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伝説の鬼畜系ライター村崎百郎(黒田一郎)が遺したオウム論「ゲス事件/ゲスメディア/ゲス視聴者」「導師(グル)なき時代の覚醒論」

オウム真理教による地下鉄サリン事件があった1995年、太田出版から『ジ・オウム―サブカルチャーオウム真理教』というサブカルチャー系の文化人がオウム真理教を解説しまくる大変珍しいオウム本が出版された。同年デビューした鬼畜系ライターの村崎百郎も「ゲス事件/ゲスメディア/ゲス視聴者」と題したゲスなワイドショーをテーマにした原稿を寄稿している*1

本書の執筆陣は宇川直宏根本敬中原昌也福田和也村上隆岡田斗司夫村崎百郎福居ショウジンと何かと豪華であるが、大変残念なことに本書はすでに絶版で現在は入手困難であり、古書価格も5000円~1万円と高騰している。一発検索のワールドワイド時代、紙の文化にアクセスすること自体が容易でなくなってきているということを痛感させられた。

しかし、本書をこのまま歴史の闇に葬り去られて行くには余りに惜しい。さらに今年(2018年)はオウム死刑囚全員の死刑が執行され、例年になくオウム真理教に注目が集まった年でもある。このたび本書を入手出来たので麻原と村崎なき今、村崎の貴重なオウム論をブログ上復刻してみようと思った次第である。

なお本書には黒田一郎名義で「導師(グル)なき時代の覚醒論」という原稿も寄稿されている(後述)。

 

ゲス事件/ゲスメディア/ゲス視聴者

村崎百郎

むらさき・ひゃくろう:1961年シベリア生まれ。自称中卒。1980年に上京。凶悪で暴力的な性格が災いし、陰惨な傷害事件を繰り返しながら多くの工場や工事現場を転々とする。1995年より「すかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き堕とす」ために「鬼畜系」を名乗り、この世の腐敗に加速をかけるべく「卑怯&卑劣」をモットーに日本一ゲスで下品なライター活動をはじめる。現在は東京荒川区の工場に勤めるかたわら、ゲス原稿専門ライターを最近開始。『危ない1号』(データハウス)、『ユリイカ臨時増刊・悪趣味大全』『イマーゴ』(青土社)、『GON!』(ミリオン出版)などに寄稿。茶髪で日焼けでナイスバディの彼女を急募。

 

──これは妄想戦だ。細胞対細胞で戦え──醜悪な現実には更に醜悪な妄想をぶつけろ──コントロールが消えるまで──言語線を切れ! 時間線を切れ! 現実スタジオ急襲

ウィリアム・S・バロウズ『ソフトマシーン』より(大ウソ)

 

この俗悪なゲス文章をしたためるにあたり、とりあえず以下の連中に謝辞を送りたい。

まずは、この腐った国と時代にはお似合いの、たぐいまれなゲス事件を起こして我々を楽しませてくれた麻原彰晃とオウムの信者たちに感謝する。江川紹子を筆頭に、正義の味方役をつとめてくれたオウムバスターズに感謝する。假谷さんや坂本さんなど、事件を盛り上げてくれた被害者の皆さん、世界に誇る日本の警察に感謝する。中沢新一島田裕巳、そして陰ながら事件を育てた宗教法人法の存在にも感謝する。最後に、日夜事件を追いかけて我々に楽しい娯楽を提供し続けてくれた全ての報道関係者達に最大級の感謝を捧げる。拍手! パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!

自称鬼畜派ゲス視聴者代表村崎百郎(工員)

ゲスメディアに栄光あれ!

俺は鬼畜系ゲス人間ナンバーワンの村崎百郎だ。

このすかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き落とすまで、日夜卑劣で矮小な下品行為を働いている超最低の屑野郎である。最近は破壊活動の一環としてゲス文章の執筆も始めたが、日頃お上品なメディアのたれ流す情報を素直にありがたく受け取っている連中には、これから俺が書くことは読むに耐え難いと思われるので非常識と血圧に自信のない奴は読まない方が賢明だろう。

実際マスメディアなんてうわべばかり上品で、「正義」と「善意」と「良識」をはらんだ主張しか流せない、善人用の粗悪なクズメディアである。こんなものばかり素直に見たり読んだりしてりゃあ、良識に基づいてしかモノが考えられない善良な人間ができあがるのも無理はない。でも「これは良識という名の洗脳だ」なんてツマンネエ事は言いっこなしだぜ。そんなものは腐った心と豊かな妄想力があれば楽にクリアできるんだからな。

上品ぶって偉そうに正義を語り、それを正しいと信じて疑わない全てのメディアを俺は親しみを込めて「ゲスメディア」と呼んでいる。TVのワイドシーにチャンネルを合わせるとき、俺は夜の公園のアンモニア臭で目が痛くなる汚い公衆便所の中でひとまずいて、糞尿にまみれた大便器を覗きこんでいるような至高感につつまれる。その中からは見るのもけがらわしい太くて臭い大量の大便がもの凄い勢いで逆流して俺の体を包むんだ。糞尿の気持ち悪ささと暖かさ──俺はそんなゲスメディアの下品さが死ぬほど好きなんだよ。

 

ゲス視聴者

さて、俺が言いたいのは、この最低の事件でゲスなのは何もオウムやマスコミだけじゃねえって事だ。いかにご立派な事件やメディアや意見があろうが、見てる側の人間がとことん腐りきっていれば、たとえば聖書だってズリネタになりうる事を、これから俺が偉そうに分かりやすく説明してやるってんだよ。有り難く思いな。

今度の事件では、早いうちから各マスコミで報道や捜査のあり方をめぐって様々な議論がなされてきた。しかし、それらの議論でも、報道を受けとる側の視聴者の問題が言及された事はほとんどない。もちろん、それは視聴者の意識調査や読者アンケートの話じゃないぜ。俺も含めて、事件報道を高見の見物で楽しんだ視聴者側の腐った心や意識の問題が語られた事なんかまるで無かったって言ってるんだ。無理もない。所詮「お客様は神様」だもんなあ。

たとえばTVでは視聴者批判はタブーだ。ワイドショーでも、ゲストに「こんな番組見てる方がバカだ」なんて発言があったら、超特急で局に文句の電話が来るからな。断言してもいいけど、TV局にそういう文句を電話してくる人間の人格品性根性の悪さは相当なもんだぞ。だいたい俺も含めて、まっ昼間からTV見てる奴、それもワイドショーなんて、どう考えても馬鹿なんだし、自分をかえりみない馬鹿ほど批判されればムキになって怒るものだ。何様のつもりか知らんが、趣味も特技もないヒマこいてつまらんプライドばっかり高い馬鹿、冷静に自分の批判ができないクズ。自分の事は棚上げして他人の成功や性交が妬ましくてたまらないカス。向上心もないくせにやたらに正義を主張したがるあほう。対岸の火事が大好きなゴミ。自分の人生に何の展望もないクソ。これら超一流のクズたちの妬みやひがみの心が支えるゲス番組の素晴らしさは、あまりに醜悪すぎてとても言葉では書き尽くせない

俺はワイドショーを観ていると、分刻みどころか秒単位で自分の品性や根性がもの凄い加速ですさんだり腐ったりしていくのを実感する。体も心もケガレっぱなし。このマイナスの快楽は何物にも変えがたいものだ。自分も含めた日本全国の多くの視聴者が、刻々と下らない人間に成り下がる瞬間を共有する喜び……ゲスメディア万歳だ。

 

人知れず行われる鬼畜オナニー

では、視聴者がどれだけゲスかの例として、俺の鬼畜行為を紹介しよう。

俺はこの前の阪神大震災で震災報道をBGMにして、アナル&スカトロ専門誌『お尻倶楽部』を片手に鬼畜オナニーを楽しんだ人間のクズである。被災情況を告げる報道陣の非痛な叫び声やヘリコプターの爆音が豊かな臨場感を醸し出してオナニーに花を添えた。さらに夜になっても燃え続ける神戸の夜景にもある種の「美」を感じる始末。いやあ、これがいいんだ。興奮しすぎていつもの一・五倍は精子が流れたね。全く俺はあきれた「タナトス小僧(©中沢新一/たしか今、鬼畜行為の言い訳に中沢新一を引用するのが流行ってんだよなぁ)」だ。

こんな話を聞けば、被災者でなくとも腹が立つだろう。しかし諸君、安心してくれ。俺は反省するどころか更に卑劣なことに、社会生活を送る上ではそんな鬼畜なそぶりは全く他人に見せず、仕事先やご近所で震災の話になると眉をひそめて「本当に大変な事ですね、被害がこれ以上大きくならなければいいんですが」とか言いながら募金箱に小銭を入れる善良な一般小市民なんだ。家の外での行動だけは「誰が見ても普通の人間」をやってるわけだ。正直者には信じられないかも知れないが、鬼畜人には思ってもいない事をしゃべるぐらい何でもないのだ。外面は上品にしてその内面はドロドロというのがゲス人間のライフスタイルである。

酷いか? 酷いと思うかね? 俺も本当にそう思うよ。こんな人間は許せないし是非とも糾弾すべきだろう。しかし善人諸君、現実問題として、こういうのはどうやって告発し、どうやって裁くね? 本人が言わなきゃ発覚しない事だし、この場合も「ありゃあ嘘です。ぼかぁ知りません。たまたまオナニーしてる時にTVのスイッチが入ったままだったんです。藤田リナちゃんのけつの穴見て興奮しただけっすから」って言われたら、あとは自白剤でも打つしかないんじゃない? 妄想罪なんて罪が刑法にあるかね?

つまり、この世には犯罪とは言えないが、並の犯罪以下の行為や妄想なんて人知れずいくらでもあるってわけだ。法や道徳では取り締まれない数々のゲス行為がね。

たとえば、俺は昼のニュースや夕方のニュースを街の定食屋のTVで見る。震災を報じた新聞を読みながら飯を喰う。飯を喰いながら震災報道を見るという行為は、人の不幸を飯のオカズにしているようなものではないのか? しかし、こういう行為を不謹慎だと発言する奴はまずいない。そして、ブラウン管の向こう側からアナウンサーが「おい! 飯喰いながら見ていいニュースじゃねえぞ! 正座して見ろこの馬鹿!」なんて怒鳴ったり、新聞記者が記事の中に「俺の記事をみそ汁すすりながら読むんじゃねえ! この低能読者野郎!」なんて書く日は永久に来ない。

実際に飯を喰いながら震災報道を見た人間は全国で数千万人以上いるだろう。安全圏でメシを喰いながら見るテレビの番組はやっぱり娯楽である。どんなにニュースを流す側が「報道」の意識を持って番組を制作しようが、見ている側が飯喰ったりオナニーしてたら、やっぱりそれは娯楽番組なんだ。そこにニュースとワイドショーの区別なんてない。人の不幸が受取りようによっちゃあ娯楽として楽しめるってのも現実なんだ。

くれぐれもジャーナリスト達は、メディアの受け手の妄想力をナメるなよ。そこに悪意を持ったゲス視聴者がいればどんな悲惨なニュースもお笑い番組だ。下品か上品かなんて視聴者の決める事なんだ。「神よ、罪深い私をお許し下さい。私は今まで、聖書を読んでみだらな妄想に耽りこみ、通算二千九百八十七回の自慰を行い、その全てにおいて完璧に射精をしました。そして今後もそれをやめるつもりは毛頭ありません。私は私達の罪のために十字架にかけられたあなたを想うと股間のうずきが止まらないんです! いいか、おれはてめえの腰に巻いた布を剥ぎ取って、そのかたくすぼまった上品なけつの穴に一発キメてえっていってるんだよ! アーメン」ってな。

 

ゲスが見たオウム事件

さて、こうしたゲス視聴者の視点から見た今回の事件はどんなだろう。

何故かこの事件が盛り上がる半年も前から、ワイドショーはゲス事件報道で盛り上がりまくりだ。順番がでたらめだが、ざっと振り返っても、筑波の医師による母子殺人事件、犬の調教師の連続殺人事件の発覚、品川駅構内での医師射殺事件、中学生によるいじめ自殺事件、阪神大震災と魅力的な事件が次から次へと続き、ワイドショーのボルテージは上がりっぱなし。お安い愛憎劇と、悲哀に満ちたお涙頂戴エピソードがテンコ盛りの感動ヒューマン・ドキュメントにアンニュイで醜悪なゲス国民どもは狂喜乱舞。更に麻原の逮捕で終わりかと思ったら、つい先日も十六年ぶりのハイジャック事件があり、素人のわりには芸のある犯人がドライバー一本で十六時間も日本中を沸かせてくれた。そして、ゲス国民はあい変わらず自分に被害の及ばない範囲での更に悲惨で深刻な事件の到来を待っている。TVがあれば電気代だけでこれだけ楽しめるんだから良い時代になったもんだ。

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「ワイドショー」という呼び名でくくられる汚穢のような番組群は、可哀想な事に常に視聴者から馬鹿にされながら見られている。明らかに「くだらない」「見ると心がすさむ」「低レベル」「文化の恥部」などとさげすまれ、それでもそんな番組がいまだに存在しているのは、実は見ている視聴者がそれ以上にくだらないからにほかならない。もちろん、俺も含めてね。

ワイドショーを作っている連中は案外と馬鹿でもくだらなくもないんだろう。それこそプロデューサーもディレクターもオウム幹部に負けず劣らず、高学歴出身者が揃っていたりするしな。視聴者に「まあ、何てくだらないのかしら」とほんの少し優越感を持たせつつ番組を見せるというテクニックは素晴らしいとしか言い様がない。視聴者は番組が自分よりくだらなくて馬鹿にできるからこそ安心して見ていられるものなのだ。ワイドショーが真に啓蒙的で教育的でどこへ出しても恥ずかしくないテーマを扱うなら、それはもはやワイドショーではないし、大衆の支持は勝ち取れない。だから「視聴者に馬鹿にされてもいい。視聴率が取れればそれでいい」という製作者サイドのプロ根性は大したもんだ。それが出演者にはギリギリの所で意図的に伝えてないのか、本気で勘違いしているのか、ワイドショーの出演者には一応プライドがあるようである。たとえば、リポーターは自分が追いかけている芸能人にハエ扱いされたり覗き趣味を批判されると本気になって怒る。視聴者は「まあ、ゲスのくせに自分がゲスなのがわからないのかしら」と、ささやかな優越感を持ってその事態を楽しめる。実のところ、それもリポーターの演技なのかもしれないが、とにかく視聴者はワイドショーを見ることで、優越感を持ちながら自らのくだらなさをほんの少し忘れる事ができるのだ。見ていても自分の現状は何一つ変わらないし、ただ見ることが時間の無駄にしかならないのに、なぜかワイドショーが視聴者の心を引きつけてやまない理由はここにある。この麻薬的現状逃避誘発アイテムに「フリーメーソンの愚民白痴化計画だ!」などという超国家的陰謀妄想を感じるのも自由だが、それにしても、絶えず自分以外の何かを馬鹿にしたり見下したりしなければ正気を保てないほど腐った人間どもってカワイイよねえ。そんな中での今回のオウム事件は、鬼畜視聴者にとってまさにゲス犯罪のオンパレードで、報道されるゲス記事は一行も読み落とせないほど楽しみのつまった「おもちゃのカンヅメ」だった。

まず麻原の顔がなんとも味わい深くてイイ。ゲス顔合格。原始仏教をベースにチベット密教やらハルマゲドン思想を取り入れたごたまぜ教義のくそダサさも合格。「教祖と交わればステージが上がる」とかいうムシの良すぎる教義も合格。不殺生を基本にゴキブリやハエ、カも殺さない慈愛に満ちた不潔さも超合格。特にこの非衛生的な所はいいねえ。「汚れきった俗世を捨てて、更に不潔で汚らしいサティアンの中に身を投じ、崇高な精神を学び修行する」──う~ん、なかなかの本物指向じゃないか。俺がメディアを通して受け取ったオウムの修行のイメージは、「グラグラに煮立った肥溜の中に首まで漬かってマントラをとなえ、底まで沈んで〈汚穢クンバカ〉を行う」って感じなんだけど。これこそ尊い修行者の姿ってもんだよなあ。

その他にも、ゲス合格物件は数え上げればきりがない。歌、踊り、ホーリーネーム……どれもダサくてクサくて正視できないくらいの超一級のアイテム揃いだ。

わけても一般のゲス視聴者どもにウケたのは「エリートの転落」って物語なんだけど、これは「あの××なひとが何故あんな? 」という意外性の物語とペアで、昔からワイドショーでバカウケしやすいパターンなのよ。でも俺はあんまりこの方面の物語には魅力を感じないので、これに関しちゃここではパスだ。まあ、こんな宗教にハマる奴がエリートだなんて到底思えないけどな。まあ、とにかく、こいつらのやることは何から何までおマヌケすぎて腹に力が入らないんだ。脱力感一二〇%。

こんなふうに、俺はオウムについてはかねがね無責任な好感を持っていた。だからあれだけ凶悪な犯罪を犯しても、ギャグとして享受できる部分があるんだろう。ヤクザみたいに殺人を「バラす」とか「タマを取る」なんて言わずに「ポア」の二文字で済ませちゃう。「ポア」って凄い語感だよなあ、全てがおマヌケにパアになる感じがして可愛くてたまらないぞ。同じ殺人でも「人を殺す」というと悪い事したような気になるけど、「ポア」なら可愛いからまあ、いいんじゃないって事になるのか? 殺す側が罪の意識を感じたり持ったりしにくいように、殺人者の精神衛生を考慮して、わざとあんな可愛いコトバを使っていたのかな? 物事をそこまで考えて、わざと他の分野もあんなにダサく見せてたとしたら大したもんだ。もちろん、そんなに知性的で戦略的な連中とは思えないけどね。

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実は、ゲス人間たる俺には正義感も倫理感もほとんど無いので、「何故若者が宗教に走るのか」とか「何故エリートがオカルトに? 」なんて、文化人がまじめに考えるようにはオウムについて興味が持てないんだ。宗教だろうがマラソンだろうが、走りたい奴は勝手に走ればいい。ゲス人間ってのは基本的に「他人が死のうが生きようがどうでもいい、できればみんな苦しんで死んでしまえ」って思ってる人間のクズだから、わざわざ宗教に走るような善人どもには共感などしないのだ。オウムに対する俺の正直な感想も「何だよ、あんなもん、教義なんか聞くまでもない。教祖の顔見りゃ分かるだろ馬鹿」ってなもんで、あれを救世主とあがめる連中の事なんか、まともに考えるだけ時間の無駄。自らの意志を放棄して、自分の人生を他人に預けるなんざ自殺もいいとこだ。そういう意味で、俺はオウムの信者を自殺して死んだ人間の屍体と同等の目で見ている所がある。死んだ人間は戻らない。だからあいつらがどうなってもいいじゃないか。頼むから家族との面会は恐山へ行ってやってくれ、死霊に街なかをうろうろされても迷惑だからな。奴らには納得の行くまで好きに修行させてやればいいんだ。んでもって死霊が懲りずにまたサリン撒くとか悪さをしそうになったら、「除霊」と称してきっちり皆殺しにすりゃあいい。どうせ、ああいう奴らだから社会に戻っても、せいぜい騙されて利用されて死ぬだけだろうしな。この世界は祈れば皆がもれなく幸せになれるようなしあわせな場所ではない。あんな教団について真面目に考えるのは無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄時間の無駄。

ただ、善良な人間どもの「世の中を良くしよう」とか「自分達が世界を救うのだ」などという善意の妄想を集めてうまく利用し、いとも簡単に罪の意識なしにゲス犯罪を起こさせるという麻原の悪魔的な所業は評価に値する。俺もゲス勲章をあげちゃおう。多分、この事件は後々まで語り継がれるだろう。多くの人間が麻原の研究書を書き、麻原の名はニセ救世主の代名詞として定着し、数百年後の日本史の教科書には写真入りで載っているかも知れない。

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国民は本当に怒っているのか

国民のオウム事件に対する反応も、反社会的な行動への怒りばかりじゃないのは明白だ。どのメディアも書かないだろうからここへ書いておこう。「自分に関係のない喧嘩と川を隔てた対岸の火事は大きければ大きいほど良い」という言葉が江戸時代あたりにあったはずだが、今も国民は心の奥底にそういう暗部を確実に持っている。少なくとも俺レベルの鬼畜はちゃんと意識化している。だから、たとえば北区や足立区の町工場の工員には、「霞ヶ関みたいなハイソで上品な場所にサリンが撒かれて、自分と何の関係もない偉そうな一流サラリーマンどもが何人死のうと知ったこっちゃねーんだよ」ってな風潮があるのをあんたらは理解できるか? 育ちの良い善良君や良識ちゃんは信じたくないかもしれないけど、人間ってのは恐ろしいことにつまんねえ事でとっても醜くヒガんだりもするんだ。更に心を鬼にして酷い事を書こう、「何もテロで死んだ奴がみんな善人だったとは限らない」という考えが頭をよぎったことのない奴はいないのか? 「いまのお気持ちを一言でいうと? 」という、リポーターの「見りゃあ分かるゲス質問」とともに画面に映される悲しみの遺族のコメントを聞くと、被害者は常に皆良い人間だったかのように語られるが、そんなもんは実際どーだか分かったもんじゃない。公正な裁判でも、被告の親族が証言するアリバイは無効になるだろうが。TVの映像を見ただけで被害者や遺族に一方的に感情移入するのは危険だよな、人権派良識派の皆さんよ。

ああ、それにしてもつまんねえ建前でモノを言うのはホントに馬鹿馬鹿しくて楽しいな。

こんな事書いてるとお前はオウム擁護派かって言われそうだが、それは大きな勘違いだ。俺はオウムもお前らもみんな大嫌いなんだよ、そこんとこヨロシクな。

俺にはオウムに対して、サリン事件の犠牲者がらみの怒りはほとんどないが、もっと別の強い恨みがある。それは連中のテロのおかげで地下鉄はもちろん、首都圏のJRや私鉄各駅のゴミ箱が不審物警戒で使用中止になって、通勤時の楽しみだった新聞雑誌の拾い読みが困難になったことへの怒りである。これについては俺は本当に頭にきている。この件だけでもオウムの信者なんて皆殺しにしてもあきたらないと思っているぐらいで、それは多分、拾子(拾った雑誌を一冊百円均一で売って生計を立てている人々)の皆さんも同じ気持ちだろう。駅のゴミ箱の無期限使用停止なんて、最悪の営業妨害だからな。

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逆にこの事件に感謝している奴らもいるぞ。サリンテロが首都圏の住人達に与えた影響はかなり深く、人一倍心がナイーヴな人や、精神科や心療内科などの病院に通院している人たちに「サリンが自分の部屋に撒かれるかもしれない」という新種の不安を与えてしまい、怖くて夜も眠れないという悩みを相談する電話がカウンセラーや精神科医の所へ殺到したという。この不安は一人暮らしの女子大生やOLにも同様にふりかかり、俺の知人にも「オウムが襲ってくるような気がして、一人じゃ怖くて眠れないの」「じゃあ、ボクが君のマンションに行ってあげるよ」とちゃっかり女の部屋に泊まってサリンならずサーメンを膣内に撒いてきたというたわけ者がいる。そいつはオウム様々だと笑いが止まらない様子だった。こんなふうにオウム同棲とかサリンカップルと呼ばれる世紀末現象が続発中だ。(ホントかよ?)

だから、正義とか善悪の対立構造だけで全てを説明しようとする報道姿勢はもういかげんにしろって事だ。マスコミもテロはテロとして断罪し、それによって派生した全ての事象を検証し、認めるものは認めて評価してやれよ。「オウム事件が取り結ぶ男女の愛」──トレンディードラマの良いネタにもなるぞ。警察は国民から見直され感謝され、残業が増えて収入も増えてホクホクだ。治安維持法も復活させ易くなったし、政府もニコニコ。この程度のマヌケな陰謀なら逆に国家権力を増強させるのに利用できるから万々歳だ。いいことずくめじゃないか!やっぱり麻原って救世主かも?

 

「正しい意見」は魅力がない

今回の報道の中でも「オウムの側の人権」や「正しい捜査の必要性」「警察の違法捜査」について厳しく発言していた良識派の文化人やらジャーナリストが何人かいた。民主的に考えれば彼らの主張は全く正しいし、冷静で立派な意見だと思う。しかし......悲しい事に彼らの意見は正しいが故に鬼畜な視聴者には退屈なのだ。今回の事件では、彼らの主張は残念ながら俺の経験からいえば、強姦時にギャアギャアわめく女を殴り倒して下着を剥ぎ取り押さえつけ、さあこれからチンポをぶち込むぞとイキり立ったサオの亀頭の部分を膣の入り口にあてがったときに、女に泣きながら「お願い、やめて」とか「鬼、畜生、一生恨んでやる!」と言われた程度の説得力しか感じられねえんだよ。腐った人間には正論は通らないし、悲しい事に正しい意見がいつもみなさんに支持されるとは限らないわけだ。

これは俺が小学五年生の頃の事だが、となり村で火事があって、全焼した家の子供にノートや教科書を送るカンパを集めようという話が学校で持ち上がった。担任(五十近い男)の先生からその話があった時、よせばいいのにクラスで一番活発なA子が手をあげて「くせになるから止めたほうがいいと思います」なんて言うんで普段温厚な担任はもの凄い顔して「おい!お前!何だって!いま何て言った? もう一度言ってみろ!」って見たこともないくらい凄い剣幕で怒り出しちゃった。そん時は俺もキモを潰したねえ。まあ、被災のお見舞いに味をしめて二度も三度も火事を出す馬鹿がいるとは到底思えねえが、確かに理論だけはもっともな話なんだよな。人を頼らないように強く生きて欲しいから、あえて寄付しないというわけなんだろう。しかしこの意見は支持されなかった。俺は阪神大震災の後で、コンビニのレジに置かれた募金箱を見るたびにこの話を思い出したが、もちろん口には出さなかった。TPOをわきまえたオトナの鬼畜だからね。

 

ナイスミドル山崎哲

それにしても、今回そうした良識派の文化人の中に、俺の大好きな劇作家の山崎哲がいたのにはビックリだった。いつのまにかワイドショーのコメンテーターとして奥様方には人気の評論家になっているらしい。しかし、山崎の本来の仕事は「犯罪フィールドノートシリーズ」と言えば聞こえはいいが、要は猟奇事件マニアが人の不幸を芝居のネタにしてメシを喰ってるだけの事である。しかも山崎は誠実によくよく考えてから芝居を作るもんだから、世間がその事件を忘れかけた頃にやっと芝居ができあがり、その公演は事件を忘れたい人にも無理やりイヤな事を思い出させるという鬼畜効果があって実に楽しいものだ。そういえば、バカ相手にバカな笑いしか取れない猿以下の劇団が多い中、ハードな社会問題ばかり扱っている山崎の「転位21」は小劇場劇団の中でも出家主義劇団っつー感じで、集団の中の個々人が真面目で純粋な連中に見えるという点でオウムに近いかもな。

山崎の芝居はテーマが重くて、普通の人が見てるとホントに痛々しいんだろうが、俺のような鬼畜にとってはテーマが重ければ重い程、話が悲惨で救いようがなければない程、爆笑したくなっちゃうだけで、いつも客席の皆さんがすすり泣く最後のシーン近くで笑いをこらえるのが大変なんだ。まわりの客が泣けば泣くほど可笑しくてさあ。ホントに「隣の不幸は鴨の味」だよねー。猟奇犯罪マニアには山崎の芝居は超おすすめのゲスアイテムだ。

しかし所詮は小屋メディアの悲しさで、山崎の芝居は善人どもの「お涙頂戴娯楽」には適当だが犯罪の予防効果は全く期待できない。何故ならあんな芝居を見に来て涙を流すような善良人どもに猟奇犯罪を起こす根性などあるわけもないからだ。まあ、そんな風に現実には全く役立たずである事が「高い芸術性」ってやつなんだろうけどな。そういう鬼畜芝居野郎が正論を語るんだからこれはもうハタで見てると最高のギャグなんだ。ただ、その後雑誌で一連のオウムの犯罪を「あれは犯罪ではなく革命」と評価してるのを読んだ時にゃあ涙が出るほど笑っちまったぞ、こいつまだ革命にロマン感じてるんだなってね。いや~ロマンだねえ~何の関係もないんだけど、なぜか「戦没者遺骨収集団」っていうのを思い出しちゃったよ。昔、大学生の友達がそういうのにふざけて応募して、運の悪い事に当たってしまい、しかたなく爺さんや婆さんだらけの団体にまじってサイパンだかインドネシアだかにタダで一週間も遺骨収集旅行に行ったのがいてね、みんな現地に行くとわんわん泣いちゃうんだけど、そいつだけ悲しくも何ともなくて困っちゃったって話なんだ。俺もそんな団体に一人部外者でまじっちゃって爺さんの号泣をなすすべもなく見ィ~てェ~るゥ~だぁ~け~って感じだよ。いやあ、俺もロマンの分からない男じゃないから山崎の気持ちも分かるんだけどねぇ~、「革命」と「強姦」はいつの時代もおとこのロマンだからなぁ~。でも「革命」だろうが「犯罪」だろうが人殺しは人殺しだ。女性器と呼ぼうがボボのと呼ぼうがおまんこはおまんこだし、同じクソを大便と呼んでも一本糞と表現しても、それが臭えのは変わらねえんだよ。それにしても、オウム事件を語らせればオウムよりもその人間の事が見えてくるから面白いよな。俺は見た通りゲスゲスのゲス野郎だ。

革命なんてインテリの考えそうな事だけど、左翼の学生運動でもオウムの出家信者でも実社会でろくに働いた事もないような連中に世の中なんか変えてもらいたかないね。俺は肉体労働者なんで口ばっかりのインテリは大嫌いだぜ。だいたい、いまだに時代遅れの立て看書きと役立たずの花火作りに終止している左翼にゃあ体制を変革する力も、民衆に支持される魅力も皆無だろう。左翼も昔はヒーローだったんだろうが、バブル以前の八〇年代初頭には、すでに少年漫画誌じゃ左翼ゲリラは悪役で登場してたんだぞ、ヤクザや銀行強盗、下着泥棒なんかと同格でな。

まあ、夢見るおっさんの懐古趣味を批判しても始まらないからこれくらいにしとくけど、それでも山崎は非常に重要な事も発言している。それは「正義の無根拠性」についてである。

 

「正義」って何だ?

だいたい正義なんていうあやふやな物は「勝てば官軍」で、勝った側だけに存在が許される代物だ。

今回はたまたま反オウムが勝っただけで、「反オウム側が正義」だったから勝ったというものではない。「反オウムがオウムに勝った」から正義を主張しているだけの事なのだ。

これが仮にオウム側が日本全土を制圧し、日本が「神聖太陽真理国(仮)」になっていたらどんな事になったろう。まあ、絶対にそんな事はこれからもないだろうが、信者たちの無念をくみとって俺がかわりに妄想してやろう。

まず、国民は全員強制的にオウム真理教の信者にさせられ、全財産のお布施を強制される。その上で修行の強制がはじまるのだ。教団に逆らう者はどんどんポア。街も様変わりするだろう。ネズミ、ゴキブリ、ノミ、ハエ、カを殺す事は禁止され、国中が不潔になっていく。もちろんアースや金鳥などの製薬会社はお取り潰し。全ての製薬会社に協力させて巨大サリン製造プラントを制作し大量のサリンが作られる。核兵器の研究も進められ、同時にプラズマ兵器や地震兵器も国をあげて真面目に研究。ハルマゲドンに備えての富国強兵政策が強硬に進められる。国民の衣服は全て階級別のサマナ服に限られる。そのさい茶髪、日焼け、ボディコン、ミニスカ及びTバックは全て禁止。装飾、化粧も全て駄目。ディスコ全廃。カラオケボックスはそのまま個室修行兼拷問部屋に。既成の音楽は全て禁止。麻原を讃える歌以外は全て禁止。CDは全て叩き割られる。芸能界も解体、アイドルは、秋吉久美子あべ静江みたいな教祖のお気に入りを除いて各幹部に支給される。放送局は国営真理放送のみに制限され、「ショショショ、ショーコー!」が国歌になって早朝と深夜には必ず放送される。もちろん国民の睡眠時間は四時間のみ。国民全員にヘッドギアの装着が義務付けられる。福祉問題も、無駄な老人をどんどんポアしちゃうので一気に解決だ。とりあえず六〇歳以上の老人の皆殺し......いや、救済計画が始まる。食事も肉禁止。松坂牛解放。肉の万世、吉野屋も解体。オウム食の配給制がはじまる。家は全てサティアンになるので「第十二万五千八百五十六サティアン」などという長い名前のものが出てくる。小学校から大学まで全ての教育制度が改正され、授業は教義の学習とヨガの修行以外何もなくなる。入試は空中浮遊と水中クンバガ、および熱湯入浴の実技が中心だ。

そして問題は、そうなった時の非オウムの人間たちの処遇である。既成の宗教団体は全て解体。各教祖は舌を抜かれて首輪をつけられ四肢を切断され、人犬(◎バイオレンス・ジャックby永井豪)として皇宮で飼われてしまうだろう。奈良と鎌倉の大仏は顔の部分を麻原に改造してそのまま国宝だ。皇室の事はとても書けない。オウムに肩入れしてきた島田裕巳中沢新一は文部大臣になったり法務大臣になるんだろうが、これまでことごとくオウムに逆らってきたオウムバスターズたちは、簡単に殺してはつまらないので時間をかけて凄惨なリンチが行われるだろう。見せしめのために公開処刑を行うに違いない。特に女性である江川紹子さんに対して行われるであろう破廉恥で酷い行為の数々を思うと、SM好きの鬼畜な俺はチンポが勃起してしごかざるを得ない。たまらんので妄想はここまでにしておく。本当のところは、まだまだこんなもんじゃないだろう。

オウム側が勝利した時に、現在メディアでオウムを糾弾し、好きな事を言っている文化人たちは、はたして今と同じ事を堂々と発言できるだろうか? やはり大部分の人間が命惜しさにオウム真理教を支持するに違いない。そして一斉に革命の成功を賛美し、麻原を讚えるのだ。もちろん、俺もそうなればまっ先に入信して修行にはげむよ。「長いモノには巻きつけ!」はゲス人間の基本姿勢だからな。

 

どこへ帰る?

反オウムの弁護士たちがワイドショーで出家した信者に「帰ってらっしゃい」と呼びかけるのは本当に気味が悪かった。山崎哲が「僕はどっちにも救われたくない。放っておいてほしい」と言うのはもっともだ。冷静に見れば、「オウムと反オウムのどちらかが正しいか」なんていう図式は成立していない。正義を愛さない鬼畜な俺には、この対立はオウムと反オウムという二種類の狂信者が争ってるだけにしか見えないのだ。オウムの方はとても単純でわかりやすい狂信者だが、反オウム側は「正義」とか「良識」という一番やっかいな妄想にとりつかれた根の深い狂信者である(もちろん俺は正義感も倫理感もない最悪のキチガイだ)。

仮に百歩譲って反オウムの主張するように社会に帰れば信者にはどんな良い事が待っているというのだ? だいたい「真に正常な社会人像」なんてあるのか? たとえばそれは、国を愛し、天皇陛下を敬い、日本国の国民であることを誇りに思い、国旗を掲げ、君が代を涙ぐんで熱唱し、お父さんお母さんを大切にし、政府与党を熱烈支持し、先の太平洋戦争での日本軍のアジア諸国進出は遺憾に思うが謝罪はせず、税金はごまかさず、立ち小便はせず、一流国立大学を出て、官公庁に勤め、野心は持たず、決して目立たず周りに合わせ、ホモらずレズらず、適当な年で結婚し、性交は正常位で週に三回迄、子供は二人でやめといて、浮気はなるべくしないで妻を信頼し、仮に浮気が発覚しても妻には遺憾に思うが謝罪はせず、風俗通いなどできるだけせず、子供との触れ合いを大切にして、時々ボランティア活動をしたり、町内会にも顔を出し、ご近所へのあいさつも忘れず、争いもせず、とにかく何があろうと遺憾に思うが謝罪はしない……そんな人間に誰がなりたいと願うかね?

かといってオウムにも未来はない。だいたい数ある宗教団体の中から、よりによってあんな教団を選ぶような連中だ。どんなに一流大学を卒業していようが、真に有能だなどとは到底思えない。騙されやすく無知で愚鈍なつまらん奴ら──つまりは人間のクズである。この先、生きていても碌な一生は送れないだろう。そんな連中は社会に帰って来るだけ迷惑だ。どこか場所を与えて好きなだけ修行させてやるのが寛大な処置というものだろう。適当な無人島でも用意してやれよ。そこで絶滅するまで放っておきゃあいいんだ。理論上はあいつら禁欲して妻帯しないはずだから人口はどんどん減るはずだし(でも、きっと実際はどんどんつがって増えちゃうんだぜ。そういういいかげんな奴らだよ)。

 

島田裕巳は無罪だ!

はっきり言ってゲス人間の俺にはこの先の事件展開なんてもうどうだっていいのよ。それよりも一辺の連中の責任のなすり合いなんかの醜さがこれらの見どころだね。

当面注目すべきは、いまや事件の共犯扱いにまでされているオウム擁護の宗教学者だ。しかし俺は何が正義かなんてのはどうでも良い事なので、彼ら無責任に擁護したい。

どちらかといえば強制捜査の当日までオウムを擁護していた島田裕巳が一番罪深いらしくマスコミもさかんに叩かれてるけど、こいつは俺にとって学者としても人間としても興味のないどーだってい存在だから特に感想はない。でもついでだから擁護してやろう。

全くマスコミの連中は、昨年暮れにあれだけ盛り上がった大河内清輝君の自殺事件をきっかけにしたいじめの問題をすっかり忘れているようだ。よく見てみろよ、島田は顔からして可哀相だぞ。学者だからいいけど、こんなのが下町の工場に勤めた日にゃあ、初日の昼休みには先輩連中に倉庫の隅で寄ってたかってサンドバック代わりにタコ殴りにされるだろう。いくら殴りたくなるような顔をしているからといって、いじめていいなんていう無茶苦茶な話はどこにもないんだ……なんてのは擁護にも何にもならねえな。しかし島田がスケープゴードにされやすい顔をしているのは事実だから困ったもんだ。今回「いじめられ役」という大役が島田に回ってきたのは道を歩いていて事故にあったようなもので、まあ、適当に頑張れよとしか言いようがない。でも、あれだけ責められても一言も謝らないのは日本人らしくて立派だから評価してあげよう。島田は今後も一切この件で謝る必要はないし、どうしても謝罪が必要なら、「遺憾に思うが謝罪はせず」という便利なアレを使えばいいんだ。日本政府も良いお手本を示してくれた。これからは国民のみんなが見習うぞ。あれは子供たちの教育にもとっても良かったぜ。

島田がオウムをどれだけ擁護しようとも、信者に成るか成らないかは最終的に島田が決めるんじゃなくて、悩んでる本人が決めるんだから、島田を責めても筋違いというものだ。

だいたい人をオウムに入信させるだけの説得力や影響力が島田にあるのか? 先入観を捨てて、みんなもう一度頭を冷やしてよ~く考えてみろ。あんたらが責めようとしているのはただの島田裕巳だぞ! 中沢新一浅田彰ならまだしも、島田裕巳なんだぞ! 島田の文章読んでオウムに魅了されるような救いようのない馬鹿なんているわっきゃねえだろ! 仮にいたとしても、俺はそんな桁外れの馬鹿はどうなったって知らねえよ。だから島田裕巳は断固無罪だ! それでも「島田はオウムから裏金を貰っていたんじゃないか」という噂話もあるだろう。しかしこうまで迷惑をかけられては少々の金ぐらい貰って当然で、もしもまだ貰っていないのなら、尚更のこと慰謝料を教団に請求すべきである。ひたすら哀れな島田にこれ以上何の責がある?

それに、島田は雑誌に書いた言い訳の文章が実に見苦しくて良かった。あれはいい文章だ。オウムを擁護したのは自分だけはない、誰それがこう言った、ああ言ったと人間の醜さをあますところなく見せてくれたので俺はとても満足だ。もう、いいじゃないか、あんな読むに耐えないゲス文章書いたんだから、もう許してやれよ。無罪だ無罪。

ついでに書くと、本人は「一度付いたスティグマはそう簡単には取れない」(宝島社『宝島30』1995年7月号)なんて雑誌に書いていたけど、おめえ、そんな格好の良いもんじゃねーだろ。この場合スティグマ(聖痕)というよりスメグマ(恥垢)の間違いだっつーに。

 

中沢新一先生のどこが悪い?

次は中沢新一先生である。俺は、これまでオウムを無責任に支持してきた中沢新一には、以前から鬼畜学者として深い敬意を払っているので、とにかく擁護するぞ

島田裕巳が叩かれたTV番組で日刊ゲンダイ二木啓孝が、その日の朝日新聞の記事にコメントを寄せていた中沢新一について「会社が築地にあるから僕はあの地獄のような惨状を見てるわけですよ……ワンラウンド終わった今ごろになって一段高い所からこんな発言するなんて、僕は許せまんね」と言っているのを見て俺は驚いた。オイオイ二木啓孝、お前馬鹿じゃないのか? これまで中沢新一の著書をほとんど読んだり、新聞から雑誌のつまんねえコメントまで可能な限りを押さえてきた俺だから言うけど、中沢先生がこれまでただの一度だって俺達民衆と同じ立場に立って発言した事があるとでも思っているのか? 中沢先生は、普段は人の二段も三段も上の高みから、人を小馬鹿にしたような見下した文体で偉そうに高度なお話を語られてるんだぞ!

それを一段上まで降りて来て語って下さるんだから素直にありがたく思えよ。まったくそれだけでも先生のプライドはズタズタだぞ。だいたいお前、学者というものを何だと思ってるんだ? ハナから人を見下して生きている中沢先生が、いちいちサリン事件の被害者一人一人に共感したり、遺族の心の傷まで思いやるようなつまらん神経持ち合わせてるわけねえだろ馬鹿! 学者先生ってのは人類の未来を背負ってんだ。私情を捨てて冷静に大局的なモノの見方をせにゃならん。無知な人間からは冷血漢呼ばわりされて、そりゃあ孤独なもんだ。それでも学問の発展の為に心を鬼にして、冷静に情況を研究されているのだ。お前らみたいに、あったことをそのまま伝えるしか能のないジャーナリストとは次元の違う所で活動されてるんだからそれくらい配慮しろよ!

しかし、そうは言っても、今度のオウム騒ぎにおいて中沢先生は雑誌「週プレ」(95年4月25日号)で「宗教学者中沢新一は死んだ!」などと語り、明らかにヘタを打っている。何だありゃあ? ニーチェじゃあるめえに、何か悪い病気が脳まで回ったんじゃねえかと本気で心配しちゃったよ。どうせ、これで一度死んで三日後ぐらいに生き返って「今度の事件は僕の宗教学者としてのイニシエーションでした」って笑い飛ばすのがいつもの手なんだろうが、大衆相手じゃシャレにならんよ。まっ、確かに中沢先生は、基本的には抗議のハンストをたった二日であきらめたあげく、何もかもしゃべっちゃったあの脆弱な治療大臣こと林郁夫被告と同じインテリのおぼっちゃまくんであられるから、突然の事故にパニクって保身に走ってしまわれたんだろうが、そんなもん育ちがいいんだから仕方ねえよ。俺はそれでも支持するぜえ。

ただ、それにしても事件後にイキナリ豹変して露骨に麻原批判をするのは賢いとは思えないな。そんなに急に変わられると逆に「オウム被害者の会」からいくら貰ったんだろうってカングリられますよ、おれらゲス人間はホントに最低だから。

中沢先生が大きく勘違いしていなさるのは、ファンの心情を全く理解していない事だ。先生の本を全部買うようなチョー熱心な読者なら、たとえ先生が女を犯そうが人殺しをしようが、そんなもん気にしねえんだよ。ましてや雑誌の噂話であったように、女をあてがわれてオウムの提灯記事を書いていようが擁護していようが、そんなもんは先生の学者としての業績とは何の関係もねえんだから、堂々と「俺の見立てた通りだ。やっぱりオウムはやってくれた」って能天気にしてりゃいいんだよ。自分が肩入れしていた教団がサリン撒いて人殺したぐらいでイモ引いてんじゃねえよ。金貰ったり女をゴチしてもらったりしてどこが悪い。そんなもん相撲取りだって「ごっちゃんです」ってさんざんやってるぞ。研究には金がかかるんだからいいじゃねえか! それが「宗教学者中沢新一は死んだ!」なんて言って、本当に大学を辞めるわけでもねえのにヒステリックにワメくだけワメくんじゃあ、ぶちこわしだよ。だいたい、中沢先生は宗教学者じゃなくて宗教人類学者だろうに。みっともなさは合格なんだが国会の不戦決議以上に意味がねえぞ。その後の信者に向けての慈悲深いコメントも優しくて異様に気持ち悪かったなあ。鬼畜中沢新一が世間並みの良識持ってどうするんだ! まさかと思うけど本気で反省してんじゃねえだろうな? 俺は人を見下して全てを小馬鹿にしながらヘラヘラ適当にいいかげんでチャランポランで金や女に目がない中沢新一が大好きだ。そんな中沢の文章だからこそ、こっちも妙な崇拝や先入観抜きに馬鹿にしながら冷静に読めるんだよ。だいたい純粋培養されて善行しかしたことのない人間の言説なんて信用できるわけないし、そんな奴には教わりたくも救われたくもない。こんなくだらねえ事で学者を辞めるなんてとんでもねえ。今はとりあえず世間体もあるだろうから悔やんでいるフリをするのも何となく分かるが、ほどほどにして早いとこ元の鬼畜中沢に戻ってほしいもんだ。宗教がその中に反社会的なものをはらんでいるように、学習や研究にも「反」とまではいかなくても、「パンピーの生活なんか知ったこっちゃねえよ、おいらはただただ自分の研究するだけさ」ってな「非」社会的な側面はあって当然だ。だから、もともと倫理感なんか持ちあわせちゃいない中沢先生に反省しろって言う方がどーかしてんだよ。わあったか、愚民ども!

 

今後の展望

そして今回の事件がらみの今後の展開として、これから予測しうる最低の出来事の一つに加害者の家族の自殺がある。

たとえば、俺が見たところ宮崎勤の父親が自殺したニュースに反応したメディアや文化人はほとんどなかったように思う。自殺して半年後ぐらいにやっと出た話だし、阪神大震災の報道が盛り上がっていた時だったからよけいにそうだったのだろう。俺も久々に人を殺したような気分になれた。犯人の宮崎勤の罪はともかく、宮崎の親父に死ななければならない義務などこれっぽっちもなかったはずだ。彼を自殺に追い込んだものは明らかにマスコミ報道と、俺も含めたこの世界そのものだろう。多くの正義の有言無言の圧迫と良心の呵責が彼を死に追い詰めた。人を死に追い込んでも誰も罪に問われない行為がここにあるのだ。

この犯罪未満のサブリミナルゲス犯罪に乾杯だ! 正義が最も醜悪な形で現われるイイ例だからな。

オウム事件でも、すでに何人かの被告の母だの父だのが痛々しい懺悔の告白をワイドショーの取材で語っている。「すいません……本当にすみません......」あれこそワイドショーの醍醐味、見るに耐えない極悪鬼畜ショーそのものだ。取材するリポーター、取材される加害者の家族、そしてそれを見る善良な視聴者の三者がみんな傷つくナイスなゲス企画だ。傷つきあって仲良しこよし、人間っていいなあ!

                   *

確かに麻原は法によって裁かれる人間かも知れないが、そのことで麻原の両親が自殺に追い込まれなければならない理由など一片も無いはずである。だから俺は麻原の両親の事を考えると胸が痛むね。麻原が弱視という障害をかかえてこの世に生まれてきたとき、多くの障害児の親がそうであるように、麻原の両親はとても悲しかったに違いない。母親は五体満足な子に生んであげられなくてごめんねと自分の事を何度も責めたろう。父親も何とか治療する方法はないかと行く末をとても心配したに違いない。ありふれた言葉だが親が子を想う気持ちはとても強いものだ。それが障害を持った子供であれば尚更である。「この子が障害を乗り越えて、幸せになれますように」「生まれてきて良かったなあと言える人生を送れますように」と何度も泣きながら神仏に手を合わせた事だろう。伝え聞く所によれば麻原家は貧しいうえに長兄が全盲で、麻原の下の弟も弱視だったという。障害児を三人かかえた生活は、我々には想像もつかないぐらい辛いものだったに違いない。俺には、苦労に苦労を重ねた麻原の両親のこれまでの人生は「良い事なんてちっとも無かった」ようにしか思えない。その人生も終わりにさしかかってきた所でこの騒ぎである。麻原がどんな罪を犯していようが、客観的に見れば麻原の両親は「障害児を3人もかかえて貧しく暮らした、苦労の多い人生を送ってきた夫婦」なのである。こんなふうに字で書けばほんの何文字かですむが、彼らの辿ってきた苦しみは気が遠くなるくらい長く辛いものだったろう。せめて、年老いたこの二人には静かな余生があっても良かったのではないか? 善人どもなら考えれば考えるほどやりきれない思いがするんじゃねえか?

あの松本サリン事件の冤罪で騒がれた河野さんの例でもわかるように、現在も、そして今後もずっと、善良な人々が正義の名のもとに多くの電話や手紙を送りつけ、無言の圧力で麻原の両親に襲いかかるだろう。それは徹底的に正義に裏打ちされた行為である。追い討ちをかけるようにワイドショーのリポーターがマイクを片手に「世間に対してどう責任を取るつもりですか」「親として何か一言」「あんたら、どういう育て方したんだ」「遺族の方に申し訳ないと思わないんですか」とやってくる。全く、誰の何を代表して偉そうに聞けるのか知らないが、リポーターの一言一言が鋭い刃となって両親の心の傷を更に深くエグる。この非人道的な攻撃は両親が死ぬまで容赦なく止むことはないだろう。

これが笑わずにおられるか!「弱者を死に追いやる勘違いの正義」それこそオウムが我々に仕掛けたサリン攻撃と同じくらい醜悪なものではないか。くっくっくっ、ああ、たまんねえ。もう駄目だ! 笑わしてもらうぜえええええええ。救いようのないお祭り騒ぎだ。けけけけけけけけけけけけけけけけ。そうやって人殺しをして正義を守るがいい。この国は「正義真理教」の狂信者でいっぱいだ! けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ。感情の壊れている俺にはひたすら喜劇にしか見えねえから楽しいぜ! けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ。

がんばれゲスメディア

がんばれ鬼畜リポーター

がんばれ「正義と善意の人々」たち

罪は一緒に感じてやるよ、

「遺憾に思うが謝罪せず」ってな。

 

【付記】

この原稿を書いてから少しばかり時間があいた。俺の心配は杞憂で、中沢先生は見事に立ち直られ、勢力的に仕事を続け、雑誌『イマーゴ』ではオウム事件についての別冊特集に自ら責任編集をかって出、自分に批判が及ばないような本作りをするという掟破りのウルトラCを見せてくれた。俺は生まれ変わっても解脱するまで中沢先生を見習うぞ~! 『諸君』での浅田彰氏との対談でも確実に調子を取り戻している。よかった! 全然反省していない! それでこそ中沢先生だ。この姿勢は、俺も含めてオウムをダシに文章を書き散らかした宮台真司ほか大勢の論者も徹底的に見習うべきだろう。

さて八月中旬現在のオウム報道の中での断トツ最低は誰が何といっても大林高士による「八代亜紀麻原彰晃の親戚疑惑報道」である。いやぁ待った甲斐があったなあ~俺はこういう事件から遠く離れたゲス報道を心待ちにしてたんだ。これぞゲス報道の鑑だねえ。俺がエリザベス女王なら迷わず大林にピューリッツアー賞をやるね(意味不明:編集部註)。このとことん無意義で無意味な報道は、①「真実の報道」なら何だっていい。②その事で誰か傷つこうが知るもんか。③話題になりゃあ俺の勝ちだ。という「ゲス報道の三原則」を見事に兼ね備えた、冷酷非情、超ド級のスーパー鬼畜ゲス報道だ。いいお手本を見せて貰った。今後はこの姿勢もきっちり見習ってやる。

この俺の文章を読んで不愉快な気持ちになった奴も多いことだろう。ハイハイ、そういう人には、いくらでも、いつまでも好きなだけ遺憾に思ってあげまちゅからね~。バブバブ、遺憾でちゅ〜。だけど謝罪はしねえぞ。俺は醜い日本人だからな!

 












 

…以上が村崎百郎の原稿である。

履き違えた正義感で間接的に人をも殺すゲスワイドショー、そんなワイドショーを有り難がるヒマで愚劣なゲス視聴者、それまでオウムを擁護したゲス宗教学者その他諸々の有象無象に対して村崎なりに最大限の侮蔑・皮肉・敬意を表した(というより本人がゲスに振る舞うことで相対的に世間のゲスさを浮き彫りにした)最悪最低のゲス原稿であった

 

さて本書には黒田一郎の原稿も収録されている。黒田を御存知ない読者がいるかもしれないから彼の正体を説明しておこう。黒田一郎とは村崎百郎の本名である

また村崎は中卒の工員と自称していたの対し、黒田は明治大学卒でペヨトル工房*2の社員と紹介されている(なお1995年7月創刊の青山正明編著『危ない1号』には「編集協力者」として黒田のクレジットが記載されている)。

この黒田村崎はあくまで「別人」という設定であり、筆致もだいぶ異なっている。なぜこのような寄稿を行ったのか?……それは村崎百郎のパブリック・イメージでは伝えきれないものがあったのかもしれない。いずれにせよ黒田の寄稿は、村崎の寄稿を補完する上で重要な存在であることには間違いないだろう*3

導師(グル)なき時代の覚醒論

黒田一郎

くろだ・いちろう:1961年北海道生まれ。明治大学文学部卒。編集者。オカルティズム研究。某・特殊版元にて主にウィリアム・バロウズキャシー・アッカー、デニス・クーパーらポストモダン小説の単行本等を担当。

 

グルと弟子

「冗談じゃねえよな」大方のオカルティスト、精神世界愛好家、ニューエイジ、ヨガ修行者、宗教関係者たちは、今回のオウムの事件を見てそう感じたのではあるまいか。「全く冗談じゃない。あまりにも馬鹿げた話だ。こんな奴らと一緒にされたんじゃあ、たまらないぞ。だけど世間はこれで宗教は危ないとか、ヨガは悪いとか、オカルトは駄目だって非難するんだろうな。いつかの幼女連続殺人事件でロリコンの犯人が捕まってから〈おたく批判〉が起きたように、今度は〈オカルト冬の時代〉が来るんだろうか。やれやれ、全く迷惑な話だ。それにしてもこいつら一体何なんだ?  アタマおかしいんじゃねえのか」などと、あくまでも「自分はあんな馬鹿な奴らとは違う」という立場と意識のもとに「冗談じゃねえよな」と思ったことだろう。実は私もその一人である。

私などは、殺された村井秀夫が出家の際に「かもめのジョナサンの気分だ」と語ったという報道を目にして、驚きのあまり意識を失ないかけながら本当に「冗談じゃねえ!」と思い、この報道であの小説が誤解を受けないことを心底願った。リチャード・バックの名誉の為にも言うが『かもめのジョナサン』という小説は、決して読後にサリンを撒いたり人を無差別に殺したくなるようなふざけた小説ではない。読者の解釈には無限の自由があるだろうが、この小説は基本的に、かもめである主人公が、鳥として「空を飛ぶこと」にこだわり、その技術を極限まで高める個人的な修行を通して、他者理解や同胞への限りない愛情に目覚めるという素晴らしい物語なのだ。更にいえば、バックがその次に書いた『イリユージョン』を読んでいれば、「凡夫や外道を救済するなどという短絡的な思い上がりこそが人類にとって大きな迷惑であることぐらい充分自覚できたはずである。死んでしまった人間に言うのも何だが、村井さん、今度転生して出家する折には、頼むから自分の尊敬する麻原の著書をあげてくれ……などどオウムに対しては、はなから独善的に「冗談じゃねえよな」と思っていた私だが、さすがに事件の捜査が進み、多くの事実と背景が報道されるうちに、「グルと弟子」、「出家と修行」、「ハルマゲドン思想から人類救済計画に至る発想」など、決して他人事ではなく、私自身の中にも共通して問われるべき問題が数多くあることに気がついた。オウムについての私の批判は、全て私自身へ向けられる批判でもある。とても一方的にオウムを責められたものではない

私はここで反省の意味を込めて、今も自分にとってのテーマの一つである「グルと弟子」の関係について考えてみたい。これは何も宗教や神秘学の探求や、精神世界文化に限った問題ではない。拡大して解釈すれば、「人間として自己の向上を目指す者のつきあたる課題」というふうに、誰の人生にも共通する問題でもある。

高次元の精神や叡知に触れようと神秘学の道を志せば、必然的にそれらの道を指し示してくれる導師(グル=霊的指導者)との出会いが第一の課題となる。

この出会いは一見非常に困難そうに思えるが、宗教・神秘学業界(なんてものがあるのか?)では、誰が言い出したか知らないが、昔から「弟子の側に準備ができれば導師は自然に現われるであろう」などという神秘的(神秘学だからあたりまえか?)で親切な常識があった。真理を学ぼうとする者の態度や学習のレベルに応じてグルが姿を現わすというのだ。高次のグルになると、人間としての肉体を持たない者もいるらしい。声だけの「神霊」などがこれにあたるのだろうか?  いずれにしても、これは宅配ピザ以上に便利な制度で、来て欲しくもないのに毎日のようにしつこくやって来る○売新聞の拡張員とはエライ違いである。

しかしながら、この「グルと弟子」という特殊な師弟関係にはさまざまな問題がある。弟子を導き、自分も修行を続けるという、本来の意味でのグルの他にも、弟子を騙して金品を巻き上げるだけの偽グルの存在も充分可能なのだ。自分の目の前に現われたグルが正しいか正しくないか?  グルを求める人間は、自分がこれまで経験して培ってきた知性と感性をフルに働かせて、それを判断しなくてはならない。それもまた試練の一つなのだろうが、そんな危険といかがわしさがこの関係には存在するのだ。グルは時として、弟子の能力や理解を超えた行動を強制する。弟子はグルが与えた様々な試練を乗り越えなければならないのだ。修行は危険なものだったり、世間一般の常識からかけ離れたものである事も珍しくなく、教えるものと学ぶものとの間には通常以上の信頼関係を必要とする。しかし、グルへの絶対的な帰依や服従には危険が伴う。それは今回のオウムの事件でも明白だろう。一連のオウムの犯罪のほとんどは麻原本人が直接手を下したものではない。弟子(それも高弟)達が中心となって、麻原の命令もあるだろうが、かなりの部分は麻原の意をくんで自主的に行ったふしがある。おそらく高弟ともなれば、明確な命令を麻原の口から聞かずとも、別の形で命令を受け取ることができただろう。世間の常識では考えられないかも知れないが、宗教の教団などでは驚くに当たらない瑣末なことである。いや、断じて驚いてはいけない。一見ありえなさそうなことが平気で起こるのがこの業界の特徴で、それをムキになって否定したり、「奇跡だ!」などと有り難がるから話がこじれるのだ。

少し話はズレるが、誰かが空中浮揚をしようが、水中に一時間以上もぐろうが、地震や天災を予知しようが、別にあわてる必要はない。いいではないか。地球は広いし、長く生きてればそんなことにも出くわすだろう。どうしても感謝したいのなら、「いい見世物を見せてもらった。ご苦労様」と言って百円玉でも手渡せばいい

私が言いたいのは、奇跡や超常現象の真偽はともかく、人間がひき起こした奇跡と、その人間の人格、品性、人間的成熟度は別問題であるということだ。我々はこれをきっぱり分けて考えなくてはならない。

予知や予言などの超自然的な能力は、真偽はどうあれ、単なる「技術」である。それらの技術を行う人間の人間性とは区別して考えよう。特異能力に対するあこがれから超能力を持った人間=超人、救世主、我々より人間的にも優れた人間などという妄想を持ちたい気持ちもわかるが、それは間違いだ。珍しい技術を見せられる度に土下座していたら服が汚れてしようがない。これは心霊治療にしても同様だ。どんな技術を使おうが病気が完治すればそれは素晴らしいことだ。かかった医者には感謝して治療費を払おう。しかし、いちいち病気を治してもらう度に土下座されたのでは医者の方もたまらんだろう。

ことは単純だ。大道芸的な奇跡を見たら拍手をしよう。人命を救う奇跡を見たら、その人間には感謝と敬意を払おう。だが、どちらもそこで土下座して信者になる必要はないのだ。

つい、話が脱線してしまった。話を戻そう。そもそもグルとは、俗な例えでいえば、「長く難解な研究を続けている大学の先生が、予備校のバイトをしながら、将来自分の研究を引きついでくれそうな見どころのある生徒を選んで、学業のめんどうばかりか親身に私生活の相談にも乗っている」ようなものだ。その先生に一生めんどうを見てもらうのが予備校生(弟子)の最終目的ではない。「悟り」や「覚醒」という希望の大学に入学して、やがては先生(グル)を乗り越えるような研究をしなくてはならないだろう。そして自分を育ててくれた社会に恩返しの貢献もしなくてはならない。決してグルの弟子にとどまることを目指してはいけないのだ。

このへんの事情は神秘学の探求徒であればごくあたりまえの常識であり、オウムの信者たちも言葉では知っていたことだろう。しかし、残念なことにそれはあくまでも「言葉だけ」で終わったように見える。発覚した多くの犯罪や犠牲者、これだけ事実が明らかになったにもかかわらず「全ては警察のでっちあげ」と信じて疑わない信者たちの態度がそのことを物語っている。「グルと弟子の関係」はその性格上、「何でも命令を聞くだけのロボット」を生み出す可能性も持っているのだ。

しかし私は麻原が「全くの偽グルであった」と言うつもりもない。麻原のある部分は聖人で、ある部分は悪魔的であったというのが正しい表現だろう。麻原をグルとして、覚醒や悟りへ到達できるかは、弟子の側にかかっていたとも言える。偽グルについたら必ず破滅するというものでもないはずだ。いずれにしても、今回の事件はグルである麻原の側にも、弟子である信者の側にも双方に責任と問題があったと見るべきで、どちらかを一方的に責めるべき問題ではない。「グルと弟子」という関係のありかたそのものも問い直されるだろう。

実際「グルと弟子」の関係については批判も多い。中世の暗黒時代ならいざ知らず、現在であれば、図書館に行けば有史以来の記録が残された思想や宗教の教義など、大抵のものは簡単に調べがつくし、研究書も数多く入手可能だ。それらをミックスして、さもありそうな教義を組み上げるのは簡単なことだ。このように現代では神霊の導きがなくとも、誰でも教祖になって宗教の一つや二つは簡単にでっちあげられるのだ。これでは、いかがわしい偽グルが増えても不思議ではない。私の目から見ても、オウムに限らず、日本の宗教団体には怪しいものがいくつもある。世界に目を向けてもそれは同じで、人民寺院やブランチ・ディビディアンなど、カルト宗教の信者による集団自殺や組織的な犯罪事件も起きている。そうした情況からも、安易にグルを求めることを危険視する声も増えているのだ。

たしかに、情報が溢れた現代であれば、いかがわしいグルを求めずとも、独力で過去の聖人や神秘家の著作や発言を研究し、深い思索を行い、叡知の探求や人間性の向上を目指すことも可能だろう。日本でも昨年話題になったジェームズ・レッドフィールドの『聖なる予言』は、小説の形式をとってはいるが、覚醒の段階が九つの「予言書」で示された、グルの登場しない新しいタイプの手引き書である。そこで覚醒するのは、もはやグルの指導を受けた限られた特定の個人ではない。予言を読んだ誰もが、人を幸福に導く深い叡知を授けられ覚醒する。やがてその動きは世界中に広がり、人類は種としての新たな局面を迎えるだろう……という小説である。現状はそれほど簡単ではないだろうが、これなどは「グルを必要としない覚醒」の可能性を表現したものとして特徴的である。

こうした現状を踏まえて考えると、「真理や叡知の探求」イコール「グルと弟子の関係」という発想を改めなければならないのかも知れない。私には今回の事件の根源には、麻原個人の欲望以外に、「向上を目指すひ弱な人間の、完全なるものへの依存心」という問題があったと思う。そして、それこそが私自身や多くのオウム以外の人間にも問われるべき課題である気がしてならないのだ。

 

グルへの依存を超えて

「導師と弟子の関係」は、あくまでも「悟り」や「覚醒」など、人を向上させる知恵を獲得するための手法の一つである。ならば我々は今後、その関係にこだわらず、どのようにそれらを目指せばよいのか。そのことについて提言してみたい。その方が犯罪の批判よりも建設的だ。そう、あんな破壊的な事件の後だからこそ、私は意地でも建設的で前向きなことを提言したい。それが私の「反オウム」運動であり、自己批判なのだ。

もともと「悟り」や「覚醒」などというものは、学校教育で習う国語や算数などのように定まった教科書も明確な解も存在しない分野の知に属するものだ。それを考えることは自らの人生について考えることでもある。「どう生きるか、どう死ぬか」「われわれはどこから来て、どこへ行くのか」「人生の意義は? なすべきことは何か」──どれもすぐには明確な答えなど出るわけがない。これらの答えは、私たちが実際に社会に出て、仕事をしたり遊んだり、恋をしたり傷ついたりして、その中から導き出されるべき問題なのだ。とても一朝一夕で解決できるようなものではない。だが、それでいいのだ。

思えば私たちは、何でも単純に答えが出てくることに、あまりにも慣れ過ぎてはいなかったろうか。世界はどこもかしこも親切なマニュアルに溢れている。悟りや覚醒にしても巷には何十冊も手引き書が出回っている。遠からず「悟り」や「覚醒」そのものが商品化され街角のコンビニでトイレットペーパーの横に安値で並ぶ日も来ることだろう。それならそれでもいいが、我々はやはり手作りの面白さを満喫したい。時間がかかっても、苦労しても、それはそれでいいではないか。

私がここで提言したいのは、「悟りや覚醒に至る道は無数にあり、我々はどんな道を選んでも自由なんだ」ということだ。そのことを自覚しよう。

その場合、唯一無二の正しいグルを捜すには及ばない(いても一向に構わないけど)。自分にとっての絶対的な存在を求める気持ちもわからなくもない。しかし、それを特定の他者に求めるのはとりあえずやめよう。ある意味でそれは安易な選択だ。もちろん誰かを尊敬したい気持ちはわかる。誰も尊敬できない世の中なんて、あまりにも淋しいから。だけど人は他者に「完全」を求め、押しつけ、そこへ逃げてはいけないのだ

しっかりと目を開いて生きよう。意識を変えれば退屈な日常生活こそ、格好の修行の場であることに気づくはずだ。実際、我々は何からだって学べるのだ

そこに特定の個人の姿をした「グル」は必要ない。感覚をとぎすませ注意深く物事にあたれば、グルは何時でも断片的に姿を表すだろう。言い古されていることだけど、私たちをとりまくこの世界全体が、私たちを導くグルなのだ

あなたを導くものは必ずしも偉い人の立派な言葉とは限らない。それはたとえば、親父のゲンコツに、お袋の小言に、友人との会話の中に、無数に存在しているだろう。その気になれば、小さな子供の素朴な問いかけにも無限の叡知への可能性を感じ取ることが可能なはすだ。

学ぶべき対象は何も人間ばかりではない。神秘的な月の光の中に、深夜に散歩する住宅地の静けさの中に、虚空を見つめる猫の視線の先、鬱陶しい夏の暑さの中に、セミの鳴き声、鳥の声、そんなありふれた事象から呼びさまされる知識もあるだろう。小説、映画、音楽……目に触れたり耳にするもの全ての中から魅力的なものを見出そう。数多くの「感動」が多くのことを教えてくれるだろう。

あなたを導く魅力的な教えは、嫌な上司の小言や、あなたの大嫌いな人々の言葉の中にも数多く存在する。他人からの悪口をおろそかにしてはいけない。どんな嫌味も聞き逃がすな。悪意からだろうと嫌味だろうと、あなたの短所を指摘する声は、まぎれもなくその瞬間、グルなのだ。

徹底した自己分析と自己批判こそ修行の根本であるはずだ。それは強い意志さえあれば、ごく、あたりまえの日常生活の中でも可能なものだ。人里離れた山奥へ籠らずとも、教団や教主を頼らずとも、人間は日常の中で修行し、向上できるはずだ。

注意しなければならないのは、自分をとりまく現実との関係を軽んじることだ。たとえば、あなたが精神世界の本や神秘学の本、哲学でも現代思想でもいい、そうした本ばかり読んでいるとしよう。多くの本を読むうちに、それらの分野に興味を持たない、あなたのまわりの人々のことが、とても馬鹿でつまらなくて矮小な存在に見え出すかも知れない。そうなったら要注意だ。冷静になれ、頭を冷やそう

たしかに本に書かれた「言葉」は立派だし、現実に生きている人間の見てくれはそんなに良いもんじゃない。だが、他人の知らない分野の知識を持つことがどれほどのことなのか? 叡知を学ぶのはエゴを肥大させる為でも、人を見下す為でもないだろう

洗脳された新興宗教の信者たちが見せる、さも「自分は真理を知ってるんだ」という、自信に満ちたあの不愉快なうすら笑いを思い出せ。信者以外の人間を「凡夫」と呼ぶオウムの信者を見てどう感じた? 度を越えたエリート意識や選民思想の醜さには不快の感を越えて哀しみすら覚えたのではないか。人は、そんなつまらない意識を持つために勉強したり、修行したりするのではないはずだ。それではあまりに情けない。

選民意識を持ち、自分達のまわりに見えない線を引き、「敵」を決めてそれらに向けての憎悪を育てることに何の意味があろう? オウム信者だけの問題ではない。私やあなたたち、マスコミや評論家たちみんなへ向けられる問題だ。

たしか、ロバート・ワイアットの歌う、革命を題材にした唄の中に「私たちは指導者の為に闘っているのではない。敵を倒す為に闘っているのでもない。いま闘っている敵も含めて、みんなで一緒に幸せに暮らしたくて闘っているんだ」という意味の歌があった。

我々ももう一度、自らの行動の目的を問い直す必要があるはずだ。何の為のオウム批判か? 何の為の報道か? 何の為の糾弾か? 何の為の修行か? 何の為の悟りか? 私は誰かを見下す為の修行なんかいらない。誰かを苛める為だけの報道なんかいらない。誰かを差別し、傷つける為の理論や教義なんか絶対にいらない。私は、言葉にすればカッコ悪くて間が抜けていて、ちっとも現実的じゃなくて、どうにも青くてダサイ「どうしたら、みんなで争いや差別のない平和な世界を実現できるだろう」という課題を一生考え続けたい。

あなたも私もただの人間だ。本当に全く大抵の人間は徹底的にただの人間なのだ。

救世主なんかいなくてもいい。我々はあらゆる疑問に対してもっともっと、限界ギリギリの所まで自分自身であがいて答えを探す必要がある。絶対者を欲したり、何かにすがったりするのはそれからでも遅くはないはずだ。救世主を自称するペテン師は放っておけ。安易に救世主を求める心こそ責められよう。

くり返し言う。唯一無二の絶対的な存在を見つけ出して、それに己の全てを預けることは、どんな言い訳をしても己の人生に対する怠慢行為であり、背信行為なのだ。目に見えるグルがいれば楽だろう

何でも決めてくれる指導主がいれば思い悩む必要はないのだから。だが、あくまでもあなたの人生はあなた自身のものだ。どんなことがあってもその運命を他人に預けてはいけない。

だからグルへの、批判精神を一切欠いた絶対的帰依など糞くらえだ

人と話そう、書物だけでなく人間を読もう。多くの人たちと触れ合い、関係しよう。我々はくだらなく思ったり、つまらなく思った人たちからでさえも反面教師として多くを学べるのだ。それも、じっくりと観察すれば一人一人の人間の複雑さに気がつき、嫌な人間からも魅力を発見できるだろう。そこには「凡夫」も「外道」もいない

あなたの身のまわりで現実に生きている人間は、マンガや映画に出てくるキャラクターのように善悪の役割分担が明確にあるわけではない。あなたがこれまで出会った人々について思い出してみるがいい。完全な善人もいなければ、完全な悪人もいなかったはずだ。誰にとっても、悪であり続ける人間など存在しない。ヒトラーは誰も愛さなかったか? 麻原は徹底して誰に対しても冷酷で無慈悲な人間だったか? そうではないだろう。あなたの身近にいる、どう考えても存在意義の感じられない会社の嫌味な上司にしても、家に帰れば家族にとっては「良いお父さん」だったりするのだ。

そんなふうに善にも悪にも徹しきれないのが我々人間の本性ならば、他人からはできるだけ善い部分を見つけてあげよう。それが他者への最低の礼儀である。

観念の中に閉じこもるな。現実としっかり向かい合え。何度も言うが出家や教団に入ることだけが悟りや覚醒の道ではないのだ

我々が生きるべき世界は、遠くヒマラヤの地下深くにあるというシャンバラでもなければ、ハルマゲドン後の千年王国でもない。今、まさにあなたが暮らしているその場所──限りなく平凡であたりまえの、退屈な日常の中なのだ

そして覚醒も堕落も、創造も破壊も、あらゆる可能性は常に我々の内にあり、いずれを選ぶかは、常に我々自身の意志に委ねられている。その権利と自由を決して手放すな

 





*1:村崎は『ユリイカ』1995年4月臨時増刊号「悪趣味大全」にも「ゲスメディアとゲス人間/ワイドショーへの提言」と題した共通テーマの原稿を寄稿しており、これがデビュー原稿であると公言していた(没後『村崎百郎の本』に収録)

*2:かつて雑誌『夜想』を出版していた特殊出版社。黒田一郎はアルトーウィリアム・バロウズ幻想文学を担当した。

*3:黒田の寄稿から引用者は宮台真司『終わりなき日常を生きろ─オウム完全克服マニュアル』(筑摩書房)の主旨である「コミュ力をつけて恋愛すること」と「理想論的に生きることを諦めること」を連想した。それに適応できない人間が終末的サブカルチャー自己啓発、オウムに向かったと。あの村崎百郎が「観念の世界に自閉するな」というと宮台以上に説得力がある