまとめなくてはならない」という思いがあったからです。

本来は非公開(ゼミ内でのみ共有してお終い)にするものなんですが、せっかくまとめたんだし、と試しにブログに載せてみたところ、記事への反響が大きく、はてなブログ人気記事ランキングでは〔2018年9月第5週〕(9月23日~29日)でトップ1位になりこれまでにない膨大な量のコメントが本記事に寄せられました(下記参照)

さらには、このレポートがきっかけで彼女の存在を知って共感される方、自殺を思い留まった方、彼女に対する敬愛と追悼を伝える方もあり、平成初期の出来事が平成最後の年に「定型」「発達」「世代」を超えた様々な人達によって論じられているタイムラインは正に圧巻そのものでした。

インターネットが普及して、発達障害の概念が広く定着した現代にこそ、彼女の存在は生き辛さを抱えた人たちに、時代や国境を超えて、より強烈な「意味」を与えてくれるのではないのでしょうか。

文字通り身を削って、その生を全うした彼女は真の英雄でした。ここに改めて唯一無二の孤高の芸術家―山田花子さんのご冥福をお祈りいたします。

本当に、本当にありがとうございました。(虫蔵)

 

コメント(抜粋)

  1. ものすごい熱量。単なる書評じゃなくこれ単体で読み物。子供の頃妙に惹かれた漫画の正体をはじめて知った。得体の知れないシンパシーの原因はこれかと

 

  1. たくさんの人に読んでほしい。健常者と障害者の「境界」なんて、無いに等しいと思う。(@kalasuma)

 

  1. よくこんなに時間がたってから、こんな素晴らしい論考を書けたもんだ。もう少し加筆すれば新書にでもなるレベル。

 

  1. すごいものを読ませてもらった。文中、彼女の障害の分析に用いられた数々のエピソードは私が子供を通して知るASDそのもので、今のような社会の理解も適切な治療や薬もなかった時代の生きづらさを思うと心が痛む。

 

  1. 私が生まれる少し前に自殺された漫画家さんの記事。私も発達障害持ちで自殺を図った。私も、虫が好きで、虫愛ずる姫君と親からあだ名で呼ばれていた。自分を見てるよう。私は結局彼女と同じ23のときの自殺では死ななかった。(@manutamanuta)

 

  1. 山田花子さんという方 失礼ながら初めて知ったのだけれど、この世からさようなら をしたのがあまりにももったいないように思えたのと救いや希望がない絶望感に苛まれながら彼女は彼女のまま亡くなったんだと泣きながら読んでしまった。(@tyy_milky07)

 

  1. 自分の中で承認欲求とか衝動がモヤモヤしてる理由はわかってる。昨日山田花子さんの話を読んだからだ。ああいうのを読むと気持ちが落ち込んで私自身もぐちゃぐちゃになって悲しくなるのわかってるのに貪るように読んでしまう。そして落ち込む。(@kaorudx0000)

 

  1. 長い記事なのに、午後時間をかけて読んでしまった。山田花子の死はスペインで友人のデザイナーのケンピが手紙で知らせてきたんだっけ。ずっとガロとか漫画を愛読していたパートーナーとしんみり飲んだ。狂わずにいる為に死を選んだのか

 

  1. 例のツイートがバズってから俺もこのことを思った。ネットは自分と同じような寂しさを持っている人を視覚化してくれる。ただどうだろう?それは彼女にとって気休めにしかならなかった気もするし、もしくは逆に的確に世界を捉えられなくなったかも。死の直前まで彼女は鋭く感性を研ぎ続け、そして折れた。自殺考えてたけど、やっぱ辞めるわ。自分の奥底に流れる山田花子的な暗い何かに共感する人がこんなにもいるということをバズったことで見せつけられたというか。うん…山田花子がそれを止めてくれたんだと勝手に思い込むことにする。今日学校帰りにちょっと回り道して事故物件巡って死んだ知らない誰かのことを考えていたんだけど、そういうことももうやらないようにしようと思いました。(@lololol_frBk03)

 

  1. 嗚咽を堪えつつ、読ませていただいた。「変わり者」扱いされ、死の直前に書いたメモに自らを「ゴクツブシ」と呼ぶ。若干24歳にして社会のしがらみというものに翻弄され、最期は自ら命を絶った。でもね、この子は自分を貫き通したかったの、きっと、この世に生を受けてから最期の最期という瞬間まで、ね。彼女は最期もあの若さで自らの意思で選んだ。人それぞれどんな結末を迎えられるかわからないし、そもそも自分の思い通りの最期かなんてわからない、それを考えると、彼女は思い通りに生きれたのかもしれない。自分で最期くらい選ばせて!という気持ちかもしれないし…。彼女自身やりきった、全うした。だからもういいでしょう、と自らの人生に自らの意思でピリオドを打てた。本人からしたら、望んだ形で逝けたのかもしれないと思うと、責める気持ちは全く無くなりますな(@momo_0712_pdd)

 

  1. 彼女の連載を読んでました。生きづらさについての漫画。当時(`90年代後半)は障害についての理解に乏しいばかりか、当事者もそうと気づかず自分を苦しめ、病院への敷居は高く…という時代でした。生きたいから死ぬという心情、分かります。私はそれを選ばなかっただけ。彼女自身を全う出来たと思います。もっと長く生きて作品を読ませて欲しかったけど、長さより密度、誠実に生きたらあの長さだったという感じ。今はもう、よくあれだけのものを描いてくれてありがとうという気持ちです。ほんとね。記録を読むと涙ぐむけれど、そういうわけで死に関しては悲壮感がないの。(@YouYoumieux)

 

  1. 山田花子さんの「自殺直前日記」は十代の頃に読んだなぁ…。その頃、自己評価が低く明日が来る意味が分からずこの世から消えていなくなりたいと思っていた自分と、この本は同調した。その後、詩歌に出会い、創作を始め、歳を重ねるたびにのんきに、楽に、なってゆく私。生きるもんだな。

 

  1. どれほど多くの人らが山田花子はんを語らはっても、リアルな山田花子はんに近づくことはでけへん。それは有名無名、有象無象は関係なく誰でも同じ。人はみな理解されない孤独を生きるんや。(@GPart2)

 

  1. 自殺を選ぶくらいに人として生きたかったんだろうね。自分の居場所だった漫画に見切りをつけて、最後に勤めてた喫茶店で解雇されたとき、「もう生きていけない」って思ったんだろうな。かわいそうに。

 

  1. やたら '協調性' だの 'ひとつになろう' だの喚き散らす、「みんなおなじが きもちいい」なムラビトさびしんぼう集団主義偏執狂人種どもがはびこる日本のような島国根性気質社会では、特にこのての人たちは生き難そう。

 

  1. 自分には想像を絶する生き辛さ。

 

  1. QJ初期のめちゃくちゃとんがってた時期を彷彿させるエントリ

 

  1. はてブで1000件近くいっているけど、中身は論考というよりは書評だし、なんで今、こんなに注目を集めているんだろうと。NHKの「発達障害プロジェクト」もそうだけど時代なのかなあ

 

  1. 彼女が生きた時代はネットの発達が未熟で閉塞感が強かった。そんな世界をジョブズとウォズニアックが変えたのは、彼ら自身が生きにくかったせいなのかもしれない、と、この記事と関係ないが、考えた。

 

  1. 山田花子を語る時、どうしても障害の事がセットで語られがちなんだけど、彼女が描く「救いのない生きづらさ」は当時の自分にとって、とてもとても大きな救いになった。そういう漫画家であった事も忘れないでいたい

 

  1. 山田花子氏、知らなかった…。「裏問題児」自分はわかる、人には見えないんだよね。変なところしか。人間平等思想を「逆に人々を不幸にする」 平等と差別もなくせばいいような簡単なものではないと思う。

 

  1. 他人の心の内を見透かす千里眼的な視力を独り占めしている状況というのは非常に辛い/“純粋な世界を作り上げるなんてなことは現世においては至難の技だ”。ASD統合失調症に限らず、このような生きづらさ、あるよね

 

  1. 発達障害は個性として見過ごされがちなのは現在もそうで、対人関係が上手くない等、生きづらさを感じて生きる人々をどれだけ周囲が受け入れられるかどうかというのもある。現実の絶望の釜を覗き続けたら辛いよ

 

  1. 漫画のコマ追って見てると泣きそう。胸がぎゅっと痛くなる。

 

  1. インターネットで理解者や共感者が多い今に20代だったら生きられたかもなあ。現代に氏の作品を原作としてアニメ化とか実写化してもいいのよ

 

  1. 今なら生きてたと思う。昔より精神科の診断と治療が適合してるし、同じ悩みを持つ人も見つかりやすい。

 

  1. 18歳くらいの頃は、辛い共感できる漫画を漁るように読んでたけど、大人になってからもう辛い気持ちになるのが無理になった。

 

  1. 18になってすぐにドキドキしながら本屋で「完全自殺マニュアル」を買った思春期の自分を思い出した…衝撃的だったな…

 

  1. 山田花子さんとASD。観察眼の鋭さやこだわりの強さゆえの融通の利かなさは統合失調症と誤診されやすいところなのかもしれない(併発していた可能性もあるが)。

 

  1. (例えが陳腐だが)紙の本でしか読めないと思っていた文章表現。ネットと紙の間にできてしまった豊かさの違いを痛感する。

 

  1. 発達障害とか軽度の自閉症は認知される前まではクラスに一人はいる変な子って扱い。認知された今でも周囲に馴染めないから社会に出ても常識のない人扱いで、仲間はずれになりやすく自活可能な才能ないと生きにくい。

 

  1. 胸が苦しくて途中までしか読めてない。今の時代でも、診断がついてても、生きづらいものは生きづらいよ

 

  1. 一気に読み切れなかった。大人になった今なら彼女の絵のうまさ、観察眼の鋭さ、感受性の豊かさを読み取れるのに当時はほんとに苦手だった。絵も内容も「わざわざ」なぜこんなことをこんな風に描くの?と思っていた

 

  1. 昔ならこういう記事がここまで反響を呼ぶことなどなかったに違いない。発達障害は個性として認められていた、なんてのは大ウソだよなあ

 

  1. アウトサイダーは芸術界の論壇にも、一部の持論を強化させたい背任専門家にもおもちゃにされる。こうした非当事者はお気楽でいいよね。多くの当事者はこんなことすら生み出せずにもがいて生きるしかない

 

  1. 孤高の天才芸術家、山田花子。失礼な話だけど、意外に美人なことを知って驚いたっけなぁ。死にそうで死なないでエグいマンガや文章を書き続けてほしかった。この人とねこぢるナンシー関の死は本当に残念。

 

  1. ガロしばしば読んでたけど彼女のことは名前しか知らなかったな このレポートは興味深く読めた 今なら余計地獄だと自分なぞは思うがな。あの時代は今よりずっと変わり者が変わり者のまま生きてられる時代だったよ。

 

  1. 本文でも触れられているが、「山田花子発達障害者だった」という結論ありきで強引に出版されたもののせいで、20年近くたっても山田花子に憐れみの視線しか浴びせられないのは、故人や遺族にとって遺憾な事だろう。

 

  1. 読めて良かった。なんというか自分が今もなんとか生きていられるのは、先人たちのお陰であると思って感謝している。

 

  1. 今の時代なら生きてたんじゃないかという意見が散見されるけど、同じくASDの自分は、今の時代だって自殺してるんじゃないかなと思いますよ。そのくらい発達障害者は生きるのがしんどいですよ。

 

  1. 読んでると息が止まっちゃう凄い記事。蛭子さんのコメント、とぼけてる様で何故か胸に来る感じがありました。何とも言えない読後感です。 山田花子マンガ人生

 

  1. この頃よりは発達障害に対する理解は進んだかもしれないけど発達障害者の生きづらさは全く改善されていないと思う

 

  1. 文化の軽量化は生死の軽量化に比例する。”

 

  1. 山田花子さんの漫画を読んでみたくなった。なんていうか毒と魅力を持っている人に感じた。

 

  1. 1967生まれで1992に亡くなったのね。92年ごろの出版なら、娘さん亡くされてあの時代にこの本の内容に納得できなかったご家族のお気持ちもわかる。

 

  1. 良記事。山田花子の幼少期~小学生時代が自分と一致していて戦慄する。(1973年福音館書店発行の「やっぱりおおかみ」は今も手元にある。)

 

  1. 山田花子さん、懐かしい。発達障害の人と生きることの難しさは今も変わらず、発達障害の人にとってはつらい世の中だろう。

 

  1. 山田花子の漫画のこの「学校には問題児と裏問題児がいる」ってのリアタイで読んでて、酷く衝撃を受けたんだよ。ああ、コレだったのかと。彼女が幼少期に好んで読んでた絵本が『やっぱり おおかみ』だと知って自分の世界に入って行ってしまい溺れそうになってしまった。洗濯機の終了電子音に助けられた。(@kemuri22)

 

  1. つらすぎて読めない

 

  1. 社会の中で発達障害への理解は『隠蔽された障害』が出された頃よりは進んだたろう。今ならご遺族の石川氏に対する怒りは別の形になったと思う。でも一番残念なのは、山田花子氏を救えなかったことだ。 メンタルヘルス発達障害医療漫画

 

  1. 完全自殺マニュアル」が話題になったあの頃、「自殺直前日記」も購入したけれど未だ紐解いていない。なんだか開けない。

 

  1. 素晴らしい良記事。 20世紀には発達障害の概念は一般的ではなく、二次障害を来しても統合失調症(当時は「精神分裂病」)とひとくくりにされていた。 彼女の尖すぎる感性は己をも切り刻んでしまったのだろう。

 

  1. おばあちゃんが言っていた。診察しないで病名を付けるのは藪医者だって。因みに最新情報では自閉症と糖質は同じ遺伝異常の別の表れらしい。当時同じ病気にしたのも無理ないな、変身!

 

  1. 強烈な読み応え。 漫画サブカル発達障害

 

  1. マジで、いまの時代なら・・・そう思わずにはいれない。このブログいい

 

  1. 山田花子に関する論考。ASD統合失調症と診断する誤診は四半世紀前の1992年には結構な割合であったと思う。2002年くらいに知人がハロペリドール投与で流涎していて驚いたことがある。その後ASDと診断された。 マンガ病跡学発達障害

 

  1. 既出ですが発達障害という診断名が定着しただけで、その生きづらさは現在でもあまり変わらないかと。むしろ、11階という高所から飛び降りておそらく即死。腰から落ちた為、死に姿も綺麗だったのは僥倖だったのかも。

 

  1. よくぞここまで総括してくださった。決して、熱烈なファンではないのですが、彼女の…もがき苦しみながらも…その身を削るように真摯に表現をし続けた姿…命の軌跡に深く共感する一人として感謝を表したいと思います。

 

  1. 帰りのバスで凄いテキスト夢中で読んでまして、ふと隣の男がやたらワサワサ動いてて、独り言も言っててなんかずっと「おふおふ」言ってる事に気付いて見てみたら、こっちガン見しながら、膝に置いた荷物で隠しつつ猛烈に手淫していて、恐怖と嫌悪のズンドコに落とされた。こういう時、もれなく恐怖で硬直するばかりで声を出せたことがない。唯一「ふざけんなボケ止めろや」と抵抗阻止できたのは男友達に襲われた時だけ。最低な行為してきてても知ってる相手だから抵抗できた。最悪の事態にはならないだろうとわかるから。でも赤の他人は何してくるか未知数すぎて無理。私は熱中すると周囲が全く見えなく、聞こえなくなるので、公共の場では気をつけないとダメだなと痛感した。一体どれほどの間、気づかずに隣に座っていたんだろう…背筋凍るし吐き気する。ちなみに夢中で読み耽っていたテキストはこちら。凄い。これをブログで?!というクオリティ。まだ全部読めてない。山田花子は著作そこそこ持っているけれど、本人に関して攻め入るのはなんとなく下世話な気がしてて。でもやはり価値あるね。

 

  1. よくにてる。私の場合一番理解されなく自分でも気がつけなかったのが「就職のしかたがわからない」「役所的な手続きができないのではなくわからない」なので普段ペラペラ話してるから、だれも障害でそうなってるってわからないし私もわからなかったので山田花子さんも辛かっただろうと思う。インターネットに繋ぐのが比較的早かったので、デジタルは読みやすいし記憶しやすいから一気に情報吸収したけど、人づたえや用紙、本ではまったく学習できないの、私のばやい、、、。(悲)。就職がわからないって人に言っても通じなくて、不本意なアルバイトしたりして途中から意味がわかったかんじ。勉強も体育もだめでイジメられっこなのに、ASDの特性か学校には来るので、先生がかわいそーって思ったのか入学後いくつかの条件付で受験なしで高校に入れるようにしてくれたけど、それがなかったら中学も卒業できていない学力なので、発達っていっても種類が多くて天才は一握りしか居ないYO

 

  1. 山田花子(漫画家)にまつわる話は読んでて辛い。山田花子本人の著作も辛い。学校の同調圧力、クラス内カースト、「空気読めない」等に苦しめられた経験がある人には山田花子の作品は「刺さる」なんてもんじゃない。協調性ゼロで同調圧力がしんどかった私は山田花子の漫画読むと死にたくなった。とても自分で購入して、部屋に置く気になれなかった。全部友達に借りて読んだけど「いや、もう、わかった!きつい!辛い!生きづらい!全部わかる、わかりすぎるほどわかる。でももう助けて。嘘でもいいから美しいものとか楽しいもの見せて~!!!」って気分になるんです。亡くなったと聞いた時はひたすらしんどかった。鶴見済完全自殺マニュアル」を読んで(自殺願望があったわけじゃないっす。これは当時のサブカル者必携の書)事の顛末を知った時もめちゃくちゃしんどかった。そして20数年たってからこのブログ読んでもやっぱりしんどい。全く色褪せずしんどい。(@Matryoshka3)

 

  1. ガロは短大時代に友人とどハマりし、人智を超えた才能の持ち主と認識していた山田花子さんの存在は私にとって完全な異世界の人間だった。想定し得る限界などとは全く無縁の、凄まじく高いところにいる方だったと記憶している。彼女の作品に触れる度、畏怖の念を抱いたものだった。(@sayobonne)

 

  1. 私は山田花子と友達になれたかなぁ?って思う。多分、適切な距離をとって、文通とかするなら、楽しいかも。だけど、多分、一緒にいたらその痛々しさに耐えられん感じがあっただろうなぁっても想像する。カサブタ剥がしちゃっていつまでも傷のままの息子と被ったよ。(@nankuru28)

 

  1. 生きづらさを抱える人たちが最後に肯定される可能性のある場所だったサブカルチャーが、生きづらさを抱える人たちから人生を搾取するクズ悪人の主戦場に成り下がったサブカルに変質した今、山田花子のような存在は、既にノスタルジーの中でしか出会えないのかしら。(@inabawataru)

 

  1. これはまた素晴らしい、冷静な熱の籠もった名文です。生きづらい人、行き詰まった人への福音であり、これを読んだお陰で死ぬのを引き延ばそうとさえ思った人すら出るであろうと思います。強さのある文章を書けるのが心底羨ましい。(@mahusukaya)

 

  1. ホントに凄い読みごたえなんやが、蛭子さんの寄稿が一番凄かった。レポートの内容が一瞬にして吹き飛んだ。(@NC8BnNuolX5FoP5)

 

  1. 蛭子さんの山田花子追悼文が素晴らしい。なんというか、嘘のない文章だと思った。(@64goldfish)

 

  1. 山田花子本人を誰よりも知っているつもりの文調で語る解説者がたくさんいて、例に根本敬の狂おしい文よ、本当に愛されていたんだな...でもこんなこと本人の前じゃ言えないから、亡くなってはじめて全貌を語り得る日本人の内向性も併せて見られて奥行きのある記事だった。(@everfic)

 

  1. 当時を思い出して読んだ。山田花子という悲しき一事例から非言語性LDへの読み解きをするのは、とても、分かり易い。後半からの、山田花子の死に対する数々の寄稿文はもう読んだものばかりだが、今読んでも蛭子能収のそれは群を抜いて気味が悪い。(@ko_me_yo)

 

  1. 山田花子が気にしていた歯列矯正をここでも描く蛭子能収サイコパスっぷりは若干…いや、かなり引く。(@pisiinu)

 

  1. 凄い。こんな読み応えのあるブログ初めて読んだかも。(@lololol_frBk03)

 

  1. RT、えらいハードル上げるなあと思いながら読んでたら2時間過ぎてた。山田花子の漫画は、このブログにあるとおり「完全自殺マニュアル」で知ってずいぶん自分も救われた記憶がある。それにしても彼女の自殺を「よくやった、あれで彼女はきっと目的を遂げた」と評した蛭子さんヤバいな。(@makeinu_wonder)

 

  1. 蛭子さんの惜別の言葉に揺さぶられてしまった。わかりあえなさをここまで素直に、しかし最大の尊敬をもって表現している文章もないんじゃないだろうか。(@amayan)

 

  1. 弱っている時に見るべきでは無かった凄い内容。学生時代思い当たる事が多過ぎて当時彼女の作品はちゃんと見れなかった。寄稿の中で、蛭子さんのが一番刺さる。(@AyakoHayakawa)

 

  1. ずっと俺の心の中に突き刺さったままの楔のような人。この人だけは本当に誰も救えなかったと思うんだ。長い記事だけど後半の蛭子さん知久さんの寄稿に涙。(@koriandre_no_ha)

 

  1. 卓球と蛭子さん、それぞれ方向性は違うけどとても誠実なコメントのように思う

 

  1. 漫画家、山田花子さんの記事、全体的に漂う雰囲気が好きだった。最後の寄稿、自殺してもヨイ人間、ワルい人間のくだりはすごく、妙にグッと来た。良かったなぁとか妙な気分になったり。誰かと語ったらこの気分をもっと明確に言語化出来るんだろうか。(@kenzenkoubou)

 

  1. 死んだら可哀想がられてみんなに愛してもらえるって幻想で、死んでから愛されるには努力と才能が必要だと思うけれど、山田花子は完全に全てをやり遂げてそれを手に入れている。(@3yuri_0427)

 

  1. 若くして少女漫画誌でデビュー。ガロを愛し、人や状況を鋭く切り取る作風、って「さくらももこ」の裏返しのようだな

 

  1. 本稿から離れるけど、寄稿者の丸尾・みぎわの名前を見てアレ?と思い、読みつづけたらさくらももこ宅で撮られた写真があって初めて理解した

 

  1. さくらももこさんと山田花子さんが見ていた世の中の本質はあまり変わらなかったんじゃないかな。と思ってしまった。繊細で徹底的にリアリストでそのことに傷ついてしまうか傷つかないか、の差なんじゃないか…(@takeharamayumi)

 

  1. 内容も、寄稿文も全部すごい。天国がほんとうにありますように、ってなんて虚しくて、無責任で、やさしい言葉なんだろう。(@canna_lilly)

 

  1. 夭折の漫画家、山田花子さんについての記事を読んでいろいろ思うところありましたが、ガロの追悼特集に知久さんが寄せた文章の「天国がほんとうにありますように」という言葉に、釘づけになって三日経つ。今も。日頃、無神論者を気取っている自分ですが、先に逝く人達には、こう祈りたいと思いました。(@xxkae_kaexx)

 

  1. コメント寄せてる中で唯一直接面識ない丸尾末広が、それ故になんか存在全体を的確に捉えてるような気がしたというか発達障害を「地球内異星人」って全く私も同じこと考えててウワッてなっちゃった。ガロの人もそうなんだけど、顔の作りも良い方だしファッションにも気を遣って奇抜に走らないセンスの良さがあるのに、ファンになった作家に怪文書みたいな汚い字のファンレター送ったとか、蛭子さんにファンだって言ってたのに「嘘つくな、あとちゃんと面白い漫画描け」って言ったところとか、女友達も言われたく無いことを脈絡無く言い出すからイラついたとか、あと異常に外ヅラ美意識は高いところとか、肝心なところでヤバい女なのを全く隠せてないというか隠す気ないというか。(@tamma006)

 

  1. 山田花子自殺してもう25年以上経つのか。それで今これだけの文章が出てくるって言うのは、やっぱり天才の一人だったって証明なんだろうな。(@tamanyo)

 

  1. 山田花子先生みたいに世の中の不条理に敏感だと死んでしまう。もっと鈍感で辛くても笑って辛い事なんて無かったかのように忘れようとしないと生きていけない。(@ryu_zu49)

 

  1. 山田花子さんの生きにくさは、感じたこともない人達も沢山いて、だけど、それを漠然と抱えてる人達にとっては、息が止まるほど辛いことが明確に示されていますよね。私だけじゃないんだなと、救いの様な絶望の様なものを感じます。ブログを読んで再度感じました。死んでもなお尊いです。とっても。

 

  1. ガロと山田花子についてのレポート、興味深かった。青春 と 不条理 が詰まってた。『あんな奴、ハナクソだぜ』を見た瞬間、何故だか 岡村ちゃんの『お前がいなきゃ、俺なんて紙くずだぜ』が思い浮かんだ。(@Yoooooko22)

 

  1. この人の手記が、自分が入院していたときノートに書いていたことと重なる。ただ生きるのも大変なのに、生きづらく感じさせた人々の一挙手一投足を脳内で再生産して精製しなくてはいけなかったことが彼女の性質においてどんなに破滅的だったか考える。本文に出てくる病院の近くの川を、偶然にも希死念慮のある友人と散歩したことがあります。その川辺は本当に美しくてきらきらしていて、こうなれたらいいなと思う2秒後にはこうなれない現実が覆う。でもその繰り返しをだましだまし宥めて歩く。 山田花子はそのだましだましをやらなかったのかな。本当につらくなる内容だったけどとてもわかりやすくて読み応えのある記事でした。しかも同ブログでは大好きなJamやHEAVENのことも書いてくれているし貴重。(@soujoh_)

 

  1. 花子先生を頭から障害者のように扱ったり「絵が下手」「売れなかった」とか切り捨てるのが許せないんだけど、このレポートは良いな…。じっくり読もう…(@kocotori_30)

 

  1. 山田花子かー。こういう時代だったなぁ。生きづらかった人が「生きづらいんだ」と表立って言いだした頃だよね。みんな死んでしまったけど。ほんと、みんな、死んじゃったよね…(@039106110)

 

  1. やっぱりおおかみ|福音館書店 https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=274 先の、山田花子先生についてのブログたしかに凄かった。中で紹介されていたこの絵本、ちゃんと読んでみたい。「自分は自分でいい。このままでいい」って大事な気がする。(@konkasaba)

 

  1. 暴風雨の轟音の中ふと目にした記事。同じく短かった人生を自ら幕を閉じてしまった我が二女と重ねて読んだ。本当の気持ちは誰にも分からない。ただ…残された者はひたすら続く絶望とどんなにうち消そうとしても消えていかない自責の念が続く。ただ俺はそれでも生きている。(@cieob7ZCyUdowpK)

 

*1:デビュー前に受けていた講談社の「なかよしまんがスクール」の講師から「いしいひさいち氏がお好きなようですネ」という評価を受けていた(1982年)。

*2:2006年になって2ちゃんねる山田花子@懐かし漫画板茶店時代の元同僚バイトを名乗る男性(≫745)が現れて当時の山田の印象やバイト先の雰囲気などを次のように回想している。

こんなスレがあったなんて驚きです。

14年ほど前、僕も喫茶白ゆり飯田橋店でバイトしていたことがあり、山田花子とは何度も一緒に働いています。といっても彼女はバイト先で自分が漫画家であること、山田花子であることは明かしていなかったので、僕らはニックネームとして「イチ」って呼んでいました。

彼女は夜の時間帯が多く、僕は深夜担当だったので、彼女の最後の1時間だけと僕の最初の1時間がダブるといった程度でしたが。昨日何年ぶりかに白ゆり行ったら、当時の店長がまだ働いており、僕の顔も覚えていてくれました。懐かしいあの場所で、あまり当時と変わっていないあの場所で、ついついイチのことも思い出してしまって、ネットサーフィンしていたらここに行き着きました。

バイトをクビになった時のイチの奇怪な行動が忘れられません。でも、山田花子であったイチを知ってからは(没後ですが)、なるほどあの奇怪な行動や、仕事のトロさっぷりも納得いったもんですけど。

まず、クビになる前から喫茶店での仕事っぷりには大いに問題ありでして、作品を評価されているのとは裏腹でしたね。確かにテーブルナンバーもロクに覚えないし、新規のお客さんが来られても放置(気づかない?気づいていないフリ?)してるし、コーヒーとかも進んで運ぼうとかはしないし、意味なくウロウロするし、注意すると柱の影でメモを書くし(閻魔帳と呼ばれていました)、シフトの時間帯が同じ仲間からは相当怒られていましたね

白ゆりは200席近くあるんじゃないかな。大きなホールだとは思いますが、アルファベットと数字を組み合わせた簡単な順番のテーブル番号(1列目の3番目なら、A-3とか)なので、店が複雑というわけではないと思う。だから、イチがそういう記憶力に欠けていたのか、わざとなのか、僕にもわからなかった。。。

僕は既述のように1時間しかダブってなかったし、深夜要員だったので、仕事も喫茶業務もそこそこに掃除メインって感じでしたし、そんなに腹立ったりすることもありませんでした。

ただ、イチと同じ時間帯にいたフリーターのロンゲ君にはよく仕事上のことでキツく当たられていたと思います。あと、店長店長出てきますが、イチを採用した店長と辞めさせた店長は別人です。途中、店長交代があったので。

イチを採用した店長は、僕も採用してもらった店長でして、あの当時に携帯電話を2台ももち歩くなかなか強面の店長でした。なぜ、イチを採用したのかは僕も聞いたことがありませんのでわかりません。ユーモアがあって、エロい(明るいエロさですけど)店長さんでした。僕ら深夜バイトの大学生には、よくエロ本をプレゼントしてくれていました。前店長は今何をしているんでしょうかね。夜の世界が似合いそうな風貌の方でしたけど。

僕が生き証人であるかどうかも気になるのでしょうけど、その判断は読み手の皆様にお任せします。その当時のバイトのメンバーならわかっていただけると思いますが、深夜バイトのほとんどのメンバーが通っていた近くの大学の学生でした。当時のバイトメンバーとの関係をいえば、横●、田●とクラスメイト(僕がここのバイトに引き込みました)で、サークル仲間では、●本、荒●、大●先輩、永●先輩、クラスメイトやサークル仲間以外では、荻●君や石●なんかがいた頃です。店長以外の社員では、塩●主任がいました。主任とは家が近所だったので、よく車でバイトに一緒に行っていたなあ。多分、この仲間がこの文章読めば、僕のこと特定できますね(笑)

そのイチを採用した店長は僕が入店して2ヶ月くらいで辞めてしまいました。代わりにやってきた新しい店長はぜんぜん雰囲気が違う方でしたが、仕事に対する姿勢の厳しさは見本にすべき店長で、当時の塩●主任なんかはかなりビビっていました。辞められると採用のたいへんな深夜バイトの僕らには、やさしかったですが。

ところが、深夜枠ではなく、イチにとって、この仕事に厳しい店長の出現はかなりプレッシャーで、店長としては極めて通常のレベルでの指導を行っていたのですが、イチにとってそれを守ることは容易ではなく、とうとうバイトをクビに・・・という最後通告をされるに至りました。その後、深夜時間帯に僕が出勤するわけですが・・・。

イチが店長からクビを言い渡された後、僕はいつものように深夜時間帯に出勤しました。何やら社員である主任が神妙な顔をしています。店内をみると、イチのタイムカードがレジのところに飛び出してきており、また、トイレから店内にかけて結構な量の水がしたたり落ちていました。

バックルームに着替えに行こうとする僕を主任は呼びとめ、「ちょっと話があるんだ。実はバックルームにイチがいる。」と。。。

イチがバックルームで座っていると、僕が着替えしづらいので、一旦、出てもらって、着替え始めました。そうすると、社員がバックルームに入ってきてこんなことを言いました。「辞めさせられたイチが突然来て、タイムカードを押すんだよ。当然、シフトには入っていないから、イチ、そんなことしても給料は出せないんだから、だめだよ。って言っても、働こうとしてきかないんだ。さらに言って聞かせようとすると、いきなりトイレにかけこんで、手を洗う液体石鹸で頭を洗い出し、ズブ濡れの頭で出てきたんだ・・・。なぁ、どうしよう・・・。」どうしようって・・・言われてもねぇ。。。とりあえず、その時は絶句するばかりでした。イチの奇怪な行動に。

でも、僕の頭の中には、あの働き方や面接の印象では、なかなか働く場所もないだろうし、お金に困っているのかな?・・・くらいの同情でした。イチが漫画家だとか山田花子だとか知らなかったから。

ここから先はもう個人的な思い出なのですが、サークルの後輩が床屋で見かけた週刊誌にイチの追悼特集があった!と報告してきました。さっそくの週刊誌をみたところ、確かにイチの顔写真が載ってある。山田花子??漫画家??は??僕の頭は???だらけ。記事の中にはどうも「ガロ」なる雑誌に関係する人らで特にイチの評価が高かったことがうかがえ、僕は国会図書館まで行って、ガロのバックナンバーをあさりました。イチが蛭子さんやチェッカーズの武内亨などと写真に写っているイチがいました。やっと、漫画家山田花子高市由美が僕の中で静かにまとまっていきました。なんでかわからないけど、使えないバイトのウエイトレス=高市由美で僕の周りの人間の記憶を終わらせるのはだめなような気がして、国会図書館で見つけたガロの出版社に電話して、イチの記事があった号の在庫を確認。すぐに、出版社まで買いに行きました。

サークルや白ゆりにそのガロを持って行き、みんなの頭の中に、高市由美=山田花子ができあがりました。反応は人それぞれでしたが、見かけとのギャップへの驚きや、漫画家とはいえ、キワモノというか、それでいてメジャー誌での掲載もあったりとかで、なんかイチらしいような、すごい人なような、複雑な気分になったのが正直な思い出です。

*3:根本敬が山田の死後、単行本『花咲ける孤独』に寄稿した「解説」は『ガロ』92年8月号に寄稿した「追悼文」が元となっている。ちなみに根本が『ガロ』に寄稿した追悼文では「でも、彼女の自殺にはまったく意外性がなかった。たしかに、個人的には高市由美の死は悲しいが、作家・山田花子の自殺には、否定的な気持は沸かない。例えば麻薬をやってヨイ人間(勝新とか)とよくない人間(宮沢首相とかね)がいるように、自殺してヨイ人間とイケナイ人間がいて、山田花子は前者だ。そんな人間にとって自殺して早死にするのもひとつの生き方故に冥福はあえて祈らない」と結ばれている。