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娘が遺した日記と漫画で「教育」見詰め直す―漫画家・山田花子の自殺

連載[師走の街から](7)

娘が遺した日記と漫画で「教育」見詰め直す

五月の運動会から数日後のことだった。四年生を担当する女性教諭(50)が三十四人の教え子たちに手紙を託した。

〈これからは、子供たちの声にならない声に、もっともっと耳を傾けていきます〉

先生はおかっぱ頭。やせてはいても、東京郊外の小学校で「一番の元気者」を自慢にしていた。ところが、運動会が近づいたころ、長女が飛び降り自殺してしまった。手紙は、この悲しい出来事を静かに見守ってくれた父母たちにあてて書いたものだった。

長女は二十四歳、漫画家だった。「山田花子」のペンネームで、一時、「週刊ヤングマガジン」や月刊「ガロ」などに連載を持ち、単行本も二冊出していた。人間関係の息苦しさや疎外感を強調した漫画だ。内向的で感受性の強い主人公がいじめにあい、傷ついていく。遺(のこ)された十五冊の日記帳は、主人公が作者自身で、描くことで生きるつらさを乗り越えようとしたことを物語っていた。

日記や漫画を読んで先生はがく然とした。自分そっくりの教師が主人公に言う。「あなた、お友達がいなくて淋(さび)しくはないの」。確かに、友達が少なかった娘を同じ言葉でよく送り出した。日記の中の娘は一人で時間をつぶしては自ら服に泥をつけ帰宅していた。初めて知った。

教師歴二十八年。「いろんな子がいて当たり前。弱い子も強い子も個性を生かしてあげなきゃ」が口癖だった。いじめや登校拒否にも体ごと取り組み、二人の娘を育てた。「自由を口にしながら自分の型にはめようとしていたのか」

それから、追われるように仕事をした。救いは死後も絶えない読者からの手紙だった。「悩んでいるのは自分一人ではなかったと力づけられた」「私の人生を変えるのは山田花子かもしれない」

愛読していたという人気バンド「たま」知久寿焼(ちく・としあき)さん(27)は、霊前で「自分の姿を見るようで身につまされた」と涙を流した。これほど人の心を動かした「山田花子」の感性とは何だったのかと考えるようになった。

夫婦で娘のことを本にまとめようと決めた。毎晩、日記や作品、彼女の聴いたテープ、愛読書を整理する。書き始めたばかりの目次には大きく「学校といじめ―教師と母親の構造」とある。

「娘の供養ではなく、自分がこれから生きて行くために書き上げなくちゃ」と、先生は思う。(若江雅子)

(おわり)

所収:『読売新聞』1992年12月25日号 東京夕刊

山田 花子(やまだ はなこ、1967年6月10日 - 1992年5月24日)は、日本の漫画家。本名、高市 由美(たかいち ゆみ)。

自身のいじめ体験をベースに人間関係における抑圧、差別意識、疎外感をテーマにしたギャグ漫画を描いて世の中の矛盾を問い続けたが、中学2年生の時から患っていた人間不信が悪化、1992年3月には統合失調症と診断される。2ヵ月半の入院生活を経て5月23日に退院。翌24日夕刻、団地11階から投身自殺。24歳没。

青林堂創業者/漫画雑誌『ガロ』初代編集長・長井勝一インタビュー「世の中から差別をなくすことを、底の底に持った雑誌を出版していこう」

古き良き青林堂をしのぶ。追憶・長井勝一

生前最後のインタビュー

「漫画雑誌『ガロ』会長・長井勝一(現代の肖像)」

『ガロ』編集長・長井勝一「貧しかったけど、心は貧しくなかったよな」

漫画家・白土三平に口説かれた。「漫画雑誌をやろう」。忍者漫画を通して人間の本質を描く白土の真摯さに、本気になった。

水木しげるつげ義春───。思想をもった作品を生んだ『ガロ』は、創刊者長井の度量が人をひきつけ、作家の個性を伸ばした「学校」でもあった。

土曜日のある夜、長井勝一(ながい・かついち)宅を一組の夫婦が訪れた。4コマ漫画の、あの勝又進である。長井は、さっそく自宅近くの天ぷら屋で一席設けた。

「授賞式に遠くから来てくれてありがとうな」

長井は小柄な体を縮め、かすれた小さな、少し高めの声でお礼をいう。勝又は恐縮する。

今年の6月下旬、長井は第24回日本漫画家協会賞の特別賞をもらったばかり。漫画雑誌『ガロ』を30年以上も発行し、多くの漫画家を発掘、育てたのが、その理由である。勝又もまた、作品発表の場が『ガロ』であった。学生と機動隊の衝突を、明るくのんびりと描いていた。

長井はキスの干物を手でむしり、食べながら、つぶやいた。

「これ、うまいなぁ。……魚に骨がなければ、もっといいのにな」

こんなことをいう人は初めてだ。勝又に、「長井さんは、どんな人ですか?」と水を向けると、

勝又が照れ笑いを見せ、

「オヤジさんという感じ。こうして顔を見るだけで安心するんです。実家に来るみたいですね」

と、話し終わるや、「来れば、おれも楽しいさ」と、長井は、うれしそうにいう。

長井が『ガロ』を創刊したのは、1964年7月24日である。B5判130ページで定価130円。東京オリンピック開催の2カ月半前だ。創刊号からスタートの予定であった白土三平の『カムイ伝』が登場したのは、4号目の12月号だった。

勝又は、隣の長井をちらりと見て、「『カムイ伝』が始まったあとでしたね。いつも、『ガロ』の編集部にいりびたっていたんですよね。松田さんも学生で上野さんも、みんな遊びに行っていた」と話す。

「貧しかったけど、心は貧しくなかったよなぁ。漫画が好きだ、描きたいという人が集まってきた。それでいて、人まねなんかしたくない人ばかりでなぁ」

長井は淡々とした口ぶりだ。

「それでいて、長井さんにはなんでもいえましたね」

勝又が、そういうと、

「おれはエバルような人とは付き合わないよな。いまでもそうだ」

長井はなんでもないようにいう。あまり飲んではいけない酒を口にしながらである。一滴一滴を、本当にうまそうに飲むのだ。

二人の間で名前の出てきた、松田さんは筑摩書房松田哲夫、上野さんは評論家・上野昂志である。そんな『ガロ』を舞台にした漫画家を少しあげてみる。白土三平水木しげるつげ義春、楠勝平、勝又進池上遼一永島慎二滝田ゆう佐々木マキ林静一つげ忠男矢口高雄高信太郎やまだ紫近藤ようこ蛭子能収……。作家・赤瀬川原平もいる。評論家・呉智英もいる。井上迅もいる。編集部育ちでは、南伸坊渡辺和博たちがいる。

個性的な顔と、その作風が浮かんでくる。目がくらむようだ。集団として徒党なんて組むことのない、まさに群像である。

『ガロ』育ちの人たちを、評論家・鶴見俊輔は次のように表現する。

「戦後の学問の歴史でいうと、今西錦司さんの作った今西学派というのはたいへん大きなものですが、そうした区分を超えて思想史を考えるとき、ガロ学派は今西学派に匹敵すると私は思っています」

“ガロ学派”───。鶴見はこうもいう。

「『ガロ』は漫画雑誌というだけでなく、一種の総合雑誌としての気分を持っている。これは、初期から上野昂志さんが『目安箱』というコラムを書いていることでもはっきりしている。とても鮮やかな評論で『中央公論』や『世界』の評論より鋭いっていう場合がある。そういうのを出し続けていった雑誌でもあるわけで、そこに出てくる漫画も思想性がある」

 

白土三平さんと会うまで金もうけりゃいいってね、漫画本出してた」

戦後という時代について、ふと考えるようなとき、今後に思いをはせるとき、『ガロ』の人たちの影響力は無視することは出来ない。

それを育てたのが出版人・編集人の長井勝一である。だが、長井は、アッケラカンと語る。

「創刊してから、ぼくが現場にいたころまで、編集会議なんて一回もしたことなんてないんです。会議をしたっていう奴がいたら、インチキだよ。ナベゾ渡辺和博)にしたって、南(伸坊)にしたって、ぼくの顔なんて見ませんよ。好きなようにやっていた。『来月号は誰と誰の漫画を載せる』。これだけ。ワンマンなんかじゃないんですよ。編集会議するような雑誌じゃないもの。原稿並べるだけなら誰でもできますよ」

それから、右手の指でマルを作り、

「これの話はよくやったよなぁ」

と、妻の香田明子に確認する。香田は、遠慮気味に「ウーン」と、うなずく。彼女は、『ガロ』発刊以前からのパートナーで、経理をみてきた。

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こんなエピソードが語り継がれている。南伸坊が編集部にいたころである。

「そりゃあそうだよ、人間だからな」

長井の口癖だ。人間だから失敗することもあるし、人をだますことだってある。

原点は50年前の8月15日である。日本は敗れた。腹の奥では、いままでの日本はないと思う。だが、人間の日常は同じ。飯を食べトイレにもいく。ナーンも変わらない。理屈ではない。それだけだ。

そして、その2日後、長井は浅草に出来た露店の一角に店を出した。捨てられた雑誌をバラし、表紙だけを新しくしたものを売るのであった。それがなくなると、クズ屋に出た漫画本を、適当に束ねなおして売る。途中に別の漫画が飛び出してくる代物だ。これが売れたのだった。娯楽なんてない。子どもへのお土産である。人間はいい加減なのだ。オレもそうだった。

ある日、長井に南が、「人間だから、といったって毛沢東はエライんじゃないですか」といった。「この名前さえ出せば、一本取れる」。南はそう思った。毛沢東という名前に全く意味はない。世間で有名だったからだ。返ってきたのは、

毛沢東だって、人間だからな……」

返品されてきた単行本のカバー替えをしながら、そういったという。

長井によると、こうである。

「人間って、誰もさ、日常に流されるじゃない?たとえ孔子だって流されるよ」

長井勝一は、大正10(1921)年生まれだから、今年で74歳である。4年前の91年、『ガロ』発行元の青林堂を身売りし、会長になった。『ガロ』の顔としての名誉職だ。それ以来、経営にも編集にもタッチしていない。長井に30年前の回想をしてもらう。『ガロ』発刊の動機だ。“ガロ学派”が生まれる舞台の始まりでもある。

白土三平さんと出会うまで、金もうけりゃいいやってね、漫画本を出してたんです。バクチはするわ、女とは遊ぶわ。ところが、三平さんの漫画を制作する態度をみていて、自分もきちっとやらなきゃと思うようになったんです」

戦後の体験から、そのまま漫画出版の世界に入る。56年、「日本漫画社」を始め、翌年の夏の終わりごろ、白土三平に会う。

出会いは、いつも必然である。貸本屋に卸すため、仕入れた漫画本のなかから、面白い本を見つけたのであった。白土の『こがらし剣士』である。ストーリーがいい。絵もいい。どんな人だろう。一週間後、長井のもとに、その白土三平が作品を持ち込んできたのである。返事はもちろんオーケーだ。白土は、「ここでもし、ダメだったら、もう漫画を描くのはやめよう」と思っていた。出会いは偶然、とよくいうが、そんなことはない。相思相愛がある。長井は、「願ってもない偶然」と振り返る。看板は白土の作品にした。貸本屋向けの単行本『嵐の忍者』『甲賀武芸帳』を立て続けに出し、59年暮れには、『忍者武芸帳』第1巻の刊行を始める。

 

「世の中から差別をなくすことを、底の底に持った雑誌を出版していこう」

長井勝一白土三平コンビによる作品にいち早く注目したのが、のちの文化人類学者・山口昌男である。60年6月のある雑誌で、こう書いている。

「私の近所の貸本屋でも(白土三平は)人気ベスト・ワンであり、子供たちの中に割り込んで新作を借り出すのは仲々困難である」

白土作品の特徴として、上手な漫画、人間的な息吹、忍者をテーマにして組織の残酷さの強調などをあげ、「大人のマンガがエロのムードに酔っている時、残酷非道のムードを導入して単にそれによっているのではない白土の世界の方が、人間世界の把握では却ってその先のところにあるのかもしれない」と記している。

だが、『忍者武芸帳』刊行途中に、長井は結核で倒れた。七本の肋骨を切るという大手術を受けたのだった。

「『忍者武芸帳』を最後まで出せなくてね。入院中、これまでぼくは何をしてきたんだろうと思うと力が抜けていくような感じになって……。これでは、死んでも死に切れないと、ね」

退院してきた長井に、白土は「雑誌をやろう」ともちかけてきた。単行本には読者に限りがある。雑誌には広がりがある。そういった。

三平さんの大きなテーマは、いわれなき差別をなんとかしていこうということが願いなんです。その思いを大勢の人にわかってもらいたいと思っていたんじゃないでしょうか。『カムイ伝』がそうですよね。それに、その頃はいまと違って、漫画は日陰の状態にあって、これを日向に出すというか、文化の面にまで押しあげることはできないだろうかといったんです

記憶をたどるという様子は、全くない。長井にとって忘れようにも忘れることのできない話だ。

普通なら仕事が切れれば縁の切れ目だけど、三平さんは、ぼくの手術代から入院中の小遣いまで出してくれてね。三平さんと話しているうちに、ぼくは『できる』と思ったんです。もう、いいかげんな気持ちじゃなくなっていました。漫画のいい作り手を育てよう。『ガロ』の骨子は、新人を育てること、漫画の水準を押しあげること、それに世の中から差別をなんとかなくしていくことを、どこか底の底に持った雑誌を出版していこうと二人で話し合ったんです

雑誌の名前は、すぐ決めた。白土作品に『大魔のガロ』がある。長井によると「心優しく、技量のすぐれた忍者だったが、その優しさを逆手にとられ、彼になついた子どもを使った術にかかって悲惨な最期を遂げた忍者」だ。そこからとったのである。

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『ガロ』創刊である。すでに「青林堂」という出版社を作り、白土の『サスケ』を出していた。その売り上げを資金に発行するのである。白土は、翌年の65年6月号で「おのれの実験の場として、この『ガロ』を大いに利用していただきたい」との、文を載せた。実験と刺激の空間である。それを求めて、人は集まってきた。反響は意外なところからもやってくる。雑誌もまた人である。出会いを作っていく。

「私は、白土三平氏の漫画を大変おもしろく、且つ、貴重なものと思いながら、愛読しています。私は、京大経済学部の大学院に在籍し、マルクスの革命思想を研究し、公式的な石頭的公認マルクス主義の再生を日夜祈りながら勉強しております」

同年11月号、『ガロ』が行った「読者の感想文特集」の一通である。投稿の主は竹本信弘。これから7年後、全国に指名手配を受けることになる、全共闘運動のリーダー・滝田修である。大学生が漫画を手に取り、熱中する。その始まりが『ガロ』である。部数も創刊時の8千部から、66年暮れには10倍に伸びた。もちろん、多くの新人が登場してきた。

書籍取次店「トーハン」の出版調査機関・出版科学研究所によると、漫画についてのデータを取り始めたのは七六年からだという。出版刊行点数で、それを外して考えられなくなってきた。市場が急激に膨れ上がり、漫画の量産体制が始まっていたのだ。大手資本出版社の本格的な参入だ。零細企業にとって厳しさは増すばかりである。この2、3年前から『ガロ』は部数が減り始めてきた。『カムイ伝』も第一部が71年7月号で終わっていた。長井風にいえば、右手の指でマルを作ることが多くなってきたのだ。

 

南伸坊渡辺和博がよくいうんですよ、学校みたいだったよな」

毎月、資金繰りに追われる。税務署から、「管轄外ですが、もう少し、社員の給料を上げたらどうですか」といわれたこともある。しかし、会社をつぶすわけにはいかない。援助してくれた漫画家の人たち、印刷、製版関係の人たちがいる。なによりも、「これをやめて、お前になにが残るのか」と励まされるとピリオドはうてない。だが、とうとう力尽きて、91年、倒産よりもと身売りを選んだ。

「いまは天国みたいなもんです。こうして、起きては好きな山本周五郎司馬遼太郎の本を読んでるだけですから。会社をやってたときは地獄ですよ」

白土三平は昨年9月号の『ガロ』で、長井さんがいたからこそ『カムイ伝』が描けたという。普通の雑誌社だったら、ストーリーにクレームをつけただろう、と。

南伸坊は、「ナベゾ(渡辺)がよくいうんですよ。『ガロは学校みたいだったよな』って」と話す。南が編集者として『ガロ』にいたのは、72年から7年間だった。入社して、いきなり写植をまかされた。台割りで凝ると、長井が近寄ってきて「あんまり凝らないでなぁ、南」とささやいた。夏の暑い日、クーラーがないので、長井が「もういいか、今日は」というと、そのまま、みんなで銭湯に行った。

「ほら、学校で、先生が今日は外で遊ぼうか、ってあるでしょう、そんな感じでした」

雑誌『ガロ』で、作者に自由に描かせるのと同じ空間が編集部だった。勝又も松田も気ままに遊びに来ていた。南も、長井のことを「オヤジのような人」という。「長井さんに、自分のことがわかってもらえるのがうれしい」。“ガロ学派”は、「自分の好きなことをやる」と「長井さんにわかってもらうこと」が見えない校則かもしれない。人が人に出会う。すでに手垢にまみれてしまった、この言葉が、よみがえってくる。

出会いは次の出会いを用意する。9月、松田哲夫は『頓知』という新しい雑誌を創刊する。アートディレクターは、南伸坊だ。松田は創刊に向け多忙な日々が続いている。初めに考えた部数の2倍の数字を取次が出してきたそうだ。反響の大きさに驚いている。

長井勝一の周辺でいつのまにか出来上がった群像は、キーパーソンに満ちている。有名というのではない。何かが始まり、何かを始める、そんなときに“カギ”になっている人のことである。扇子を開いたときの要である。

(文中敬称略)

長井勝一=ながい・かついち(1921~1996)

青林堂の創業者であり、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。

白土三平水木しげるといった有名作家から、つげ義春花輪和一蛭子能収矢口高雄滝田ゆう、楠勝平、佐々木マキ林静一池上遼一安部慎一鈴木翁二古川益三ますむらひろし勝又進つりたくにこ川崎ゆきお赤瀬川原平内田春菊丸尾末広ひさうちみちお根本敬南伸坊渡辺和博みうらじゅん杉浦日向子近藤ようこやまだ紫山田花子ねこぢる山野一泉昌之西岡兄妹東陽片岡魚喃キリコといった異才までを輩出していった名物編集長として知られる。

文・中川六平=なかがわ・ろっぺい(1950~2013)

ライター。編集者。1950年、新潟県生まれ。同志社大卒。学生時代、山口県岩国市で反戦喫茶「ほびっと」を経営。卒業後、新聞記者を経てフリー。日本の近代史に関心を持ち、雑誌『マージナル』編集長を務める。編著書に『天皇百話』(共編)など。2013年、逝去。

(所収『AERA』1995年8月28号)

 

漫画雑誌『ガロ』が30年間続いた秘密は

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『ガロ』。奇妙な月刊誌名である。白土三平の忍者漫画からもらった。

忍者「ガロ」は、優しさがあだとなって悲惨な最期を遂げた。「大好きな話だったんですよ」

1964年に創刊、20日には30周年の会が開かれた。

『ガロ』が育てた個性は多い。つげ義春林静一佐々木マキ川崎ゆきお蛭子能収……。「自分の感覚に合う作品を載っけただけなんです」。並外れていようとキラリと光る何かさえあれば、と。

「長期的な経営戦略はなかったねえ。その月、その月、好きなことでとりあえず食ってければいいってね」

大学生にも一目置かれ、67年、68年には8万部刷った。時代が熱かったころだ。しかし、70年代半ばに、部数はがくんと落ちた。原稿料を払えない状態が当たり前になった。

「楽しい思い出ねえ、うーん、浮かんできませんね。命を削るようにしてかかれた作品なのに、お金が出せなくて、悪いなあ、つらいなあってことばかりで」

「かかせてくれ」との申し出を、材木屋二階の編集部でひたすら待つ毎日。それでも芽吹き間近の才能が長井を慕い、『ガロ』の人間味を求めて集まった。何度か襲った雑誌存続の危機にも、どこからか支持者が現れた。

私の方が漫画家に面倒みてもらってきた感じです

3年前、山中潤社長に編集も経営も任せた。「お酒と本をやっと楽しめるようになりました」。ただし、今の漫画はまず読まない。

「漫画出版はお化けみたいな規模になっちゃった。その割に気の利いたものは少ない。若い人は活字離れするし。自分のやってきたことは良かったのかなんて思うけど、しょうがないよね。自分の器量では、ここまでがいっぱいいっぱいだから」

(文・鈴木繁)

所収『朝日新聞』1994年8月23日号

『ガロ』やる前は、金もうけもうまかったんですよ」。73歳。

 

付記「青林堂に関連する一連の報道について」(山中潤

2017年2月14日に『ガロ』元編集長である山中潤さんの声明が発表されました。以下全文のテキストを記載します。

創業者長井勝一氏および青林堂株主総会より正式な認証を得て青林堂を受け継いだものとして、最近の報道について、きっちり申し上げる責任があると思い、ここに記すことにいたします。

私は長井氏より「青林堂カムイ伝を連載するガロを出版するために作った」そして「ガロは差別を無くすために生まれた雑誌だ」という言葉をはっきりと聞いています。テーマも漫画家もいわゆるメジャー漫画誌では扱わないような「社会から零れ落ちそうな物を掬う」ということが根底にありました。

ガロに掲載された、芸術的作品も、面白主義や、差別や不条理を様々な方法で描いた作品も、全ての作品の根源には「カムイ伝」や「長井勝一の創業の精神」があります。

私もその魂を継続、拡大することが役目と思い、1990年より97年まで青林堂代表取締役兼編集長の職に挑んだつもりです。

会長の職に就いて頂いていた長井氏が96年に亡くなり、当時私が経営していたツァイトというパソコンソフトウェアの会社もWindowsの登場により、海外ソフトとの厳しい競争にさらされ、右肩上がりとは言えない状況ではありました。

そのとき、私をコンピュータの世界に引き上げたF氏にツァイトの社長を交代してもらい、私は青林堂に専念する事に決めました。ツァイトは自分で創立した会社だけれど、青林堂は私が預かっている“文化”であり、自分の事情でつぶすなどしてはならないと、本当に思っていました。

ところが、ツァイトの社長を頼んだF氏の父親が亡くなられ、F氏は心のよりどころを関西のO氏にゆだねるようになります。O氏は青林堂に興味を示し、青林堂の株式を取得するようにF氏を動かし始めました。

その様子が見えてきた時点で、私はF氏から距離を置くため、当時青林堂の株式を所有していた私の個人会社の印鑑を持って、極力東京から離れるよう努めました。

しかし、今、思い出しても胸が痛いのですが、私はF氏の様々な工作に乗せられ、無理やり青林堂まで腕づくで連れて行かれ、当時青林堂の実印と青林堂の株式を保有していた会社両方の実印をF氏に取られました。

その夜のことは、新聞などで大きく報道されたようですが、私は再度東京を離れたので、その後、ツァイトが私の社長名で倒産をしたこと以外は、詳しくわかりません。

その後の編集部の独立や新会社設立、その後の青林堂の動向は、内部の人間としてではなく、外部の人間として知る事になります。

とは言え、そこで踏ん張りきれなかったことは私の責任であり、今でも大きな悔恨として日々生きております。

報道されている現在の青林堂の社長であるK氏やW専務とは、97年以前より交流はありましたが、それは私個人の範囲であり、編集部との付き合いは極めて薄く、長井氏とは面識もありません。

つまり、現在報道されている青林堂は名前は同じであっても、創業者長井勝一氏とはまるで関係のない、単に株式を取得した人間が、元々の青林堂やガロの精神とは関係のないところで行っている全然別の事業に過ぎず、元々の『ガロ』とは無関係です。

私より、かつてのガロ・青林堂を愛して下さった、読者・作家・関係者、そして『ガロ』を今でも愛し続けてくださるファンの皆様が、様々な誤解や偏見に晒されることもあるかと思いましたのでこのような文章を記させていただきました。

『ガロ』元編集長・山中潤

図版

青林堂『月刊漫画ガロ』1971年12月号表紙(画・林静一

水木しげる『私はゲゲゲー神秘家水木しげる伝』角川文庫、2010年、194頁

勝又進作品集『赤い雪』青林工藝舎刊、2005年

高信太郎『ミナミトライアングル 解決編』(青林堂『ガロ』1977年6月号)

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号表紙(画・山田花子

https://twitter.com/seirinkogeisha/status/966485502546161665

青林堂『月刊漫画ガロ』1972年5月号表紙(画・辰巳ヨシヒロ

白土三平他『忍法秘話19』青林堂刊、1965年

赤瀬川原平『おざ式』(青林堂『ガロ』1973年7月号)

青林堂『月刊漫画ガロ』1997年8月号表紙(画・Q.B.B久住昌之久住卓也)※休刊号(64年の創刊以来初の休刊、その後も断続的に復刊休刊を繰り返し、2002年の休刊を最後に今日まで『ガロ』は刊行されていない)

青林堂『月刊漫画ガロ』1983年4月号表紙(画・湯村輝彦

青林堂『月刊漫画ガロ』1968年5月号表紙(画・水木しげる

山崎春美のスーパー変態インタビュー(連載第1回/遠藤ミチロウ編)「逮捕後の変態ロックバンド スターリン 遠藤ミチロウ」





 

先日、遊撃インターネットの管理人である北のりゆき氏(故・青山正明が編集長を務めた『危ない1号』では“死売狂生”というペンネームで書いていたライターさんで『危ない28号』にも寄稿していた結構スゴイ人)のご厚意により、未入手のスーパー変態マガジン『Billy』および『Billyボーイ』を10冊ほど完全な状態で入手することが出来た。

山崎春美のスーパー変態インタビューは『Billy』1982年1月号から連載が始まっており、第1回は遠藤ミチロウ第2回は明石賢生第3回は蛭子能収と、そうそうたる面子が並ぶ。

ちなみに『Billy』が本格的な変態路線に誌面を刷新するのは2月号からで、スーパー変態マガジンのコピーは3月号から見える。

この変態路線前の1982年1月号は、表紙からは割と清廉とした印象を受けるが、ページをめくってみると、ホモトルコや三島由紀夫そっくりさんSMショーなどなど、後の『Billy』の片鱗が存分に掴める内容となっている(それでも十二分におとなしめの内容だし、これに死体や奇形、お約束のスカトロをブッ込んだら完全に後の『Billy』になる)。

さて、このインタビューの冒頭で語られる山崎春美遠藤ミチロウの邂逅についてであるが、山崎の回想によれば遠藤ミチロウは『HEAVEN』の編集室にコンサートチラシの束を抱えて、いきなり乗り込んできたのだそうだ。まるで群雄社周辺から発せられていた「磁場」のようなものに吸い寄せられたかのように。

ちなみに坂本龍一町田町蔵遠藤ミチロウ佐藤薫らが参加したインディーズ史に残る歴史的名盤『タコ』(山崎主宰のロックバンド「TACO」の1stアルバム)は翌1983年にリリースされることになる。

 

対談◎根本敬(特殊漫画家)×山野一(漫画家)「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」

対談◎根本敬特殊漫画家)×山野一(漫画家)

「いまも夢の中にねこぢるが出てくるんです」

山野 デビューの頃の話から始めましょうか。当時、すでに結婚して一緒に住んでいたんですが、僕が漫画を描いてるときに、彼女は仕事を持っていなかったので、ヒマじゃないですか。それで落書きをしていたんです。そのネコの絵が面白かったので、これを漫画にしたら面白いんじゃないかということで始めたのがきっかけです。それを『ガロ』に投稿したら載っけていただいたというのが最初で。当時は漫画家になるとかそういうことはまるで念頭になかった感じでしたね。

 

根本 最初は名前が違ってたよね。「ねこじるし」。

 

山野 そうです。適当につけた名前で(笑)。変えた理由も明確なわけじゃないですけど、途中から本人がそっちのほうがいいということで。最初からコンセプト的にやってたわけではなくて、とりあえずできたものを載っけてもらった、よかった、ぐらいの感じでしたね。だから、漫画家としての訓練──私も別に受けちゃいませんけど(笑)──は何も受けてない。描いていたのもペンとかじゃなくて、フェルトペンやマジックで描いてましたし。そのへんは根本さんもよくご存じでしょうけど。

 

根本 デビュー前から知ってるけど、たまたま旦那が漫画家で、紙の空いたところに描いたネコの絵がいつの間にか独り歩きして、すごく大きくなっちゃったという感じだった。でも、俺にとっては別に区別はないから(笑)。いつの間にか周りが「ねこぢるねこぢる」って騒ぐようなっただけで。

 

山野 根本さんにすれば、「なんで漫画描いてるの?」みたいな感じだったんじゃないですか。

 

根本 でもね、意外と「なんで?」って感じはしなかった。山野さんと知り合う前から、俺の『花ひらく家庭天国』とか読んでたらしいしね。

 

山野 あ、僕と会うもうずっと前から根本さんの作品は熟読してましたね。

 

──山野さんは彼女の絵のどこがいい思ったんですか?

 

山野 ちょっと口では説明しづらいんですけど、何ていうのかな、尋常ではない何かがあって、無表情なのにかわいい、それでいてどっかに狂気が宿ってる、みたいな部分。

 

根本 目に見えないものとか、言葉にできないものとか、ね。

 

山野 同じネコの絵を執拗に描く。ほっとくといつまでも描き続けてるみたいなところも尋常でないものを感じましたね。

 

根本 それを自分で説明できる子だったら、かえって表現できない世界だよね。

 

山野 たとえば、初期の蛭子能収さんの、何も考えないで描く人間の顔なんかも、当の蛭子さんが無自覚な狂気みたいなものまで、見る者に伝えたりするじゃないですか。それと似たようなもの、言語化不可能なある種の違和感かもしれないけど、大人に解釈されたものではない生々しい幼児性というか、かわいさと気持ち悪さと残虐性が入り交じった、奇妙な魅力みたいなものがあったんだと思いますよ。

 

──そのうち、原稿の注文が増えてくるわけですよね。

 

山野 注文が来るなんてまったく思ってもいなかったから、不思議な気がしましたね。普通、漫画家はほかの出版社に漫画を描くときは、別のキャラクターを作るじゃないですか。でも、うちの場合、『ガロ』を見たいろんなとこから来たのが全部このネコの絵でやってくれということだったので、出版社によってキャラクターが変わるということがなかった。

 

根本 タイトルが変わっただけでね(笑)。

 

山野 タイトルも多少、文字が変わってるぐらいで、ほとんどねこぢるナントカですから、よくそれで出版社がOKだったなと思いますね。

 

根本 ねこぢるじゃなくて「ねこぢる」に仕事が来てたんだよね。

 

山野 まあ、そういうことだと思いますね。

 

──彼女の中で「ねこぢる」は、自分だけの作品だったのか、山野さんとの共同作業だったのか、どちらだったんでしょう?

 

山野 仕事とかにもよりますが、役割みたいなものも描いてる連載によって違いますし。どっちにしろ混じっていたのは確かですね。ただ、漫画好きではあったけど、漫画を描いたことがなかったので、いきなり商業誌で「八ページでこんなものを」と言われても無理なんです。アイディアは当人が出すにしても、それを漫画という形にして、いただいたページ数におさめるという作業は僕がやるという感じでしたね。

 

根本 漫画ってちょっと特殊ですもんね。面白いアイディアがあっても、それを具体的なセリフや、コマ割りで展開するというのは、小説とも違い、ある種の特殊技能ですよ。

 

山野 本人は多分、漫画家になろうという意志もないままになってしまったんだと思います。ですから、ある程度、事務性の高い作業は僕が代わりにやるという感じでしたね。

 

──ねこぢるの漫画のセリフはほとんど書き文字ですが、何かこだわりがあったんですか?

 

山野 本人が書いた字がなかなか味わいがあると思ったので、「そのままでいいんじゃないの」と僕が言ったのが最初だと思うんです。それで、普通なら鉛筆で書いて写植を入れるようなところをフェルトペンとかで書き込んじゃって、出版社のほうでもそれでいいという感じだったので、そのまま印刷されちゃったんだと思いますね。

 

根本 それがもう、ごく自然な流れでそのままスタイルとして定着して。

 

山野 そうです。でも、あんなに原稿が大したチェックも入らず、スイスイ入っていくというのは驚きでしたね。僕なんかエロ漫画誌で描かせていただいて食ってましたけど、「これはおっぱいが小さいじゃないか」とか言われて、「すいません」ってその場ででっかく描き直したりとかしていて、うるさく言われるのが当たり前だと思ってました。ねこぢるの場合、差別表現とかどうしても外せない部分ではあるでしょうけれども、それ以外の制約はほとんど受けてこなかった。許されてる枠内で割と自由にやらせてもらっていましたね。

 

根本 そういうところをひっくるめて“才能”なんだよね。

 

年を取ることを異常に嫌っていた

山野 以前、ねこぢるが二の腕の内側の静脈瘤というのかな、もつれた細い静脈のかたまりみたいなものを取り除く手術を受けたことがあるんです。座ったままできる簡単な手術なんですけれど、僕は体に刃物が入るとか、怖くて見ていることができないんです。でも、ねこぢるはずーっと手術の様子を凝視してたんです。医者も妙な顔をしてました。それがすごく印象的で。きっとどんなのが出てくるのか見たかったんでしょうね。そうやってじーっとまっすぐに、ある意味無遠慮に、いろんな物や人を見つめるみたいな性質はありましたね。

 

根本 「にゃーこ」の目にそれが象徴されてますね。

 

山野 あるとき、新宿駅で歩いてたんですよ。そしたら、今までおとなしく座ってたプー太郎がいたんですけど、いきなり宇宙語みたいなのをわめきながらまっすぐねこぢるのとこに走ってきて、腕をガツーンとつかんだんです。なぜあの無数に歩いている通行人の中から彼女のところにまっすぐ走ってきて腕をつかんだのかは謎ですね(笑)。

 

根本 それ、ポイント、絶対に何かあるんですよ、そこに。

 

山野 あと、ねこぢるって異常に年を取らなかった。容貌もあまり変わらないですけれども、精神的にずーっと子供のままみたいなところがありましたね。年を取ることをすごく嫌ってましたね。

 

──最後まで、お二人だけで描いていたわけですよね。

 

山野 そうです。でも、スクリーントーンとか、ベタとか、そういう仕上げの作業みたいなものは主に僕がやってたんで、最後まで働いてるのは僕みたいな感じではありましたね(笑)。

 

根本 マネジャー兼チーフアシスタント。あと、まかないのオバさん(笑)。

 

山野 そうなんですよね。

 

──背景とかは、山野さんが描いてるわけですか?

 

山野 いや、背景もペン入れは全部彼女がやってますけど、たとえば背景の下書きみたいなものは僕がやる。

 

根本 だからある意味、世に出た最初からねこぢるは絶頂期のフジオプロの赤塚不二夫先生だったんですよ。山野さんは一人で古谷三敏から高井研一郎から長谷邦夫から何から兼ねてたんですよ、もう全部(笑)。

 

山野 でも、何かやっぱり持ってるものが僕とは全然違っていたと思いますね。

 

──根本さんは「ねこぢるブーム」みたいなものをどういうふうにみていたんですか?

 

根本 ねこぢるブーム! そんなのがあったんですか(笑)。

 

山野 わかんないですけどね(笑)。

 

根本 まあ、傍から見れば、東京電力のコマーシャルにキャラクターが使われるようになったり、アチコチで見かけるから、ああ、すごく儲けてるなって思ったくらいですかね。

 

山野 でも、家賃六万のアパートにずっと住んでましたし(笑)。とくには何も変わりないという感じでしたけど。

 

根本 だって、それで変わるようだったら、そもそも「ねこぢる」は生まれない。でも、皮肉にも忙しくなったよね。

 

山野 そうですね。ある漫画を描きながらも次、その次の漫画のネタを練ってるみたいな状態ではありましたね。

 

根本 いつの間にか気付いたらプロの漫画家になってて、しかも売れっ子の(笑)。

 

山野 本人の中にも仕事をちゃんとこなしたい、もっとやりたいという気持ちと、もうやめたいというのが両方あった気がするんです。意外と責任感があるんで。でも、やっぱり時間的な制約の中で、背景をもっと描きたいんですけども、減らされていったということはあったと思いますね。元の絵が単純といえば単純なんで、劇画とか描かれてる方よりは早く終わるとは思いますけど。でも、それでも、たった二人でやってますから、できる量というのは限られてきますよね。

 

──二十四時間、ずっとお二人一緒だったんですよね。

 

山野 まあ、不健康っちゃ不健康なんですけどね。生活も仕事もみんなその狭いアパートで二十四時間一緒に共にしてるわけですからね。すごく売れてる頃とかでも、近所のコンビニでおでん買ってきて二人で食ってるとか、そんなんでしたから。ただ。僕が仕上げで二日か三日ぐらい徹夜でやってて。起きてきた彼女が「『ジャンプ』」と言うんです。『ジャンプ』の発売日っていうと五時に店頭に並ぶから、朝五時に寒い中急いで『ジャンプ』買いに行くわけです。で、まだコンビニで荷ほどきされていない『ジャンプ』の横で、「まだ? もう五時だよね? さあ早く」という顔で待っとるんですね(笑)。帰ってきて俺が仕事を続けてる横で『ジャンプ』を読んでる。『ジョジョの奇妙な冒険』がお気に入りでした(笑)。まあ、私もヘトヘトですからね、いくらか理不尽な思いはありましたよ。でも、そこで何か言い合いを始めるより買いに行ったほうが早いんで。

 

根本 でしょうね~、それはねえ~、うん。

 

遺骨と丸一年暮らす

──ねこぢるさんが亡くなった直後、山野さんはどんな感じだったんですか。

 

山野 白木の遺骨と丸一年暮らしてました。世間的には非常識な事らしいですが、葬るべき墓が無かったのでいたしかたないです。その後近所の霊園に墓を建て、一周忌の法要の時にようやく墓に入れました。自分はまあ家に引きこもって、持病の椎間板ヘルニアが出た時などは、コンビニの出前で暮らしてました。二百円払うと何でも配達してくれるんですよ。

それから家か二〇〇mぐらいのとこにあるカウンターのみの汚い居酒屋に呑みに出るようになりました。七十過ぎで江戸っ子のおじいちゃんと、三十後半のちょっと天然な息子さんがやっていて、ナイターを見ながら野球をまるで知らない僕に色々教えてくれましたよ。何一つ覚えちゃいませんが(笑)。でもそんなこんながちょうど居やすかったんでしょうね。他に客はめったに来ないので、仕入れた肴をどんどんただで出してくれました。これが当時の主食でしたね(笑)。ところがこの店が、ある日予告もなく潰れてまして。おじいちゃんに何かあったのかもしれません。それから製麵所を兼ねた蕎麦屋兼居酒屋みたいなとこにトグロを巻いてて、ここも客の入りはサッパリで、ただでつまみをくれるのはいいのですが、程なく潰れましたね、やはり(笑)。食べ物の善し悪しにうるさかった店主がコンビニで弁当チンしてもらってるとこに出くわしたのはバツが悪かったなあ(笑)。僕が通う店はなぜかみんな潰れちゃうんですよね、僕が載っけてもらってた雑誌がことごとく潰れたみたいに(笑)。

 

根本 そこは僕も負けませんよ!(笑)。

 

山野 まあそんなアル中もどきな明け暮れで、健忘症みたいになっちゃって、人とした約束をみんな忘れてしまうんですよ。何もしないでいるのが良くなかろうというので、貰ったまま放置してたMacを、何だかいじくりはじめました。

 

──その後、山野さんは「ねこぢるy」として作品を発表されました。それを拝見すると、やはり以前の「ねこぢる」とは作風が違いますね。

 

山野 そうですね。どちらかというと僕は、側にいて翻訳する係、漫才でいうツッコミ的位置づけだったかもしれない。

 

根本 そう、そうなんですよね!!

 

山野 すごく面白い人がいても、その面白さを表現するのが上手とは限らないじゃないですか。だから、その面白さみたいなものを翻訳する係のような位置づけというと、わりと近いかもしれない。

 

──あっちとこっちをつなぐ人みたいな。

 

山野 たとえば、「ぶたろうは、のろまだけどおいしいにゃー」みたいな言葉を本人はまるで無自覚に言ってるんです。ブタの「のろま」という性質と「おいしい」という性質のあいだにあるギャップみたいなものは、それを意外に思ってハッとする隣の人間がいないとなかなか捕らえられないんです。本人は無自覚なので、それが面白いと思ってもいないから流れてしまうんです。根本さんもいろんな電波な人と会ってるでしょうけど、それを傍で聞いていて面白いと思う人がいて、通訳しないと、その人はそれがとりたてて面白いと思っていないから、そこで流れてしまいますよね。

 

根本 そうなんです。

 

山野 それを拾い上げるのが俺の役割だったんだと思います。

 

根本 うん(深く頷く)。

 

幼児を金しばりにするジワッと来る衝撃力

山野 今でも、ねこぢるの夢を繰り返し見るんです。死んだのか、いなくなったのかがたいてい曖昧になってる夢で、ある日、急に帰ってくるんです。それで、家を普通に歩き回って、「どこ行ってたの? 何してたの?」みたいなことを言ってもちゃんとした返事もなく、というか、そんな質問に興味がないって感じで、何日かうちをウロウロしたあと、またいなくなっちゃうんです。冷淡この上ないですよね(笑)。

 

根本 夢に出てくるんですね。

 

山野 出てきますね。あと、レイブのようなカルトのような一種独特な雰囲気の若者達が、運河の近くの廃墟のようなビルに住み着いていて、商売をしたり、なにかの装置で化学的な実験をしたりしているんですよ。雰囲気はちょっと異様なんだけどまあ平和なかんじで、雑草だらけの庭にはそこにはいないはずの昆虫や小動物がいたりするんですが、そこにいるんですよね、ねこぢるが。「なんでこんなとこにいるの?」と聞くんですが、まあ適当な受け答えするんだけど、やはりそっけなくて(笑)、結局、事情がよくわからないままに夢が終わる。それもけっこう見ますね。

 

根本 それはいつ頃からですか?

 

山野 いや、もう死んでからずっとですね。パターンはいろいろありますけれども、まあ、そっけないってことでは一貫してますね(笑)。

 

根本 ハーン、成程。しかしわかります、それこそ言葉以前のところで。ところで、うちの息子が三つぐらいの頃かな、テレビのアニメとか見だした頃、ねこぢるのアニメを見せたんですよ。子供だから、退屈だったら飽きたとか、イヤだったらイヤだとか、そういう感情とか表現するでしょう? そうしたら最初から最後まで一時間、固まったまま(笑)。本人、どうしていいかわからなくて。

 

山野 そうですか(笑)。釈然としないまま見たんですね。

 

根本 俺も、ちょっと問題あったかなと思ったんだけど、本人が画面を見つめて動かないし、しょうがないから時間が経つのを待つしかなかった(笑)。ねこぢるの漫画は、それぐらいジワッと来る衝撃力があるんだよ。今読んでもまったく古びていないしね。それは十年後、二十年後でも絶対に変わらないと断言しますよ。

 

所収『ねこぢる大全 下巻』p.790-796(絶版)

 

「本物」の実感 根本敬

大抵、自殺は不幸なものだ。

だが、例外もある。自殺した当人が類い稀なるキャラクターを持ち、その人らしい生き方の選択肢のひとつとして成り立つ事もタマにはあるかと思う。

ねこぢるの場合がそうだ。

死後、つくづく彼女は「大物」で、そして「本物」だったと実感する。

そのねこぢるが「この世はもう、この辺でいい」と決断してこうなった以上、これはもう認める他ないのである。もちろん、個人的には、数少ない話の通じる友人であり、大ファンであった作家がこの世から消えた事はとても悲しい。が、とにかく、ねこぢる当人にとって今回の事は、世間一般でいうところの「不幸」な結末などではない。

とはいえ、残された山野さんにとっては、とりあえず今は「不幸」である。

何故“とりあえず”が付くかというと、ある程度の時間を経ないと、本当のところは誰にも解らないからである。

ねこぢるの漫画といえば、幼児的な純な残虐性と可愛らしさの同居ってのが読者の持つイメージだろう。それも確かにねこぢる自身の一面を表わしてはいるだろうが、「ねこぢるだんこ」(朝日ソノラマ刊)に載っている俗や目常の遠い彼方に魂の飛んだ「つなみ」の様な漫画は、ねこぢるの内面に近づいてみたいなら見のがせない作品だと思う。まだ読んでないファンがいたら、是非読んでほしい。

年々盛り上る、漫画家としての世間的な人気をよそに、本人は「つなみ」の様な世界で浮遊していたのではないか。

 

俗にいう“あの世”なんてない。

丹波哲郎のいう“大霊界”などあってたまるか。

だが、“この世”以外の“別世界”は確実にあると思う。

ねこぢるは今そこにいる。

 

文藝春秋『月刊コミックビンゴ!』1998年7月号より再録)

 

人物紹介

ねこぢる

1967年、埼玉県生まれ。漫画家。高校卒業後、漫画家の山野一と結婚。90年、『月刊ガロ』6月号掲載の『ねこぢるうどん』でデビュー。当初のペンネームは「ねこじるし」で、後に「ねこぢる」と改名。可愛さと残酷さが同居する、ポップでシュールな作風が人気を博す。著書に『ねこぢるうどん』『ねこ神さま』『ねこぢる食堂』『ねこぢるだんご』『ぢるぢる旅行記』『ぢるぢる日記』『ねこぢるせんべい』『ねこぢるまんじゅう』など。1998年5月10日死去。享年31

山野一

1961年生まれ。1983年、『ガロ』でデビュー。著書に『四丁目の夕日』『どぶさらい劇場』『混沌大陸パンゲア』『貧困魔境伝ヒヤパカ』など。妻であったねこぢるの死後、「ねこぢるy」として『ねこぢるyうどん』を発表。

根本敬

1958年生まれ。特殊漫画家、文筆家、その他。著書に『生きる』『亀ノ頭スープ』『キャバレー妄想スター』『因果鉄道の旅』『人生解毒波止場』など。「幻の名盤解放同盟」として廃盤レコードの復刻も手がける。

モンドメディア社 スペシャルインタビュー

前説1. 前回の蛭子能収インタビューで聞き手の山崎春美「やはりバイオレンスは、平和な笑顔とウラハラに産まれるもんだなァと、つくづく実感したものである」と記している。

確かに蛭子さんの漫画はすぐ人が死ぬし、まったく意味が分からない作品(というより漫画の体裁を装った訳の分からない何か)ばかりである*1

それなのに本人の風貌はいたって「カワイイおじさん」であるため、昔はよく「漫画と本人にギャップがあり過ぎる言われていた。

一方、鬼畜系特殊漫画根本敬山野一は若い頃いわゆる「二枚目」で、蛭子さんとは逆のベクトルでギャップがあったものである。

ちなみに蛭子さんがテレビ露出する以前、読者がイメージしていた作者像の特徴を総合すると「神経質で青白そうな美大くずれのインテリ青年」だったのだが、今にして思えば、だいぶ可笑しな話である。

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情報手段が発達していなかった当時、みんなのイメージでは図版右(裸のラリーズ・ブート)のような人が描いていると思いきや、実際は図版左(『私立探偵エビスヨシカズ』書影)のような人だった*2

いつもはスッとぼけて無意識過剰に見せている蛭子さんであるが、さすがに自身の風貌と作品とのギャップについては強く自覚しているようで、花輪和一*3と初めて会った際の印象も交えて著書『ひとりぼっちを笑うな』の中で蛭子さんは次のように語っている。

花輪和一さんという、結構おどろおどろしい漫画を描く人がいて、彼の漫画のファンだったんです。でも、実際にお会いした花輪和一さんは、漫画のイメージとまるで違う感じの人でした。お笑い芸人さんみたいな見た目の方だったかな。

花輪さんも、勝手にイメージしていた風貌と漫画とにギャップがあったんです。そのときに感じました。「おどろおどろしい漫画を描いている人が、意外とひょうきんだったりすることもあるんだな」って。でも、よくよく考えてみたら、むしろそっちのほうが多いかもしれない。

漫画家に限らず、本人と作品のイメージって必ずしも一致しませんよね。歌手のように表に出る機会の多い人は顔と作品が一致するかもしれないけど、漫画家や絵描き、小説家など、普段あまり表に出ることのない人は、得てしてそういうことが多い気もします。

だから、僕の顔を見て、がっかりしないでほしい……な。

 

前説2. 赤塚不二夫の名言に「常識人でないとギャグは生み出せないんだよ」「ただバカっつったって、ホントのバカじゃダメだからな。知性とパイオニア精神にあふれたバカになんなきゃいけないの」というのがある。

娘のりえ子いわく赤塚不二夫常識が分かるからこそ常識のどこを壊せばギャグになるかが、すごく分かっていたという。常識に縛られず、新しい物事に挑戦していくには、やはり「常識」から入らなくてはならないものだ。

そもそも世間一般的に「アウトサイダー」と言われる、まるで常識とは無縁であるように思える異端派の送り手たち(例えば鬼畜系作家や、80年代のエロ本関係者など)にこそ教養ある文化人や常識人が多いことに薄々感づいていたが、これを如実に表したのが根本敬「だいたい趣味がいい人じゃないと、悪趣味ってわからないからね」という言葉だった。

まあモノホン精神異常者(いわゆる電波系)や、人間味のない鬼畜(ほか特殊全般)といった壊れた人達は「非常識がデフォ」なので、勝手に見世物にはなるだろうが、彼らが送り手の立場になってコンテンツ大衆相手に創造できるかどうかは、かなり怪しい

つまり「非常識な人間」が意味不明なモノを作ったとしても相手にはまず伝わらない。だから「非常識をよく知る常識的な人間」の方が意味不明なモノでもキチンと処理できるし、コンテンツの形にして相手に広く伝えることが出来るのだ。

やはり「悪趣味」を創造する送り手には、知性・教養をかね備えた上、変態的な才能とユーモア精神(あと少しの社交性)が無いといけない。これらのどれかが欠けると途端に「悪趣味」は陳腐な悪趣味」になってしまうものだ*4

 

前説3. 前置きが超長くなったが、海外アニメの『サウスパーク』や『Happy Tree Friends』は見事に大衆化に成功した「悪趣味」の例である。

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両者とも作品世界は、常軌を逸していて、とても常識的とは言えないが、あの手この手で常識を破壊し続ける精神は、まさに知性&変態&常識を知る「完全無欠の常識人」だからこそ出来た業である。

だが、視聴者の大半は「作者は頭おかしいし、正気じゃない」とか「そもそも何を考えて、これを作ったのか理解できない」といった失礼かつ当然の感情を抱かずにはいられないであろう。

ここでサンフランシスコにある『Happy Tree Friends』の制作会社Mondo Media社のインタビューをご覧いただく。このインタビューは特に「作者は頭おかしい」なんて見当違いな誤解をしている人にこそ読んで貰いたい。

 

モンドメディア社 スペシャルインタビュー

Special interview about HTF in Mondo Media

2011年10月現在、120話以上を公開するハピツリの生みの親、モンドメディア社。ハピツリの誕生秘話や、どのような工程を踏んでストーリーができるかなど、クリエイター陣に突撃インタビューをした。

 かわいいキャラクターが残虐でグロテスクな死に至るなど、バイオレンスな描写のギャップが人気の核となるハピツリ。このストーリーは一体どのように誕生したのか、共同制作者のケン・ナヴァロ氏をはじめとする、クリエイター陣に直撃インタビューをした。

ケン・ナヴァロ(以下、KN)/ケン・ポンタック(以下、K)/ジョン・エヴァーシェッド(以下、J)/ウォレン・グラフ(以下、W)

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──ハピツリはどのような経緯で作られたのですか?

KN:最初は当時のスタッフのロードやウォレンと、仕事の合間にとてもかわいいキャラクターが残虐な目に遭うというイラストを冗談で描きあい、お互いにふざけあっていました。ある日、ロードがスプレッドシートポスターにカドルスの原型になる黄色いうさぎを描き、抵抗は無駄だと書き添えて、社内の人々に見えるように自分のデスクに貼り付けたんです。

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「このキャラクターを使うように」という“洗脳作戦”が成功を収め、企画会議で提案するようにプロデューサーのジョンに勧められ、短編アニメ制作のチャンスが与えられました。当初は「Banjo Frenzy」バンジョー・フレンジー)というタイトルでしたが、後に現在のハピツリに改名しました。

www.youtube.com

──どのように人気が出ていったのですか?

W実は、人気があったことはまったく知らなかったんです。2000年はインターネットの全盛期でしたが、まだダイヤルアップの時代で、視聴回数もまだ出ない時でした。私たちは、ただ週に1度、ストーリーをウェブ上にアップするという作業を続けていただけです

KNもっとも子供用のアニメではないですし、メッセージ性もありません。だから、スポンサーはつかないですし、売りようもないですね(笑)。DVDをリリースすることになった時、800本の販売目標がありました。私は毎日ウェブをチェックして数字を追っていたのですが、日ごとに数字が伸びていき、1ヶ月も経たないうちに目標はクリアするどころか、さらに数字が伸び続けていたので、驚いたのと同時に、「ひょっとして、すごいことになっているのでは?」と気づいたんです。

J:まだ、ダイヤルアップ接続だったインターネットが全盛期を迎えた2000年や、YouTubeが初期の時代(2006年〜)に、すでにウェブ公開を開始していたこと。これが成功につながったのでしょうね。

 

──マーケットの反応に対する感想を聞かせてください。

K:もちろんうれしいです。これまでプロとして自分がやってきたことの選択は、まちがっていなかったと思わせてくれました。

KN:全米最大のコミックイベント「コミコン・インターナショナル」では、「あなたが原作者のケン・ナヴァロ氏?」と声をかけてきてくれ、私だとわかるととてもエキサイトしてくれました。しかし、ある日、自宅に電話がかかってきて「ハッピーツリーフレンズ」と言われた時には、さすがに引きましたけどね。

 

──なぜ、あのようにグロくて暴力的なのですか?

K:暴力とは神経質になり、不快だという意味合いがあると思いますが、私たちのストーリーで使用する暴力は、ただの副産物でパンチラインのひとつに過ぎません。

KN:「トムとジェリー」のトムが、ジェリーをぺしゃんこに押しつぶしても、ただ意味もなくおかしいと思えるように、「実際にこんなことはありえない」とか「こんなこと、ばかげている」と思えるものは、ユーモアの一部になりえます。アニメだから行き過ぎると面白い。

 

──このストーリーで伝えたいことはなんですか?

K特にメッセージ性があるわけではなく、何かのレッスンがあるわけでもありません。ユーモアをベースに作っている私たちが、楽しくて笑っているから、視聴者たちにも楽しく笑ってもらいたい。そんな純粋なエンターテイメントです

W:80年代のかわいらしいキャラクターが登場して物語がスタートし、それぞれのキャラクターの個性を生かしたユーモアとジョークが満載のストーリーが展開される。「楽しかったね、はい、おしまい」。そんな感じで、とにかく楽しんでもらいたい。ただそれだけです

 

──普段は暴力的な人たちなのでしょうか?

K:ケン・ナヴァロという人はネガティブなことがあっても、必ずポジティブに捉える、いい意味でとても楽観的な人です。温厚でとてもステキな人格者ですね。ストーリの源がやさしい心を持つ人にあること、それがクオリティにつながるのだと思います。また、私たちは大きな子どもで、決していじわるが好きな集団ではありません

KN:ストーリーを考案するためのミーティングを毎回8時間持ちますが、今日の取材のように、とにかく私たちは四六時中笑っています。たわいもないことを話し合って笑い、その笑いがピークに達したものを、最後の40分でハピツリのストーリーに仕上げています

K:ケン(ナヴァロ)は小心者なんです。目玉が2つに割れた時の中身をアニメに描写するために写真のリサーチをしていましたが、吐き気を催して、リサーチが続行できなくなりました

KN:アニメだから正確さは求められていないので、グレープフルーツを輪切りにした状態を想像して、それを描くことで代用しました(爆)

 

──制作過程中、おもしろいことはありましたか?

W:通常8時間のミーティングでは、よく話し、よく笑うと話しましたが、ハピツリのストーリーになったエピソードを話します。私が幼いころ、母が料理中にコンロの火がエプロンに燃え移り、洋服まで燃え始めたんです。それを見た父が急いで毛布を持ってきて母を抱きしめ、火を抑えたということがありました。今となって笑い話ですが、その話をした時、父が持ってきた毛布にも火が移って、一緒に燃えてしまったというストーリーにしてみたらどうかという案が出ました。それが現在公開されている「Who 's to Flame」というストーリーです。

 

──今後、新しいエピソードはいつ制作される予定ですか?

J:2011年の秋には製作に取り掛かる予定ですので、また、みなさんに観てもらえる日が近いと思います。

KN:私たちのコンセプトスケッチブックには書き溜めているストーリーがたくさんありますし、ストーリーはエンドレスです。

Wすべてストーリーにするまでは死ねないと思っていますから、期待していてください。

www.youtube.com

インタビューに答えてくれたモンドメディアのスタッフたち

 

Kenn Navarro

(ケン・ナヴァロ)

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「HTFのキャラクターはすべて私の大切な子どもです」とハピツリの生みの親らしい発言のケン・ナヴァロ氏。

共同制作者、ディレクター、脚本、作画、演出、Flash制作、絵コンテ、アニメーター、イラストレーター、カドルス、フリッピー(通常時)、リフティ、シフティの声優と、なんでもこなすHTFの心臓みたいな人。

しいて言うならランピーが好き。「いつもばかげていて、いつもおもしろい。自分の性格の一部を表していると思います」と語る。

 

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「今ではアドビフラッシュがあるので、修正も瞬時に、しかも簡単に行えるんですよ」と、修正もお手のもののケン・ナヴァロ氏。アドビフラッシュを使用して動画にするのもアニメーターのケン・ナヴァロ氏が担当。

 

Ken Pontac

(ケン・ポンタック)

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アニメーションライター。「ストーリーがクリアであること、できる限りおもしろくすることを心がけています。また、ストーリーが各キャラクターの性格に基づくようにしています」と、マジメに答えているが、「いつも赤ちゃんを危険な状態に陥れる父親の行動を見るのが好き」という理由で、好きなキャラはポップ&カブ。

 

Warren Graff

(ウォレン・グラフ)

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アニメーションライター。トゥーシーの声優。複雑なストーリーを作ろうとするとかえって煮詰まるので、極力シンプルに、そしてキャラクターの行動が理にかなうように、それでいておもしろくなるように考えているんだそう。やっぱりランピーが好き。「すごくおもしろくて、ばかげているキャラクター。これは自分の一部にも当てはまりますね」とどこかで聞いたようなコメント。 

 

John Evershed

(ジョン・エヴァーシェッド)

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モンドメディア代表取締役社長、エグゼクティブプロデューサー、共同経営者、CEO。ライターの3人にとって自由な環境を整えるよう気を配っている偉い人。HTFでは、ランピーが好き。「どのような役割になってもベストを尽くそうとするところに、自分自身を見いだすことができます。ばかげている性格も憎めないですね」。偉い人はマジメ。

※このインタビューは『HAPPY TREE FRIENDS e-MOOK 宝島社ブランドムック』(2011年12月発行/絶版)に掲載されたもので、最新の情報とは異なります。

*1:読者は作品の「意味のなさ」から感じる「狂気」を追体験することで、ある種のカタルシスを得ていたのかもしれない。本来の蛭子漫画の読まれ方はここにあると勝手に推測。

*2:青林工藝舎『アックス』113号 12頁 2016年

*3:猟奇的な作風を得意とする『ガロ』出身の漫画家。

*4:少なくとも知性&教養&変態&諧謔すべてを併せ持つような人間は天才か変態か、あるいは両方だと思います。

山崎春美のスーパー変態インタビュー(連載第3回/蛭子能収編)「女房の流産を心底喜んだ!? 異端漫画家 蛭子能収」




 

【解説】「ボクは妻の流産を喜ぶ男を、はじめて見たのだった」以上が再デビューの仕掛人山崎春美による蛭子能収初期のインタビュー記事である(ちなみに管理人が現在確認している蛭子能収インタビューの中では、これが2番目に古い)。

蛭子能収恐怖伝説のひとつ「女房の流産を喜んだ」というのは、おそらくここが初出であろう*1

話は飛ぶが、このインタビューが掲載された『Billy*2「スーパー変態マガジン」になったのは何の因果か1982年3月号、つまり本号からである。その為か連載1回目の記事がやたらと多い。

 
山崎春美*3は、漫画家をやめていた蛭子さんを見つけるため『ガロ』編集長の渡辺和博に問い合わせるなどして捜し出し、高杉弾の伝説的自販機本『Jam』で1979年に再デビューさせた張本人のひとりでもあるのだが、結局このインタビュー記事を最後に、タコのCDボックス発売記念イベントで2012年に再会するまで、2人とも世紀をまたいで30年間一切会わなかったという、実に「らしい」後日談も残っている。
 
後日談をもう一つ。
実は山崎は蛭子の他にもう一人、ある“カルト”漫画家を発掘しようとしていた。あの怪作『怪談人間時計』で知られる伝説の漫画家・徳南晴一郎である。
 
徳南晴一郎『怪談人間時計』曙出版 1962年)
 
当時、徳南氏はとっくに漫画家を廃業済みで、山崎の話にも全く応じてくれなかったといい、1996年に太田出版『怪談人間時計』晴れて復刻に漕ぎ着けるものの、その出版の経緯も特異で『Quick Japan』の編集者が復刻を申し入れるため、徳南宅何度も訪れるも、その都度、ほとんど門前払いに近い形で拒絶され続け、その挙句「出版するなら勝手にしろ。ただし印税の受け取りはお断りする」といった主旨の手紙を送り付けられたという。
 
こうして復刻された『怪談人間時計』であるが、それ以前に山崎春美徳南氏に接触を試みたことを書いた文章を以下に再録しておく。
 
 X-LAND 今月の一冊
 
『怪談・人間時計』徳南晴一郎

曙出版・170円

僕の大好きな秘蔵本なんす。めったに門外不出を、ま、出してきました。折角のゲリラ号なので特別大サービスなんよ。

エビスさんねぇ、ハナワさんねぇ、木木しげるねぇ、つげ義春ねぇ、好きなマンガ家は多々あれど、一味ちがうのね。明らかに光っている。

理屈ヌキにスゴイから、ダマされたと思って……一度でいいから……。

今、どこでどうしてるのか、生きてんのか死んでんのか、もし消息を知ってる人がいたら、お願えでごぜえますだ、教えて下せえ。というわけで、読みたい人は連絡して下さい。賃貸しします。面接あり。(ハルミ)

 

  

 

※1981年、自動販売機本『HEAVEN』8号掲載

こうしてボクが『人間時計』を紹介した

山崎春美

 

つい今しがた、マンガ専門誌『ふゅーじょん・ぷろだくと』のバック・ナンバーが送られてきた。グロ専門なエロ雑誌として勇名の誉高き『BILLY』に載せた、蛭子能収なるアブノ漫画家のインタビューについて、一部分掲載に稿料ナシ、の代替えとして、呉れ、と頼んでたのだ。つらつらと眺むるに、思い出されるのは、やはり〈幻の『HEAVEN』10号〉用の漫画を(サイズを間違えつつも)喜々として描いてくれた折の清水おさむ、や、コンサートの機材運びを快くも手伝ってくれた蛭子能収であり、『タコ』のジャケット絵を、それこそ二つ返事に引きうけてくれつつも、相好一つ崩さぬ花輪和一の、がっしりボクサー並みにふしの強い腕と、そんな(かいな)に連なる、いまにもフルエだしそうな指先、などなのだ。

 

ところで『HEAVEN』8号でお披露目した、徳南晴一郎の『怪談・人間時計』を憶えてくれているだろうか。実は、あの時点で既に、早稲田の「現代マンガ図書館」にて件の「人間時計」だけが、ひっそりと復刊されていたらしい。マニアックなものらしく、知る人も少ない、とのこと。中野にある、有名な中古マンガ屋さんに訊いても「ああ、徳南サンねぇ。確か十冊くらいは出たはずだけど、今やどこで手に入るのやら」

 

いずれにしても、一年もたってからそんな経緯を知らされたわけだが、急ぎ問い合わせてみると、もうこれは一介の主婦に成りはってらっしゃる往時の「曙出版」編集長(女性)は、御年四十にも及ぶだろうか、記憶を辿り辿り、しかし「なにしろ、二百部しか作ってないような本のことですから、ねぇ~」。

それはそうだろう。

しかし、蛭子さん時〈ジ〉も、そうだったが、この手の話に、すぐ飛びつく癖が病まないボクとしては、早速に現在の連絡先を訊いたりしたのである。自宅の方は引っ越されたようで不明だったが、勤務先だけは、わかった。大阪の業界新聞だそうだ。

 

関西なんだ、と、ボクは感慨に耽った。

「でも、ムツカシイかも知れませんよ。今はもう昔の興味をすっかり失われてたみたいだし…。それに…なんというか、こう…ちょっとカタワというか生まれつきセムシみたいな身体つきの…。あ、ですから絶対に、その点には触れないよーに」とは、二代目「アケボノ出版」編集長(男性/エロ雑誌関係者らしい)助言。それにもめげず勇鼓を奮ったボクの脳裏には、たとえば、宴会の席で、酒も煙草もやらず、食事に箸さえ付けず、一人ポツンと誰とも喋らずじっと独り居た、とか、夜中、急ぎの原稿を描きながら、唐突に意味もない空笑いが止まらなくなる、などという逸話の数々が、徳南氏自身の人となりに、ダブッて視えたのだろう。

 

早朝だった。なにしろ(たより)といえば手元にある電話番号だけ。(午後に電話しても、判で押したような女事務員のツッケンドンな応答が『取材で居ません』『連絡先? さあ』『自宅をですか? 知りませんけど』と埒が開かなかった)。意を決し、深呼吸する。

 

もはや何度目かの「徳南晴一郎さん、いらっしゃいますか?」と、どうだ。「少々お待ち下さい」。

 

ああ、そして胸も焦がれる、その瞬間は、来た。

「もしもし、あのォ、ヤマザキと申しましてぇ、はじめてお電話する者なんですが……」

「ハイハイ、アノねえ~(強い関西、訛り)いまいっちゃん(=一番)忙しいときなんですわ。用件は? え? いるのアンタ、いらんの?」

「あ、あ、あのォ、ボ、ボク…」

「いらんのね、アンタ、要らんのやね」

ガチャッ。〈電話の切れる音〉

この間、約二十秒。

 

(編集家)

 

※1982年、自動販売機本『フォトジェニカ』掲載『アングラ・コミックス秘話』より抜粋。原稿中明らかに不適切な表現がございますが、この文章の歴史的意味を考慮し、そのまま再録いたしました。

*1:『ガロ』1982年4月号にも本人が女房の流産をネタにした漫画を描いている。

*2:白夜書房発行の伝説的なエロ本。後の鬼畜系ないしアングラ系のサブカルチャーに多大な影響を与えた。有害図書指定を受けて1985年に廃刊。

*3:伝説的自販機本『Jam』編集者のち『HEAVEN』3代目編集長。1979年に解散したロックバンド「ガセネタ」のボーカル。ニューウェーヴ音楽集団「タコ」主宰。このインタビューから半年後の1982年9月1日、中野plan-Bにて“ハードコアという枠を飛び越え、多くのパンクファンを色んな意味で震えあがらせた”伝説のギグ「自殺未遂ライブ」を行った。

山崎春美のスーパー変態インタビュー(連載第2回/明石賢生編)「ウンチでビルが建った!? 群雄社代表取締役 明石賢生」

山崎春美のスーパー変態インタビュー(その2/前科者編)

ウンチでビルが建った(!?)群雄社代表取締役 明石賢生

第一回目のスターリンのミチローさんはヘンタイだけどちっとも変態ではなかった、というのが一部結論でした。群雄社の明石社長も、随分以前から変態呼ばわりされて久しいけれど、最初本人に、今ビリーはヘンタイ捜してるんです。って話したら、オレ、変態じゃないよ、って一瞬逃げかけたのでした。明石賢生は変態じゃ決してなかったけど、ココロは一流のヘンタイで、ビンビンのナウです。

さて今回は、カツモクのヒット企画《お名前だけはかねがね》の巻なのだ。いったいに《噂の真相》等では今や、スター並みの扱いの、それは誰かと聞いたれば……名を聞くだけでトイレも行けぬ中小企業群雄社出版」社長明石賢生、その人御自らの御登場なのでありんす。まさに破格の実験インタビューというのもフツー、この手の人種は、出たがり屋と出たがらずとがはっきりわかれておりまして、いくら写真家・武蔵野大門として傑作をあまた発表しておろうと、人徳で売る明石さん個人は決して、出たがりビトではないのれす。そこを何とか……是非に無理を重ねがさねて時間をすけて下すった。ああ有難い。

オマケにかてて加えてフツー、取材側が接待を完備すべきところを、年末締切りの忙しさと若気の至りと弱少出版の悲しさ、ロクな用意もできぬのを見越して、「しゃぶしゃぶ」から新宿のクラブ「門」まで、あろうことか「取材陣が馳走に預かった」という由々しき事態、これ全て明石さんのオゴリとゆう太っ腹、ああ、いくら彼の人生訓が「金は、持ってる者が払う」であったにせよ、感涙のあまりナミダナミダの有難さ。

と、いうわけで以上、本気の感謝の念を込めて御報告の段でした。

 

まずは、なれそめから入るのが礼儀というものですね。明石賢生って誰? なんて自称・エロ本愛読者がもしいたら、そんなモグリは片端から蹴っとばしてやんなさい、と断言できるほどに、隠れ大立者のひとりである。そんなエライさんにどうやって知り合えたのか、何せ生れてから今まで、エロ本など1冊も「買った」ことのない私と致しましては、ただただ偶然の神を問いつめるよりない。

あれはジャムの創刊の頃ですから、かれこれ丁度3年前。根からオツムのテッペンまで暗さで決めたパンク文学青少年だった私は、プライドを持って(!)佐内順一郎(現・高杉弾ヘヴン前編集長や、隅田川乱一先生や、八木真一郎御大とオツキアイ頂いていたわけですが、ある日ふとした拍子に佐内氏が拾ったエロ本に端を発して、エルシー企画という、その当時はアリス出版と並んで自販機界の売り上げ1、2位を争っていた会社へ遊びに行った、のかな? そうすっと八木氏も隅田川先生も、かつて明石社長の開いていたスナックの常連だったりして顔見知りのよしみ、“あ、あの時のあなた”とゆーわけで、トントン拍子に「ジャムの創刊が決まり、てな、ま、大体は、んな調子ですが、しかしところで、合言葉のように明石氏を巡って繰り返される「太っ腹」なる表現は、何も彼の「ユビュ王」もどきの風貌からだけではなく、内面よりニジミでる人徳、必ずしも人の良さだけではない天啓みたいな育ちの良さから来るものらしい。

見るからにサマにハマった経営者然とした御人柄の口から直接、「集団組織は好きじゃない」「強いものはキライだ」「安定指向は全然ない」などの御言葉を耳にすると、やはり、当人の好き嫌いをはるかに超えて、運命的に経営者としてしか生を完うできない彼の、人間性がほの見えるのであった。


─去年から一年、大変でしたね(笑)。

うん。いやァ…。(笑)うん。激動の一年。(笑)だったなァ。アリスと合体したのが、丁度二年前ぐらいで、で、それを半年で止めて群雄社作って、それから佐内の問題があって、ヘヴン作り直して、逮捕されて、ヘヴン潰して、方向転換して…

 

──過渡期、ですか?

ううん。いつもこんなもんよ。だから今は、意識的に宣伝したり売れる要素のものを出したりした半年間が終わって…

 

──あ、例のスカトロの…。

うん、まあそれも含めてね。あんまりいい加減に作ってると、潰れで人間、イージーになっちゃって、それしかできなくなったら困るからね。ま、まわりは風が吹きまくってるわけだし、ひしめて

 

──なるほど。でも、今やスカトロの群雄社ってぐらいで、相当評判というか、マニアなんか来ません?

来る来る。ホラ、さっきも一人来てたでしょ。九州からはるばる訪ねて来たとか、今、秋葉原でビデオ買って、すぐそっちヘうかがいます、とかね(笑)。現金10万円をポンと出したりして……

 

──そういうマニアとかソレモン一筋っていう人間像、なんかはお好き……

好き好き。もう、その手でスゴイ人がいたら是非、紹介してほしいね(笑)。イヤ、ホント。まじに

 

─じゃ、そろそろ明石さん御自身の経歴あたりから……。

ハハハ。喋るほどのもんじゃないですよ。ま、あれは何年かな、大学入ったのは。丁度、闘争の真最中で

 

─ブンドですよね?

そうそう。革マルとの闘争に明けくれてね。で、そのうち追いだされて、学校には近寄れなくなってね。ま、典型的な、思想うんぬんじゃないものがあったワケだから。20歳ぐらい、かな

 

──それからは?

ま、それで印刷屋をはじめたのよ。スポンサーがいてね、百二十万で印刷機買って、当時じゃ画期的なもんだったんだけど、ま、素人が講習会うけて習ってきてはじめたわけ。中核のビラなんかも刷ったりしてね(笑)。で、それがポシャって、今度はコンピュータのオペレーターをやってたのね。10何年も前だからね、『これからはコンピュータの時代だ』っていうんで、夜勤なんかだと誰あれもいないだだっ広いトコで、機械相手にポコポコやってたりしたんだけど、さすがにもうできないってんで、店をはじめて

 

──あ、クレジオですか?

うん。下落合でね。五ツボぐらいの絨スナックよ。たまたま知り合いにインテリア・デザイナーがいて、穴を掘って座る式にした方が能率いいからっていって、裸電球に黒のべっちんと、ユニークというかメチャクチャというか……

 

─クレジオって名は、やはりル・クレジオから……?

うん、そうよ。との頃は若かりし文学青年だったからね。もう、ここ10年は本なんて読んでないけどね(笑)。むき出しの壁のイメージが好きでねえ、店もそんな感じだったから変な奴ばっかり来てたよ。そうそう、真之助(隅田川乱一の本名)とか八木とか来てたね、よく

 

──変な奴らのたまり場?

うん。フジオ・プロが近くにあったし、及川恒平とか、あと暴走族の連中ね。音楽家の卵とか、色んなのがね

 

──結婚は、じゃその当時……?

うん、もう少し前かな。式なんか全然あげずにね。子供ができたから籍入れるみたいな。そういえば荒戸源次郎なんかもその頃から知ってて。ウチの女房と、自由劇場の同期でね。つい去年か、ヘヴンのインタビューの時に再会して、『お互い、醜くく太ったね』なんて……

 

──昔はやせてたとか……?

おおよ。50キロぐらいだったよ

 

──店はどれくらいの間?

うーん。オレが3年やって、女房が2年やって、あわせて5年か

 

──それから出版界へ?

うん、営業だけどね。盆裁の本を最初はやったのかな。それがまた……

 

ココはオフレコである。何、たいした内容じゃないんだけど、本をどっかへ通すために苦労して、そのどっかへのエライさんへ、親のコネを通じて持ってったら、ツルの一声で、そのオカゲで逆に担当者に意地悪された話や、そのどっかへの恨みつらみを述べているだけの話。文化と商売の二枚舌がどーしたこーしたなんて興味ないでしょ。ね。よってオフレコ。

 

……いや、もう大変でね(笑)

 

──それからは?

うーん、人に使われるのって、あんま好きじゃないんだよね。で、2年ぐらいぶらぶらしてて、そのうち佐山哲郎と出会ってね。(注・この佐山さんは群雄社刊のキンキラ本『陽炎座』の編集者で、その筋のユーメー人である)で、林さんって『えろちか』作った人と会って、『異端文芸』だとか復刊前の『地球ロマン』とか、そうそうエロ本時代のね、そういうのを扱い出して、ま、林さんも文学青年で商売はヘタでねぇ。今はビニ本業界の会長やってるけど(笑)、就任式の次の日に逮捕されちゃったけど


明石賢生の相棒こと佐山哲郎。その正体は浄土宗僧侶、官能小説家、群雄社編集局長、スタジオジブリ制作の長編アニメーション映画『コクリコ坂から』原作者)

 

─性文化って意識はあったんですか?

うん、『えろちか』なんて買って読んでたからね。要するにアレね、タブーとかフタするもの、権力ってのがすごい嫌いなんだよね。で、『幻影城』やってる頃に、その資金造りでエロ本を作りはじめたわけだけど……

 

─最初に作ったエロ本、覚えてます?

おお、覚えとるよ。日活のコ生意気な女優使ってね、ちょうど暴走族のはしりみたいのが出た頃だから、オートバイとのからみでね、スペクターって書いた旗をなびかせて……

 

─ビ二本の前身ですよね?

そうねえ。丁度、激写が出てきたんだよね、こっちのすぐ後に。その頃は『裸の必然性』みたいのがいるってんで、ミニ・ストーリー仕立てにしたりしてね、強姦ものとか覗きとか評判は良かったよ。だからタブーがいろいろあったのを、知らない強みでバンバン作ってたからね。それがまた、今見ても結構いいんだよね

 

──そうね。取次がセーラー服をOKしたのが、ここ1年ぐらいかな。

そう。とにかく取次本は、決定的に遅れてるね

 

──解禁についてはどうですか?

うーん。どうでもいいっちゃ悪いけど、なればなったで、こっちは次の手を考えるからね。ただ見せる、見せない、女が可愛いい、可愛くない、だけじゃない何かってのを出せないとね。いや、ホント、エロ本こそ崇高に作るべきよ

 

──ヘヴン作ってた動機(笑)……ボクがきくのもオカシナ話だけど。

いや驚いたね。とにかくビックリしたっていっても内容じゃなくて、ただ面白いからやりたいっていう連中がいるって事実に驚いて、オレ、内容なんか、悪いけど全然見てないわけ。読んでもいないし。だけど、面白いから作りたいって、そう考えてる連中がいるって事にね。で、あと中途半端は嫌いだからね。面倒見るなら見るで、みないならみないって徹底したかったから、だからアリスと合体して辞めた動機のひとつもそこにあるんだよね。売れない本だからって切り捨てていっちゃ、そういう姿勢じゃ、いつまでたってもダメだと思うから。売れない本を売る姿勢が大切なんだ、と思うね

 

──どうも有難う御座居ます(笑)。で、群雄社を作って……

当初は大変だったよ。ヘヴン入れて15人ぐらいか。とにかく人を引き受けるってのが大変なんだよね。最近、非常にそう思うんだけど、蹴っとばすと、例えば今回ハルミをこれで、イヤ忙しいからとか言って打っちゃっちゃっと、必ずあとでそれが自分に返って来ちゃうんだよね。だから、それは、自分よりエライ人がたくさんいるって事だよね

 

──大体今の30から35ぐらいの僕って一番ヒカってますね。頑張って。

うん。変に安定するのはキライだしね。だから今も、社内をナアナアっぽくしないように手を加えてるとこなんだ

 

──でも、エルシーも群雄社も、社内のムードって、わりとファミリーっぽいですよねえ。

いやァ、それはやっぱ体質が出ちゃうんだなあ(笑)

 

───それでいよいよ、核心に触れてくるわけですが(笑)、逮捕前ってのは、事前にわかってたわけですか?

何が? 逮捕されるってのが? うん、まあ大体はね。2ヶ月ぐらい前から、もうこりゃやられるなってのは自分でも気付いてたし、あらかじめ情報は流れてるから、用意して待ってたんだ

 

───用意して(笑)

洗面用具とかタオルとか持ってね

 

───旅行に行くみたいだな(笑)

んで、風呂入って、そろそろ寝るかなって頃にね、丁度12時5分ぐらいよ。ぴったし。だから逮捕状が出て5分ぐらいでね、来たの。ヨメさんが手振って、『行ってらっしーい』『頑張ってね』(笑)って言うから、あとで刑事が、『お前の女房はスゲエな』って(笑)、ホラ、普通は泣かれたり大変じゃない。だから

───卒直に、どうでした? 房は(笑)

いやあ慣れたけどね、寒かったよ。でも面白かった、なーんてあんま書くと困るけど、でも面白かったね

 

───同居人とか……

うん。サギとスリとアキスと、あとヤクザがいたのかな。入ってって『明石といいます。よろしく』つったら、『あーあー』って感じで、誰が入ってこようが気にしないって態度でね。『何やったんだ?』『ワイセツです』『イタズラか?』『いや、ビニ本作って……』なんてね。んでその頃丁度、そこにあった平凡パンチか何かに、オレのことが出てたんだよね。『明石さん、これでしょ』なんていわれて、あとはメシの時も、『ハイ、ビニ本屋の社長』とかいわれてさ(笑)

 

───途中で誰か入って来ませんでした?

来た来た。池袋の銀行ギャングってのが入って来たよ

 

───あ、あの駅前の……

そうそう。そんなみすみすつかまるような真似を、池袋の、それも信用金庫なんかでするなって(笑)言ってたんだ。あとねえ、シャブの打ち方とか、アキスに入られない方法とかねえ、そう、アキス自身が教えてくれるわけ。普通の格好をしてね、奥さんの買物のあとをつけるんだって。んで、電車乗ったら二、三時間は帰ってこないから、それでヤるんだって。だけど中へ入る手口は教えてくんなかったけどね。オレのは特殊だからって

 

───ハハァ、雑誌の新企画みたい(笑)

でもアレだってね。お金なんて、貯金を引き出しに行くようなもんだってね。朝はいつも、出勤に行くようなもんだって

 

───ハハ。いいなあ。中での生活はどうでした?

うーん。夜が早いのね。もう8時には寝て、6時ぐらいに起きるのかな

 

───メシは?

メシはねえ、それがよく考えられてて何ーにもしないじゃん。だから、ゴロゴロしてて、丁度、腹がすいたなァって頃に昼メシなのね。んでまた、喰って、しばあらくして、また減ってきたなっていうと夕メシが来るのね。最初は少ないななんて思ったけど、そのうちこんなもんだなって

 

───寝れました? よく(笑)

いやあ、もう、いろいろ10年ぐらいやってきたからねえ、そろそろいい経験だと思ってたけど、オレなんか普段は何も考えないじゃん。それが雑誌がないからいろいろ思い出したり、小学生の頃の事とかね、考えないこと考えたりして、いったん寝ても、1時ぐらいに起きちゃうんだよね。で、本は読んだなあ

 

───20日……30日ぐらいでしたっけ。

そう、起訴されて、かれこれ30日かな。裁判で10ヶ月、執行猶予3年。だからヤバイんだよな、あんまり刺激すると(笑)方向転換して考え直したって書いといてよ(笑)

 

───本って、どんなの持ってったんですか?

いや、オレはイロイロ固いのを持ってたんだけど、あすこに、前の人が残してった松本清張とか司馬僚太郎とかがあるわけ。そういうストーリー、筋を追うものしか読めなくてね。でも30日居て、1日1冊ぐらい読んでたかなァ

 

───麦メシなんでしょ?

いや、あのね、拘置所は麦メシなんだけど、留置所はコメ、量は決して多くないんだけどね、でもあそこの生活になれちゃうと、差し入れなんかは喰えないね。とてもじゃないけど、腹いっぱいで

 

最近、別の事件の公判に、証人として呼び出された明石さん、証人という立場の気楽さからか、言いたい事を喋ったら、検事が突然「この証人を弾効します」

何事かと思ったら、証人・明石賢生の過去を、それこそ学生闘争時代のからひっぱり出してきて洗いざらいぶちまけられて、ビックリしたという。いったん休裁して、その後、「今の検事の発言は却下します」で救われたと。

 うん? 前科一犯? 二犯? 知らんよ

 

群雄社の本はリアリティーがある、とよく言われる。現在は「無理矢理に順調にしている」らしい出版状況らしいが、やはり作られるそのエロ本一冊一冊に、深くしみついた明石賢生氏の底抜けの姿勢が読み取れる、と言ったら誇張にすぎようか──なーんか言ったりして。

取材サイドの不備から、用意していったテープのうち一本しか使えない羽目にあって、「仕事」は早々のうちに、つまり90分テープ一本分の一時間半で終わってしまい、あとはたっぷり「しゃぶしゃぶ」を賞味し、新宿まで出て女のコとキャアキャア遊んできてしまった、ふがいない取材陣だが、どうもテープの切れたあたりから明石社長の言葉の切れには、ソラ怖しいところがあり、例えば、

闘争の時もそうだったが、二列目はダメだ。最前列、最先端にいる者のみが、すべてを状況把握できるのだ。まん中にいる奴は、実際に殴られないからいつまでたっても、ビビったり病気になったりしてラクなままなのだ

といった重要発言が随所にとびかい、かろうじでメモできた今の一言を除いてはすべて忘れてしまったこのだらしなさ、とするのが、重要発言を、あえてオフレコに踏みきった編集サイドの義務でもまたあるのかも知れない──なーんか言ったりして。でも、こればっかりはホントに、明石さんは女を、それもすべての女という女を、愛しているように見える。

女はきれいだ。猫みたいに美しい

なーんか言ったりして。

でも、ま、実際、「よく聴き取れませんでした」とせずにはおれない難聴の哀しさは、やはり、いくらショッキングで刺激的で面白い内容があったとしても、そのオカゲで別に、テメエのフトコロがあったかくもなりゃしないオフレコならば、あえて男一匹義理果たし、棒に振ってしまおうとする姿勢というのは、これは正しいのだろうか。

 

───結局ね、ハタから見てると、逮捕劇はあるは、スカトロのスゴイのは出すわ、ヘヴンみたいな雑誌は出すわで、群雄社っていうのは何なんだろうって疑問が、一般にあるようなんですけど……。

何にもないんですよ(笑)

最初にインタビューの話を持ち込んた時の明石氏の開口一番は、「オレ、変態じゃないよォ──」であった。事実、彼は変態では、どうやらない、とするのが今月の結論。皆さん、どうも御苦労さまでした。

あのね、もひとつ。明石さんの子供っていうのと遊んだことあるんだ。ヒマで、何かの日曜日みたいな日に、会社へ遊びに来てて。すごくシニカルで冷笑的で、とても子供(6つぐらい)とは思えないその態度に、驚いだ事がある。ハハァ、親がこうだと息子も……って思ったの。それだけ。

 

PS

身長170 体重78キロ

B105 W98 H100以上

好物 焼きおにぎり、メンタイ、タカナの油いため

以上

 

これが明石賢生の最初で最後のインタビューになってしまった。
 
白夜書房/スーパー変態マガジン『Billy』1982年2月号所載 

群雄社出版HEAVEN』1981年3月・通巻9号(廃刊号)

 

山崎春美/WHO'S WHO 人命事典 第3回

明石賢生〔あかし・けんせい〕

(1947~1996/享年48)

そりゃあ太ってはいたろうさ。(以下数十行をミスから消去してしまった。最後の文は)とどのつまり、ぼくたちは痩せっぽちすぎたんだろう。享年四十八歳で夭逝した葬式にはその、たった二年後に逝ってしまう美沢さんと行った。

「エルシー企画」社長から「アリス出版」副社長を経て「群雄社出版」社長に。「カネは出すが口は出さない」という自らの社是をあくまで貫いてX-BOYこと美沢真之助をして「(『HEAVENが奇跡的に成立できたのは』社長のこの社是にある」と言わしめたほどだ。この国のポルノ業界(自販機本~ビニ本~ビデオ)にあっては伝説の風雲児である。それだけではない。群雄社のなんと律儀なこと! 詳細は別(『天國の…』)に記したので省くが『HEAVEN』10号が未発売になって行き場を失ったぼくを同社に招いてくれたのは蟻がたかった、もとい有り難かった。とはいえ、たったの1か月しか在籍していない不良社員でさえないぼくにさえ(労働実績皆無!)社会保険を支払ってくれていたことが二十一世紀になって年金問題が騒がれた頃に国からの電話で知った。

また『BILLY』なるセルフ出版(白夜書房)のエロ雑誌に載せたインタービュ企画があり、“スターリン”全盛時だった遠藤みちろう蛭子能収に続いて明石さんに突撃取材を敢行したのだが、本来ならホストである我々『BILLY』編集者が支払わねばならない店の、取材飲食代金を奢って貰った!