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『突然変異』創刊号から「ついに実現! 突然変異VSピチピチロリータ」(青山正明の原点)

これは青山正明(大塚雅美)が慶応義塾大学法学部在学中に編集・執筆していた伝説的な変態ミニコミ誌『突然変異』の創刊号(1981年・慶応大学ジャーナリズム研究会)に掲載されたロリータ記事(女子小学生へのインタビュー)の全貌である。





 

ついに実現! 突然変異VSピチピチロリータ

ロリコントリオ、柏に出陣〉

我々“突然変異”のスタッフ3人(車田・西村・大塚)は自他共に認める純粋培養のロリコン人間。そもそも、こんな手間と金のかかる雑誌作りなど始めたのは、女の子に声かけたり、写真撮ったりする口実をこしらえるためなのだ。そんな我々は2月9日の朝、カメラとメモ帳を手に、車田氏の母校、“柏第●小学校”に乗り込んだ。まず、小学生だった車田をさんざん殴ったY教頭の所に出向き、慶応大学心理学研究室を名乗り、「広告媒体と小学校」のレポート作製の名目で、昼休みに運動場で写真撮影する事を許可された。

いざ昼休みと思いきや、「慶応大学のおにいさんがみんなに質問があるそうです。話しかけられたらちゃんと答えてあげましょう。」という放送が全校に響き渡った。それからはもうたいへん。ガキの群れに追っかけられ、写真どころじゃない。どうにか美人小六生二人と放課後会う約束をし、その場を去った。午後4時、二人のかわいい子(A・B)は、かわいくないが性格が良さそうな子(C)と、かわいくなく、性格もねじ曲がってるけど頭の良さそうな子(D)の二人を連れて来た。いよいよ始まりだ。

 

〈大学生、小学生を破る!〉

所は、柏駅前のサーティーワン。広い店内には50人余の女子高校生。女子小学生4人を連れたおじさん3人はがぜん浮き出る。7人で腰を下ろし、まずは車田が口火を切る。

♂「現在の学歴社会をどう思う?」

♀「もっとやさしくしてー」

♂「うーん。ジョルジュバタイユの過剰消費の現状コンセンサスは?」

我々天才3人組の前に、女子小学生4人は為す術を失い茫然自失。その後、彼女らの発する難問に、我々は竹内均直伝の地球物理学を縦横に駆使した名答をもってし、圧倒的優位の下、対談をスタートさせた。

 

〈光一平〉

♂「好きなタイプの男の子は?」

♀「やさしくて、誠実で、浮気しない人」

車田「じゃあ、幼稚園ぐらいの男の子だね?」

A「生意気だからやだー。もっとチッチャナ男の子がいいー」

これをロリコンと言うのだろう。

B「光一平、光一平、光一平、光一平、光一平、光一平、光一平」

車田「それじゃ、嫌いなタイプは?」

♀「やらしい人!」

「こんな人?」と言って大塚を指示す。女の子一同うなずく。女の子の直観力に驚き、大塚うなずく。

 

〈突然変異〉

D「これ何の雑誌?」

西村「突然変異」

A「何、それ?」

D「本の名前は?」

西村「だから、突然変異」

B「何じゃ、そりゃ。きもちわるい名前だね。買う人いないよ」

D「バカみたいな名前だ」

A「ベストセラーの第……一番最後」

当ってる?!

 

〈不良予備軍〉

大塚「君たち、中学になって不良にならない自信ある?」

晃子「姉の影響に及ぼされて……」

西村「えっ、お姉さん何才?」

晃子「17」

西村「17で何やってんの」

晃子「この前迄、スカートたらったらにして、カバンペッシャンコにしてひどかったの」

回りの女高生、一斉にこちらを向く。

晃子「こないだなんかねー、うちのネーチャンの友達がね、水洗便所の中に頭突込ませて『あやまんなあ』なんてやってたの」

大塚「すごいね」

ココデ……〈要点整理〉

 

姉(17才)〈現役不良〉

〈特徴〉カバンペッシャンコにしてスカートたらったら

〈趣味〉湖北高校へ通う

兄(20才)

〈特技〉オートバイをプルンプルン

〈癖〉北村さんとテニス

〈特徴〉リーゼント→カーリーヘア

赤坂晃子〈不良予備軍〉

 

〈川島邦夫君、開成落ちる!〉

大塚「ねえ、さっき話してた川島君ってどんな子?」

D「いやなやつなの。私たちが発言すると、『あーそれは違うんじゃないかい』なんて言ってさー」

大塚「頭のいい子なんだね」

D「でも、テストの点なんて80点ばっかしね」

大塚「底が浅いんだね」

「川島君、海城受かって、開成は落ちたんでしょ」

A「そうなのよ。うちのお母さんに言ったら喜んじゃって、赤飯炊いてくれたワ」

 

会話の最中、私は確かに見た。

西村が勃起してるのを……

私は確かに見た。

車田が勃起してるのを……

そして、はっきりと感じとる事ができた。

私の物も見事に勃起している事を……。

 

独占スクープ  六年四組の学級新聞が松田聖子の過去を暴露!

♂「嫌いなタイプの女の子は?」

♀「松田聖子ー!」

♂「えっ、どうして? かわいいじゃない」

♀「あんなカマトト女!」

D「ウソばっかり言ってるんだもん。泣いてないから涙が出ないだけじゃないのよ」

B「なんか肌が汚ないんだよ。あの女は。ブスでさ」

A「足が極端にガニ股でさ。わざわざ高いクツはいてさー」

D「眼がいつも上の方向いて歌ってんの」

大塚「川島君とどっちが嫌い?」

♀「松田聖子ー!」

C「むかし不良で、金まきあげてたって本当なんでしょ」

D「本当よ。だって六年四組の学級新聞に載ってたじゃん。高校時代パーマかけててさ」

西村「ふーん。学級新聞に載るの?」

A「整形手術したカマトト女!」

 

ここで我々突然変異の3人は動揺の色を隠すことはできなかった。

我々が噂の真相で読んでいたあのスキャンダル記事は、柏第●小学校六年四組の学級新聞の盗用だったのだ

 

〈考察〉

ここで我々は、六年四組の学級新聞を調査検討する必要に迫られた。手許に原物がないので何とも言い難いが、今迄の彼女達の話だけから推測しても、現代マスコミ界の常識を遥かに越えた広範な情報網を有し、高度にカルティベイトされた取材陣によって組織されている事は否めない事実であろう。今後、我々突然変異は社運を賭けて六年四組学級新聞とのコンタクトを図るつもりである。我々が吸収されてしまう可能性も大きい。ダイエー高島屋みたいに提携できればよいが……。今、マスコミの死活は六年四組の双肩に……。

 

〈西村ふられる〉

西村「誰か僕と付き合って頂けません?」

ACD……無視して話を続ける。

B「うん、いいよ。末広にデートしに行こう。あたしビーフステーキ食べたい」

西村「あの.........、それ無理です」「じゃ、最後に握手して下さい」

女の子一斉に「手が汚れるー」

 

〈車田さんざん〉

車田「君、目大きいね」

A「君ほどじゃないよ。きもちわるいね」

安房國に車田正一といふ男あり、イキむ時に、目玉は忽ち蟹の目のやうに怒り出す。其突出した目玉に、小石を糸でくくって懸けるのは小手調べ。次に右の目玉に三組盃、左の目玉にチロリを釣下げる。それから次々に重箱や徳利など、糸でくくったのをぶら下げるので、最後に下座の鳴物に合はせ、両目玉を自由自在に出入れするのであつた。

 

〈まとめ〉

今回の対談は、予め計画されていた物ではなく、その場で決まった事だった。そして、事に不慣れな私たちは、この貴重な時間を何の脈絡もない雑談に終らせてしまった。しかしながら、我々はこの機会を持ってつくづく感じた。「子供は可能性に満ち満ちている」「我々には考えつかないような柔軟な思考をする」。あたりまえの事かもしれない、でも、少なくとも我々3人にとっては全く新鮮な経験だった。子供への興味も一段と深まった(?)。次回からはこの子供達の可能性を十分に生かせるテーマをもって、充実したパネルディスカッションを行いたい。(了)

 

 解説

2号以降、この記事は「六年四組学級新聞」として連載化された。さらに、これを見た白夜書房の編集者からの依頼で、青山正明は同級生の谷地淳平と共同で『Hey!Buddy』1982年2月号から9月号まで商業誌版「六年四組学級新聞」を連載する。その後、ロリ系のネタが尽きたのか、10月号から「Flesh Paper/肉新聞」と改題し、掲載誌がロリコン雑誌であることを無視してドラッグやフリークス、カルトムービーにスプラッタビデオの紹介などロリータと全然関係のない青山独自の連載に移行した同誌廃刊後も「肉新聞」は『Crash』(白夜書房)や『BACHELOR』(ダイアプレス)で継続され、いつしか青山のライフワーク的な連載となり、1996年まで、なんと足かけ14年間も続くことになった。ちなみに「肉新聞」は1999年刊行の『危ない1号』第4巻「特集/青山正明全仕事」に青山自選のもと年代順に並べられて収録されている。

 

谷地淳平は自身のブログで、創刊号の本記事が成立した経緯について次のように回想している。

『突然変異』創刊号の原稿は徐々に集まってきた。

(中略)

それでもまだ企画が足りない。困った。

それで誰だったか「小学生に取材して好きなおもちゃとか好きな食べ物とか聞いてまとめたらどうだろう?」と言い出した。

「子供の消費動向を探って記事にして、面白いか??」

「面白くないかもしれないけど、もう入稿が迫ってる。なんか穴埋め記事を書かないと」

と、いうわけで、穴埋め企画で、小学生を取材することになった。

取材は簡単だった。

小学生がいるのは小学校だろうと、谷地、緒形、青山の三人で緒形の母校に行き、教頭先生に「子供の消費動向を取材したいので、児童に話しかけるのを許可して欲しい」とお願いすると了承していただけた。

お昼休みになると子供たちは元気に外に飛び出してくる。すると「大学生のお兄さん方が校庭に来ています。話しかけられたら答えてあげてください」との校内放送。

あっという間にたくさんの子供たちに取り囲まれて、ワイワイガヤガヤうるさくて、とても取材どころじゃない。なんとか六年生ぐらいの女の子に放課後数人で会ってもらうように約束して、校庭を退散したのでした。

さて放課後、駅前のロッテリア(ママ)で女の子三人と我々三人の対談が実現し、めでたくテープ収録できたのでした。

これをテープ起こしして記事にするのは、青山正明に決まった。

「ついに実現!突然変異VSウキウキロリータ」(ママ)のタイトルで出来上がった原稿は、穴埋めなんてとんでもない。かなり面白い記事になった。

この記事で、青山が面白い文章を書けるやつだとわかった。

ミニコミ誌の思い出 その5(ウキウキ、ウォークマン日記)

結果的にこの記事は「六年四組学級新聞」~「肉新聞」のパイロット版になり、その後14年間も連載が続いたことを鑑みれば、これがライター青山正明出発点”となった記念すべき記事だと言って差し支えないだろう。ちなみに青山は創刊号にも『ロリコンの恋ものがたり』というロリータ私小説(正確には「青山正明の旧友」を名乗る人物が、青山の高校時代から大学時代までのロリコン遍歴を綴った自作自演の無記名原稿)を寄稿しており、ここで初めて「青山正明」という名前が出てくる。また当時は第1次ロリコンブーム(1980年~1986年)の真っ只中であり、谷地によれば創刊号で『ロリコンの恋物語を掲載したため「学生の間にブームとなっているロリコンについて聞きたいと、月刊誌からテレビまで取材に来るようになった」という。

書泉グランデ三省堂本店に平積みで置いてる慶大生が作ったミニコミ誌ということで、新聞社や週刊誌から取材の申し込みが相次いだ。

さらには、新聞は朝日、読売、日経など一通り来たけど、もっとも印象に残ってるのは日経のS記者だ。

とにかく雑誌を絶賛された。

六本木のディスコで四人にご馳走してくれて、それでは話し足りずに、六本木のご自宅のマンションにまで招かれ、創刊号と2号を手に「いやあ、いい雑誌だなあ」と、この言葉、この日何回目かな。突然変異を異常なほど気に入ってくれたのでした。

ミニコミ誌の思い出 その14(ウキウキ、ウォークマン日記)

そして、次々に原稿依頼がくるようになる。

マガジンハウスのブルータスから原稿依頼。突然変異に2ページあげるから好きに書いていいよというありがたいお話で、たった2ページなのに原稿料が14万円も。さすがマガジンハウス、凄い。これは第3号の制作費の一部となった。「取材するのに使ってよ」と、ブルータス編集部の名刺までいただいて、嬉しかった。

—前掲

出版不況の現在から考えれば、ほとんど素人同然の大学生相手に2ページで14万円の原稿料とは到底信じられない話であるよっぽど当時の出版業界には余裕があったのだろう。さらに谷地のブログでは興味深い記述が続く。

せっかく名刺作ってくれたんだからなんか取材しようか、ということになり、ブルータスに使えるかどうかわからないけど、漫画界のロリコン関係を取材しよう、御大吾妻ひでおの「ミャアちゃん官能写真集」が見てみたいと、僕と青山正明と二人で御大吾妻ひでおと親しいという蛭児神建さんにコンタクトを取り、新宿の喫茶店で漫画界のロリコン事情を取材したのでした

—前掲

 

蛭児神さんは友だちの千之ナイフさんと一緒に待ち合わせの喫茶店に現れた。

千之ナイフさんは、コミックマーケット出身の漫画家で、先月(だったかな?)商業誌デビューをはたしたばかりとのこと。

お二人の話は僕らのまったく知らない世界で面白かった。

お二人ともこの頃はまだ一般には知られていないコミックマーケットのことを熱心に語ってくれた。

そこが漫画のロリコンの発信源になっているようだ。

彼らは相手のことを「君は~」とか「お前は~」とか言うところを、「お宅は~」と言っていたのが強く印象に残ったが、のちに漫画のロリコンは「オタク」と呼ばれるようになり、なるほどと納得したのでした。

今では「オタク」は意味が広がって、漫画のロリコンに限らず、カメラオタクとか鉄道オタクとか、単にマニアという意味になってしまったように思う。

僕と青山は、まだオタクという言葉がなかった頃にオタクの元祖に会ってしまったのでした。

ミニコミ誌の思い出 その15(ウキウキ、ウォークマン日記)

何と青山正明ロリコン界の教祖的存在である蛭児神建と逢っていたのだった*1

この項おわり。


*1:蛭児神建は日本初のロリコン漫画同人誌『シベール』の創刊に関わった伝説の人物。詳しくは蛭児神の自伝『出家日記―ある「おたく」の生涯』に詳しい。

いじめられっ子漫画家 山田花子の『隠蔽された障害』をめぐるレポート

いじめられっ子漫画家 山田花子の隠蔽された障害

虫塚虫蔵

(追悼号となった『ガロ』1992年8月号)

面識がないのに、過去のどこかで関わった存在。見て見ぬふりして、無理にも顔をそむけたその存在。つまりこの人は、弱者にとって忘れられない存在だ。(文庫版『自殺直前日記 改』西村賢太の帯文より)

1.はじめに

かつて自閉症は「治療法も分かっていない現代の難病で18歳未満の自閉症児は1万人に対して約2人」(『読売新聞』1977年4月16日付 朝刊)と説明されていたが、その症状には軽微なものから重度なものまで連続性(スペクトラム)があり、後にこれらは「自閉症スペクトラム障害」として一本化された。このため広義の意味での自閉症児(者)の割合は年々急増し、2012年に文部科学省が全国の小中学校で行った調査では、発達障害の可能性がある児童・生徒の割合は15人に約1人にまで迫ってきている。つまり今まで多くの人が自分と無縁だと感じていた自閉症発達障害は決して他人事ではなくなってきているのが現状である。

今回扱う石川元著『隠蔽された障害 マンガ家・山田花子』(岩波書店、2001年9月)は脳の障害(発達障害)から、自殺した漫画家の山田花子が生前抱えていた「生きづらさ」を精神医学的な視点で本格的に分析した臨床研究であり、人付き合いが不得意で良好な人間関係が築けないという問題を「脳」の障害でなく「こころ」の問題として「隠蔽」してきてしまった社会に対する一つの提言の書でもある。

このレポートでは、精神科医の筆者・石川元の主張を軸に第2節で山田の幼年期から自殺に至るまで全生涯の軌跡を辿り、第3節で山田の障害について検討する。第4節では山田の漫画作品から「表問題児」と「裏問題児」というキーワードを導いて山田の苦悩に迫り、第5節で本書の問題点について総括する。

 

2.山田花子の生涯

山田花子は1987年に『ヤングマガジン』の「ちばてつや賞」に入選し、同誌で華々しくデビューしたが、編集者との軋轢が絶えず連載は終了、その後はマイナー誌の『ガロ』を中心に活動していたが、1992年春に精神分裂病(現在の統合失調症)と診断され、2カ月半ほど入院、同年5月23日に退院したが、翌24日夕方に高層団地11階から投身自殺した。生前遺した単行本はたった2冊しかなく、新聞の訃報でも「漫画家」ではなく「多摩市内の無職A子さん」として報じられた。

山田花子の名前が知れ渡る契機となったのは、山田の死後刊行され、ミリオンセラーとなった『完全自殺マニュアル』(鶴見済太田出版)において「投身自殺」の例で山田が取り上げられたことで10代の若い男女を中心に注目されはじめたことである。その後、生前の日記やメモをまとめた『自殺直前日記』(父親が編集した私家版『山田花子日記』を再編集したもの。1996年に太田出版より刊行され、現在は赤田祐一の責任編集による復刻版が鉄人社より出版されている)はベストセラーとなった。この節では山田の生涯について以下に詳しく述べることにする。

2-1.幼少期~小学生時代

山田花子(本名・高市由美)は、1967年に小学校教師の母親と自動車のセールスマン(のちにトロツキストの著述家)の父親の間に東京で生まれた(同じ1967年生まれで、同じく自殺した『ガロ』系の女性漫画家にねこぢるがいる)。幼少期から内気な子どもだったようで、友達と遊ぶよりも絵本や漫画に親しみ、昆虫の飼育に熱中する一風変わった少女だった。得意と不得意が両極端で、体育などの集団行動が大の苦手だったが、誰よりも語彙が豊かで自分で子リスを主人公にした絵本を自作するなど空想家な面があり、絵本では誰にも相手にされない孤独なオオカミを描いた佐々木マキの絵本『やっぱりおおかみ』(福音館書店)をボロボロになるまで繰り返し読んでいたという。



(図1 佐々木マキ『やっぱりおおかみ』より)

佐々木マキ著『やっぱりおおかみ』(福音館書店、1973年)は一人ぼっちのオオカミが「おれににたこはいないかな」と友達をあちこち探し回るという内容である。しかし、みんなオオカミを怖がって避けていくため、オオカミは誰とも友達になれない。オオカミは一人でビルの屋上にのぼると、ロープで固定された気球が置いてあった。それに乗ればオオカミはこの世界から消え去ってしまうことも出来るが、オオカミは屋上に残り、ロープが解かれて空の彼方に飛んでいく気球を眺める(図1)。そしてオオカミは「やっぱりおれはおおかみだもんな、おおかみとしていきるしかないよ」「そうおもうとなんだかふしぎにゆかいなきもちになるのでした」とつぶやき物語は終わる。石川は臨床心理士に「この絵本を幼少期にボロボロになるまで繰り返し読んだ子供がいる」とだけ伝え、それ以外の情報や属性を明かさず、目隠し分析の上でその子供の性格特性の所見を求めたところ、提出された人物像は正に山田花子そのものであったという(石川 2001、267ページ)。

山田花子は小学生時代より成績が良く、観察面に優れ、知能面では特に問題がなかったが(ゆえに「障害」は見過ごされて「隠蔽」された)、対人コミュニケーションや人間関係の形成などに難があり、受け持った担任教師からも「とてもおとなしく、自己主張をほとんどしない」(小学校二年一学期)、「こちらから話しかけると話してくれるが、自分からみんなに向かって話すことは、ほとんどない」(小学校二年二学期)、「きいてないようで何でも理解している子」(小学校五年二学期)、「理解力は十分にもっているが注意散漫で集中力に欠ける。ただし、好き嫌いが甚だしく好きなことは集中してしまう」(小学校六年一学期)、「授業中にも私語が多く集中力に欠ける。そんなことをしていながら、結構質問に対しては正しく答えている」と通知表で評価されていた。

この頃から山田の自閉的な傾向が窺えるが、とくに小学校二年二学期の通知表にある「こちらから話しかけると話してくれる~」という評価は自閉症スペクトラム障害アスペルガー症候群)の受身型、すなわち「自分からは積極的に関わろうとはしないものの、他人からの関わりは拒否せず、受け身的に関わる内向型タイプ」であると私は推察している。このタイプは従順なぶん自己主張が弱いので、損な役目を引き受けてしまう傾向があり(山田も過去に10万円もする布団を訪問販売で買わされたことがある)、主体性がなく優柔不断にみられがちである。もちろん本書でも山田花子アスペルガー症候群との関連性が指摘されているが、筆者は「アスペルガーの〇〇型」といった具体的な細分化までは行っていない。なお、私自身の性格は自閉症スペクトラム障害に見られる「積極奇異型」から「受身型」に推移していった自覚がある。

2-2.中学入学後~投身自殺

中学二年生の時にいじめに遭い、ガス自殺未遂を図る。ほどなくして不登校になるが、「何かに打ち込む方がよい」という母親の推薦で、雑誌『なかよし』の「まんがスクール」に入る。中学三年時に「裏町かもめ」のペンネームで投稿した『明るい仲間』(図2)が「なかよしギャグまんが大賞」佳作に入選する。

1983年には『なかよしデラックス』1月号に入選作の『明るい仲間』が、同誌4月号にはデビュー作の『大山家のお子様方』(補記参照)が掲載され、同誌5月号から『人間シンボーだ』(図3)の連載を開始する(1984年6月号まで)。

(図2 講談社刊『なかよしデラックス』1983年1月号掲載の入選作『明るい仲間』より)

(図3 講談社刊『なかよしデラックス』1984年2月号掲載の『人間シンボーだ』より)

初期の作風はいしいひさいち調*1の可愛らしいデフォルメが効いた古典的な4コマギャグ漫画という印象で、後年の作風とは大きく異なるものであったが、この頃から既に「いじめ」(図2)や「同調圧力」(図3)といった人間の負の部分を描こうとする山田の姿勢が随所に見受けられる。

中学卒業後は立川女子高等学校に入学し、同時に『なかよしデラックス』誌に『人間シンボーだ』という漫画の連載を持つが、学校生活には馴染めなかったようで、引き続きいじめにも遭う。結局女子高は一年で中退し、その後は通信教育(NHK学園)に編入する。この頃から『ガロ』(青林堂)を読み始め、蛭子能収丸尾末広花輪和一などのファンになり、とくに根本敬の影響を強く受ける(根本の死体漫画を読むために蛭子能収平口広美桜沢エリカ、永田トマト、山野一杉作J太郎湯浅学霜田恵美子幻の名盤解放同盟が執筆していた自販機用成人雑誌の『EVE』を熱心に購読するほど根本の漫画にのめり込んでいた)。

また高杉弾(伝説的自販機本『Jam』『HEAVEN』初代編集長)の著書『メディアになりたい』を読んだ影響でデザインや編集に興味を持ち、大検を取得してデザイン専門学校に入学する。また自主制作(インディーズ)音楽にも興味を持ち、筋肉少女帯空手バカボン、たま、人生、死ね死ね団幻の名盤解放同盟根本敬主宰)のライブに足繁く通い、山田も姉妹バンド「グラジオラス」を組む。

その後、専門学校在学中の1987年に『ヤングマガジン』(講談社)に投稿した『神の悪フザケ』(図4)がちばてつや賞佳作に入選し、そのまま連載作となる。内容は「いじめ」をテーマにしたもので、絵柄も『なかよし』時代とは変わってグロテスクなものとなる。しかし、一般読者からの支持はなかなか得ることができず、読者アンケート人気も常にワースト1位で、担当編集者からは「ストーリーもヤマもオチも何もない。話の辻褄が合わない。こんなの描きたかったら同人誌に描きなさい。読者を馬鹿にしているのか」と叱責される。だが、山田は元々「オチがなく矛盾だらけ」の日常生活を漫画で描こうとしており、担当の意向は不本意なものであった。しかし、山田は干されるのを恐れて担当の言われるがままにオチを付けようと表面上は従順な素振りを見せたが、次第に担当に悪意を向けるようになり、日記には「自分の個人的な見解を世間一般の“常識”にすり換えて作家を支配しようとする」担当への罵詈雑言が書かれ、連載後半からは打ち合わせ時の会話すら取らなくなった。さらに連載終了後には「セクハラを受けた」という事実無根の噂を流したり、無言電話を繰り返したりするようになる(なお、この時期の作品にも世間に対して反抗的な主人公が登場している。詳細は第3節を参照のこと)。

(図4 青林堂刊『改訂版 神の悪フザケ』より。いじめられ役の主人公は反抗する術を持ち合わせていない)

デビュー以降、メジャー誌の『ヤングマガジン』からマイナー誌の『ガロ』まで複数本の連載を持ちながら、テレビやラジオ、映画、劇団、パーティーなど漫画以外の舞台でも精力的に活動するが、1991年頃より会話の途中で突然立ち去る、執拗にメモを付ける、過剰なダイエットをする、妹を無視するなどの奇行が見られるようになる。漫画の発表本数も減少していったが、それでも毎月欠かさず『ガロ』に作品を発表する。だが、『ガロ』は慢性的な経営難のため原稿料が出ず、山田は漫画だけで生活するのは不可能だと判断し(ただし、死後に残された預金は800万円近くもあり、生活に対する過剰で病的な不安があったと思われる)、10以上の面接で落とされた末、1991年7月頃から喫茶店でバイトを始める。しかし、要領が悪く注文ミスを連発し、出勤日でもないのに出勤して居座るなど奇行が目立つようになったため、1992年2月に解雇を言い渡される*2。しかし、解雇通告後も喫茶店で働こうとしたため警察に通報され、父親が自宅に連れ戻すが、翌日錯乱状態になり、クリニックで抗精神病薬投与、筋肉注射など応急処置を受け、精神分裂病の疑いで1992年3月4日に桜ケ丘記念病院に入院する。

 (図5 青林工藝舎刊『改訂版 花咲ける孤独』より。入院前日の3月3日に製作した作品『魂のアソコ』は詩、写真、イラストのみで構成されており、漫画の体裁を取っていない。入院中の3月30日に製作した『アーメンソーメン冷ソーメン』も同様である

その後、症状の回復が認められ、同年5月23日に退院するが、翌24日夕刻に日野市の百草団地11階から投身自殺を図る(山田花子は21歳まで多摩市の百草団地に住んでいた)。退院前日の5月22日には「召されたい理由」と題した以下の文章を日記に書き遺していた。

①いい年こいて家事手伝い。世間体悪い、やっかい者、ゴクツブシ。

②友人一人もできない(クライから)。

③将来の見通し暗い。勤め先が見つからない(いじめられる)。

④もうマンガかけない=生きがいがない。

⑤家族にごはん食べさせられる。太るのイヤ。

⑥もう何もヤル気がない。すべてがひたすらしんどい(無力感、脱力感)。

⑦「存在不安症」の発作が苦しい。

自殺の件は当時、地元の新聞でも以下の内容で実際に取り上げられていた。

団地11階から飛び降り死ぬ

二十四日夜、日野市百草、住宅・都市整備公団「百草団地」一街区五の三で、女性が二階屋根部分に倒れているのを住民が見つけ、一一〇番通報した。この女性は多摩市内の無職A子さん(二四)で、間もなく死亡した。十一階の通路にいすが置いてあり、このいすを使って手すりを乗り越え飛び降りたらしい。(日野署調べ)


(UR都市機構・百草団地1-5-3棟)


(同団地1-5-3棟の11階から眺めた風景。彼女が生涯最期に見た光景である


(1992年5月27日・出棺。享年24)

 

3.隠蔽された障害の正体

障害があることが一目で分かる知的障害児はハンディキャップを抱えた存在として特別扱いされ、庇護の対象となる。一方で発達障害ASD、LD、ADHD)は見た目から知的な欠陥が認められないため発見が遅れることがままある。彼らが抱える苦悩や不器用さは「障害」ではなく「こころ」の問題か、あるいは一種のパーソナリティーの範疇として看過(隠蔽)されやすく、山田の「障害」も周囲の人間からは「個性」として見過ごされた。その後、山田は生来改善の見られない自身の要領の悪さや、周囲に適応することができないという積年の葛藤、そして自分と自分以外の全ての人間(尊敬する作家を除く)に対する敵意を回想も含めて日記に執拗に書き散らすようになり、それを漫画のネタに昇華することで何とか自我を保っていた節がある。しかし、これらの問題は生涯を通して改善することはなく、日記にあるように「一人で不安に耐える」か「互いに傷つけあう」かして、最期は「自殺」という形で自壊していった。

山田の遺した日記からは、体育の時間にゲームのルールが分からない、集団が苦手ですぐ迷子になる、非言語的メッセージをくみ取れない、体育における協調的運動のぎこちなさ、対人機微の無理解、対人関係での齟齬、激しい思い込み(あるいは優れた観察眼ゆえの他人からは想像を絶する深読み)、ワンパターンな行動、喫茶店での計算処理の拙さ、状況にそぐわない(=空気が読めない)特有の自己中心性、ストレス耐性の欠如、世の中の二重構造(本音と建前)や矛盾が容認できないことなどの問題が浮かび上がった。著者の石川はこうした問題点を鑑みて、山田は「非言語性LD」の可能性があったことを指摘している(ただし、山田本人が神経心理学的な精査を生前受けなかったことや、個人の回想や日記、妹が記入した質問紙の評価などを臨床材料としたことから、直接診断と結びつく素材が存在しない以上、ひとつの「可能性」に過ぎないという断りがある)。

それから非言語性LDを説明する前に、まずLD(Learning Disability=学習障害)について説明しなければならない。LDとは精神遅滞が見られず、知能が正常か平均以上であるのに対して、ある特定の学習能力に致命的な欠陥が見られる障害であり、言語性と非言語性の二つに大別されている。狭義の意味でのLDは読む・書く・聞く・話す・推論するなどの処理に困難がある「言語性LD」を指し、一方で読み・書きに優れているのに対し、非言語的な概念に対する認知処理に困難が見られるものを「非言語性LD」と呼ぶ。とくに非言語性LDは社会性スキルが低く、知覚、判断、対人技能に重大な欠陥が見られるなど、その症状は自閉スペクトラム症と酷似しており、石川自身も「非言語性LDとされた事例がアスペルガー症候群自閉スペクトラム症)と診断されても一向にかまわない」(石川 2001、225頁)と主張している(なお、本書の出版以降、精神医学において発達障害の体系化や診断の見直しが進んだこともあり、近年「非言語性LD」という言葉は急速に使われなくなってきている)。つまり本書のサブタイトルにある「マンガ家・山田花子と非言語性LD」が「マンガ家・山田花子アスペルガー症候群」であったとしても決して矛盾はしていないのだ。なお、石川が「非言語性LD」という聞きなれない言葉に執着する理由として、山田花子の症例と非言語性LDの成人女性の事例が非常に似通っていたということが本書の第4章で述べられている。しかし、現状においてマイナーな概念になってしまった「非言語性LD」に限定した本書の構成はいささか古臭く、出版から20年弱が経過した現在では中途半端さも否めない。筆者のそうした詰めの甘さや思い込みがレポート第5節で述べるような本書の致命的な「問題点」に繋がっていくように私には思える。

 

4.「表問題児」と「裏問題児」



 (図6・7 1990年に制作された未発表作品『天上天下唯我独尊・世界はウソつき』より。クラスで孤立している「裏問題児」の少女に対して担任の教師は「友だちと仲良くする・調和を取る」ことを強要し、マイペースを制限されてプレッシャーに押し潰された少女は全てを拒絶してしまう。この作品は山田の死後『ガロ』1992年8月号に掲載された)

後期の山田の漫画には、知的障害を持つと思わしき栗山マサエという「表問題児」(=知的障害児)と、見かけ上は健常者だが、大人びでいるため子供同士の会話に入れず、クラスで孤立している「裏問題児」(=発達障害児)の山本ヨーコの二人を対比した作品が複数存在する。なお、これら作品に登場するクラスメイトたちはマサエもヨーコもクラスの厄介者としてしか基本的に見ていないのだが、それにも関わらず担任の女性教師はマサエだけを例にして「人を差別してはいけない」「この世に必要のないムダな人間はいません」といった平等幻想を雄弁に語る。しかし、ヨーコはこうした人間平等思想を「逆に人々を不幸にする」と冷たい眼差しを向け(これは小学校教師の母親に対する強い不信感の表れと見る向きもある)、マサエに対しても「マサエなんか人間の形をしたエテ公だ」「ばかは心が純粋という定説があるけれど、ただの迷惑な奴じゃん」「コイツ見てるとイライラするよ」と辛辣な悪意を向ける。(以上『ガロ』1990年7~12月号連載『オタンチン・シリーズ』より)

4-1.差別的感覚と被差別的感覚の同居

それまでの山田の漫画に登場する主人公の多くは、内気・朴訥・控えめで、ひたすら理不尽な思いをしては、反抗することもできず、ニヤニヤとした愛想笑いを浮かべて他者に迎合するという、いわゆる被差別的な人物像がほとんどであった(図4)。しかし、後期になって登場した「裏問題児」の山本ヨーコの場合、クラスメイトから被差別的な扱いを受けつつも、自分より弱そうな人間に対しては一転して差別的で、外界に対しても常に攻撃的な考えを巡らせるか冷笑的な目線を向けており、「キレそうな」オーラすら身にまとっている。差別的感覚と被差別的感覚が同居したヨーコという全く新しい存在は山田の意識が変化したことの表れではないだろうか。

石川は、山田の作風の変化を初期と後期で見比べて「デビュー以降二年間でのストレスの掛かり方が加速度式であったことが髣髴(ほうふつ)とされる。前者はただポカンと翻弄され、後者は居直ってはいるものの自分の苦悩を誰もが理解してくれない不安と絶望に襲われ、攻撃性も募っているのが見て取れる」と指摘し、山田がヨーコという代弁者を用いて「表問題児」のマサエに対し、ひたすら差別的な言動を取らせた背景については「いじめの対象となっても教師にかばわれる存在の『表問題児』に対する(山田の)痛烈な攻撃であり、教師に庇護はおろか同情もされない『裏問題児』側の根深い、屈折し沈潜した被差別意識があると推察している(石川 2001、第4章)

 4-2.いじめられっ子でいじめっ子

ここからは私自身の見解であるが、私も過去に劣悪な環境下でいじめに近い不当な扱いを受けたことがあり、その際に自分が「弱い存在」であることを認めたくないという心理状態から自分よりも弱そうな人間にきつく当たってしまった過去がある。おそらく被差別的な状況に置かれると、差別側に回ることで保身に走りたくなるのであろうと考えられるが、生前の山田もインタビューで「いじめられっ子でもあり、いじめっ子でもありました」「一番許せないのは、業が強い自分自身かな…」(コアマガジン刊『スーパー写真塾』1990年5月号)と語っており、山田が「いじめ側」に回ったのが先だったのか、「いじめられ側」に置かれたのが先だったのか定かではないが、いずれにせよ私も山田も真に許せないのは「自分自身」であることには違いないようである。

 

5.本書の問題点

本書には至る所に問題点がある。例えば山田の漫画から病的特徴を探そうと、石川は1ページの漫画から全てのコマを切り取り、精神分裂病患者の描画と関連付け、「ノートと筆箱の比率に一貫性がない」などパースペクティブの狂いについて逐一解説を加えようとする。だが、そもそもこの試みで用いられる分析手法に何か根拠や意味があるのかという基本的な説明は全く与えられていない。また山田の作風の特徴である「明確なオチのなさ」に対しても作品的に評価をするわけでもなく、障害のそれとしか扱っていない。なお、同じガロ系漫画家のつげ義春が1968年に発表した『ねじ式』は夢を題材にしたシュールな作品で精神科医からフロイト流の精神分析まで行われたことでも有名だが、作者のつげからすれば「見当違いでしかなかった」というように、石川の試みも全くもって「見当違い」の域を出ないことであろう。だが、最大の問題は本書が出版後、遺族と石川の間で齟齬が生じ、絶版・廃棄処分という結末を迎えた事実にある。本節の冒頭に「本書には至る所に問題点がある」と書いたが、正確には「本書の内容すべて」が問題に該当するのである。

本書を読み進めると、石川と遺族の間には良好な信頼関係があり、遺族が積極的に取材・資料提供に応じているほか、診療カルテなどの極めてプライベートなものまで掲載されており、山田の妹に至っては、山田が非言語性LDだったか判断するための質問紙(RPS)の回答にも応じている(採点の結果、基準値を大きく下回ったため石川は山田が「非言語性LDであった可能性がある」との示唆を出した)。本書が絶版になった経緯については本書が出版されて1年後の2002年10月に発行された『アックス』29号(青林工藝舎)に父親と母親が詳細な内容の手記「石川元『隠蔽された障害』(岩波書店刊)成立から出版に至る経緯とその真実」を寄稿している。それによれば石川は「表現者としての山田花子の評伝を描く」として遺族に協力を要請したにも関わらず、「その真の目的をはっきり告げず、常に曖昧にしたままに終始し、また、出版に先立ちゲラ等を私達に提示し、最終的な確認と了解を得ようとせず」本書を出版したのだという。しかも遺族は出版に至るまで本書の内容を知らされておらず、出版された本書も「評伝」ではなく脳機能障害にまつわる「症例研究の報告書」であった。なお、遺族によれば本書に掲載されている診療カルテは石川が無断で入手したものであるという。

本書は対人関係の齟齬で自殺した山田花子の「隠蔽された障害」を明らかにするものだったが、それが皮肉にも著者と遺族の間で齟齬を招き、絶版という結果を招いた。山田が一貫してテーマにした「人と人との分かり合えなさ」の帰結がこれだったとしたら、もはや本書という存在自体が残酷なものに感じてくる。本書のタイトルにある「隠蔽された障害」は、この事態を予見したものでなかったであろうが、山田が抱えていた障害の真実は本書の絶版とともに封印(隠蔽)されて今日に至っている。(了)

 

世界は一家、人類皆キョーダイ

私はお花。みんなの為ならへし折られても平気なの。

夢と希望は子供を惑わすハルメンの笛吹き いつも裏切られてもういやッ!

でも歩いて行けば幸福がつかまるかも 私ってなんて甘いんだろう。

 

春の小川はサラサラ行くよ 岸のすみれやれんげの花に

姿優しく色美しく 咲けよ咲けよと囁きながら

春の小川はサラサラ行くよ エビやめだかやこぶなの群に

今日も一日ひなたで泳ぎ 遊べ遊べと囁き乍ら

 

人生は芸術

世界は一心同体少女隊

ぼくらはみんな生きてい隊

キリストはもて遊ばれたいマゾヒスト

愛は心の仕事デス

私A「あたし、もうダメ…」

私B「立て、立つんだジョー!!」

一番好きな子の正体は鏡!?

あんな奴、ハナクソだぜ

 

魂のアソコ/アーメンソーメン冷ソーメン)

 

山田花子プロフィール

青林堂版『嘆きの天使』裏表紙より23歳の山田花子(遺影)

(構図・湯村輝彦/撮影・滝本淳助

山田花子 1967年6月10日東京生まれ。

双子座、ひつじ年、血液型A型。

幼少より父親の影響で水木しげる赤塚不二夫等を愛読。暇があれば紙を束ねてホチキスで止めた冊子に漫画を描いていた。また、手持の漫画本を友人に貸し出す漫画図書館を自宅に開く等漫画好きの子供であった。その後、波瀾に満ちた学生時代を経て、日本デザイン専門学校グラフィツクデザイン科卒業寸前に、講談社ヤングマガジンちばてつや賞佳作に入選。以後ヤングマガジン誌上に「神の悪フザケ」を連載。読者アンケートでワースト1位を獲得する。連載終了後、数少ない(?)熱狂的ファンの要望により初の単行本「神の悪フザケ」を講談社より刊行。以後増々その絵柄とストーリーに磨きをかけ、1990年7月現在、ヤングマガジン、コミックボーイのコラム、リイドコミックピンクハウス、コミックパチンカーワールド、月刊ガロ等に漫画の連載を抱えるに至る。アイスクリームが好物でセブンイレブンのパフェアラモード「ドーブルの港」(バナナ味)が気に入っている。ラジオや音楽(70年代フォーク、テクノ、ロック、歌謡曲等)を聴くのが好きで、よくライブやコンサートにも行っている。本人曰く「知脳が足りない。」というように、電車の乗り間違い、忘れ物等は日常茶飯、過去に10万円の布団を買わされた経験を持つ、23歳のアジア人の女である。

青林堂版『嘆きの天使』1990年・初版の作者紹介より)

 

山田花子(漫画家)

1967年6月10日、東京都生まれ。1987年『ヤングマガジン』の「ちばてつや賞」佳作に入選、同誌で『神の悪フザケ』を連載して強烈な印象を読者に残す。その後は『ガロ』からエロ本まで幅広く連載を持ち、雑誌、単行本、映画、舞台、テレビなど、あらゆるメディアにも登場するが、1992年5月24日、異常な速度で燃焼した24年11ヵ月の生に投身自殺でその終止符を打つ。没後は、その存在自体がひとつのメディア(アイコン)となり、90年代サブカルシーンを象徴する存在として、読者の間ではトラウマに近い感覚で今日まで記憶され、脈々と語り継がれている。

筆者の書き下ろし)

 

寄稿/山田花子「自由(ラク)に生きる方法(ヒステリー治療によせて)」

この世には数え切れない価値観が互いに相反しあいながら、ひしめいている。

精神分裂病を代表とする、心の病いが生じるのも当然である。かく云うわたくしも、長年に渡るヒステリーの発作に悩まされ、友人、兄弟、親や医者に相談してみたけど、結局他人にたよってもしょうがない、という事が判っただけであった。他人なんてアテにしてる内は決して心の病は治らない。

そこで自分なりに少ない知恵をふりしぼってヒステリーの原因を考えてみた。ヒステリーとは要するに「かんの虫」である。夢と現実の落差(ギャップ)が激しいと、そのわだかまりの摩擦により、生じる発作だ。ひとの心は本来自由で悟ってるはずなのだ。しかし現世にはびこるウソと、世界の矛盾が人々の心を知らない内に屈折させ、不自由なものしてしまっている

自由を手に入れる為には「ワル」にならなければならない。なにも改造バイクにまたがって、深夜の国道を暴走しよう等というのではない。真の意味での不良だ。思うに、一般的に不良の格好をして、いかにも「反社会的」行易(ママ)を取る人たちに限って、根は前向きで、根底にあるものはしっかり「人の道」している。わたくしにとっての自由な心とは逆説の様だが「何も信じず、夢は持たない事

もちろん人に嫌われたくないから表面上、「前向き」を装いつつ、心の中には何の希望も持たない。この世の中では、前向きに、何かを信じて生きてかなきゃいけないみたいなプレッシャーがある。ダメな奴がいくら努力したってムダなのに。だが、そんなことを言ったら、にらまれてしまう。でもカラスがいくらがんばったってクジャクにはなれない。この矛盾幻想が人民を不幸にしているのを、どのくらいの人が気づいてるだろう。実際、人生は思い通りになんかならない。生まれつきのさだめを選ぶことはできない。或る者は一生不自由なく楽しく遊び暮らし、同じ時間に或る者は過酷な運命を強いられる。

この不平等、不条理、そして忘れちゃならない絶対の孤独。こんなものなのだ。もともと、この世はヒドイ所なのだ。それが「ふつう」なのだ。カタワ者達よ、泣け!わめけ!宿命を呪え!てめえの人生こんなものだ。イヤなら自殺しちまえ。

死ぬのが怖ければ仕方なくガマンして、生きて行くしか無いだろう。誰かにすがろうとしたって、味方なんて居やしない。

救いを求めようたってそうはいかない。大体、悟りさえ開けば、幸福にになれそうな錯覚しがちだが、わたくしはむしろ、悟りの心境とは空しい、やるせな~い気持ちだと思う。生きている限り、苦しみと悲しみは続くのだ。仕方ないのだ。だけど。この真実が公になってしまうと、世の中から光が失せてしまうから、人々は真実を訴える者達をいつの世でも迫害し、魔女狩るのだ。バカはバカなりに、ブスはブスなりに、さだめに合った生き方をするのが「自由」なのである。「若者のくせに老成している」となじるならすきにしてくれ。(清出版『コミックBOY』1990年10月号

何の取り柄も無く人に好かれない人生なら死んじまえ。悪いことは言わない。生きたところで負け犬。だらだらと生き続けるより思いきりよく燃え尽きよう。生きるなんてどうせくだらない。(映画『ファントム・オブ・パラダイス』より)

(自由への飛翔。単行本『嘆きの天使』所収「マリアの肛門」より)

 

解説/根本敬「マリアの肛門を見た女」

高市由美(敬称略)から初めて手紙が届いたのは8年程昔になるか。茶封筒にキタナイ字で『根本敬大先生様』と書かれ、中を恐る恐る開けると、やっぱりキタナイ字(しかも鉛筆)でノートを破ったヤツに、自分がいかにファンであるかが細々と書いてあった。礼儀として返事を書くと、それから頻繁に手紙や女性週刊誌の切り抜き(例えはケニー君の感動秘話など)を送ってよこすようになり、ある時「実は今まで描いていた」という漫画が送られて来た。

見るとちゃんと描いていて、大層見どころがあるので『ガロ』に「面白いよ」と紹介した。以後、本人も頑張って色々描いて持って行ってたのに、何故かなかなか載せて貰えず、いつしか音信も跡絶え、気が付くと『ヤングマガジン』で「山田花子」としてデビューしていたのだった。それにしても業の深い女だったと、山田花子の事を我々(特に、実の妹と私)は、よくそう言って振り返る。

業の深さといっても、輪廻転生に基づく仏教的な見地から言う処の業とは、必ずしも一致しない。ここで言う業の探さとは、まるで生まれる前からずっと続けていた課題に取り組むかの如く、そうせずにはいられない、狂おしい程の性質(亦は磁力)の強さを指すのだ。山田花子が何故そういう性質を持つに至ったか。それは自我が芽生えた頃に、世界中の全ての人々から愛されたい、そうでなければ自分は救われない、というモノ凄い大欲を抱いた(であろう)事に始まるしかし、次の瞬間直感的にそれは不可能だと悟り絶望する。愛されるどころか、世界中全ての人々から嫌われてしまう、そんな人間かもしれないとすら思い込む(当初それは、自己防衛的な側面<他人に言われる前に自分で自分に言う>もあったかも)。

これらは山田花子という小宇宙に於けるビッグバンであり、ほんの短い間の出来事なのだ(ビッグバンは、ほんの数秒間に複雑な科学変化を何段階も起こし、宇宙を形成した)。

ところが、絶望と引換えに彼女はある才能を得たんだな

人間の心の粒子は常に、『差別』と『保身』の間を揺らいでいるもんだが、その極めて微妙な変化を見てとる能力を絶望と同時に徐々に開眼し、何時しかそうした殊勝(?)な能力を獲得する。で、以後死ぬ迄、死が近づくにつれ更に拍車をかけるかの如く、その種の能力に関しては驚異的天才的偏執的な才能を文字通り「業が深い」としか言い様のない執着心を伴って発揮した。そうし続ける事(これを唱えて業が深いと言う)は山田花子の性質であると同時に全世界、全人類に対する、静かで目立たない極めて地味な、それでいてしたたかで一筋縄では行かない復讐的行為であったのだ

それにしても一人のか細い婦女子が、この能力を独り占めしている状況というのは、非常に辛いものがある。なにしろ他人の心の内を見透かす視力は千里眼的なもので、千里と言わぬまでも、まるで数キロ先の馬の数を数えるモンゴル高原遊牧民並の、83とか84だかの視力を持っていたのだから。勿論、過剰な被害妄想に依る『見間違い』も時にはあったろうが、こりゃ大変だったと思う。

但し、2、3年前はほんの一時期だが、自分の千里眼を楽しんでいる時期もあったが、当然そんなものは頭に分泌されるシルの関係で長くは続かなかった。とはいえ、ともかく山田花子千里眼は、神や仏も見落としてしまう様な人間の地味な心理や、気分や、抑圧や、ちょっとしたエゴを見逃さず、その観察の結果を愉快な漫画にしていたわけだ。

しかし、か細い婦女子が神や仏を越えてしまった以上、生きてなんかいられないわな。実は山田花子は、絶望、絶望、絶望に次ぐ絶望、更に幾つかの絶望を越えた果に、燦然と輝く桃源郷がある事を予見していた節もあるのだが、生きながらえたままそこへ辿り着くには、気力、体力共、余りにしんどかったわけだ

それにしても本当につくづく業の深い漫画家だった*3

1992年12月15日 根本敬

山田花子『花咲ける孤独』解説)

 

解説/手塚能理子「姿優しく色美しく」

山田花子が描く漫画は、いつも緊張感が漂っていた。ガチガチのぎこちない線で描かれた“たまみ”や“桃子”は、いわばヘタに人生を送っている人たちだ。『さえない、もてない、目立たない』という、できれば避けて通りたいような日常を送っている若者たちである。なぜ、山田花子は、そんな人ばかりを描いていたのだろうか…。

山田花子は人が集まるような場所では、徹底的に無口だった。しかし、一対一になるとまったく逆で、酸欠になるんじゃないかと思うくらい、怒濤のごとく喋り続ける。その姿はいつも嬉々としていて、自分の話を誰にも邪魔されずに話せることに、興奮していたようだった。

また、人前に出るときは服装などにもかなり気を使っていたようで、古着などをうまく着こなして、いつも可愛らしい格好をしていたし、痩せているにもかかわらず、過激なダイエットもしていて、ジュースや少量のビスケットくらいしか口にしなかった(以前、大手出版社のパーティでタレントの桐島カレンをみかけた彼女は、「ずっと観察していたら、ウーロン茶しか口にしてなかった。だからあんなにやせられるんだ」と興奮ぎみに話していたことがあったな)。

要するに、山田花子という女性は、誰からも愛されたい、という気持ちが人一倍強かったんだと思う。まあ、そういう気持ちは誰にでもあるのだが、彼女の場合、他人が想像する以上にそれを心から欲していた。しかし、山田花子はとにかく不器用だった。その不器用さが、他人の誤解を生んだこともあったろうし、なによりも自分自身を不安に陥れた。漫画に描いていた主人公たちは、あってはならない自分の姿であり、この世の中から絶対に消えそうもない自分への不安でもあったワケだ。そして、それがどの程度のものであれ、漫画家としては、山田花子は無類の才能を持っていたのだ。それは当時の女性漫画家の中でも群を抜いて面白かったし、多くの人が期待をよせていたことは事実だ。その期待も彼女はある程度勘づいていただろうが、別の意味でより漫画に慎重になっていった。

生前の山田花子は異常なくらいのメモ魔で、よく周囲の人を観察!?しては、それを手帳に細かい字でビッシリと書き込んでいた。これは思うに彼女の唯一の安定剤だったのではないかという気がしてならない。結果的に、そのメモは漫画の材料にもなっていたが、他人の不安材料を見つけることで、自分の不安に彼女なりの理由をつけていたのかもしれない。

こんなことをいうと、また誤解をうけてしまうのでいっておくが、特殊漫画家といわれながらも、山田花子がこの世で自分以外に愛したものは、植物や小動物、童謡や童話だった。最初にそれを聞いた時は「ウソだろ?」と一瞬疑ってしまったが、付き合ってみるとすぐにそれらを本気で愛していることがすぐにわかった。というのも、彼女の本体はメルヘンの上に成り立っていたからである。

ある日突然、「一体自分は何ものなのか?」というような疑問が生まれても、その答えはきっと誰にもわからないだろう。しかし、山田花子は知りたかった。知りたかったのに答えが出てこないばかりか、どうも自分の理想とはかけ離れているようで、そこにひとつの絶望感が生まれてくる。その絶望の中で、彼女は彼女なりに純粋な世界を作り上げていったのだ。それがメルヘンの世界だった。

だが、はっきりいって純粋な世界を作り上げるなんてなことは、現世においては至難の技だ。煩悩だらけの人間がそれを作りあげるには、残念ながら膨大なウソと膨大な自己犠牲がいる。山田花子が不器用だったというのは、そのウソと自己犠牲をほんの少しもうまく作りあげられなかったことだ。また、うまく作りあげたとしても、その結果としてやってくる孤独感こそ、彼女がこの世で一番恐れていたものかもしれない。

いや、まてよ。孤独なんてものは、どんなに仕合せであったとしても、人間であれば生涯つきまとうものだ。どんなに信頼している親子や友人があったとしても、自分や相手の本能に気づいた時には、背筋がゾッとするくらいの距離を感じてしまうことがある。これは、淋しいとか悲しいとかいう言葉と置き換えて使われる、あの“孤独”ではない。生まれたが故に背負った孤独感だ。そしてそれは人間の本体なのかもしれない。山田花子は、もしかしたら、その背負った“孤独=本体”でさえ重荷だったのかもしれない。

亡くなる直前に、彼女は病院からの帰り道、童謡歌「春の小川」をよく口ずさんでいたという。あの歌の中にある『姿優しく色美しくという歌詞は、まさに山田花子の理想であったのだろう。

私は、山田花子の漫画は今でも“メルヘン漫画”だと思っている。差別と疎外の中で、空しく呼吸するあの主人公たちは、ずっと山田花子のメルヘンの世界の裏側にピタリと張り付いて、離れることはなかった。この両方の世界を固く結び付けていたのは、まさに山田花子の誰にも負けないくらいに天晴れな業の深さである。

山田花子『改訂版 神の悪フザケ』青林堂版解説)

 

解説/阿部幸弘(精神科医)「ぎゅうぎゅう詰めの空っぽ」

山田花子は、その不器用と言うほかない生涯の軌跡の中で、ことマンガの絵に関しては例外的に器用な側面を持っていた。

そもそもマンガ家としてのスタートが、非常に早熟だ。中3の時にすでに商業誌デビューし、高1で約1年間「なかよしデラックス」に連載を描いている。フリーハンドの暖かみを強調した当時の描線は、後年の美意識とは全く異質だが、人物の表情や動作などの表現はかなりこなれており、すでにこの年令で相当に的確な人間観察の目を持っていたことが窺える。だが当然ながら、まだスタイルは一定しない。子供の頃絵本で愛読していた佐々木マキの線に近付いてみたり、突然マンガを拒絶するような写実的なペン画を挿入したり、ゆらゆらと揺れ動く。それは一方で、色々と幅のある表現がすでに可能だったことを示している。

それを裏付けるように、根本敬に強く影響された「ガロ」没原稿の時期を経て、「ヤングマガジン」で(再)デビューした時には、自らのスタイルを弱冠二十歳にしてほぼ確立していた。誰にも似ていないオリジナルの描線とテーマを自ら掴み取ることは、たとえ年令を無視しても、マンガ家誰もが必ずしも達成できることではない。

ところで、この時点までに彼女はペンネームを、“裏町かもめ”→“山田ゆうこ”→“山田花子と変えている。ここには、陰に隠れた無人称の観察者への志向が覗いている。裏町に隠れたカモメの眼から的確に人間を観察し始めた彼女は、しかし、匿名に近い個人の視線へ、即ち、自らをも対象化する更に客観的な眼を持つに至ったことになる。それゆえ、山田花子という超高感度センサーは、日常会話のわずかな擦れ違いも見逃さなかった。登場人物や作者の意識だけでなく、読み手のエゴまで裸にしてしまう抜群の拡大率と解像度。以後、作品の主題は、人間の心理的擦れ違いの微分的な接写となる。

だが、世界で起こる出来事を極小のものまで見透して、しかもそれらを感情にのみこまれることなく超越的な意味合いで把握するというのは、言いかえれば神の視点を持つということだ。微分しながら積分する、あるいは接近しながら俯瞰するとでも言ったらいいのだろうか、そんな離れ技を山田花子はある程度までこなしていたから凄い。才能、プラス、かなりのエネルギーがないと出来ないことである。その比類無いエネルギーで彼女は、頑固と言っていいほど同一のテーマを追いかけた。そのため我々はつい錯覚しがちだが、絵に関して見れば山田花子の作品はむしろずいぶんバラエティーがあるのだ。

例えば、初期の「神の悪フザケ」の描線では、鼻の穴から顔の皺、産毛のはてまで、気付いたものは何でも見たとおり描くので全体にひどく醜くなってしまう、小学生の描いた人物画のような、情け容赦の無い客観性に力点が置かれている。この方向で、あくまで突き放して人間を観察する一方の極は、「マリアの肛門 他人の顔」の「人間の顔面ってよく見るとなんだか伸び縮みするゴムのよう」という認識だろう。

だが、徐々にキャラクターの体系がしっかりして来ると、赤塚や藤子を連想させる、ハッキリと記号性の強いマンガ的表現も多様するようになって行く。そうなってからの山田花子の絵は、実はかなり可愛い。本人は「私って何て甘いんだろう」という言葉を詩に残しているが、そのようなにじみ出る少女らしさというか、ロマンチックな視線の方の極は、宮沢賢治原作になる「いちょうの実」という作品に現れている。このたった5ページの短編は、美しい。銀杏の大木の母親から離れ旅立って行く子供たちの、ワガママな姿、困った所、優等生の気取り、などなどが描かれているにもかかわらず、否、だからこそ、絶望に裏打ちされた希望が朝の光に輝いて見える

山田花子は、これだけの表現の振幅を、一つの作品の中に力技で盛り込んでいた。その世界は、ミニマムの絶望や空しさが、賑やかにもぎゅうぎゅうに詰めこまれていた。そして、衣服の皺や、指、裸体などを描く時の、微分的なぐにゃぐにゃくねり折れ曲がった描線と、ツルンと可愛らしい丸みのある、かなり抽象化しパターン化されたキャラクターの顔とが、同じコマの中に描き込まれ、かつまたそれが単なる異質な物のコラージュに終わらず、違和感は違和感として一段高いレベルで統合された個性となって、不思議な調和を放っていた。

だから、あえてギャグとして彼女の作品を評価するならば、対象を完全に突き放しきるには視点が近すぎる、爆笑するには手触りが暖かすぎるマンガと言わざるを得ない。ギャグ一般に期待されるような、ゲラゲラ笑ってスカッとする類の効能にやや乏しく、むしろどこかに苦笑が紛れ込んでしまうマンガであった。

苦笑とは、苦々しい気持ちをどこかで自覚しつつ何とか立ち直ろうとする体の反応だ。読者は例えば、登場人物の中のイジメられる側に感情移入して、惨めな気持ちを再体験したり、イジメられても仕方ない自らの鈍くささを認めたりするかも知れない。あるいはその逆に、イジメてしまう側に立って、かつて身に覚えのある怒りや攻撃衝動を思い出したり、可哀想だからと表面的に思いやる偽善的立場を自己観察するかも知れない。だがいずれかのパターンで、誰もが自らの微かな痕跡を、作品の中に嗅ぎとってしまうだろう。彼女のマンガの中を探すと、誰もがどこかに自分を見つけるのだ。

自殺に至った理由は、もちろん誰にも分からない。ただ私は、人間関係に繊細すぎる根暗のマンガ家がストレスをためて絶望したというような、世間が期待しがちな筋書きを信ずることができない。思い入れからではない。彼女の作品の数々を改めて読むほどにそう思えてくるのだ。

絶望と言うなら、山田花子は最初から絶望していた。むしろそこを起点に、矛盾を一コマにねじ伏せるカ技の描線が展開したのだった。(了)

山田花子『からっぽの世界』解説)

 

寄稿/蛭子能収「それでは山田花子さん、さようなら。」

私はこの世で一番恐ろしいのはしぬことであるから自ら死を選ぶことは絶対にあり得ないと思っていますけど、山田花子さんの実家へ線香をあげに行く時、マディさんと一緒に高幡不動の駅で根本さんを待っている時にマディさんが死ぬことよりも生きている方が辛い時もあるんじゃないのといいました。

そんなことあるかな、と私は思いましたけど私は咄嗟に「そうね、生きてる方が辛いってこともあるね」と言ってしまいました。

私はいつもこういう方法で生きているのかも知れません。山田花子さんは、こういう風には生きれなかったんだと思います。純粋な芸術を志している人だったのだと思います。

さようなら、と言うしかありません。そして感動すると言うか、よくやったと言うか、言葉で書くと私の人格を疑われそうですが、芸術を志している人が死を選ぶ時、それは命を賭けた最大の芸術を貫行したということになるのではないかと思うのです。彼女は最大の芸術を完成させ、死霊になって私達が驚く様子を見て笑っているのではないでしょうか。ウス笑いを浮かべ、私達の家の回りを飛んでいるような気がします。「どう、面白かった?」と問いかけながら。怖いです。私達はもしかすると一生、山田花子さんの霊に監視され続けるのかも知れませんから。

山田花子さんと最後に交わした言葉はこうでした。私が「山田さん最近ガロにマンガ描いてないんじゃないの?」と言うと「ガロ読んでもないくせに、読んでから言って!! それから蛭子さんは、もっと面白いマンガ描いて!!」と言うものでした。実に棘々しく言うので私は恐ろしかったですが、なぜに昔、私のファンだと言ってた年若い女の人に、こんな口調で言われなきゃならんのか?と心の中で呟きました。

だけど彼女の言うことが当たっているから自分で情けなくなっていました。ガロを読んでないと言うことと面白いマンガを描いてないことが当たり。

私は今、山田花子さんの死霊に言いたいですね。面白いマンガを描けなくても、生きてれば面白いことはありますよ、と。生きてる人に向かって反論するのは難しいけど死人に反論するのは楽だなーなんて言ったりして。

山田さんに会った回数は全部で10回位でしたが、顔を会わせると何かイヤなことを言われそうでドキドキしました。そのドキドキするのが非常に良いのです。ドキドキしないと面白くありませんから。それでは山田花子さん、さようなら。と言っても、この辺りをウロウロ見回しているでしょうけど。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/丸尾末広「短距離ランナーの孤独」

以前ある詩人から、「生きてりゃそのうちいい事があるよ」と忠告された事がある。

別にその人の前で「もう死にたい」などと言ったわけではない。いきなり、そう言われたのだ。自分には自殺の願望はない。

どうやら我が漫画の主人公が、手首を切って自殺を図る場面をそのまま作者自身の切迫した感情と解釈しての忠告のようだが、これ程人を馬鹿にした忠告があろうか。たしかにいい事は少ないが、いくらなんでもいきててもひとつもいい事がないから死んでしまおうなどと考える程情けなくはない。

いじめを苦に自殺した中学生がいる。山田花子の死を作品のイメージから、そのようなものと考えるのは短絡的に過ぎよう。岡田有希子沖雅也を見よ。自殺する人間は皆ナルシストである。死ぬ程自分が可愛いいのだ。山田花子の死に精神の葛藤の重さや、敗北者の悲惨な陰はないように思える。

女性カメラマンのダイアン・アーバスは数十回もの自殺未遂を犯し、ガスオーブンに頭をつっこんで果てた。どのような陰惨な自殺にも夭折の甘い腐臭は嗅ぎとれる。自殺の為の自殺。藤村操に代表されるような形而上学的自殺者の「人生不可解」といったいかめしいニヒリズムの鎧は今時はやりはしない。

文化の軽量化は生死の軽量化に比例する。

自分は山田花子とは一面識もなかった。たのまれてサインをした事があるけれども編集者を中継しての事だった。『ガロ』に登場した女性漫画家の中で自分は山田花子を最も高く買っていた。理由はおもしろいから。ぎこちないデッサンとペンタッチで精いっぱい漫画的デフォルメーションを排しようとしている絵には、キッチュな緊張感がみちている。

女性漫画家にありがちな、ウスバカゲロウのようなお手軽な絵で、神妙なモノローグ体の内面描写をするというパターンから見事に脱却していた。テーマはただひたすら人間関係のまずさと苦痛。身の置きどころのなさ。どの作品もページ数は少なく、例えば近藤ようこさんのような長編大河ロマンの人とは対極にあった。

漫画家をさらには人生を長く続けてゆく為にはあまりにも、脈拍が早すぎたといってよい。自分は人生だの青春だのに何の興味もないが、間違えて地球に生まれてきた人の奇妙な人生には興味がある。この世には多くの地球内異星人が隠れ住んでいる。

地球人にとって何でもない風邪のウィルスも異星人にとってはエイズウイルスにも匹敵するであろう。山田花子がどのようなウイルスに犯されていたのか、一面識もない自分は勝手に想像するしかないのだが、「強く生きる」という幻想をもった暑苦しい人々からは、ここぞとばかりに「暗い」だの「甘えている」だの「命のとうとさがわかっていない」だのと苦言が寄せられるであろう。

自分は山田花子の死に、人間の生命といういかにも重々しく語られるものが、実はいかに軽いものであるか、思い知らされているのだ。

ふけば飛ぶようなあなたと私の命。

一度も逢わなかった山田花子さん、さようなら。

一九九二年六月

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/友沢ミミヨ山田花子サン」キオクヲコエテアイタイ

熱海に行った時、彼女は珍しく饒舌で、大川興業のコントの話や、学生の頃の話、デビューの頃の「キチガイみたいに細かい線ひいてた」話などしてくれた。「今は随分マトモ。」と言って、へへっと笑った。

秘宝館のポルノ映画コーナーで、「なんだか(自分が)玩具にされてるみたい」と囁かれ、ヒゲ面の親父化して見ていた自分は、消え入りそうにごめんごめん、と思った。

海底温泉では、私だけ恥ずかしがってて馬鹿みたいだった。

誕生日のプレゼントをもらった時、「わーうれしいー」といってから、シマッたと思った。

ぱんこちゃん達と遊園地に行った。その次に会った時「こないだの写真もらった?」と聞くと「心霊写真、うつってなかったね」と即答され、マイッた。

ファンキートマトというTV番組で根本敬さんがやってた“特殊漫画教室”に出演しませんか、と誘った時の返事は図のとおり。手強かった。

テクノパーティーに誘った時は「ミミヨちゃんが行くんだったら私も行く~♡」というFAXが送られてきた。可愛いかった。

私がムクムクの服を着てた時は、目を輝かせて「かわいいー」(洋服がね)と、動物系への弱みを露わにしていた。子供のようだった。

年末の或るイベントで、彼女はコントを演った。一人六役。家族コント。大学ノートにびっしりと書かれた台本をたまに確認しながら、小物と声色で役を演じわける。エプロンを着けてお母さん、「おはよう」眼鏡をかけてタマミ、「おはよう」ちゃんちゃんこを着てお婆ちゃん「どうしたんだい」ひげシールをつけてお父さん「おい、何やってんだ」…軽快なコントのようだが、全然軽快ではない。

一切は山田花子時空(マイペース)でゆるゆると流れる。10分…20分…30分…静まりかえる客を前に、彼女はコント“その13”まで演り終えた。格好よかった。最高に孤高だった。(ひげシールをつけた時は一寸恥ずかしそうだったけど。)

記憶の羅列しか出来ない。無念です。

────────合掌。

 

寄稿/みぎわパン「ぱんこと花子の底辺の笑い」

山田花子と私の会話は、たいてい3コマ漫画でカタがつく。キャッチボールにならないのだ。

私が何か言って、それに対して山田花子が私をくやしがらせるようなことを言って、まんまとくやしがる私。で、はにかむようなくやしいような、ヘンな笑いが込み上げておしまい。

おもいでを語るネタとしちゃ、このパターンの小間切れでムリがある。

ここに、ミミヨちゃんが加わると16コマは持つ。ミミヨちゃんは、うまい。

山田花子が、珍しくしつこく話しかけてきたことがあった。

山田「ねー、いまガロでしか描いてないよね。」

私「うん。でもイラストは少しやっとる。」

山田「どこでやってる」

私「えっと……えっと……」

山田「バイトとかしないの? じゃ、漫画だけ?」

私「う…うん。安い物食ってるから。」

仕事がないのを指摘されたのかと思ってムカついた。山田花子は、例の小さな声でもって「もうずーっと?」とか「ふしぎィ~~」とか言い続けていた。私はくやしいのを通りこしてイライラした。

あとで判ったけど、山田花子、バイトをしないで済む方法を知りたかったんだよなー。バイト先や社会は山田花子にとって、やっぱしオッソロシィ所だったんだろうね。私のこともさぞやオッソロシイかろーねー。

山田花子、いい漫画はちゃ~んと大好きで、情報通とは見受けられんのに、ちゃ~んといろいろ知っていた。

山田「某さんって、もーほとんど絶筆中なんだって。」

私「えっ!? あーあ、やっぱしー。ガックリきちゃうな。夢を壊すなぁ。描いてくれんと、こっちは生きがいなくなるよ!」

山田「チョット。しっかりしなきゃだめよー

山田・私────

山田花子って、こうやって時どき“そっくりそのまま返してやりたいような言葉”を吐く。わざとお姉さんぶって、たしなめるみたいにして笑わせる。その笑いはさっきの、はにかむようなくやしいような、もどかしい種類のものだ。「くよくよしちゃだめよ」「しっかりしなきゃ」とか。わざとなの。ワザと。

山田花子は、社会の仕掛けが解ってた。たぶん、漫画に出てきた“世界の罠”ってやつだと思う。

それで、わざとお姉さんぶったり先生ぶったりしてくやしがらせてみて、いまいちど会話の中で同じコト味わって互いに笑う。漫画にも、くやしい状態がしょっちゅう出てきて私を笑らかす。

もう、新作が発表されないかと思うとガックリくる。しかし、よく描いてくれて、ありがとう。

普通、社会の罠ばかり描いてると読む側も描く側も疲れるから、新しい方向性みつけるんだけど、山田花子ったら最後まで描き続けてくれた。今読んでも、何度読んでも「こりゃ狂うわ」って、敬意をはらう。

山田花子と、やきとりを食べた。遊園地にも行った。アフリカ館は二度もはいったね。テレビ出演の応援にも行った。これからも一緒に遊ぶ(連れまわす)気でいたら、ガツーンと一発してやられた。

期待して、人生に助平になってると、ガツーンて一発夢を壊されて、恥ずかしい状態になってしまう。

“信じるものは救われない” 山田花子の漫画とおんなじパターンだ。あー、くやしい。

一般が描けなかったことを描いたのだから、正しいのだ。正しい作家と知り合えて、私は運がいい。関わることができた。しあわせだ。また会える。

山田花子!! また会おう。今度こそ、少しくらいは傷つけあって、ちんちんまんまん見せ合って、つき合おう! サバラ!!

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/赤田祐一飛鳥新社・書籍編集部)「山田花子印象記」

彼女はどう思っていたか知らないが、僕は山田花子を年下の友人のように思っていた。彼女と初めて仕事をしたのは1989年の春で、僕がまだ少女雑誌『ポップティーン』の編集部にいたころの話だ。そのころ僕は毎日のように新人で面白そうなマンガ家を探していて、彼女のマンガに出会った。『ヤングマガジン』に掲載されていた「神の悪フザケ」を読んだのだ。そのころはまだ『ガロ』に作品を発表していなかった。まわりからバカにされ、笑われ、それでもしくじってばかりいる悲しい女の子を主人公にした学園マンガだった。暗い哄笑が画面から聞こえてきた。山田花子の絵はヘタクソだった。でも、強烈なインパクトがあったので、僕は一発で気に入ってしまった。そのとき感心したのは、彼女のマンガが実にオリジナルで、誰の真似でもないところだった。登場人物がみんな昆虫みたいに見えるのだ。山田花子は日本のマンガ家というより、ニューヨークで発行されている前衛マンガ雑誌『RAW』あたりに掲載されている神経症的なコミックの雰囲気に近いものを持っていた。

イラストの仕事をお願いしたいと思って会う約束をした。JR東中野駅の線路沿いにある古ぼけた喫茶店を指定された。しばらく待っていると、ベレー帽に丸いサングラスをかけた女の子が小走りに駆けてきて、喫茶店のキイキイ鳴る木の扉を開けるた。彼女が山田花子なのだとすぐに思った。「遅れてすみません。夕方まで板橋の工場でバイトしているので…」と言ったので、若いのに大変なんだなと思った。山田花子はどこかフニャフニャした印象のある内気な女の子だった。カフェオレか何かを注文したので、打ち合わせを始めようとしたが、彼女はまだサングラスをはずそうとしなかった。それでなくても、うつむきかげんで向かいあっているから、話がしづらいなと思っていたら「自分は対人恐怖症なんです」と教えてくれた。初めての人に会う時は、必ずサングラスをかけないとダメらしい。僕たちはまるで山田花子のマンガのようだった。なかなか彼女のほうから話しかけてこないので、気まずい沈黙がしばらく続いていた。僕は焦って頭の中で話題を探していたら、「神の悪フザケ」の中に、確か大槻ケンヂにそっくりなキャラクターが出てきたことを思い出したので聞いてみたら“ナゴムレコード”の大ファンなんですと教えてくれた。初期の“筋肉少女帯”や“人生”がどんなに素晴しかったか、“死ね死ね団”の中卒が1メートル近いモヒカンをしていることなどを、実にうれしそうに話してくれた。そう言えばメジャー・デビュー以前の“たま”の存在を教えてくれたのも山田花子だった。ぼくは「山田さんはナゴムギャルなんですか?」と聞いてみた。ナゴムギャルとは、ラバーソールにニーハイにオダンゴ頭でナゴム系バンドの追っかけをしている女の子の総称だ。「以前はそうだったかもしれないけど、今は違います。最近はナゴムにも無神経なファンが増えてきて、ステージの最前列で騒いだりするナゴギャがとてもイヤです」と否定した。でも僕は、山田花子という人は、ナゴムギャルがそのままマンガ家になった女の子だと思った。“筋少”や“人生”を聞いて育ってきたひ弱な20代の中から、新しいクリエイターが生まれ始めた点に、僕は興味があった。彼女のマンガがこれからどのように変わっていくのかを見て行きたかったのだが、それは果たせなくなってしまったので残念に思っている。どうして死んでしまったんだろう。最後に山田花子を見かけたのは『無能の人』のスクリーンに登場した姿だった。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

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(ビデオ『昔、ナゴムレコードがあった。』より死ね死ね団、木魚、ゲんドうミサイル、人生、ばちかぶり、筋肉少女帯、ケラ&ジ・インディーズのライブ。このビデオは今はなき豊島公会堂に於いて1986年8月29日に行われた「第2回ナゴム総決起集会」のライブを中心に構成された)

 

寄稿/加藤良一(“楽しい音楽”代表)

高市由美さんに会ったのは今から五年くらい前でした。まだ山田花子さんにはなっていませんでした。高市由美さんが山田花子さんだったというのを知ったのも実はごく最近のことでした。それで山田さんがまだ高市さんだったその当時、彼女は私が作っている音楽グループ「楽しい音楽」のかず少ない応援者の一人で、私達の作ったレコードやテープを聴いた感想を丁寧なお便りで送っていただいたりしていました。それが縁でたった一度だけ彼女は私の事務所に妹さんを連れて遊びに来てくれました。でもそれが今思うと高市由美さんこと山田花子さんとの最初で最後の顔を見てお話しすることができる機会でした。

その時の彼女の印象は明るくて暗いとっても感受性豊かな女の子だなと受けました。何かモノを造ることが好きな人だなとも思いました。高市さんはうつむいて早口でしゃべっていました。学校にもどこにも仲良しの友達がいなくて妹さんだけが自分にとってのかけがえのない親友であること。新宿のライブハウスでヘビメタの人たちとおかど違いのジョイントライブをしたこと。好きな音楽のこと。アメリーモランの唄がとっても可愛いということ。アメリーモランのテープはその時もらって今でも聴いています。他にも色々とりとめもない話をしてから帰り道に三人で一緒に豆腐ゴハンを食べてから別れました。井ノ頭線渋谷駅の階段を姉妹なかよく走って行く後ろ姿は今でも覚えています。その後ろ姿が高市由美さんこと山田花子さんを見た最後の後ろ姿でした。

それからしばらくして郵便で高市さんからカセットテープが送られてきました。それは私が是非、聴かせて下さいと言っていた高市さんの唄のテープでした。そのテープの中で彼女はオルガンを弾きながら童謡を唄っていました。とっても無邪気な唄でした。つい最近そのテープがひょっこり出て来ました。久しぶりに聴くその唄声は懐しくもありまた淋しいものでもありました。

そして五年ぶりに出て来た高市さんのテープを聴いた半月後山田花子さんの死を知りました。正直な気持ち彼女の死は現実のことと思えず別の世界での出来事のように思えてなりません。それは私の心の中では、高市由美さんと山田花子さんがイコールで結ばれていないせいかもしれません。しかし真実として私の知っているハニカミ屋で「楽しい音楽」が好きですと言ってくれた高市由美さんは山田花子さんという有名な漫画家といっしょに次の世界に旅立ってしまったのです。山田花子さんそして高市由美さんが死ぬ少し前、「楽しい音楽」の新しいレコードが出来上がりました。聴いてもらえなくてとても残念です。もっと早く出来上がっていたらと思っています。

サヨウナラ高市由美さん。そして山田花子さん。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/石野卓球電気グルーヴ

山田さんとの初めてのコンタクトは、現在も僕がやっているラジオ番組に「まんが俺節」コーナーがあり、そのコーナーあてに山田さん本人から単行本「嘆きの天使」が送られてきた事でした。ヤングマガジンの「神の悪フザケ」以来、山田さんの作品には興味をもっておりその時すでに「嘆きの天使」は持っていたのですが、同封の手紙には「山田花子という者です、漫画家をやっております。もし良かったらコーナーでこの単行本を紹介して下さい。」といった内容が書かれておりました。その後僕達(電気GROOVE)がレギュラーで出演していたテレビ神奈川の番組「ファンキートマト‘91」の中で根本敬さんや友沢ミミヨさんと我々電気GROOVEでやっていた、まんがのコーナー(お笑いまんが道場のガロ版?)で何度かゲスト出演していただき、その番組を通じて初めて本人とお会いしました。本番前に楽屋で、根本さんだったか友沢さんかに「山田花子さんです。」と紹介され、伏目がちにあいさつを交したのを憶えています。当時は「嫌われてるのかなあ。」と思いましたが、何回か会ううちにそうでなかった事が分りホッとしたのも憶えています。一度、本番終了後に、僕のところに山田さんが、かけ寄ってきて、「卓球さん、これあげます。」と言って小さな封筒を差し出して、僕に渡すと、逃げるように去って行き、封筒の中を見ると、「いなかっぺ大将」のシールが数枚入っていた事がありました。

あまりのおどろきに、断片的な思い出を語ることしか出来なく申し訳ありません。山田さんの身の上にどんな事があったのか、今現在、僕には分りませんが、自分の知り合い、しかも興味が持てる作品を生み出していた人が亡なるなんて、陳腐な表現ですが、悲しすぎます。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

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石野卓球は『電気グルーヴオールナイトニッポン1992年6月6日放送回の終了間際に田花子の訃報を伝えている。放送中はいつものテンションの卓球だったが、最後の最後で急に神妙になって山田の死を語ったのがとても印象的で、この訃報で山田の存在を知ったというリスナーも少なからずいたようである)

 

寄稿/知久寿焼(たま)

さくらももこ宅にて知久寿焼山田花子

山田花子さんは、ひと足先にこの世の地獄からぴよおんと飛んで逃げてっちゃいました。たしかに、飛び降り自殺の似合いそうな線の細い美しいはかなげな容姿の人でした。彼女の漫画を読んでると、まるで自分の事が描かれてるような気がして冷や汗をかく事がたびたびです。二百年後には今生きてる人なんてもう誰も居ないもん、と強がって出かけたお通夜では、突然ことわりもなしに涙の馬鹿野郎がでしゃばって来て困ってしまいました。天国がほんとうにありますように。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/石川浩司(たま)「お元気で。」

山田花子さんに初めて会ったのは、確か今から四年程前の事でした。友人の雑誌編集者S君が、当時アマチュアだった僕の「たま」のライブに、彼女を連れてきたのでした。

「『ヤングマガジン』に『神の悪フザケ』を連載している山田花子さんです。」メジャー誌での漫画家ということだけで、「スゴイ。そんな有名な人がライブを見に来てくれるなんて。」と単純に思ったりしました。マンガから想像されるよりも美人だな、という印象がありました。

その後、マンガの中に「ねーえ来週たま(ってゆうバンド)のライブあるよっ、行こうねー」というセリフが出てきてニヤリとしたり、ついには当時僕が発行していたせいぜい部数50部のミニコミに、作品を送っていただいたりして、「おおっ、プロの人が、ロハで!」と単純に喜んだりしました。

そうこうしてるうちに「たま」の方がちょっと忙しくなってしまったりして、顔見知りと友人の間の「中途半端な知り合い」のまま、時間が過ぎてゆきました。何かの折にひょいと顔を合わすと、お互い、一瞬、虚を突かれたお見合い状態になってしまって、「あっ、あっ、あっ、ドウモ。」と首をヒョコンとしてシドロモドロになってしまったりしました。

僕は実は、基本的には人と接するのが苦手で、いや苦手というより考えてしまうので、それが面倒臭い自分の性(サガ)なのです。この人と、争いにならない様、どうゆう話し方で、何を話したら一番相手とのコミュニケーションがスムーズにいくか。とにかく険悪な雰囲気の場所に自分が居ることが、何よりも泣きたくなってしまう程、嫌なのです。だから、そうならない様、そこから逃げる為のコミュニケーションという物が、僕にとってとりあえず、現実のあらゆる場面において一番大事なわけです。そうゆう事で、常にコウモリ会話をして生きてきたのです。が、時々、それを見透かされる人がいると、ドキッとして何も話せなくなってしまうのです。

山田花子さんの場合もそうゆう人で、多分、本人は見透かそうなどという意志はなくても、ミエチャッテルのがこっちにもワカッチャウので、お互い会話の間合いがうまくとれなくて、妙にオロオロしてしまうのでしょう。でも本当はそういう風にミエチャウものだからかえって人とのつき合いが不器用な人、社会との間がどうしてもズレちゃう人。そんな人が僕にはどう仕様もなく、愛おしいのです。自分と似ているのです。

だから、山田花子さんも、新しい暮らしを始めている事と思いますが、どうか、そのままで。そのままがいいと思います。

お元気で。─────

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/ケラリーノ・サンドロヴィッチナゴムレコード/有頂天/劇団健康/ナイロン100℃

天久聖一中川いさみ両氏に加え、山田花子さんに私が主催する集団“健康”の公演「愛と死」の脚本を依頼したのは二年前の冬のことだ。

その日、山田さんは居心地悪そうに我々の稽古場の片端にポツリと座り、彼女の原案である“ケンヂとルリ子”のコントをじっと見つめていた。僕はなんだか申し分けない気分になって

「あの、こーゆーところっていづらいですか?」

と聞いた。すると彼女もまた申し分けなさそうに「いえ、そんな、すみません」などと言うものだから、私はそんなこと聞くんじゃなかったとより一層申し分けない気分になって黙ってしまったから彼女も黙ってしまった。

帰り際に、やはり彼女は申し分けなさそうに一本のカセットテープと魚のスタンプが押してある名刺をくれたので、申し分けなさそうに受け取った。カセットテープにはパスカル・コムラードのアルバムが録音されていて、それ以来僕はトイ・ピアノの音を聞く度に魚のスタンプと、あの日の申し分けなさそうな彼女の姿を思い出してしまうのだ。

山田さん、僕も、もちろんあなたも、申し分けないことなんかなにもしていなかったのに、どうしてあんなに申し分けない気分になってしまったんでしょうね。なんて、本当はそうした心境は寸分わかっているつもりです。お互い、その申し分けなさを、居心地の悪さを武器にしてきたんですからね。また申し分けなく思いながら何か一緒に出来ると思っていたのに残念です。とても残念です。どうか安らかにお眠り下さい。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/ジーコ内山(俳優・パンク映画評論家)

山田花子さんとの出会いは、彼女が僕のライブ「エレファン島カシマシ危譚」を観に来てくれた事が始まりでした。電話予約の名簿に山田花子という冗談みたいな名前があり、もしかしたら本名かも知れないし、関西系のお笑いでこんなのいたなーと思ってたら宝島でイラストを発見し、漫画家だと分かりました。皆に聞くと変わった作風との事、コレはスゴイと思い、彼女にライブに来てもらったお礼の電話をかけました。そうしたらライブはとても面白かったと誉めてくれたので、僕も山田さんの絵が好きですと言ったら、何とその後で著作「嘆きの天使」を送ってくれたのです!! 感激して、また電話をかけ「裏表紙の写真の花子さん、キレイですね」と言うと「化粧ですよ、化粧」と笑ってた。

それから何度も電話をかけるほど仲良くなり、一緒に美術展に行く事になりました。去年7月26日文での「マン・レイと友人たち展」です。渋谷ハチ公前の交番で待ち合わせをすると、少女の様な花子さんが無表情で待っていました。歩きながら「友達の漫画家が結婚してからつまらない漫画を書く様になったので、私は結婚はしない」とか、「青林堂に勤める妹と一緒にバンド組んだ事がある」等の話を聞きました。僕が「山田花子って本名ですか?」と聞くと「秘密です」と答えたのが印象的。(亡くなるまで本名は知らなかった!)それが最初で最後のデートです。…その後も根本敬展で会うと、元気にはしゃいでいて、僕の次のライブに本物の乞食を出そうとか、鳥人間コンテストで飛びおりた人の中には何人も死者が出たとか、とても楽しそうにしゃべり、本当に少女の様な人だと感じました。

やがて年末に彼女の最初で最後の貴重な舞台を見る事が出来たのは幸運としか言いようがありません! 白夜書房関係のパーティで何と彼女は自分の漫画を舞台化してました! それも一人十役以上、衣装変えも変装もギャグとギャグの合間、段取りを無視し、客に向かって「後少しだから我慢して下さい」と延々30分以上やるというスゴさ!! 僕はそれを見て次のライブには絶対出演して下さいと頼むと、彼女も大乗り気でOKしました。

まずは3月17日の象さんのポットライブに出演依頼をしたのですが、2月頃からぷっつりと消息が途絶えてしまいました。そしてライブの前日に「今、出られない所にいます…」と電話が、かかって来ました。病院に入院していて6月には出られそうとの事。僕は何としても次回の根本さん原作「こじきびんぼう隊」に出演してもらいたかったので「がんばって下さい」と励ましました。

それから2ヶ月ほどして、突然彼女から「具合が良くなりました。この間はすみません。次の舞台で何かセリフのある役を下さい」と電話が来ました。僕は大喜びで彼女の為に役を作りました…が、数日後、彼女の父親から電話で、医者から止められていて、薬を飲むと夜眠ってしまうので出演は無理との事。本人に代わってもらい「すみません…でも絶対に当日芝居を見に行きます」と言葉を戴いたのがまさか最後になるとは…ライブの当日、僕は観客の前で彼女の死を告げました。皆、ショックを受けていました。たぶん、彼女は会場で見ていてくれたと思います。今まで僕が会った人の中で最も純粋な女性でした。純粋すぎたのでしょう…でも僕の前では、とても心を開いてくれ漫画より演劇がやりたいと今後の抱負を語ってくれました。

これからも長く友達付き合いを続けていけると思っていたのですが…その代わりに思い出という形と作品が僕の心に残り続ける事でしょう。近い内、必ず彼女の作品を舞台化したいと思います。それが彼女の意志を受け継ぐという最良の形ですから。では、最後に彼女がアンケートに書いてくれた言葉を皆様に送ります。

人生は1回切りなんだから、どんどんすきなことをやった方がいいですよ。

 青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/高市俊皓(父)「東中野辺りで『詩人・鈴木ハルヨ』を見かけたら知らせてほしい。」

一九九二年五月二四日夕刻、我愛娘高市由美―漫画家・山田花子―は高層住宅の十一階から飛び下りて自ら命を絶った。享年二四才、余りにはかなく、余りに短い生涯であった。その死顔はこの世の一切の煩悩―苦しみ、悲しみ、怒り等―から解き放たれた如くに穏やかで安らかなものであった。遺書はなかった。ただし、五月二二日付日記に以下のような記述があった。数年間に亘って書き続けてきたノート十五冊に及ぶ膨大な分量の日記の本体部分は、この日をもって終わっている。

*召されたい理由(ワケ)

①いい年こいて家事手伝い―厄介者、ゴクツブシ、世間体悪い。

②他人とうまく付き合えない(クライから)。

③将来の見通し暗い。勤め先が見つからない。(いじめられる)

④テーマがなくなった。もうマンガかけない=生きがいがない。

⑤家族にゴハン食べさせられる。太るのはイヤ。

⑥もう何もヤル気がない。すべてがひたすらしんどい、無力感、脱力感。

⑦「存在不安症」(胸痛)の発作が苦しい。

対人関係、経済生活上のいきづまり等他の諸問題を無視することはできないとしても、自ら袋小路に入り込んでしまいマンガが書けなくなってしまったことが、死を決意するに至った最大の原因であっただろうと思う。

山田花子はこの十年余り、対人関係―いじめ―を唯一のテーマにしてマンガを書き続けてきた。「いきずまり」は不可避であった。

もし山田花子が対人関係・人間関係を現存する社会の諸関連の中に置いて考察し直したならば、今後尚同一のテーマで書き続けたとしても、いきずまるどころか一層深みのある作品を生み出すことができたであろう。

現存する社会―資本制社会―においては、芸術家も含めて人はただ自己の生産物を、或いは自己自身を「商品化」することによってのみ生存することを許される。従ってまたこの社会では人と人の関係は、商品を、或いは「商品化された自己」を媒介としてのみ取り結ばれ形成される。しかも尚、商品生産社会においては、弱肉強食の競争こそが、人と人の関係を律する支配的な法則となるのである。

「この世は弱肉強食、あの世=愛と平等」(日記から)。山田花子は、来世こそ、人々が真に自由・平等であり、誰もが経済的な制約から解放されて最大限個性をのばし発揮することができるような「理想郷」であると確信することによって、現世の苦しみに耐えてきた。私は全く逆に、「理想郷」は、現世で実現してこそ意味があるのであり、また実現可能でもあると確信している。けだし、長く続く、苦痛に満ちた苛烈な闘争なしに、現世で「理想郷」を実現することはできない。もし、このことを認めたとしても、余りにも感受性が強く、また余りにも繊細な山田花子は、この苛烈な闘いによく耐え得ないであろう。

山田花子は、至福の理想郷―メルヘンの世界―の存在を信ずると共に、「輪廻転生」の思想も信じていた。山田花子が、「理想郷」に辿りつくことができたか、どうかは定かでないし、また何時転生して再び現世に姿を現すのかも定かでない。唯物論者たる私は、来世の存在も、輪廻転生の思想も信じてはいない。だが、もし万一、読者のなかの誰かが、東中野辺りで「詩人・鈴木ハルヨ」を見かけたら知らせて欲しい。

死の数週間前に、山田花子は詩人鈴木ハルヨに転生し再出発すると「予言」したのである。山田花子の日記には、詩人・鈴木ハルヨ。性格明るく、おしゃべり好き、一九七一年四月十二日生まれ、二〇才、血液型B型、新潟県出身、住所・中野区東中野1-●2-●6(●山荘D室)、TELなし、と書かれている。

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

五月二十四日十九時三〇分  山田花子一周忌を迎えて一

早いもので、高市由美・漫画家山田花子が死去してから早くも一年という歳月が流れ去った。私達両親が、由美・山田花子のことを日記に基づいて一冊の本にまとめて出版しなければならないと決意したのは、九二年の夏も終わりそろそろ秋風が吹き始めたころであった。

中学・高校でいじめにあって、必死になって何かを訴えようとしていた時に、私達両親が人間的に未熟であり精神的にゆとりがなかったために、真剣に聞いてやることかできなかったことが、また病んで親元に帰ってきた時に、住宅が狭く経済的にも余裕がなかったために、十分介護してあることができなかったことが、悔まれてならなかった。

私達両親は、幾多の痛恨の悔悟の念に駆り立てられて、この生き難い世の中で、どこにでもいる「不器用でドン臭いいじめられっ子」が全力を振り絞って生き抜こうとして来た姿を、たとえ誰の目にふれることがなかったとしても、何等かの形で記録しておかなければならないと考えたからであった。

山田花子の妹・真紀がもち帰った膨大な分量の読者の追悼文や投書を読んだ時、私達両親の決意は一層固いものになった。生前山田花子を熱烈に支持し、その作品を愛読して下さった多くの読者に、山田花子の実像を知って頂かなければならないと考えたからである。

山田花子は何よりも偽善を嫌った。だが、山田花子が嘘偽りなしに生きたいという時、それは世間でいう肯定的な価値観に従って生きるということではなかった。むしろ山田花子は、できることなら自分自身の内部にある「心の暗闇」ー嫉妬心、利己心、冷酷さ、差別意識等ーを剥き出しにして生きて行きたいと思っていたが、そうはできなくてもがき苦しんでいた。山田花子自身は日記に「冷たい女、やな女と思われたくないプライド」あるからできないと書いていたが、私達両親には心優しすぎてそうはできなかった様に思えてならない。(親バカ!)

私達両親は極力飾られ美化されることのない、ありのままの山田花子像を描き出そうと努めてきた。だが、山田花子は「いくら客観的なつもりでも、人間所詮思い込みから抜け出せない」と日記に書いている。その通りだと思う。結局のところ、私達両親がどの程度客観的に山田花子集を描きだすことができたか、どうかということについては、読者の皆さんの審判を待つほかなきそうだ。

青林堂『月刊漫画ガロ』1993年7月号)

 

寄稿/高市裕子(母)「虫愛でるヒメだった娘へ」

山田花子ではなく、私にとっては、由美という存在であった娘が、私達の許をだまって去ってから、半月を過ぎました。瞼に浮かぶ娘は、無邪気に屈託なく笑っています。

子供時代、そして死に至る迄の娘は、内気で感受性が強く、やさしさを秘めた子でした。親の私にとっては、とても楽しい存在でした。雲の切れ間に見える月を眺めて「お月様が舟に乗っている。ゆらゆらゆれている。」(5才)と言って、将来は詩人になれるかもなんて、期待をしてしまいました。何気なくつぶやく言葉に私の心は踊ったものです。

2才の時に郊外の自然豊かな団地に移り住み、3才から保育園に通っていました。その当時の連絡帳があります。娘の日常生活を保母さんと遣り取りしたノートを読みかえすと、いろいろなことが思い出されます。

娘は人形よりも、虫や鳥、動物が好きな子でした。飼っていたもの:トカゲ、バッタ、テントウ虫、ハムスター、インコ、文鳥、イモリ、ミニウサギ、猫、その他多数。1才頃地面に座り込んで「アイしゃん、アイしゃん」と動き回るアリを、じっと見ていたことがあります。

叔父から4才の誕生祝に贈られた昆虫や動物図鑑読みたくて、文字を覚え、虫の名前や生態を詳しく知っていました。小学校低学年時代「昆虫博士」と言う名前を友達から貰った程です。カタツムリに夢中になっていたのもその頃です。水槽に入れて、ニンジンやキュウリの餌をやっていました。カタツムリの糞は餌と同じ色をしているのだと教えてくれました。カタツムリの卵が1~2mmで真珠色をしたとてもきれいな卵であることも、私は知りました。

3年生の頃、アゲハの飼育に夢中になり、カラタチの葉についている卵を取って来てはイチゴの空きパックに入れて育てていました。料理用の山椒の葉、パセリは丸坊主、ミカンの木も買いました。羽化したアゲハが大空に飛び立つ一瞬を2人で見送ったこともあります。保育園の頃の夢は、「動物園の飼育のおばさん」になることでした。

もう一つ、娘が夢中になっていたことは、絵本作りでした。1才頃から眠る前に絵本を読み聞かせするのが、日課でした。話を聞きながら、空想の世界に浸っていました。

5才頃から画用紙を切ってホチキスで止め、鳥や動物を主人公とした絵本を、毎日書いていました。自由に伸々と彼女の夢の世界を描いていました。私が読んでも楽しかったあの絵本の数々、大きな紙袋にぎっしり詰まっていたあの絵本はどこに行ってしまったのでしょう。何にも拘らずに空想の世界を描いていた娘は、どこへ行ってしまったのでしょうか。

小学校に入学しても、先生の話を聞かずに教科書やノートに絵ばかり描いていて、よく注意されたようです。「漫画のことしか頭にない」とお叱りを受けたこともあります。6才頃のノートに、保育園に登園する時、「ママ、固く手を握っていてね。別れる時には手を振ってね」「ママは知らないうちにどこかへ行ってしまって、帰ってこないから」とありました。仕事の都合で娘が眠っている間に出勤したり遅く帰って来る私が、どこかへ行ってしまうという不安があったのかも知れません。子供時代、もっともっといつも娘の傍らに添ってやればよかったと後悔の念がよぎります。

誰にもサヨナラを言わず、別れの手も振らずに行ってしまいました。職場の3階の窓から、娘の飛び立った高層住宅が見えます。毎日、私は窓辺に佇んでは、娘は自由な世界へ向けて空を飛んでいるのかなと思ってしまうのです。

読者の皆様、青林堂の方々、漫画家の皆様ありがとうございました。ガロの誌上をお借りしてお礼を申し上げます。1992・6・9

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号)

 

寄稿/大槻ケンヂ青二才もの」の巨匠

僕は、彼女のマンガが好きではなかった。

山田花子さんが生前に、僕や、僕のバンドを支持してくれていたことは知っていたが、それでも、彼女の作品を好きにはなれなかった。

彼女の作品の根底に、コールタールのように重くたゆたう、彼女の創作活動の総てともいうべき情念(レトロでも、あえてこの言葉を使います)みたいなものが、僕から見れば、とっても気恥ずかしく思えたからだ。

彼女の情念とはつまり、思春期の少年少女特有の、肥大し過ぎた自我と自己愛の裏返しなのであり、それ以上でも、それ以下でもない、誰しもが通過し、多くの人は克服する青春の感傷に過ぎないのだ。

自我に固執するがあまり、他者を憎む、世界を呪う。愛されない自分を蔑み、愛さない他人をあなどる。コミュニケーション不全症を思い、世をはかなむ。はかなめば束の間すくわれた気分になる。

山田花子のマンガは、結局みんな、「自分が思うほど他人は自分のことなど気にかけちゃいない」という現実社会の大原則にまだ気付いていない世間知らずの青二才の物語なのだ。

青二才の気持ちを叩きつけた作品というのは、自分にも同様な青二才時代があった場合、大人になって接した時、なんともいえぬ気恥ずかしさを感じさせられるものだ。大人になると、そのころの自分の憤りが、どういう理屈で成り立っていたのか、そのカラクリがわかってしまうからだ。

高校時代、僕はまったく山田花子作品の主人公たちのような世界観で生きていた。真剣にこの世をはかなみ、他者を呪い、機会あれば何もかも燃やし尽くしてやるのだと考えていた。

しかし、大人になり、ある日ふと、灯りがつくように気付いた。

「あれは、自分が中心に宇宙が周ってると思ってたから、あんなに周りが気にいらなかったんだな」…と。

青二才もの」という文化ジャンルがあるとしたら、山田花子は間違いなく第一人者であった。その力量は、尾崎豊に勝るとも劣らぬといってもいい。どうしたって別世界に生きた二人だけれど、役どころは実は同じだった。両者とも、「青二才ものの巨匠」だったのだ。尾崎は「校舎の窓ガラス割って反抗してえ」という青二才を、山田は自閉によってせめて自己主張しようとする青二才の物語をそれぞれ綴った。

僕も山田花子と同様、自閉することでしか主張の手段を持たない青二才を主題にいくつかの唄を作ってきた。「悲しきダメ人間」「あっちの世界」「ノゾミカナエタマエ」等、山田作品のタイトルに、明らかに僕からの影響と思われるものがあるのは、きっとそのせいなのだ。

大槻ケンヂは自分と同じ物語を創ろうとしている。」と、山田さんは思ってくれていたのかもしれない。

確かに、僕は、彼女と同じ青二才の物語を創ってきた。しかし、ある時から僕は確信犯的になった。「自閉することでしか主張できない少年少女たちはこんなことを思ってるはずだ」と、分析してから青二才の物語を書くようになった。

人はいつかは大人になる。青二才だった頃を、青二才の心を、客観視できてしまう日が来る。その時、「青二才もの」を創ってきた作家は究極の選択をしいられる。

確信犯として、青二才の気持ちを分析して作品を作っていくか、それとも、自分はまだ青二才のままだと永遠に信じ続けるか。二つに一つだ。

僕は前者を選んだ。たいがいの人がそうするように確信犯として世俗にまみれる方を選んだ。

山田花子は、多分、後者しか選べないタイプの人間だったのではないか。

山田作品の主人公たちは、どれを読んでも、自分の自閉に対して、髪の毛一本ほどの疑いも見せていない。「肥大した自己愛の裏返し」というカラクリに、まったく気づいている様子も無い。それは彼らの創造主である山田花子自身が、気付いていなかったからだと僕は思うのだ。

ラクリに気付き、確信犯として生きていこうと決めた僕にとっては真性の青二才である山田花子の作品は、恥ずかしくて恥ずかしくて、なんだか申し訳が無いような気がして、読むのがつらくて、どうしても、好きになれないのだ。

青林堂『月刊漫画ガロ』1993年7月号)

 

参考文献

石川元『隠蔽された障害 マンガ家・山田花子岩波書店、2001年

佐々木マキ『やっぱりおおかみ』福音館書店、1973年

講談社『なかよしデラックス』1983年1月号

講談社『なかよしデラックス』1984年2月号

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号(追悼特集)

山田花子『改訂版 神の悪フザケ』青林堂、1995年

山田花子『改訂版 花咲ける孤独』青林工藝舎、2000年

青林工藝舎『アックス』29号、2002年

山田花子『改訂版 魂のアソコ青林工藝舎、2009年

 

山田花子の本棚

『メディアになりたい』(高杉弾JICC出版局

戸川純の気持ち』(月刊宝島編集部編・JICC出版局

『宝島』1984年10月号(JICC出版局

『宝島』1984年11月号(JICC出版局

『宝島』1984年12月号(JICC出版局

赤面恐怖症の治し方』(森田正馬白揚社

『無責任な思想』(上杉清文北宋社

小堺一機関根勤のら゛』(TBSラジオ「スーパーギャング」編・三才ブックス

『ツービートのわッ毒ガスだ』(ツービート・KKベストセラーズ

『のろいの館』(楳図かずお秋田書店

『圭だらの卵』(日野日出志ひばり書房

『ヤスジのメッタクチャバカ』(谷岡ヤスジ・コミック社)

水木しげる短編傑作集~はかない夢』(水木しげる小学館

『まんが入門』(赤塚不二夫小学館

新潮美術文庫『ミロ』(新潮社)

『続・スケボーに乗った天使・ケニー写真集』(リン・ジョンソン・KKダイナミックセラーズ

夜想5・屍体~幻想へのテロル』(ペヨトル工房

『マンガエッセイでつづる般若心経』1~3巻(桑田二郎・けいせい出版)

『マンガエッセイでつづる魂の目』1~4巻(桑田二郎・けいせい出版)

『絵本・地獄』(風濤社

『イメージの博物誌8・タントラ~インドのエクスタシー礼讚』(フィリップ・ローソン著・平凡社

『子どもの昭和史昭和十年~二十年』(平凡社

『子どもの昭和史昭和三十五年~四十八年』(平凡社

『ピクルス街異聞』(佐々木マキ青林堂

『ウルトラ・マイナー』(キャロル霜田・JICC出版局

『Let's go幸福菩薩』(根本敬JICC出版局

『地獄に堕ちた教師ども』(蛭子能収青林堂

『私はバカになりたい』(蛭子能収青林堂

『薔薇色ノ怪物』(丸尾末広青林堂

DDT──僕、耳なし芳一です』(丸尾末広青林堂

夢の島で逢いましょう』(山野一青林堂

『ぱんこちゃんになろうっ』(みぎわパン青林堂

『みいんなじろうちゃん』(石川次郎青林堂

『銀のハーモニカ』(鈴木翁二青林堂

『クシー君の発明』(鴨沢祐二・青林堂

『月ノ光』(花輪和一青林堂

『ヘタウマ略画・図案事典』(テリー・ジョンスン=湯村輝彦誠文堂新光社

『ヒゲ男』(藤子不二雄・奇想天外社)

どおくまん作品集』第2巻(どおくまんプロ)

『SF頭狂帝大』第1巻(どおくまん少年画報社

銭ゲバ』第1~4巻(ジョージ秋山・リイド杜)

『みんなの心に生きた山下清』(山下清展企画室編・大塚巧芸社)

『ねぼけ人生』(水木しげるちくま文庫

ねずみ男の冒険』(水木しげるちくま文庫

智恵子抄』(高村光太郎新潮文庫

『変身』(カフカ新潮文庫

草野心平詩集』(草野心平旺文社文庫

『真夜中のマリア』(野坂昭如新潮文庫

アメリカひじき・火垂るの墓』(野坂昭如新潮文庫

『ごんぎつね・最後の胡弓ひき他十四編』(野坂昭如講談社文庫)

『わたしの赤ちゃん』(日野日出志ひばり書房

『少女地獄』(夢野久作・角川文庫)

『家出のすすめ』(寺山修司・角川文庫)

『グッド・バイ』(太宰治・角川文庫)

『パノラマ島奇談』(江戸川乱歩・角川文庫)

銀河鉄道の夜』(宮沢賢治新潮文庫

『蛙のゴム靴』(宮沢賢治・角川文庫)

風の又三郎』(宮沢賢治新潮文庫

『にぎやかな未来』(筒井康隆新潮文庫

『ビンボー自慢』(手塚能理子・潮流出版)

天才バカボン』第29巻(赤塚不二夫・曙出版)

天才バカボン』第2巻、第17巻(赤塚不二夫講談社

『ガロ』1985年1月号(青林堂

『ガロ』1985年2・3月合併号(青林堂

『ガロ』1985年4月合併号(青林堂

『ガロ』1985年5月合併号(青林堂

『ガロ』1985年6月号(青林堂

『ピックリハウス』1984年7月号(パルコ出版

ビックリハウス』1985年6月号(パルコ出版

『魔の川アマゾン』(中岡俊哉、秋田書店

AMNESIA』(太田蛍一・けいせい出版)

『はせがわくんきらいや』(長谷川集平・すばる書店

『昆虫の図鑑』(小学館

『動物の図鑑』(小学館

『やっぱりおおかみ』(佐々木マキ福音館書店

太田出版Quick Japan』Vol.10より)

 

山田花子の所蔵レコード


『とろろの脳髄伝説』(筋肉少女帯ナゴムレコード

『子どもたちのCity』(V.A・ナゴムレコードアポロン

玉姫様』(戸川純/アルファレコード)

『土俵王子』(有頂天/アルファレコード)

『河内のオッサンの唄』(ミス花子/BLOWーUP)

『チャカ・ポコ・チャ』(パラクーダー/ミノルフォン

『黒ネコのタンゴ』(皆川おさむ/日本ビクター)

オリバー君のロックンロール』(池田鴻/キング)

『大明神』(木魚/ナゴムレコード

『さよならをおしえて』(戸川純/HYS)

『MAJORIKA』(マリ千鶴/レコード会社記載なし)

『世界によろしく』(ミン&クリナメンナゴムレコード

ヨイトマケの唄/メケ・メケ』(美輪明宏キングレコード

『孤島の檻』(空手バカボンナゴムレコード

『やっぱり』(楽しい音楽/Kuricyan)

老人と子供のポルカ』(左ト全とひまわりキティーズ/ポリドール)

死ね死ね団』(死ね死ね団ナゴムレコード

『ワシントン広場の夜はふけて』(ヴィレッジ・ストンバーズ/EPIC)

『新世紀の運河』(ゲルニカ/テイチク)

『移動式女子高生』(とうじ魔とうじA.I.R)

竹中直人の君といつまでも』(竹中直人/クラウンレコード

『人外大魔境』(太田蛍ー/アルファレコード)

ハルメンズ・デラックス』(ハルメンズ featuring 戸川純/ビクター)

『CARNAVAL』(ZELDA/フィリップス)

『ボンジュールって言わせて』(アメリー・モラン/フィリップス)

『イン・エクスタシー』(ニナ・ハーゲン/EPIC SONY

PHEW VIEW』(Phew/コンチネンタル)

『リメインズ』(ジャックス/東芝EMI

『アイム・リアル』(ジェームス・ブラウンポニーキャニオン

アンデスの笛<1>/ロス・カルチャスの芸術』(ロス・チャコス/Barclay)

『浅川マキの世界 MAKI』(浅川マキ/東芝EMI

『夢のはじまり』(須山公美子/zero)

ベトナム伝説』(遠藤みちろうJICC出版局

ヒカシュー』(ヒカシュー東芝ENI)

『しおしお』(たま/ナゴムレコード

『Imagination Exchange』(原マスミユピテル

『ほな、どないせぇゆうね』(町田町蔵JICC出版局

『猿の宝石/ミン&クリナメン』(泯比沙子/アポロン

太田出版Quick Japan』Vol.10より)

 

関連動画

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山田花子作詞

猿少女マリア

ここはブラジル 奥地の村で

親の因果か 死霊の祟りか

生まれた娘は サル少女 

体は人間 顔はおサルだよ

この子のためならお母さん

祈祷師呼んでお祓いしたけど

月日は流れ 次第に醜く

獣のような この姿

人里離れたあばら家に住み

村人たちに石を投げられ

マリアが人間になれるのは

いつの日か ああ いつの日か

ここはブラジル 奥地の村で

親の因果か 死霊の祟りか

生まれた娘は サル少女 

体は人間 顔はおサルだよ

 

グラジオラスのテーマ

明日は滅びてゆく可愛い花よ

消えてしまった子供の夢よ

あの花のように

あの花のように

さようなら

 

何もない生活

何もない 何もない 何もない生活

泣いて暮らす方がまだステキ

つまらない つまらない つまらない毎日

宅録テープ『海と百合のアリア』より)

 

そうじ当番

三班のみなさん教室そうじ

まじめな人とサボる人

くさった牛乳ロッカーから出てくる

おとなしい子は机運び

黒板ふきしかしない川口さん

ぞうきんがけでヨーイドン

ほうきのバットで野球する男子

先生はいってくるとまじめになる

みんながいやがる教室そうじ

おとなしい子は机運び

宅録テープ『海と百合のアリア』より)

 

補記(単行本未収録作品)

『なかよしデラックス』1983年4月号掲載のデビュー2作目『大山家のお子様方』






中学生の根暗的感性といしいひさいちっぽい画風が合体した学園漫画。冒頭に登場人物紹介もあるがキャラクター設定にそこまでの意味はない。ただしヤンマガ時代のギクシャクした痛々しい描線と比べると比較にならないほどユルい画風と作風であり、少なくとも「裏町かもめ=山田花子」という予備知識がなければ同一著者とは殆ど誰も気が付かないだろう(分かる人には分かるかもしれないけど)。

 

『なかよしデラックス』1983年12月号掲載作品『人間シンボーだ』




山田花子名義の作品は画風こそ根本敬をリスペクトしたものだったが、もっと根っ子の部分には、やはり少女的な感性(メルヘンの世界と言い換えても良いだろう)が根ざしている。それは裏町かもめ作品を見れば一目瞭然だ。そしてそれは傷ついた少女の無垢な「抵抗」にも「悪意」にも「追憶」にも似た、とても純粋な世界だったのではないか。もし彼女が存命なら童話作家になっていたと思えてならない。

 

あとがき

初めまして、虫塚虫蔵と申します。

私は97年生まれの大学生でして、このレポートは私の通っている大学のゼミで夏期課題用に作成・提出したものです。

山田花子さんのことはガロ系の漫画やナゴム系の音楽に耽溺するようになった高校時代に知りました。なぜ、こんな青二才の若造がこんなマニアックなレポートを書いたのかというと、山田さんのことは昔からとても他人事と思えず「いつか自分がまとめなくてはならない」という思いがあったからです。

本来は非公開(ゼミ内でのみ共有してお終い)にするものなんですが、せっかくまとめたんだし、と試しにブログに載せてみたところ、記事への反響が大きく、はてなブログ人気記事ランキングでは〔2018年9月第5週〕(9月23日~29日)でトップ1位になりこれまでにない膨大な量のコメントが本記事に寄せられました(下記参照)

さらには、このレポートがきっかけで彼女の存在を知って共感される方、自殺を思い留まった方、彼女に対する敬愛と追悼を伝える方もあり、平成初期の出来事が平成最後の年に「定型」「発達」「世代」を超えた様々な人達によって論じられているタイムラインは正に圧巻そのものでした。

インターネットが普及して、発達障害の概念が広く定着した現代にこそ、彼女の存在は生き辛さを抱えた人たちに、時代や国境を超えて、より強烈な「意味」を与えてくれるのではないのでしょうか。

文字通り身を削って、その生を全うした彼女は真の英雄でした。ここに改めて唯一無二の孤高の芸術家―山田花子さんのご冥福をお祈りいたします。

本当に、本当にありがとうございました。(虫蔵)

 

コメント(抜粋)

  1. ものすごい熱量。単なる書評じゃなくこれ単体で読み物。子供の頃妙に惹かれた漫画の正体をはじめて知った。得体の知れないシンパシーの原因はこれかと

 

  1. たくさんの人に読んでほしい。健常者と障害者の「境界」なんて、無いに等しいと思う。(@kalasuma)

 

  1. よくこんなに時間がたってから、こんな素晴らしい論考を書けたもんだ。もう少し加筆すれば新書にでもなるレベル。

 

  1. すごいものを読ませてもらった。文中、彼女の障害の分析に用いられた数々のエピソードは私が子供を通して知るASDそのもので、今のような社会の理解も適切な治療や薬もなかった時代の生きづらさを思うと心が痛む。

 

  1. 私が生まれる少し前に自殺された漫画家さんの記事。私も発達障害持ちで自殺を図った。私も、虫が好きで、虫愛ずる姫君と親からあだ名で呼ばれていた。自分を見てるよう。私は結局彼女と同じ23のときの自殺では死ななかった。(@manutamanuta)

 

  1. 山田花子さんという方 失礼ながら初めて知ったのだけれど、この世からさようなら をしたのがあまりにももったいないように思えたのと救いや希望がない絶望感に苛まれながら彼女は彼女のまま亡くなったんだと泣きながら読んでしまった。(@tyy_milky07)

 

  1. 自分の中で承認欲求とか衝動がモヤモヤしてる理由はわかってる。昨日山田花子さんの話を読んだからだ。ああいうのを読むと気持ちが落ち込んで私自身もぐちゃぐちゃになって悲しくなるのわかってるのに貪るように読んでしまう。そして落ち込む。(@kaorudx0000)

 

  1. 長い記事なのに、午後時間をかけて読んでしまった。山田花子の死はスペインで友人のデザイナーのケンピが手紙で知らせてきたんだっけ。ずっとガロとか漫画を愛読していたパートーナーとしんみり飲んだ。狂わずにいる為に死を選んだのか

 

  1. 例のツイートがバズってから俺もこのことを思った。ネットは自分と同じような寂しさを持っている人を視覚化してくれる。ただどうだろう?それは彼女にとって気休めにしかならなかった気もするし、もしくは逆に的確に世界を捉えられなくなったかも。死の直前まで彼女は鋭く感性を研ぎ続け、そして折れた。自殺考えてたけど、やっぱ辞めるわ。自分の奥底に流れる山田花子的な暗い何かに共感する人がこんなにもいるということをバズったことで見せつけられたというか。うん…山田花子がそれを止めてくれたんだと勝手に思い込むことにする。今日学校帰りにちょっと回り道して事故物件巡って死んだ知らない誰かのことを考えていたんだけど、そういうことももうやらないようにしようと思いました。(@lololol_frBk03)

 

  1. 嗚咽を堪えつつ、読ませていただいた。「変わり者」扱いされ、死の直前に書いたメモに自らを「ゴクツブシ」と呼ぶ。若干24歳にして社会のしがらみというものに翻弄され、最期は自ら命を絶った。でもね、この子は自分を貫き通したかったの、きっと、この世に生を受けてから最期の最期という瞬間まで、ね。彼女は最期もあの若さで自らの意思で選んだ。人それぞれどんな結末を迎えられるかわからないし、そもそも自分の思い通りの最期かなんてわからない、それを考えると、彼女は思い通りに生きれたのかもしれない。自分で最期くらい選ばせて!という気持ちかもしれないし…。彼女自身やりきった、全うした。だからもういいでしょう、と自らの人生に自らの意思でピリオドを打てた。本人からしたら、望んだ形で逝けたのかもしれないと思うと、責める気持ちは全く無くなりますな(@momo_0712_pdd)

 

  1. 彼女の連載を読んでました。生きづらさについての漫画。当時(`90年代後半)は障害についての理解に乏しいばかりか、当事者もそうと気づかず自分を苦しめ、病院への敷居は高く…という時代でした。生きたいから死ぬという心情、分かります。私はそれを選ばなかっただけ。彼女自身を全う出来たと思います。もっと長く生きて作品を読ませて欲しかったけど、長さより密度、誠実に生きたらあの長さだったという感じ。今はもう、よくあれだけのものを描いてくれてありがとうという気持ちです。ほんとね。記録を読むと涙ぐむけれど、そういうわけで死に関しては悲壮感がないの。(@YouYoumieux)

 

  1. 山田花子さんの「自殺直前日記」は十代の頃に読んだなぁ…。その頃、自己評価が低く明日が来る意味が分からずこの世から消えていなくなりたいと思っていた自分と、この本は同調した。その後、詩歌に出会い、創作を始め、歳を重ねるたびにのんきに、楽に、なってゆく私。生きるもんだな。

 

  1. どれほど多くの人らが山田花子はんを語らはっても、リアルな山田花子はんに近づくことはでけへん。それは有名無名、有象無象は関係なく誰でも同じ。人はみな理解されない孤独を生きるんや。(@GPart2)

 

  1. 自殺を選ぶくらいに人として生きたかったんだろうね。自分の居場所だった漫画に見切りをつけて、最後に勤めてた喫茶店で解雇されたとき、「もう生きていけない」って思ったんだろうな。かわいそうに。

 

  1. やたら '協調性' だの 'ひとつになろう' だの喚き散らす、「みんなおなじが きもちいい」なムラビトさびしんぼう集団主義偏執狂人種どもがはびこる日本のような島国根性気質社会では、特にこのての人たちは生き難そう。

 

  1. 自分には想像を絶する生き辛さ。

 

  1. QJ初期のめちゃくちゃとんがってた時期を彷彿させるエントリ

 

  1. はてブで1000件近くいっているけど、中身は論考というよりは書評だし、なんで今、こんなに注目を集めているんだろうと。NHKの「発達障害プロジェクト」もそうだけど時代なのかなあ

 

  1. 彼女が生きた時代はネットの発達が未熟で閉塞感が強かった。そんな世界をジョブズとウォズニアックが変えたのは、彼ら自身が生きにくかったせいなのかもしれない、と、この記事と関係ないが、考えた。

 

  1. 山田花子を語る時、どうしても障害の事がセットで語られがちなんだけど、彼女が描く「救いのない生きづらさ」は当時の自分にとって、とてもとても大きな救いになった。そういう漫画家であった事も忘れないでいたい

 

  1. 山田花子氏、知らなかった…。「裏問題児」自分はわかる、人には見えないんだよね。変なところしか。人間平等思想を「逆に人々を不幸にする」 平等と差別もなくせばいいような簡単なものではないと思う。

 

  1. 他人の心の内を見透かす千里眼的な視力を独り占めしている状況というのは非常に辛い/“純粋な世界を作り上げるなんてなことは現世においては至難の技だ”。ASD統合失調症に限らず、このような生きづらさ、あるよね

 

  1. 発達障害は個性として見過ごされがちなのは現在もそうで、対人関係が上手くない等、生きづらさを感じて生きる人々をどれだけ周囲が受け入れられるかどうかというのもある。現実の絶望の釜を覗き続けたら辛いよ

 

  1. 漫画のコマ追って見てると泣きそう。胸がぎゅっと痛くなる。

 

  1. インターネットで理解者や共感者が多い今に20代だったら生きられたかもなあ。現代に氏の作品を原作としてアニメ化とか実写化してもいいのよ

 

  1. 今なら生きてたと思う。昔より精神科の診断と治療が適合してるし、同じ悩みを持つ人も見つかりやすい。

 

  1. 18歳くらいの頃は、辛い共感できる漫画を漁るように読んでたけど、大人になってからもう辛い気持ちになるのが無理になった。

 

  1. 18になってすぐにドキドキしながら本屋で「完全自殺マニュアル」を買った思春期の自分を思い出した…衝撃的だったな…

 

  1. 山田花子さんとASD。観察眼の鋭さやこだわりの強さゆえの融通の利かなさは統合失調症と誤診されやすいところなのかもしれない(併発していた可能性もあるが)。

 

  1. (例えが陳腐だが)紙の本でしか読めないと思っていた文章表現。ネットと紙の間にできてしまった豊かさの違いを痛感する。

 

  1. 発達障害とか軽度の自閉症は認知される前まではクラスに一人はいる変な子って扱い。認知された今でも周囲に馴染めないから社会に出ても常識のない人扱いで、仲間はずれになりやすく自活可能な才能ないと生きにくい。

 

  1. 胸が苦しくて途中までしか読めてない。今の時代でも、診断がついてても、生きづらいものは生きづらいよ

 

  1. 一気に読み切れなかった。大人になった今なら彼女の絵のうまさ、観察眼の鋭さ、感受性の豊かさを読み取れるのに当時はほんとに苦手だった。絵も内容も「わざわざ」なぜこんなことをこんな風に描くの?と思っていた

 

  1. 昔ならこういう記事がここまで反響を呼ぶことなどなかったに違いない。発達障害は個性として認められていた、なんてのは大ウソだよなあ

 

  1. アウトサイダーは芸術界の論壇にも、一部の持論を強化させたい背任専門家にもおもちゃにされる。こうした非当事者はお気楽でいいよね。多くの当事者はこんなことすら生み出せずにもがいて生きるしかない

 

  1. 孤高の天才芸術家、山田花子。失礼な話だけど、意外に美人なことを知って驚いたっけなぁ。死にそうで死なないでエグいマンガや文章を書き続けてほしかった。この人とねこぢるナンシー関の死は本当に残念。

 

  1. ガロしばしば読んでたけど彼女のことは名前しか知らなかったな このレポートは興味深く読めた 今なら余計地獄だと自分なぞは思うがな。あの時代は今よりずっと変わり者が変わり者のまま生きてられる時代だったよ。

 

  1. 本文でも触れられているが、「山田花子発達障害者だった」という結論ありきで強引に出版されたもののせいで、20年近くたっても山田花子に憐れみの視線しか浴びせられないのは、故人や遺族にとって遺憾な事だろう。

 

  1. 読めて良かった。なんというか自分が今もなんとか生きていられるのは、先人たちのお陰であると思って感謝している。

 

  1. 今の時代なら生きてたんじゃないかという意見が散見されるけど、同じくASDの自分は、今の時代だって自殺してるんじゃないかなと思いますよ。そのくらい発達障害者は生きるのがしんどいですよ。

 

  1. 読んでると息が止まっちゃう凄い記事。蛭子さんのコメント、とぼけてる様で何故か胸に来る感じがありました。何とも言えない読後感です。 山田花子マンガ人生

 

  1. この頃よりは発達障害に対する理解は進んだかもしれないけど発達障害者の生きづらさは全く改善されていないと思う

 

  1. 文化の軽量化は生死の軽量化に比例する。”

 

  1. 山田花子さんの漫画を読んでみたくなった。なんていうか毒と魅力を持っている人に感じた。

 

  1. 1967生まれで1992に亡くなったのね。92年ごろの出版なら、娘さん亡くされてあの時代にこの本の内容に納得できなかったご家族のお気持ちもわかる。

 

  1. 良記事。山田花子の幼少期~小学生時代が自分と一致していて戦慄する。(1973年福音館書店発行の「やっぱりおおかみ」は今も手元にある。)

 

  1. 山田花子さん、懐かしい。発達障害の人と生きることの難しさは今も変わらず、発達障害の人にとってはつらい世の中だろう。

 

  1. 山田花子の漫画のこの「学校には問題児と裏問題児がいる」ってのリアタイで読んでて、酷く衝撃を受けたんだよ。ああ、コレだったのかと。彼女が幼少期に好んで読んでた絵本が『やっぱり おおかみ』だと知って自分の世界に入って行ってしまい溺れそうになってしまった。洗濯機の終了電子音に助けられた。(@kemuri22)

 

  1. つらすぎて読めない

 

  1. 社会の中で発達障害への理解は『隠蔽された障害』が出された頃よりは進んだたろう。今ならご遺族の石川氏に対する怒りは別の形になったと思う。でも一番残念なのは、山田花子氏を救えなかったことだ。 メンタルヘルス発達障害医療漫画

 

  1. 完全自殺マニュアル」が話題になったあの頃、「自殺直前日記」も購入したけれど未だ紐解いていない。なんだか開けない。

 

  1. 素晴らしい良記事。 20世紀には発達障害の概念は一般的ではなく、二次障害を来しても統合失調症(当時は「精神分裂病」)とひとくくりにされていた。 彼女の尖すぎる感性は己をも切り刻んでしまったのだろう。

 

  1. おばあちゃんが言っていた。診察しないで病名を付けるのは藪医者だって。因みに最新情報では自閉症と糖質は同じ遺伝異常の別の表れらしい。当時同じ病気にしたのも無理ないな、変身!

 

  1. 強烈な読み応え。 漫画サブカル発達障害

 

  1. マジで、いまの時代なら・・・そう思わずにはいれない。このブログいい

 

  1. 山田花子に関する論考。ASD統合失調症と診断する誤診は四半世紀前の1992年には結構な割合であったと思う。2002年くらいに知人がハロペリドール投与で流涎していて驚いたことがある。その後ASDと診断された。 マンガ病跡学発達障害

 

  1. 既出ですが発達障害という診断名が定着しただけで、その生きづらさは現在でもあまり変わらないかと。むしろ、11階という高所から飛び降りておそらく即死。腰から落ちた為、死に姿も綺麗だったのは僥倖だったのかも。

 

  1. よくぞここまで総括してくださった。決して、熱烈なファンではないのですが、彼女の…もがき苦しみながらも…その身を削るように真摯に表現をし続けた姿…命の軌跡に深く共感する一人として感謝を表したいと思います。

 

  1. 帰りのバスで凄いテキスト夢中で読んでまして、ふと隣の男がやたらワサワサ動いてて、独り言も言っててなんかずっと「おふおふ」言ってる事に気付いて見てみたら、こっちガン見しながら、膝に置いた荷物で隠しつつ猛烈に手淫していて、恐怖と嫌悪のズンドコに落とされた。こういう時、もれなく恐怖で硬直するばかりで声を出せたことがない。唯一「ふざけんなボケ止めろや」と抵抗阻止できたのは男友達に襲われた時だけ。最低な行為してきてても知ってる相手だから抵抗できた。最悪の事態にはならないだろうとわかるから。でも赤の他人は何してくるか未知数すぎて無理。私は熱中すると周囲が全く見えなく、聞こえなくなるので、公共の場では気をつけないとダメだなと痛感した。一体どれほどの間、気づかずに隣に座っていたんだろう…背筋凍るし吐き気する。ちなみに夢中で読み耽っていたテキストはこちら。凄い。これをブログで?!というクオリティ。まだ全部読めてない。山田花子は著作そこそこ持っているけれど、本人に関して攻め入るのはなんとなく下世話な気がしてて。でもやはり価値あるね。

 

  1. よくにてる。私の場合一番理解されなく自分でも気がつけなかったのが「就職のしかたがわからない」「役所的な手続きができないのではなくわからない」なので普段ペラペラ話してるから、だれも障害でそうなってるってわからないし私もわからなかったので山田花子さんも辛かっただろうと思う。インターネットに繋ぐのが比較的早かったので、デジタルは読みやすいし記憶しやすいから一気に情報吸収したけど、人づたえや用紙、本ではまったく学習できないの、私のばやい、、、。(悲)。就職がわからないって人に言っても通じなくて、不本意なアルバイトしたりして途中から意味がわかったかんじ。勉強も体育もだめでイジメられっこなのに、ASDの特性か学校には来るので、先生がかわいそーって思ったのか入学後いくつかの条件付で受験なしで高校に入れるようにしてくれたけど、それがなかったら中学も卒業できていない学力なので、発達っていっても種類が多くて天才は一握りしか居ないYO

 

  1. 山田花子(漫画家)にまつわる話は読んでて辛い。山田花子本人の著作も辛い。学校の同調圧力、クラス内カースト、「空気読めない」等に苦しめられた経験がある人には山田花子の作品は「刺さる」なんてもんじゃない。協調性ゼロで同調圧力がしんどかった私は山田花子の漫画読むと死にたくなった。とても自分で購入して、部屋に置く気になれなかった。全部友達に借りて読んだけど「いや、もう、わかった!きつい!辛い!生きづらい!全部わかる、わかりすぎるほどわかる。でももう助けて。嘘でもいいから美しいものとか楽しいもの見せて~!!!」って気分になるんです。亡くなったと聞いた時はひたすらしんどかった。鶴見済完全自殺マニュアル」を読んで(自殺願望があったわけじゃないっす。これは当時のサブカル者必携の書)事の顛末を知った時もめちゃくちゃしんどかった。そして20数年たってからこのブログ読んでもやっぱりしんどい。全く色褪せずしんどい。(@Matryoshka3)

 

  1. ガロは短大時代に友人とどハマりし、人智を超えた才能の持ち主と認識していた山田花子さんの存在は私にとって完全な異世界の人間だった。想定し得る限界などとは全く無縁の、凄まじく高いところにいる方だったと記憶している。彼女の作品に触れる度、畏怖の念を抱いたものだった。(@sayobonne)

 

  1. 私は山田花子と友達になれたかなぁ?って思う。多分、適切な距離をとって、文通とかするなら、楽しいかも。だけど、多分、一緒にいたらその痛々しさに耐えられん感じがあっただろうなぁっても想像する。カサブタ剥がしちゃっていつまでも傷のままの息子と被ったよ。(@nankuru28)

 

  1. 生きづらさを抱える人たちが最後に肯定される可能性のある場所だったサブカルチャーが、生きづらさを抱える人たちから人生を搾取するクズ悪人の主戦場に成り下がったサブカルに変質した今、山田花子のような存在は、既にノスタルジーの中でしか出会えないのかしら。(@inabawataru)

 

  1. これはまた素晴らしい、冷静な熱の籠もった名文です。生きづらい人、行き詰まった人への福音であり、これを読んだお陰で死ぬのを引き延ばそうとさえ思った人すら出るであろうと思います。強さのある文章を書けるのが心底羨ましい。(@mahusukaya)

 

  1. ホントに凄い読みごたえなんやが、蛭子さんの寄稿が一番凄かった。レポートの内容が一瞬にして吹き飛んだ。(@NC8BnNuolX5FoP5)

 

  1. 蛭子さんの山田花子追悼文が素晴らしい。なんというか、嘘のない文章だと思った。(@64goldfish)

 

  1. 山田花子本人を誰よりも知っているつもりの文調で語る解説者がたくさんいて、例に根本敬の狂おしい文よ、本当に愛されていたんだな...でもこんなこと本人の前じゃ言えないから、亡くなってはじめて全貌を語り得る日本人の内向性も併せて見られて奥行きのある記事だった。(@everfic)

 

  1. 当時を思い出して読んだ。山田花子という悲しき一事例から非言語性LDへの読み解きをするのは、とても、分かり易い。後半からの、山田花子の死に対する数々の寄稿文はもう読んだものばかりだが、今読んでも蛭子能収のそれは群を抜いて気味が悪い。(@ko_me_yo)

 

  1. 山田花子が気にしていた歯列矯正をここでも描く蛭子能収サイコパスっぷりは若干…いや、かなり引く。(@pisiinu)

 

  1. 凄い。こんな読み応えのあるブログ初めて読んだかも。(@lololol_frBk03)

 

  1. RT、えらいハードル上げるなあと思いながら読んでたら2時間過ぎてた。山田花子の漫画は、このブログにあるとおり「完全自殺マニュアル」で知ってずいぶん自分も救われた記憶がある。それにしても彼女の自殺を「よくやった、あれで彼女はきっと目的を遂げた」と評した蛭子さんヤバいな。(@makeinu_wonder)

 

  1. 蛭子さんの惜別の言葉に揺さぶられてしまった。わかりあえなさをここまで素直に、しかし最大の尊敬をもって表現している文章もないんじゃないだろうか。(@amayan)

 

  1. 弱っている時に見るべきでは無かった凄い内容。学生時代思い当たる事が多過ぎて当時彼女の作品はちゃんと見れなかった。寄稿の中で、蛭子さんのが一番刺さる。(@AyakoHayakawa)

 

  1. ずっと俺の心の中に突き刺さったままの楔のような人。この人だけは本当に誰も救えなかったと思うんだ。長い記事だけど後半の蛭子さん知久さんの寄稿に涙。(@koriandre_no_ha)

 

  1. 卓球と蛭子さん、それぞれ方向性は違うけどとても誠実なコメントのように思う

 

  1. 漫画家、山田花子さんの記事、全体的に漂う雰囲気が好きだった。最後の寄稿、自殺してもヨイ人間、ワルい人間のくだりはすごく、妙にグッと来た。良かったなぁとか妙な気分になったり。誰かと語ったらこの気分をもっと明確に言語化出来るんだろうか。(@kenzenkoubou)

 

  1. 死んだら可哀想がられてみんなに愛してもらえるって幻想で、死んでから愛されるには努力と才能が必要だと思うけれど、山田花子は完全に全てをやり遂げてそれを手に入れている。(@3yuri_0427)

 

  1. 若くして少女漫画誌でデビュー。ガロを愛し、人や状況を鋭く切り取る作風、って「さくらももこ」の裏返しのようだな

 

  1. 本稿から離れるけど、寄稿者の丸尾・みぎわの名前を見てアレ?と思い、読みつづけたらさくらももこ宅で撮られた写真があって初めて理解した

 

  1. さくらももこさんと山田花子さんが見ていた世の中の本質はあまり変わらなかったんじゃないかな。と思ってしまった。繊細で徹底的にリアリストでそのことに傷ついてしまうか傷つかないか、の差なんじゃないか…(@takeharamayumi)

 

  1. 内容も、寄稿文も全部すごい。天国がほんとうにありますように、ってなんて虚しくて、無責任で、やさしい言葉なんだろう。(@canna_lilly)

 

  1. 夭折の漫画家、山田花子さんについての記事を読んでいろいろ思うところありましたが、ガロの追悼特集に知久さんが寄せた文章の「天国がほんとうにありますように」という言葉に、釘づけになって三日経つ。今も。日頃、無神論者を気取っている自分ですが、先に逝く人達には、こう祈りたいと思いました。(@xxkae_kaexx)

 

  1. コメント寄せてる中で唯一直接面識ない丸尾末広が、それ故になんか存在全体を的確に捉えてるような気がしたというか発達障害を「地球内異星人」って全く私も同じこと考えててウワッてなっちゃった。ガロの人もそうなんだけど、顔の作りも良い方だしファッションにも気を遣って奇抜に走らないセンスの良さがあるのに、ファンになった作家に怪文書みたいな汚い字のファンレター送ったとか、蛭子さんにファンだって言ってたのに「嘘つくな、あとちゃんと面白い漫画描け」って言ったところとか、女友達も言われたく無いことを脈絡無く言い出すからイラついたとか、あと異常に外ヅラ美意識は高いところとか、肝心なところでヤバい女なのを全く隠せてないというか隠す気ないというか。(@tamma006)

 

  1. 山田花子自殺してもう25年以上経つのか。それで今これだけの文章が出てくるって言うのは、やっぱり天才の一人だったって証明なんだろうな。(@tamanyo)

 

  1. 山田花子先生みたいに世の中の不条理に敏感だと死んでしまう。もっと鈍感で辛くても笑って辛い事なんて無かったかのように忘れようとしないと生きていけない。(@ryu_zu49)

 

  1. 山田花子さんの生きにくさは、感じたこともない人達も沢山いて、だけど、それを漠然と抱えてる人達にとっては、息が止まるほど辛いことが明確に示されていますよね。私だけじゃないんだなと、救いの様な絶望の様なものを感じます。ブログを読んで再度感じました。死んでもなお尊いです。とっても。

 

  1. ガロと山田花子についてのレポート、興味深かった。青春 と 不条理 が詰まってた。『あんな奴、ハナクソだぜ』を見た瞬間、何故だか 岡村ちゃんの『お前がいなきゃ、俺なんて紙くずだぜ』が思い浮かんだ。(@Yoooooko22)

 

  1. この人の手記が、自分が入院していたときノートに書いていたことと重なる。ただ生きるのも大変なのに、生きづらく感じさせた人々の一挙手一投足を脳内で再生産して精製しなくてはいけなかったことが彼女の性質においてどんなに破滅的だったか考える。本文に出てくる病院の近くの川を、偶然にも希死念慮のある友人と散歩したことがあります。その川辺は本当に美しくてきらきらしていて、こうなれたらいいなと思う2秒後にはこうなれない現実が覆う。でもその繰り返しをだましだまし宥めて歩く。 山田花子はそのだましだましをやらなかったのかな。本当につらくなる内容だったけどとてもわかりやすくて読み応えのある記事でした。しかも同ブログでは大好きなJamやHEAVENのことも書いてくれているし貴重。(@soujoh_)

 

  1. 花子先生を頭から障害者のように扱ったり「絵が下手」「売れなかった」とか切り捨てるのが許せないんだけど、このレポートは良いな…。じっくり読もう…(@kocotori_30)

 

  1. 山田花子かー。こういう時代だったなぁ。生きづらかった人が「生きづらいんだ」と表立って言いだした頃だよね。みんな死んでしまったけど。ほんと、みんな、死んじゃったよね…(@039106110)

 

  1. やっぱりおおかみ|福音館書店 https://www.fukuinkan.co.jp/book/?id=274 先の、山田花子先生についてのブログたしかに凄かった。中で紹介されていたこの絵本、ちゃんと読んでみたい。「自分は自分でいい。このままでいい」って大事な気がする。(@konkasaba)

 

  1. 暴風雨の轟音の中ふと目にした記事。同じく短かった人生を自ら幕を閉じてしまった我が二女と重ねて読んだ。本当の気持ちは誰にも分からない。ただ…残された者はひたすら続く絶望とどんなにうち消そうとしても消えていかない自責の念が続く。ただ俺はそれでも生きている。(@cieob7ZCyUdowpK)

 

*1:デビュー前に受けていた講談社の「なかよしまんがスクール」の講師から「いしいひさいち氏がお好きなようですネ」という評価を受けていた(1982年)。

*2:2006年になって2ちゃんねる山田花子@懐かし漫画板茶店時代の元同僚バイトを名乗る男性(≫745)が現れて当時の山田の印象やバイト先の雰囲気などを次のように回想している。

こんなスレがあったなんて驚きです。

14年ほど前、僕も喫茶白ゆり飯田橋店でバイトしていたことがあり、山田花子とは何度も一緒に働いています。といっても彼女はバイト先で自分が漫画家であること、山田花子であることは明かしていなかったので、僕らはニックネームとして「イチ」って呼んでいました。

彼女は夜の時間帯が多く、僕は深夜担当だったので、彼女の最後の1時間だけと僕の最初の1時間がダブるといった程度でしたが。昨日何年ぶりかに白ゆり行ったら、当時の店長がまだ働いており、僕の顔も覚えていてくれました。懐かしいあの場所で、あまり当時と変わっていないあの場所で、ついついイチのことも思い出してしまって、ネットサーフィンしていたらここに行き着きました。

バイトをクビになった時のイチの奇怪な行動が忘れられません。でも、山田花子であったイチを知ってからは(没後ですが)、なるほどあの奇怪な行動や、仕事のトロさっぷりも納得いったもんですけど。

まず、クビになる前から喫茶店での仕事っぷりには大いに問題ありでして、作品を評価されているのとは裏腹でしたね。確かにテーブルナンバーもロクに覚えないし、新規のお客さんが来られても放置(気づかない?気づいていないフリ?)してるし、コーヒーとかも進んで運ぼうとかはしないし、意味なくウロウロするし、注意すると柱の影でメモを書くし(閻魔帳と呼ばれていました)、シフトの時間帯が同じ仲間からは相当怒られていましたね

白ゆりは200席近くあるんじゃないかな。大きなホールだとは思いますが、アルファベットと数字を組み合わせた簡単な順番のテーブル番号(1列目の3番目なら、A-3とか)なので、店が複雑というわけではないと思う。だから、イチがそういう記憶力に欠けていたのか、わざとなのか、僕にもわからなかった。。。

僕は既述のように1時間しかダブってなかったし、深夜要員だったので、仕事も喫茶業務もそこそこに掃除メインって感じでしたし、そんなに腹立ったりすることもありませんでした。

ただ、イチと同じ時間帯にいたフリーターのロンゲ君にはよく仕事上のことでキツく当たられていたと思います。あと、店長店長出てきますが、イチを採用した店長と辞めさせた店長は別人です。途中、店長交代があったので。

イチを採用した店長は、僕も採用してもらった店長でして、あの当時に携帯電話を2台ももち歩くなかなか強面の店長でした。なぜ、イチを採用したのかは僕も聞いたことがありませんのでわかりません。ユーモアがあって、エロい(明るいエロさですけど)店長さんでした。僕ら深夜バイトの大学生には、よくエロ本をプレゼントしてくれていました。前店長は今何をしているんでしょうかね。夜の世界が似合いそうな風貌の方でしたけど。

僕が生き証人であるかどうかも気になるのでしょうけど、その判断は読み手の皆様にお任せします。その当時のバイトのメンバーならわかっていただけると思いますが、深夜バイトのほとんどのメンバーが通っていた近くの大学の学生でした。当時のバイトメンバーとの関係をいえば、横●、田●とクラスメイト(僕がここのバイトに引き込みました)で、サークル仲間では、●本、荒●、大●先輩、永●先輩、クラスメイトやサークル仲間以外では、荻●君や石●なんかがいた頃です。店長以外の社員では、塩●主任がいました。主任とは家が近所だったので、よく車でバイトに一緒に行っていたなあ。多分、この仲間がこの文章読めば、僕のこと特定できますね(笑)

そのイチを採用した店長は僕が入店して2ヶ月くらいで辞めてしまいました。代わりにやってきた新しい店長はぜんぜん雰囲気が違う方でしたが、仕事に対する姿勢の厳しさは見本にすべき店長で、当時の塩●主任なんかはかなりビビっていました。辞められると採用のたいへんな深夜バイトの僕らには、やさしかったですが。

ところが、深夜枠ではなく、イチにとって、この仕事に厳しい店長の出現はかなりプレッシャーで、店長としては極めて通常のレベルでの指導を行っていたのですが、イチにとってそれを守ることは容易ではなく、とうとうバイトをクビに・・・という最後通告をされるに至りました。その後、深夜時間帯に僕が出勤するわけですが・・・。

イチが店長からクビを言い渡された後、僕はいつものように深夜時間帯に出勤しました。何やら社員である主任が神妙な顔をしています。店内をみると、イチのタイムカードがレジのところに飛び出してきており、また、トイレから店内にかけて結構な量の水がしたたり落ちていました。

バックルームに着替えに行こうとする僕を主任は呼びとめ、「ちょっと話があるんだ。実はバックルームにイチがいる。」と。。。

イチがバックルームで座っていると、僕が着替えしづらいので、一旦、出てもらって、着替え始めました。そうすると、社員がバックルームに入ってきてこんなことを言いました。「辞めさせられたイチが突然来て、タイムカードを押すんだよ。当然、シフトには入っていないから、イチ、そんなことしても給料は出せないんだから、だめだよ。って言っても、働こうとしてきかないんだ。さらに言って聞かせようとすると、いきなりトイレにかけこんで、手を洗う液体石鹸で頭を洗い出し、ズブ濡れの頭で出てきたんだ・・・。なぁ、どうしよう・・・。」どうしようって・・・言われてもねぇ。。。とりあえず、その時は絶句するばかりでした。イチの奇怪な行動に。

でも、僕の頭の中には、あの働き方や面接の印象では、なかなか働く場所もないだろうし、お金に困っているのかな?・・・くらいの同情でした。イチが漫画家だとか山田花子だとか知らなかったから。

ここから先はもう個人的な思い出なのですが、サークルの後輩が床屋で見かけた週刊誌にイチの追悼特集があった!と報告してきました。さっそくの週刊誌をみたところ、確かにイチの顔写真が載ってある。山田花子??漫画家??は??僕の頭は???だらけ。記事の中にはどうも「ガロ」なる雑誌に関係する人らで特にイチの評価が高かったことがうかがえ、僕は国会図書館まで行って、ガロのバックナンバーをあさりました。イチが蛭子さんやチェッカーズの武内亨などと写真に写っているイチがいました。やっと、漫画家山田花子高市由美が僕の中で静かにまとまっていきました。なんでかわからないけど、使えないバイトのウエイトレス=高市由美で僕の周りの人間の記憶を終わらせるのはだめなような気がして、国会図書館で見つけたガロの出版社に電話して、イチの記事があった号の在庫を確認。すぐに、出版社まで買いに行きました。

サークルや白ゆりにそのガロを持って行き、みんなの頭の中に、高市由美=山田花子ができあがりました。反応は人それぞれでしたが、見かけとのギャップへの驚きや、漫画家とはいえ、キワモノというか、それでいてメジャー誌での掲載もあったりとかで、なんかイチらしいような、すごい人なような、複雑な気分になったのが正直な思い出です。

*3:根本敬が山田の死後、単行本『花咲ける孤独』に寄稿した「解説」は『ガロ』92年8月号に寄稿した「追悼文」が元となっている。ちなみに根本が『ガロ』に寄稿した追悼文では「でも、彼女の自殺にはまったく意外性がなかった。たしかに、個人的には高市由美の死は悲しいが、作家・山田花子の自殺には、否定的な気持は沸かない。例えば麻薬をやってヨイ人間(勝新とか)とよくない人間(宮沢首相とかね)がいるように、自殺してヨイ人間とイケナイ人間がいて、山田花子は前者だ。そんな人間にとって自殺して早死にするのもひとつの生き方故に冥福はあえて祈らない」と結ばれている。

伝説の鬼畜系ライター村崎百郎(黒田一郎)が遺したオウム論「ゲス事件/ゲスメディア/ゲス視聴者」「導師(グル)なき時代の覚醒論」

オウム真理教による地下鉄サリン事件があった1995年、太田出版から『ジ・オウム―サブカルチャーオウム真理教』というサブカルチャー系の文化人がオウム真理教を解説しまくる大変珍しいオウム本が出版された。同年デビューした鬼畜系ライターの村崎百郎も「ゲス事件/ゲスメディア/ゲス視聴者」と題したゲスなワイドショーをテーマにした原稿を寄稿している*1

本書の執筆陣は宇川直宏根本敬中原昌也福田和也村上隆岡田斗司夫村崎百郎福居ショウジンと何かと豪華であるが、大変残念なことに本書はすでに絶版で現在は入手困難であり、古書価格も5000円~1万円と高騰している。一発検索のワールドワイド時代、紙の文化にアクセスすること自体が容易でなくなってきているということを痛感させられた。

しかし、本書をこのまま歴史の闇に葬り去られて行くには余りに惜しい。さらに今年(2018年)はオウム死刑囚全員の死刑が執行され、例年になくオウム真理教に注目が集まった年でもある。このたび本書を入手出来たので麻原と村崎なき今、村崎の貴重なオウム論をブログ上復刻してみようと思った次第である。

なお本書には黒田一郎名義で「導師(グル)なき時代の覚醒論」という原稿も寄稿されている(後述)。

 

ゲス事件/ゲスメディア/ゲス視聴者

村崎百郎

むらさき・ひゃくろう:1961年シベリア生まれ。自称中卒。1980年に上京。凶悪で暴力的な性格が災いし、陰惨な傷害事件を繰り返しながら多くの工場や工事現場を転々とする。1995年より「すかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き堕とす」ために「鬼畜系」を名乗り、この世の腐敗に加速をかけるべく「卑怯&卑劣」をモットーに日本一ゲスで下品なライター活動をはじめる。現在は東京荒川区の工場に勤めるかたわら、ゲス原稿専門ライターを最近開始。『危ない1号』(データハウス)、『ユリイカ臨時増刊・悪趣味大全』『イマーゴ』(青土社)、『GON!』(ミリオン出版)などに寄稿。茶髪で日焼けでナイスバディの彼女を急募。

 

──これは妄想戦だ。細胞対細胞で戦え──醜悪な現実には更に醜悪な妄想をぶつけろ──コントロールが消えるまで──言語線を切れ! 時間線を切れ! 現実スタジオ急襲

ウィリアム・S・バロウズ『ソフトマシーン』より(大ウソ)

 

この俗悪なゲス文章をしたためるにあたり、とりあえず以下の連中に謝辞を送りたい。

まずは、この腐った国と時代にはお似合いの、たぐいまれなゲス事件を起こして我々を楽しませてくれた麻原彰晃とオウムの信者たちに感謝する。江川紹子を筆頭に、正義の味方役をつとめてくれたオウムバスターズに感謝する。假谷さんや坂本さんなど、事件を盛り上げてくれた被害者の皆さん、世界に誇る日本の警察に感謝する。中沢新一島田裕巳、そして陰ながら事件を育てた宗教法人法の存在にも感謝する。最後に、日夜事件を追いかけて我々に楽しい娯楽を提供し続けてくれた全ての報道関係者達に最大級の感謝を捧げる。拍手! パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ!

自称鬼畜派ゲス視聴者代表村崎百郎(工員)

ゲスメディアに栄光あれ!

俺は鬼畜系ゲス人間ナンバーワンの村崎百郎だ。

このすかしきった日本の文化を下品のどん底に叩き落とすまで、日夜卑劣で矮小な下品行為を働いている超最低の屑野郎である。最近は破壊活動の一環としてゲス文章の執筆も始めたが、日頃お上品なメディアのたれ流す情報を素直にありがたく受け取っている連中には、これから俺が書くことは読むに耐え難いと思われるので非常識と血圧に自信のない奴は読まない方が賢明だろう。

実際マスメディアなんてうわべばかり上品で、「正義」と「善意」と「良識」をはらんだ主張しか流せない、善人用の粗悪なクズメディアである。こんなものばかり素直に見たり読んだりしてりゃあ、良識に基づいてしかモノが考えられない善良な人間ができあがるのも無理はない。でも「これは良識という名の洗脳だ」なんてツマンネエ事は言いっこなしだぜ。そんなものは腐った心と豊かな妄想力があれば楽にクリアできるんだからな。

上品ぶって偉そうに正義を語り、それを正しいと信じて疑わない全てのメディアを俺は親しみを込めて「ゲスメディア」と呼んでいる。TVのワイドシーにチャンネルを合わせるとき、俺は夜の公園のアンモニア臭で目が痛くなる汚い公衆便所の中でひとまずいて、糞尿にまみれた大便器を覗きこんでいるような至高感につつまれる。その中からは見るのもけがらわしい太くて臭い大量の大便がもの凄い勢いで逆流して俺の体を包むんだ。糞尿の気持ち悪ささと暖かさ──俺はそんなゲスメディアの下品さが死ぬほど好きなんだよ。

 

ゲス視聴者

さて、俺が言いたいのは、この最低の事件でゲスなのは何もオウムやマスコミだけじゃねえって事だ。いかにご立派な事件やメディアや意見があろうが、見てる側の人間がとことん腐りきっていれば、たとえば聖書だってズリネタになりうる事を、これから俺が偉そうに分かりやすく説明してやるってんだよ。有り難く思いな。

今度の事件では、早いうちから各マスコミで報道や捜査のあり方をめぐって様々な議論がなされてきた。しかし、それらの議論でも、報道を受けとる側の視聴者の問題が言及された事はほとんどない。もちろん、それは視聴者の意識調査や読者アンケートの話じゃないぜ。俺も含めて、事件報道を高見の見物で楽しんだ視聴者側の腐った心や意識の問題が語られた事なんかまるで無かったって言ってるんだ。無理もない。所詮「お客様は神様」だもんなあ。

たとえばTVでは視聴者批判はタブーだ。ワイドショーでも、ゲストに「こんな番組見てる方がバカだ」なんて発言があったら、超特急で局に文句の電話が来るからな。断言してもいいけど、TV局にそういう文句を電話してくる人間の人格品性根性の悪さは相当なもんだぞ。だいたい俺も含めて、まっ昼間からTV見てる奴、それもワイドショーなんて、どう考えても馬鹿なんだし、自分をかえりみない馬鹿ほど批判されればムキになって怒るものだ。何様のつもりか知らんが、趣味も特技もないヒマこいてつまらんプライドばっかり高い馬鹿、冷静に自分の批判ができないクズ。自分の事は棚上げして他人の成功や性交が妬ましくてたまらないカス。向上心もないくせにやたらに正義を主張したがるあほう。対岸の火事が大好きなゴミ。自分の人生に何の展望もないクソ。これら超一流のクズたちの妬みやひがみの心が支えるゲス番組の素晴らしさは、あまりに醜悪すぎてとても言葉では書き尽くせない

俺はワイドショーを観ていると、分刻みどころか秒単位で自分の品性や根性がもの凄い加速ですさんだり腐ったりしていくのを実感する。体も心もケガレっぱなし。このマイナスの快楽は何物にも変えがたいものだ。自分も含めた日本全国の多くの視聴者が、刻々と下らない人間に成り下がる瞬間を共有する喜び……ゲスメディア万歳だ。

 

人知れず行われる鬼畜オナニー

では、視聴者がどれだけゲスかの例として、俺の鬼畜行為を紹介しよう。

俺はこの前の阪神大震災で震災報道をBGMにして、アナル&スカトロ専門誌『お尻倶楽部』を片手に鬼畜オナニーを楽しんだ人間のクズである。被災情況を告げる報道陣の非痛な叫び声やヘリコプターの爆音が豊かな臨場感を醸し出してオナニーに花を添えた。さらに夜になっても燃え続ける神戸の夜景にもある種の「美」を感じる始末。いやあ、これがいいんだ。興奮しすぎていつもの一・五倍は精子が流れたね。全く俺はあきれた「タナトス小僧(©中沢新一/たしか今、鬼畜行為の言い訳に中沢新一を引用するのが流行ってんだよなぁ)」だ。

こんな話を聞けば、被災者でなくとも腹が立つだろう。しかし諸君、安心してくれ。俺は反省するどころか更に卑劣なことに、社会生活を送る上ではそんな鬼畜なそぶりは全く他人に見せず、仕事先やご近所で震災の話になると眉をひそめて「本当に大変な事ですね、被害がこれ以上大きくならなければいいんですが」とか言いながら募金箱に小銭を入れる善良な一般小市民なんだ。家の外での行動だけは「誰が見ても普通の人間」をやってるわけだ。正直者には信じられないかも知れないが、鬼畜人には思ってもいない事をしゃべるぐらい何でもないのだ。外面は上品にしてその内面はドロドロというのがゲス人間のライフスタイルである。

酷いか? 酷いと思うかね? 俺も本当にそう思うよ。こんな人間は許せないし是非とも糾弾すべきだろう。しかし善人諸君、現実問題として、こういうのはどうやって告発し、どうやって裁くね? 本人が言わなきゃ発覚しない事だし、この場合も「ありゃあ嘘です。ぼかぁ知りません。たまたまオナニーしてる時にTVのスイッチが入ったままだったんです。藤田リナちゃんのけつの穴見て興奮しただけっすから」って言われたら、あとは自白剤でも打つしかないんじゃない? 妄想罪なんて罪が刑法にあるかね?

つまり、この世には犯罪とは言えないが、並の犯罪以下の行為や妄想なんて人知れずいくらでもあるってわけだ。法や道徳では取り締まれない数々のゲス行為がね。

たとえば、俺は昼のニュースや夕方のニュースを街の定食屋のTVで見る。震災を報じた新聞を読みながら飯を喰う。飯を喰いながら震災報道を見るという行為は、人の不幸を飯のオカズにしているようなものではないのか? しかし、こういう行為を不謹慎だと発言する奴はまずいない。そして、ブラウン管の向こう側からアナウンサーが「おい! 飯喰いながら見ていいニュースじゃねえぞ! 正座して見ろこの馬鹿!」なんて怒鳴ったり、新聞記者が記事の中に「俺の記事をみそ汁すすりながら読むんじゃねえ! この低能読者野郎!」なんて書く日は永久に来ない。

実際に飯を喰いながら震災報道を見た人間は全国で数千万人以上いるだろう。安全圏でメシを喰いながら見るテレビの番組はやっぱり娯楽である。どんなにニュースを流す側が「報道」の意識を持って番組を制作しようが、見ている側が飯喰ったりオナニーしてたら、やっぱりそれは娯楽番組なんだ。そこにニュースとワイドショーの区別なんてない。人の不幸が受取りようによっちゃあ娯楽として楽しめるってのも現実なんだ。

くれぐれもジャーナリスト達は、メディアの受け手の妄想力をナメるなよ。そこに悪意を持ったゲス視聴者がいればどんな悲惨なニュースもお笑い番組だ。下品か上品かなんて視聴者の決める事なんだ。「神よ、罪深い私をお許し下さい。私は今まで、聖書を読んでみだらな妄想に耽りこみ、通算二千九百八十七回の自慰を行い、その全てにおいて完璧に射精をしました。そして今後もそれをやめるつもりは毛頭ありません。私は私達の罪のために十字架にかけられたあなたを想うと股間のうずきが止まらないんです! いいか、おれはてめえの腰に巻いた布を剥ぎ取って、そのかたくすぼまった上品なけつの穴に一発キメてえっていってるんだよ! アーメン」ってな。

 

ゲスが見たオウム事件

さて、こうしたゲス視聴者の視点から見た今回の事件はどんなだろう。

何故かこの事件が盛り上がる半年も前から、ワイドショーはゲス事件報道で盛り上がりまくりだ。順番がでたらめだが、ざっと振り返っても、筑波の医師による母子殺人事件、犬の調教師の連続殺人事件の発覚、品川駅構内での医師射殺事件、中学生によるいじめ自殺事件、阪神大震災と魅力的な事件が次から次へと続き、ワイドショーのボルテージは上がりっぱなし。お安い愛憎劇と、悲哀に満ちたお涙頂戴エピソードがテンコ盛りの感動ヒューマン・ドキュメントにアンニュイで醜悪なゲス国民どもは狂喜乱舞。更に麻原の逮捕で終わりかと思ったら、つい先日も十六年ぶりのハイジャック事件があり、素人のわりには芸のある犯人がドライバー一本で十六時間も日本中を沸かせてくれた。そして、ゲス国民はあい変わらず自分に被害の及ばない範囲での更に悲惨で深刻な事件の到来を待っている。TVがあれば電気代だけでこれだけ楽しめるんだから良い時代になったもんだ。

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「ワイドショー」という呼び名でくくられる汚穢のような番組群は、可哀想な事に常に視聴者から馬鹿にされながら見られている。明らかに「くだらない」「見ると心がすさむ」「低レベル」「文化の恥部」などとさげすまれ、それでもそんな番組がいまだに存在しているのは、実は見ている視聴者がそれ以上にくだらないからにほかならない。もちろん、俺も含めてね。

ワイドショーを作っている連中は案外と馬鹿でもくだらなくもないんだろう。それこそプロデューサーもディレクターもオウム幹部に負けず劣らず、高学歴出身者が揃っていたりするしな。視聴者に「まあ、何てくだらないのかしら」とほんの少し優越感を持たせつつ番組を見せるというテクニックは素晴らしいとしか言い様がない。視聴者は番組が自分よりくだらなくて馬鹿にできるからこそ安心して見ていられるものなのだ。ワイドショーが真に啓蒙的で教育的でどこへ出しても恥ずかしくないテーマを扱うなら、それはもはやワイドショーではないし、大衆の支持は勝ち取れない。だから「視聴者に馬鹿にされてもいい。視聴率が取れればそれでいい」という製作者サイドのプロ根性は大したもんだ。それが出演者にはギリギリの所で意図的に伝えてないのか、本気で勘違いしているのか、ワイドショーの出演者には一応プライドがあるようである。たとえば、リポーターは自分が追いかけている芸能人にハエ扱いされたり覗き趣味を批判されると本気になって怒る。視聴者は「まあ、ゲスのくせに自分がゲスなのがわからないのかしら」と、ささやかな優越感を持ってその事態を楽しめる。実のところ、それもリポーターの演技なのかもしれないが、とにかく視聴者はワイドショーを見ることで、優越感を持ちながら自らのくだらなさをほんの少し忘れる事ができるのだ。見ていても自分の現状は何一つ変わらないし、ただ見ることが時間の無駄にしかならないのに、なぜかワイドショーが視聴者の心を引きつけてやまない理由はここにある。この麻薬的現状逃避誘発アイテムに「フリーメーソンの愚民白痴化計画だ!」などという超国家的陰謀妄想を感じるのも自由だが、それにしても、絶えず自分以外の何かを馬鹿にしたり見下したりしなければ正気を保てないほど腐った人間どもってカワイイよねえ。そんな中での今回のオウム事件は、鬼畜視聴者にとってまさにゲス犯罪のオンパレードで、報道されるゲス記事は一行も読み落とせないほど楽しみのつまった「おもちゃのカンヅメ」だった。

まず麻原の顔がなんとも味わい深くてイイ。ゲス顔合格。原始仏教をベースにチベット密教やらハルマゲドン思想を取り入れたごたまぜ教義のくそダサさも合格。「教祖と交わればステージが上がる」とかいうムシの良すぎる教義も合格。不殺生を基本にゴキブリやハエ、カも殺さない慈愛に満ちた不潔さも超合格。特にこの非衛生的な所はいいねえ。「汚れきった俗世を捨てて、更に不潔で汚らしいサティアンの中に身を投じ、崇高な精神を学び修行する」──う~ん、なかなかの本物指向じゃないか。俺がメディアを通して受け取ったオウムの修行のイメージは、「グラグラに煮立った肥溜の中に首まで漬かってマントラをとなえ、底まで沈んで〈汚穢クンバカ〉を行う」って感じなんだけど。これこそ尊い修行者の姿ってもんだよなあ。

その他にも、ゲス合格物件は数え上げればきりがない。歌、踊り、ホーリーネーム……どれもダサくてクサくて正視できないくらいの超一級のアイテム揃いだ。

わけても一般のゲス視聴者どもにウケたのは「エリートの転落」って物語なんだけど、これは「あの××なひとが何故あんな? 」という意外性の物語とペアで、昔からワイドショーでバカウケしやすいパターンなのよ。でも俺はあんまりこの方面の物語には魅力を感じないので、これに関しちゃここではパスだ。まあ、こんな宗教にハマる奴がエリートだなんて到底思えないけどな。まあ、とにかく、こいつらのやることは何から何までおマヌケすぎて腹に力が入らないんだ。脱力感一二〇%。

こんなふうに、俺はオウムについてはかねがね無責任な好感を持っていた。だからあれだけ凶悪な犯罪を犯しても、ギャグとして享受できる部分があるんだろう。ヤクザみたいに殺人を「バラす」とか「タマを取る」なんて言わずに「ポア」の二文字で済ませちゃう。「ポア」って凄い語感だよなあ、全てがおマヌケにパアになる感じがして可愛くてたまらないぞ。同じ殺人でも「人を殺す」というと悪い事したような気になるけど、「ポア」なら可愛いからまあ、いいんじゃないって事になるのか? 殺す側が罪の意識を感じたり持ったりしにくいように、殺人者の精神衛生を考慮して、わざとあんな可愛いコトバを使っていたのかな? 物事をそこまで考えて、わざと他の分野もあんなにダサく見せてたとしたら大したもんだ。もちろん、そんなに知性的で戦略的な連中とは思えないけどね。

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実は、ゲス人間たる俺には正義感も倫理感もほとんど無いので、「何故若者が宗教に走るのか」とか「何故エリートがオカルトに? 」なんて、文化人がまじめに考えるようにはオウムについて興味が持てないんだ。宗教だろうがマラソンだろうが、走りたい奴は勝手に走ればいい。ゲス人間ってのは基本的に「他人が死のうが生きようがどうでもいい、できればみんな苦しんで死んでしまえ」って思ってる人間のクズだから、わざわざ宗教に走るような善人どもには共感などしないのだ。オウムに対する俺の正直な感想も「何だよ、あんなもん、教義なんか聞くまでもない。教祖の顔見りゃ分かるだろ馬鹿」ってなもんで、あれを救世主とあがめる連中の事なんか、まともに考えるだけ時間の無駄。自らの意志を放棄して、自分の人生を他人に預けるなんざ自殺もいいとこだ。そういう意味で、俺はオウムの信者を自殺して死んだ人間の屍体と同等の目で見ている所がある。死んだ人間は戻らない。だからあいつらがどうなってもいいじゃないか。頼むから家族との面会は恐山へ行ってやってくれ、死霊に街なかをうろうろされても迷惑だからな。奴らには納得の行くまで好きに修行させてやればいいんだ。んでもって死霊が懲りずにまたサリン撒くとか悪さをしそうになったら、「除霊」と称してきっちり皆殺しにすりゃあいい。どうせ、ああいう奴らだから社会に戻っても、せいぜい騙されて利用されて死ぬだけだろうしな。この世界は祈れば皆がもれなく幸せになれるようなしあわせな場所ではない。あんな教団について真面目に考えるのは無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄時間の無駄。

ただ、善良な人間どもの「世の中を良くしよう」とか「自分達が世界を救うのだ」などという善意の妄想を集めてうまく利用し、いとも簡単に罪の意識なしにゲス犯罪を起こさせるという麻原の悪魔的な所業は評価に値する。俺もゲス勲章をあげちゃおう。多分、この事件は後々まで語り継がれるだろう。多くの人間が麻原の研究書を書き、麻原の名はニセ救世主の代名詞として定着し、数百年後の日本史の教科書には写真入りで載っているかも知れない。

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国民は本当に怒っているのか

国民のオウム事件に対する反応も、反社会的な行動への怒りばかりじゃないのは明白だ。どのメディアも書かないだろうからここへ書いておこう。「自分に関係のない喧嘩と川を隔てた対岸の火事は大きければ大きいほど良い」という言葉が江戸時代あたりにあったはずだが、今も国民は心の奥底にそういう暗部を確実に持っている。少なくとも俺レベルの鬼畜はちゃんと意識化している。だから、たとえば北区や足立区の町工場の工員には、「霞ヶ関みたいなハイソで上品な場所にサリンが撒かれて、自分と何の関係もない偉そうな一流サラリーマンどもが何人死のうと知ったこっちゃねーんだよ」ってな風潮があるのをあんたらは理解できるか? 育ちの良い善良君や良識ちゃんは信じたくないかもしれないけど、人間ってのは恐ろしいことにつまんねえ事でとっても醜くヒガんだりもするんだ。更に心を鬼にして酷い事を書こう、「何もテロで死んだ奴がみんな善人だったとは限らない」という考えが頭をよぎったことのない奴はいないのか? 「いまのお気持ちを一言でいうと? 」という、リポーターの「見りゃあ分かるゲス質問」とともに画面に映される悲しみの遺族のコメントを聞くと、被害者は常に皆良い人間だったかのように語られるが、そんなもんは実際どーだか分かったもんじゃない。公正な裁判でも、被告の親族が証言するアリバイは無効になるだろうが。TVの映像を見ただけで被害者や遺族に一方的に感情移入するのは危険だよな、人権派良識派の皆さんよ。

ああ、それにしてもつまんねえ建前でモノを言うのはホントに馬鹿馬鹿しくて楽しいな。

こんな事書いてるとお前はオウム擁護派かって言われそうだが、それは大きな勘違いだ。俺はオウムもお前らもみんな大嫌いなんだよ、そこんとこヨロシクな。

俺にはオウムに対して、サリン事件の犠牲者がらみの怒りはほとんどないが、もっと別の強い恨みがある。それは連中のテロのおかげで地下鉄はもちろん、首都圏のJRや私鉄各駅のゴミ箱が不審物警戒で使用中止になって、通勤時の楽しみだった新聞雑誌の拾い読みが困難になったことへの怒りである。これについては俺は本当に頭にきている。この件だけでもオウムの信者なんて皆殺しにしてもあきたらないと思っているぐらいで、それは多分、拾子(拾った雑誌を一冊百円均一で売って生計を立てている人々)の皆さんも同じ気持ちだろう。駅のゴミ箱の無期限使用停止なんて、最悪の営業妨害だからな。

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逆にこの事件に感謝している奴らもいるぞ。サリンテロが首都圏の住人達に与えた影響はかなり深く、人一倍心がナイーヴな人や、精神科や心療内科などの病院に通院している人たちに「サリンが自分の部屋に撒かれるかもしれない」という新種の不安を与えてしまい、怖くて夜も眠れないという悩みを相談する電話がカウンセラーや精神科医の所へ殺到したという。この不安は一人暮らしの女子大生やOLにも同様にふりかかり、俺の知人にも「オウムが襲ってくるような気がして、一人じゃ怖くて眠れないの」「じゃあ、ボクが君のマンションに行ってあげるよ」とちゃっかり女の部屋に泊まってサリンならずサーメンを膣内に撒いてきたというたわけ者がいる。そいつはオウム様々だと笑いが止まらない様子だった。こんなふうにオウム同棲とかサリンカップルと呼ばれる世紀末現象が続発中だ。(ホントかよ?)

だから、正義とか善悪の対立構造だけで全てを説明しようとする報道姿勢はもういかげんにしろって事だ。マスコミもテロはテロとして断罪し、それによって派生した全ての事象を検証し、認めるものは認めて評価してやれよ。「オウム事件が取り結ぶ男女の愛」──トレンディードラマの良いネタにもなるぞ。警察は国民から見直され感謝され、残業が増えて収入も増えてホクホクだ。治安維持法も復活させ易くなったし、政府もニコニコ。この程度のマヌケな陰謀なら逆に国家権力を増強させるのに利用できるから万々歳だ。いいことずくめじゃないか!やっぱり麻原って救世主かも?

 

「正しい意見」は魅力がない

今回の報道の中でも「オウムの側の人権」や「正しい捜査の必要性」「警察の違法捜査」について厳しく発言していた良識派の文化人やらジャーナリストが何人かいた。民主的に考えれば彼らの主張は全く正しいし、冷静で立派な意見だと思う。しかし......悲しい事に彼らの意見は正しいが故に鬼畜な視聴者には退屈なのだ。今回の事件では、彼らの主張は残念ながら俺の経験からいえば、強姦時にギャアギャアわめく女を殴り倒して下着を剥ぎ取り押さえつけ、さあこれからチンポをぶち込むぞとイキり立ったサオの亀頭の部分を膣の入り口にあてがったときに、女に泣きながら「お願い、やめて」とか「鬼、畜生、一生恨んでやる!」と言われた程度の説得力しか感じられねえんだよ。腐った人間には正論は通らないし、悲しい事に正しい意見がいつもみなさんに支持されるとは限らないわけだ。

これは俺が小学五年生の頃の事だが、となり村で火事があって、全焼した家の子供にノートや教科書を送るカンパを集めようという話が学校で持ち上がった。担任(五十近い男)の先生からその話があった時、よせばいいのにクラスで一番活発なA子が手をあげて「くせになるから止めたほうがいいと思います」なんて言うんで普段温厚な担任はもの凄い顔して「おい!お前!何だって!いま何て言った? もう一度言ってみろ!」って見たこともないくらい凄い剣幕で怒り出しちゃった。そん時は俺もキモを潰したねえ。まあ、被災のお見舞いに味をしめて二度も三度も火事を出す馬鹿がいるとは到底思えねえが、確かに理論だけはもっともな話なんだよな。人を頼らないように強く生きて欲しいから、あえて寄付しないというわけなんだろう。しかしこの意見は支持されなかった。俺は阪神大震災の後で、コンビニのレジに置かれた募金箱を見るたびにこの話を思い出したが、もちろん口には出さなかった。TPOをわきまえたオトナの鬼畜だからね。

 

ナイスミドル山崎哲

それにしても、今回そうした良識派の文化人の中に、俺の大好きな劇作家の山崎哲がいたのにはビックリだった。いつのまにかワイドショーのコメンテーターとして奥様方には人気の評論家になっているらしい。しかし、山崎の本来の仕事は「犯罪フィールドノートシリーズ」と言えば聞こえはいいが、要は猟奇事件マニアが人の不幸を芝居のネタにしてメシを喰ってるだけの事である。しかも山崎は誠実によくよく考えてから芝居を作るもんだから、世間がその事件を忘れかけた頃にやっと芝居ができあがり、その公演は事件を忘れたい人にも無理やりイヤな事を思い出させるという鬼畜効果があって実に楽しいものだ。そういえば、バカ相手にバカな笑いしか取れない猿以下の劇団が多い中、ハードな社会問題ばかり扱っている山崎の「転位21」は小劇場劇団の中でも出家主義劇団っつー感じで、集団の中の個々人が真面目で純粋な連中に見えるという点でオウムに近いかもな。

山崎の芝居はテーマが重くて、普通の人が見てるとホントに痛々しいんだろうが、俺のような鬼畜にとってはテーマが重ければ重い程、話が悲惨で救いようがなければない程、爆笑したくなっちゃうだけで、いつも客席の皆さんがすすり泣く最後のシーン近くで笑いをこらえるのが大変なんだ。まわりの客が泣けば泣くほど可笑しくてさあ。ホントに「隣の不幸は鴨の味」だよねー。猟奇犯罪マニアには山崎の芝居は超おすすめのゲスアイテムだ。

しかし所詮は小屋メディアの悲しさで、山崎の芝居は善人どもの「お涙頂戴娯楽」には適当だが犯罪の予防効果は全く期待できない。何故ならあんな芝居を見に来て涙を流すような善良人どもに猟奇犯罪を起こす根性などあるわけもないからだ。まあ、そんな風に現実には全く役立たずである事が「高い芸術性」ってやつなんだろうけどな。そういう鬼畜芝居野郎が正論を語るんだからこれはもうハタで見てると最高のギャグなんだ。ただ、その後雑誌で一連のオウムの犯罪を「あれは犯罪ではなく革命」と評価してるのを読んだ時にゃあ涙が出るほど笑っちまったぞ、こいつまだ革命にロマン感じてるんだなってね。いや~ロマンだねえ~何の関係もないんだけど、なぜか「戦没者遺骨収集団」っていうのを思い出しちゃったよ。昔、大学生の友達がそういうのにふざけて応募して、運の悪い事に当たってしまい、しかたなく爺さんや婆さんだらけの団体にまじってサイパンだかインドネシアだかにタダで一週間も遺骨収集旅行に行ったのがいてね、みんな現地に行くとわんわん泣いちゃうんだけど、そいつだけ悲しくも何ともなくて困っちゃったって話なんだ。俺もそんな団体に一人部外者でまじっちゃって爺さんの号泣をなすすべもなく見ィ~てェ~るゥ~だぁ~け~って感じだよ。いやあ、俺もロマンの分からない男じゃないから山崎の気持ちも分かるんだけどねぇ~、「革命」と「強姦」はいつの時代もおとこのロマンだからなぁ~。でも「革命」だろうが「犯罪」だろうが人殺しは人殺しだ。女性器と呼ぼうがボボのと呼ぼうがおまんこはおまんこだし、同じクソを大便と呼んでも一本糞と表現しても、それが臭えのは変わらねえんだよ。それにしても、オウム事件を語らせればオウムよりもその人間の事が見えてくるから面白いよな。俺は見た通りゲスゲスのゲス野郎だ。

革命なんてインテリの考えそうな事だけど、左翼の学生運動でもオウムの出家信者でも実社会でろくに働いた事もないような連中に世の中なんか変えてもらいたかないね。俺は肉体労働者なんで口ばっかりのインテリは大嫌いだぜ。だいたい、いまだに時代遅れの立て看書きと役立たずの花火作りに終止している左翼にゃあ体制を変革する力も、民衆に支持される魅力も皆無だろう。左翼も昔はヒーローだったんだろうが、バブル以前の八〇年代初頭には、すでに少年漫画誌じゃ左翼ゲリラは悪役で登場してたんだぞ、ヤクザや銀行強盗、下着泥棒なんかと同格でな。

まあ、夢見るおっさんの懐古趣味を批判しても始まらないからこれくらいにしとくけど、それでも山崎は非常に重要な事も発言している。それは「正義の無根拠性」についてである。

 

「正義」って何だ?

だいたい正義なんていうあやふやな物は「勝てば官軍」で、勝った側だけに存在が許される代物だ。

今回はたまたま反オウムが勝っただけで、「反オウム側が正義」だったから勝ったというものではない。「反オウムがオウムに勝った」から正義を主張しているだけの事なのだ。

これが仮にオウム側が日本全土を制圧し、日本が「神聖太陽真理国(仮)」になっていたらどんな事になったろう。まあ、絶対にそんな事はこれからもないだろうが、信者たちの無念をくみとって俺がかわりに妄想してやろう。

まず、国民は全員強制的にオウム真理教の信者にさせられ、全財産のお布施を強制される。その上で修行の強制がはじまるのだ。教団に逆らう者はどんどんポア。街も様変わりするだろう。ネズミ、ゴキブリ、ノミ、ハエ、カを殺す事は禁止され、国中が不潔になっていく。もちろんアースや金鳥などの製薬会社はお取り潰し。全ての製薬会社に協力させて巨大サリン製造プラントを制作し大量のサリンが作られる。核兵器の研究も進められ、同時にプラズマ兵器や地震兵器も国をあげて真面目に研究。ハルマゲドンに備えての富国強兵政策が強硬に進められる。国民の衣服は全て階級別のサマナ服に限られる。そのさい茶髪、日焼け、ボディコン、ミニスカ及びTバックは全て禁止。装飾、化粧も全て駄目。ディスコ全廃。カラオケボックスはそのまま個室修行兼拷問部屋に。既成の音楽は全て禁止。麻原を讃える歌以外は全て禁止。CDは全て叩き割られる。芸能界も解体、アイドルは、秋吉久美子あべ静江みたいな教祖のお気に入りを除いて各幹部に支給される。放送局は国営真理放送のみに制限され、「ショショショ、ショーコー!」が国歌になって早朝と深夜には必ず放送される。もちろん国民の睡眠時間は四時間のみ。国民全員にヘッドギアの装着が義務付けられる。福祉問題も、無駄な老人をどんどんポアしちゃうので一気に解決だ。とりあえず六〇歳以上の老人の皆殺し......いや、救済計画が始まる。食事も肉禁止。松坂牛解放。肉の万世、吉野屋も解体。オウム食の配給制がはじまる。家は全てサティアンになるので「第十二万五千八百五十六サティアン」などという長い名前のものが出てくる。小学校から大学まで全ての教育制度が改正され、授業は教義の学習とヨガの修行以外何もなくなる。入試は空中浮遊と水中クンバガ、および熱湯入浴の実技が中心だ。

そして問題は、そうなった時の非オウムの人間たちの処遇である。既成の宗教団体は全て解体。各教祖は舌を抜かれて首輪をつけられ四肢を切断され、人犬(◎バイオレンス・ジャックby永井豪)として皇宮で飼われてしまうだろう。奈良と鎌倉の大仏は顔の部分を麻原に改造してそのまま国宝だ。皇室の事はとても書けない。オウムに肩入れしてきた島田裕巳中沢新一は文部大臣になったり法務大臣になるんだろうが、これまでことごとくオウムに逆らってきたオウムバスターズたちは、簡単に殺してはつまらないので時間をかけて凄惨なリンチが行われるだろう。見せしめのために公開処刑を行うに違いない。特に女性である江川紹子さんに対して行われるであろう破廉恥で酷い行為の数々を思うと、SM好きの鬼畜な俺はチンポが勃起してしごかざるを得ない。たまらんので妄想はここまでにしておく。本当のところは、まだまだこんなもんじゃないだろう。

オウム側が勝利した時に、現在メディアでオウムを糾弾し、好きな事を言っている文化人たちは、はたして今と同じ事を堂々と発言できるだろうか? やはり大部分の人間が命惜しさにオウム真理教を支持するに違いない。そして一斉に革命の成功を賛美し、麻原を讚えるのだ。もちろん、俺もそうなればまっ先に入信して修行にはげむよ。「長いモノには巻きつけ!」はゲス人間の基本姿勢だからな。

 

どこへ帰る?

反オウムの弁護士たちがワイドショーで出家した信者に「帰ってらっしゃい」と呼びかけるのは本当に気味が悪かった。山崎哲が「僕はどっちにも救われたくない。放っておいてほしい」と言うのはもっともだ。冷静に見れば、「オウムと反オウムのどちらかが正しいか」なんていう図式は成立していない。正義を愛さない鬼畜な俺には、この対立はオウムと反オウムという二種類の狂信者が争ってるだけにしか見えないのだ。オウムの方はとても単純でわかりやすい狂信者だが、反オウム側は「正義」とか「良識」という一番やっかいな妄想にとりつかれた根の深い狂信者である(もちろん俺は正義感も倫理感もない最悪のキチガイだ)。

仮に百歩譲って反オウムの主張するように社会に帰れば信者にはどんな良い事が待っているというのだ? だいたい「真に正常な社会人像」なんてあるのか? たとえばそれは、国を愛し、天皇陛下を敬い、日本国の国民であることを誇りに思い、国旗を掲げ、君が代を涙ぐんで熱唱し、お父さんお母さんを大切にし、政府与党を熱烈支持し、先の太平洋戦争での日本軍のアジア諸国進出は遺憾に思うが謝罪はせず、税金はごまかさず、立ち小便はせず、一流国立大学を出て、官公庁に勤め、野心は持たず、決して目立たず周りに合わせ、ホモらずレズらず、適当な年で結婚し、性交は正常位で週に三回迄、子供は二人でやめといて、浮気はなるべくしないで妻を信頼し、仮に浮気が発覚しても妻には遺憾に思うが謝罪はせず、風俗通いなどできるだけせず、子供との触れ合いを大切にして、時々ボランティア活動をしたり、町内会にも顔を出し、ご近所へのあいさつも忘れず、争いもせず、とにかく何があろうと遺憾に思うが謝罪はしない……そんな人間に誰がなりたいと願うかね?

かといってオウムにも未来はない。だいたい数ある宗教団体の中から、よりによってあんな教団を選ぶような連中だ。どんなに一流大学を卒業していようが、真に有能だなどとは到底思えない。騙されやすく無知で愚鈍なつまらん奴ら──つまりは人間のクズである。この先、生きていても碌な一生は送れないだろう。そんな連中は社会に帰って来るだけ迷惑だ。どこか場所を与えて好きなだけ修行させてやるのが寛大な処置というものだろう。適当な無人島でも用意してやれよ。そこで絶滅するまで放っておきゃあいいんだ。理論上はあいつら禁欲して妻帯しないはずだから人口はどんどん減るはずだし(でも、きっと実際はどんどんつがって増えちゃうんだぜ。そういういいかげんな奴らだよ)。

 

島田裕巳は無罪だ!

はっきり言ってゲス人間の俺にはこの先の事件展開なんてもうどうだっていいのよ。それよりも一辺の連中の責任のなすり合いなんかの醜さがこれらの見どころだね。

当面注目すべきは、いまや事件の共犯扱いにまでされているオウム擁護の宗教学者だ。しかし俺は何が正義かなんてのはどうでも良い事なので、彼ら無責任に擁護したい。

どちらかといえば強制捜査の当日までオウムを擁護していた島田裕巳が一番罪深いらしくマスコミもさかんに叩かれてるけど、こいつは俺にとって学者としても人間としても興味のないどーだってい存在だから特に感想はない。でもついでだから擁護してやろう。

全くマスコミの連中は、昨年暮れにあれだけ盛り上がった大河内清輝君の自殺事件をきっかけにしたいじめの問題をすっかり忘れているようだ。よく見てみろよ、島田は顔からして可哀相だぞ。学者だからいいけど、こんなのが下町の工場に勤めた日にゃあ、初日の昼休みには先輩連中に倉庫の隅で寄ってたかってサンドバック代わりにタコ殴りにされるだろう。いくら殴りたくなるような顔をしているからといって、いじめていいなんていう無茶苦茶な話はどこにもないんだ……なんてのは擁護にも何にもならねえな。しかし島田がスケープゴードにされやすい顔をしているのは事実だから困ったもんだ。今回「いじめられ役」という大役が島田に回ってきたのは道を歩いていて事故にあったようなもので、まあ、適当に頑張れよとしか言いようがない。でも、あれだけ責められても一言も謝らないのは日本人らしくて立派だから評価してあげよう。島田は今後も一切この件で謝る必要はないし、どうしても謝罪が必要なら、「遺憾に思うが謝罪はせず」という便利なアレを使えばいいんだ。日本政府も良いお手本を示してくれた。これからは国民のみんなが見習うぞ。あれは子供たちの教育にもとっても良かったぜ。

島田がオウムをどれだけ擁護しようとも、信者に成るか成らないかは最終的に島田が決めるんじゃなくて、悩んでる本人が決めるんだから、島田を責めても筋違いというものだ。

だいたい人をオウムに入信させるだけの説得力や影響力が島田にあるのか? 先入観を捨てて、みんなもう一度頭を冷やしてよ~く考えてみろ。あんたらが責めようとしているのはただの島田裕巳だぞ! 中沢新一浅田彰ならまだしも、島田裕巳なんだぞ! 島田の文章読んでオウムに魅了されるような救いようのない馬鹿なんているわっきゃねえだろ! 仮にいたとしても、俺はそんな桁外れの馬鹿はどうなったって知らねえよ。だから島田裕巳は断固無罪だ! それでも「島田はオウムから裏金を貰っていたんじゃないか」という噂話もあるだろう。しかしこうまで迷惑をかけられては少々の金ぐらい貰って当然で、もしもまだ貰っていないのなら、尚更のこと慰謝料を教団に請求すべきである。ひたすら哀れな島田にこれ以上何の責がある?

それに、島田は雑誌に書いた言い訳の文章が実に見苦しくて良かった。あれはいい文章だ。オウムを擁護したのは自分だけはない、誰それがこう言った、ああ言ったと人間の醜さをあますところなく見せてくれたので俺はとても満足だ。もう、いいじゃないか、あんな読むに耐えないゲス文章書いたんだから、もう許してやれよ。無罪だ無罪。

ついでに書くと、本人は「一度付いたスティグマはそう簡単には取れない」(宝島社『宝島30』1995年7月号)なんて雑誌に書いていたけど、おめえ、そんな格好の良いもんじゃねーだろ。この場合スティグマ(聖痕)というよりスメグマ(恥垢)の間違いだっつーに。

 

中沢新一先生のどこが悪い?

次は中沢新一先生である。俺は、これまでオウムを無責任に支持してきた中沢新一には、以前から鬼畜学者として深い敬意を払っているので、とにかく擁護するぞ

島田裕巳が叩かれたTV番組で日刊ゲンダイ二木啓孝が、その日の朝日新聞の記事にコメントを寄せていた中沢新一について「会社が築地にあるから僕はあの地獄のような惨状を見てるわけですよ……ワンラウンド終わった今ごろになって一段高い所からこんな発言するなんて、僕は許せまんね」と言っているのを見て俺は驚いた。オイオイ二木啓孝、お前馬鹿じゃないのか? これまで中沢新一の著書をほとんど読んだり、新聞から雑誌のつまんねえコメントまで可能な限りを押さえてきた俺だから言うけど、中沢先生がこれまでただの一度だって俺達民衆と同じ立場に立って発言した事があるとでも思っているのか? 中沢先生は、普段は人の二段も三段も上の高みから、人を小馬鹿にしたような見下した文体で偉そうに高度なお話を語られてるんだぞ!

それを一段上まで降りて来て語って下さるんだから素直にありがたく思えよ。まったくそれだけでも先生のプライドはズタズタだぞ。だいたいお前、学者というものを何だと思ってるんだ? ハナから人を見下して生きている中沢先生が、いちいちサリン事件の被害者一人一人に共感したり、遺族の心の傷まで思いやるようなつまらん神経持ち合わせてるわけねえだろ馬鹿! 学者先生ってのは人類の未来を背負ってんだ。私情を捨てて冷静に大局的なモノの見方をせにゃならん。無知な人間からは冷血漢呼ばわりされて、そりゃあ孤独なもんだ。それでも学問の発展の為に心を鬼にして、冷静に情況を研究されているのだ。お前らみたいに、あったことをそのまま伝えるしか能のないジャーナリストとは次元の違う所で活動されてるんだからそれくらい配慮しろよ!

しかし、そうは言っても、今度のオウム騒ぎにおいて中沢先生は雑誌「週プレ」(95年4月25日号)で「宗教学者中沢新一は死んだ!」などと語り、明らかにヘタを打っている。何だありゃあ? ニーチェじゃあるめえに、何か悪い病気が脳まで回ったんじゃねえかと本気で心配しちゃったよ。どうせ、これで一度死んで三日後ぐらいに生き返って「今度の事件は僕の宗教学者としてのイニシエーションでした」って笑い飛ばすのがいつもの手なんだろうが、大衆相手じゃシャレにならんよ。まっ、確かに中沢先生は、基本的には抗議のハンストをたった二日であきらめたあげく、何もかもしゃべっちゃったあの脆弱な治療大臣こと林郁夫被告と同じインテリのおぼっちゃまくんであられるから、突然の事故にパニクって保身に走ってしまわれたんだろうが、そんなもん育ちがいいんだから仕方ねえよ。俺はそれでも支持するぜえ。

ただ、それにしても事件後にイキナリ豹変して露骨に麻原批判をするのは賢いとは思えないな。そんなに急に変わられると逆に「オウム被害者の会」からいくら貰ったんだろうってカングリられますよ、おれらゲス人間はホントに最低だから。

中沢先生が大きく勘違いしていなさるのは、ファンの心情を全く理解していない事だ。先生の本を全部買うようなチョー熱心な読者なら、たとえ先生が女を犯そうが人殺しをしようが、そんなもん気にしねえんだよ。ましてや雑誌の噂話であったように、女をあてがわれてオウムの提灯記事を書いていようが擁護していようが、そんなもんは先生の学者としての業績とは何の関係もねえんだから、堂々と「俺の見立てた通りだ。やっぱりオウムはやってくれた」って能天気にしてりゃいいんだよ。自分が肩入れしていた教団がサリン撒いて人殺したぐらいでイモ引いてんじゃねえよ。金貰ったり女をゴチしてもらったりしてどこが悪い。そんなもん相撲取りだって「ごっちゃんです」ってさんざんやってるぞ。研究には金がかかるんだからいいじゃねえか! それが「宗教学者中沢新一は死んだ!」なんて言って、本当に大学を辞めるわけでもねえのにヒステリックにワメくだけワメくんじゃあ、ぶちこわしだよ。だいたい、中沢先生は宗教学者じゃなくて宗教人類学者だろうに。みっともなさは合格なんだが国会の不戦決議以上に意味がねえぞ。その後の信者に向けての慈悲深いコメントも優しくて異様に気持ち悪かったなあ。鬼畜中沢新一が世間並みの良識持ってどうするんだ! まさかと思うけど本気で反省してんじゃねえだろうな? 俺は人を見下して全てを小馬鹿にしながらヘラヘラ適当にいいかげんでチャランポランで金や女に目がない中沢新一が大好きだ。そんな中沢の文章だからこそ、こっちも妙な崇拝や先入観抜きに馬鹿にしながら冷静に読めるんだよ。だいたい純粋培養されて善行しかしたことのない人間の言説なんて信用できるわけないし、そんな奴には教わりたくも救われたくもない。こんなくだらねえ事で学者を辞めるなんてとんでもねえ。今はとりあえず世間体もあるだろうから悔やんでいるフリをするのも何となく分かるが、ほどほどにして早いとこ元の鬼畜中沢に戻ってほしいもんだ。宗教がその中に反社会的なものをはらんでいるように、学習や研究にも「反」とまではいかなくても、「パンピーの生活なんか知ったこっちゃねえよ、おいらはただただ自分の研究するだけさ」ってな「非」社会的な側面はあって当然だ。だから、もともと倫理感なんか持ちあわせちゃいない中沢先生に反省しろって言う方がどーかしてんだよ。わあったか、愚民ども!

 

今後の展望

そして今回の事件がらみの今後の展開として、これから予測しうる最低の出来事の一つに加害者の家族の自殺がある。

たとえば、俺が見たところ宮崎勤の父親が自殺したニュースに反応したメディアや文化人はほとんどなかったように思う。自殺して半年後ぐらいにやっと出た話だし、阪神大震災の報道が盛り上がっていた時だったからよけいにそうだったのだろう。俺も久々に人を殺したような気分になれた。犯人の宮崎勤の罪はともかく、宮崎の親父に死ななければならない義務などこれっぽっちもなかったはずだ。彼を自殺に追い込んだものは明らかにマスコミ報道と、俺も含めたこの世界そのものだろう。多くの正義の有言無言の圧迫と良心の呵責が彼を死に追い詰めた。人を死に追い込んでも誰も罪に問われない行為がここにあるのだ。

この犯罪未満のサブリミナルゲス犯罪に乾杯だ! 正義が最も醜悪な形で現われるイイ例だからな。

オウム事件でも、すでに何人かの被告の母だの父だのが痛々しい懺悔の告白をワイドショーの取材で語っている。「すいません……本当にすみません......」あれこそワイドショーの醍醐味、見るに耐えない極悪鬼畜ショーそのものだ。取材するリポーター、取材される加害者の家族、そしてそれを見る善良な視聴者の三者がみんな傷つくナイスなゲス企画だ。傷つきあって仲良しこよし、人間っていいなあ!

                   *

確かに麻原は法によって裁かれる人間かも知れないが、そのことで麻原の両親が自殺に追い込まれなければならない理由など一片も無いはずである。だから俺は麻原の両親の事を考えると胸が痛むね。麻原が弱視という障害をかかえてこの世に生まれてきたとき、多くの障害児の親がそうであるように、麻原の両親はとても悲しかったに違いない。母親は五体満足な子に生んであげられなくてごめんねと自分の事を何度も責めたろう。父親も何とか治療する方法はないかと行く末をとても心配したに違いない。ありふれた言葉だが親が子を想う気持ちはとても強いものだ。それが障害を持った子供であれば尚更である。「この子が障害を乗り越えて、幸せになれますように」「生まれてきて良かったなあと言える人生を送れますように」と何度も泣きながら神仏に手を合わせた事だろう。伝え聞く所によれば麻原家は貧しいうえに長兄が全盲で、麻原の下の弟も弱視だったという。障害児を三人かかえた生活は、我々には想像もつかないぐらい辛いものだったに違いない。俺には、苦労に苦労を重ねた麻原の両親のこれまでの人生は「良い事なんてちっとも無かった」ようにしか思えない。その人生も終わりにさしかかってきた所でこの騒ぎである。麻原がどんな罪を犯していようが、客観的に見れば麻原の両親は「障害児を3人もかかえて貧しく暮らした、苦労の多い人生を送ってきた夫婦」なのである。こんなふうに字で書けばほんの何文字かですむが、彼らの辿ってきた苦しみは気が遠くなるくらい長く辛いものだったろう。せめて、年老いたこの二人には静かな余生があっても良かったのではないか? 善人どもなら考えれば考えるほどやりきれない思いがするんじゃねえか?

あの松本サリン事件の冤罪で騒がれた河野さんの例でもわかるように、現在も、そして今後もずっと、善良な人々が正義の名のもとに多くの電話や手紙を送りつけ、無言の圧力で麻原の両親に襲いかかるだろう。それは徹底的に正義に裏打ちされた行為である。追い討ちをかけるようにワイドショーのリポーターがマイクを片手に「世間に対してどう責任を取るつもりですか」「親として何か一言」「あんたら、どういう育て方したんだ」「遺族の方に申し訳ないと思わないんですか」とやってくる。全く、誰の何を代表して偉そうに聞けるのか知らないが、リポーターの一言一言が鋭い刃となって両親の心の傷を更に深くエグる。この非人道的な攻撃は両親が死ぬまで容赦なく止むことはないだろう。

これが笑わずにおられるか!「弱者を死に追いやる勘違いの正義」それこそオウムが我々に仕掛けたサリン攻撃と同じくらい醜悪なものではないか。くっくっくっ、ああ、たまんねえ。もう駄目だ! 笑わしてもらうぜえええええええ。救いようのないお祭り騒ぎだ。けけけけけけけけけけけけけけけけ。そうやって人殺しをして正義を守るがいい。この国は「正義真理教」の狂信者でいっぱいだ! けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ。感情の壊れている俺にはひたすら喜劇にしか見えねえから楽しいぜ! けけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ。

がんばれゲスメディア

がんばれ鬼畜リポーター

がんばれ「正義と善意の人々」たち

罪は一緒に感じてやるよ、

「遺憾に思うが謝罪せず」ってな。

 

【付記】

この原稿を書いてから少しばかり時間があいた。俺の心配は杞憂で、中沢先生は見事に立ち直られ、勢力的に仕事を続け、雑誌『イマーゴ』ではオウム事件についての別冊特集に自ら責任編集をかって出、自分に批判が及ばないような本作りをするという掟破りのウルトラCを見せてくれた。俺は生まれ変わっても解脱するまで中沢先生を見習うぞ~! 『諸君』での浅田彰氏との対談でも確実に調子を取り戻している。よかった! 全然反省していない! それでこそ中沢先生だ。この姿勢は、俺も含めてオウムをダシに文章を書き散らかした宮台真司ほか大勢の論者も徹底的に見習うべきだろう。

さて八月中旬現在のオウム報道の中での断トツ最低は誰が何といっても大林高士による「八代亜紀麻原彰晃の親戚疑惑報道」である。いやぁ待った甲斐があったなあ~俺はこういう事件から遠く離れたゲス報道を心待ちにしてたんだ。これぞゲス報道の鑑だねえ。俺がエリザベス女王なら迷わず大林にピューリッツアー賞をやるね(意味不明:編集部註)。このとことん無意義で無意味な報道は、①「真実の報道」なら何だっていい。②その事で誰か傷つこうが知るもんか。③話題になりゃあ俺の勝ちだ。という「ゲス報道の三原則」を見事に兼ね備えた、冷酷非情、超ド級のスーパー鬼畜ゲス報道だ。いいお手本を見せて貰った。今後はこの姿勢もきっちり見習ってやる。

この俺の文章を読んで不愉快な気持ちになった奴も多いことだろう。ハイハイ、そういう人には、いくらでも、いつまでも好きなだけ遺憾に思ってあげまちゅからね~。バブバブ、遺憾でちゅ〜。だけど謝罪はしねえぞ。俺は醜い日本人だからな!

 












 

…以上が村崎百郎の原稿である。

履き違えた正義感で間接的に人をも殺すゲスワイドショー、そんなワイドショーを有り難がるヒマで愚劣なゲス視聴者、それまでオウムを擁護したゲス宗教学者その他諸々の有象無象に対して村崎なりに最大限の侮蔑・皮肉・敬意を表した(というより本人がゲスに振る舞うことで相対的に世間のゲスさを浮き彫りにした)最悪最低のゲス原稿であった

 

さて本書には黒田一郎の原稿も収録されている。黒田を御存知ない読者がいるかもしれないから彼の正体を説明しておこう。黒田一郎とは村崎百郎の本名である

また村崎は中卒の工員と自称していたの対し、黒田は明治大学卒でペヨトル工房*2の社員と紹介されている(なお1995年7月創刊の青山正明編著『危ない1号』には「編集協力者」として黒田のクレジットが記載されている)。

この黒田村崎はあくまで「別人」という設定であり、筆致もだいぶ異なっている。なぜこのような寄稿を行ったのか?……それは村崎百郎のパブリック・イメージでは伝えきれないものがあったのかもしれない。いずれにせよ黒田の寄稿は、村崎の寄稿を補完する上で重要な存在であることには間違いないだろう*3

導師(グル)なき時代の覚醒論

黒田一郎

くろだ・いちろう:1961年北海道生まれ。明治大学文学部卒。編集者。オカルティズム研究。某・特殊版元にて主にウィリアム・バロウズキャシー・アッカー、デニス・クーパーらポストモダン小説の単行本等を担当。

 

グルと弟子

「冗談じゃねえよな」大方のオカルティスト、精神世界愛好家、ニューエイジ、ヨガ修行者、宗教関係者たちは、今回のオウムの事件を見てそう感じたのではあるまいか。「全く冗談じゃない。あまりにも馬鹿げた話だ。こんな奴らと一緒にされたんじゃあ、たまらないぞ。だけど世間はこれで宗教は危ないとか、ヨガは悪いとか、オカルトは駄目だって非難するんだろうな。いつかの幼女連続殺人事件でロリコンの犯人が捕まってから〈おたく批判〉が起きたように、今度は〈オカルト冬の時代〉が来るんだろうか。やれやれ、全く迷惑な話だ。それにしてもこいつら一体何なんだ?  アタマおかしいんじゃねえのか」などと、あくまでも「自分はあんな馬鹿な奴らとは違う」という立場と意識のもとに「冗談じゃねえよな」と思ったことだろう。実は私もその一人である。

私などは、殺された村井秀夫が出家の際に「かもめのジョナサンの気分だ」と語ったという報道を目にして、驚きのあまり意識を失ないかけながら本当に「冗談じゃねえ!」と思い、この報道であの小説が誤解を受けないことを心底願った。リチャード・バックの名誉の為にも言うが『かもめのジョナサン』という小説は、決して読後にサリンを撒いたり人を無差別に殺したくなるようなふざけた小説ではない。読者の解釈には無限の自由があるだろうが、この小説は基本的に、かもめである主人公が、鳥として「空を飛ぶこと」にこだわり、その技術を極限まで高める個人的な修行を通して、他者理解や同胞への限りない愛情に目覚めるという素晴らしい物語なのだ。更にいえば、バックがその次に書いた『イリユージョン』を読んでいれば、「凡夫や外道を救済するなどという短絡的な思い上がりこそが人類にとって大きな迷惑であることぐらい充分自覚できたはずである。死んでしまった人間に言うのも何だが、村井さん、今度転生して出家する折には、頼むから自分の尊敬する麻原の著書をあげてくれ……などどオウムに対しては、はなから独善的に「冗談じゃねえよな」と思っていた私だが、さすがに事件の捜査が進み、多くの事実と背景が報道されるうちに、「グルと弟子」、「出家と修行」、「ハルマゲドン思想から人類救済計画に至る発想」など、決して他人事ではなく、私自身の中にも共通して問われるべき問題が数多くあることに気がついた。オウムについての私の批判は、全て私自身へ向けられる批判でもある。とても一方的にオウムを責められたものではない

私はここで反省の意味を込めて、今も自分にとってのテーマの一つである「グルと弟子」の関係について考えてみたい。これは何も宗教や神秘学の探求や、精神世界文化に限った問題ではない。拡大して解釈すれば、「人間として自己の向上を目指す者のつきあたる課題」というふうに、誰の人生にも共通する問題でもある。

高次元の精神や叡知に触れようと神秘学の道を志せば、必然的にそれらの道を指し示してくれる導師(グル=霊的指導者)との出会いが第一の課題となる。

この出会いは一見非常に困難そうに思えるが、宗教・神秘学業界(なんてものがあるのか?)では、誰が言い出したか知らないが、昔から「弟子の側に準備ができれば導師は自然に現われるであろう」などという神秘的(神秘学だからあたりまえか?)で親切な常識があった。真理を学ぼうとする者の態度や学習のレベルに応じてグルが姿を現わすというのだ。高次のグルになると、人間としての肉体を持たない者もいるらしい。声だけの「神霊」などがこれにあたるのだろうか?  いずれにしても、これは宅配ピザ以上に便利な制度で、来て欲しくもないのに毎日のようにしつこくやって来る○売新聞の拡張員とはエライ違いである。

しかしながら、この「グルと弟子」という特殊な師弟関係にはさまざまな問題がある。弟子を導き、自分も修行を続けるという、本来の意味でのグルの他にも、弟子を騙して金品を巻き上げるだけの偽グルの存在も充分可能なのだ。自分の目の前に現われたグルが正しいか正しくないか?  グルを求める人間は、自分がこれまで経験して培ってきた知性と感性をフルに働かせて、それを判断しなくてはならない。それもまた試練の一つなのだろうが、そんな危険といかがわしさがこの関係には存在するのだ。グルは時として、弟子の能力や理解を超えた行動を強制する。弟子はグルが与えた様々な試練を乗り越えなければならないのだ。修行は危険なものだったり、世間一般の常識からかけ離れたものである事も珍しくなく、教えるものと学ぶものとの間には通常以上の信頼関係を必要とする。しかし、グルへの絶対的な帰依や服従には危険が伴う。それは今回のオウムの事件でも明白だろう。一連のオウムの犯罪のほとんどは麻原本人が直接手を下したものではない。弟子(それも高弟)達が中心となって、麻原の命令もあるだろうが、かなりの部分は麻原の意をくんで自主的に行ったふしがある。おそらく高弟ともなれば、明確な命令を麻原の口から聞かずとも、別の形で命令を受け取ることができただろう。世間の常識では考えられないかも知れないが、宗教の教団などでは驚くに当たらない瑣末なことである。いや、断じて驚いてはいけない。一見ありえなさそうなことが平気で起こるのがこの業界の特徴で、それをムキになって否定したり、「奇跡だ!」などと有り難がるから話がこじれるのだ。

少し話はズレるが、誰かが空中浮揚をしようが、水中に一時間以上もぐろうが、地震や天災を予知しようが、別にあわてる必要はない。いいではないか。地球は広いし、長く生きてればそんなことにも出くわすだろう。どうしても感謝したいのなら、「いい見世物を見せてもらった。ご苦労様」と言って百円玉でも手渡せばいい

私が言いたいのは、奇跡や超常現象の真偽はともかく、人間がひき起こした奇跡と、その人間の人格、品性、人間的成熟度は別問題であるということだ。我々はこれをきっぱり分けて考えなくてはならない。

予知や予言などの超自然的な能力は、真偽はどうあれ、単なる「技術」である。それらの技術を行う人間の人間性とは区別して考えよう。特異能力に対するあこがれから超能力を持った人間=超人、救世主、我々より人間的にも優れた人間などという妄想を持ちたい気持ちもわかるが、それは間違いだ。珍しい技術を見せられる度に土下座していたら服が汚れてしようがない。これは心霊治療にしても同様だ。どんな技術を使おうが病気が完治すればそれは素晴らしいことだ。かかった医者には感謝して治療費を払おう。しかし、いちいち病気を治してもらう度に土下座されたのでは医者の方もたまらんだろう。

ことは単純だ。大道芸的な奇跡を見たら拍手をしよう。人命を救う奇跡を見たら、その人間には感謝と敬意を払おう。だが、どちらもそこで土下座して信者になる必要はないのだ。

つい、話が脱線してしまった。話を戻そう。そもそもグルとは、俗な例えでいえば、「長く難解な研究を続けている大学の先生が、予備校のバイトをしながら、将来自分の研究を引きついでくれそうな見どころのある生徒を選んで、学業のめんどうばかりか親身に私生活の相談にも乗っている」ようなものだ。その先生に一生めんどうを見てもらうのが予備校生(弟子)の最終目的ではない。「悟り」や「覚醒」という希望の大学に入学して、やがては先生(グル)を乗り越えるような研究をしなくてはならないだろう。そして自分を育ててくれた社会に恩返しの貢献もしなくてはならない。決してグルの弟子にとどまることを目指してはいけないのだ。

このへんの事情は神秘学の探求徒であればごくあたりまえの常識であり、オウムの信者たちも言葉では知っていたことだろう。しかし、残念なことにそれはあくまでも「言葉だけ」で終わったように見える。発覚した多くの犯罪や犠牲者、これだけ事実が明らかになったにもかかわらず「全ては警察のでっちあげ」と信じて疑わない信者たちの態度がそのことを物語っている。「グルと弟子の関係」はその性格上、「何でも命令を聞くだけのロボット」を生み出す可能性も持っているのだ。

しかし私は麻原が「全くの偽グルであった」と言うつもりもない。麻原のある部分は聖人で、ある部分は悪魔的であったというのが正しい表現だろう。麻原をグルとして、覚醒や悟りへ到達できるかは、弟子の側にかかっていたとも言える。偽グルについたら必ず破滅するというものでもないはずだ。いずれにしても、今回の事件はグルである麻原の側にも、弟子である信者の側にも双方に責任と問題があったと見るべきで、どちらかを一方的に責めるべき問題ではない。「グルと弟子」という関係のありかたそのものも問い直されるだろう。

実際「グルと弟子」の関係については批判も多い。中世の暗黒時代ならいざ知らず、現在であれば、図書館に行けば有史以来の記録が残された思想や宗教の教義など、大抵のものは簡単に調べがつくし、研究書も数多く入手可能だ。それらをミックスして、さもありそうな教義を組み上げるのは簡単なことだ。このように現代では神霊の導きがなくとも、誰でも教祖になって宗教の一つや二つは簡単にでっちあげられるのだ。これでは、いかがわしい偽グルが増えても不思議ではない。私の目から見ても、オウムに限らず、日本の宗教団体には怪しいものがいくつもある。世界に目を向けてもそれは同じで、人民寺院やブランチ・ディビディアンなど、カルト宗教の信者による集団自殺や組織的な犯罪事件も起きている。そうした情況からも、安易にグルを求めることを危険視する声も増えているのだ。

たしかに、情報が溢れた現代であれば、いかがわしいグルを求めずとも、独力で過去の聖人や神秘家の著作や発言を研究し、深い思索を行い、叡知の探求や人間性の向上を目指すことも可能だろう。日本でも昨年話題になったジェームズ・レッドフィールドの『聖なる予言』は、小説の形式をとってはいるが、覚醒の段階が九つの「予言書」で示された、グルの登場しない新しいタイプの手引き書である。そこで覚醒するのは、もはやグルの指導を受けた限られた特定の個人ではない。予言を読んだ誰もが、人を幸福に導く深い叡知を授けられ覚醒する。やがてその動きは世界中に広がり、人類は種としての新たな局面を迎えるだろう……という小説である。現状はそれほど簡単ではないだろうが、これなどは「グルを必要としない覚醒」の可能性を表現したものとして特徴的である。

こうした現状を踏まえて考えると、「真理や叡知の探求」イコール「グルと弟子の関係」という発想を改めなければならないのかも知れない。私には今回の事件の根源には、麻原個人の欲望以外に、「向上を目指すひ弱な人間の、完全なるものへの依存心」という問題があったと思う。そして、それこそが私自身や多くのオウム以外の人間にも問われるべき課題である気がしてならないのだ。

 

グルへの依存を超えて

「導師と弟子の関係」は、あくまでも「悟り」や「覚醒」など、人を向上させる知恵を獲得するための手法の一つである。ならば我々は今後、その関係にこだわらず、どのようにそれらを目指せばよいのか。そのことについて提言してみたい。その方が犯罪の批判よりも建設的だ。そう、あんな破壊的な事件の後だからこそ、私は意地でも建設的で前向きなことを提言したい。それが私の「反オウム」運動であり、自己批判なのだ。

もともと「悟り」や「覚醒」などというものは、学校教育で習う国語や算数などのように定まった教科書も明確な解も存在しない分野の知に属するものだ。それを考えることは自らの人生について考えることでもある。「どう生きるか、どう死ぬか」「われわれはどこから来て、どこへ行くのか」「人生の意義は? なすべきことは何か」──どれもすぐには明確な答えなど出るわけがない。これらの答えは、私たちが実際に社会に出て、仕事をしたり遊んだり、恋をしたり傷ついたりして、その中から導き出されるべき問題なのだ。とても一朝一夕で解決できるようなものではない。だが、それでいいのだ。

思えば私たちは、何でも単純に答えが出てくることに、あまりにも慣れ過ぎてはいなかったろうか。世界はどこもかしこも親切なマニュアルに溢れている。悟りや覚醒にしても巷には何十冊も手引き書が出回っている。遠からず「悟り」や「覚醒」そのものが商品化され街角のコンビニでトイレットペーパーの横に安値で並ぶ日も来ることだろう。それならそれでもいいが、我々はやはり手作りの面白さを満喫したい。時間がかかっても、苦労しても、それはそれでいいではないか。

私がここで提言したいのは、「悟りや覚醒に至る道は無数にあり、我々はどんな道を選んでも自由なんだ」ということだ。そのことを自覚しよう。

その場合、唯一無二の正しいグルを捜すには及ばない(いても一向に構わないけど)。自分にとっての絶対的な存在を求める気持ちもわからなくもない。しかし、それを特定の他者に求めるのはとりあえずやめよう。ある意味でそれは安易な選択だ。もちろん誰かを尊敬したい気持ちはわかる。誰も尊敬できない世の中なんて、あまりにも淋しいから。だけど人は他者に「完全」を求め、押しつけ、そこへ逃げてはいけないのだ

しっかりと目を開いて生きよう。意識を変えれば退屈な日常生活こそ、格好の修行の場であることに気づくはずだ。実際、我々は何からだって学べるのだ

そこに特定の個人の姿をした「グル」は必要ない。感覚をとぎすませ注意深く物事にあたれば、グルは何時でも断片的に姿を表すだろう。言い古されていることだけど、私たちをとりまくこの世界全体が、私たちを導くグルなのだ

あなたを導くものは必ずしも偉い人の立派な言葉とは限らない。それはたとえば、親父のゲンコツに、お袋の小言に、友人との会話の中に、無数に存在しているだろう。その気になれば、小さな子供の素朴な問いかけにも無限の叡知への可能性を感じ取ることが可能なはすだ。

学ぶべき対象は何も人間ばかりではない。神秘的な月の光の中に、深夜に散歩する住宅地の静けさの中に、虚空を見つめる猫の視線の先、鬱陶しい夏の暑さの中に、セミの鳴き声、鳥の声、そんなありふれた事象から呼びさまされる知識もあるだろう。小説、映画、音楽……目に触れたり耳にするもの全ての中から魅力的なものを見出そう。数多くの「感動」が多くのことを教えてくれるだろう。

あなたを導く魅力的な教えは、嫌な上司の小言や、あなたの大嫌いな人々の言葉の中にも数多く存在する。他人からの悪口をおろそかにしてはいけない。どんな嫌味も聞き逃がすな。悪意からだろうと嫌味だろうと、あなたの短所を指摘する声は、まぎれもなくその瞬間、グルなのだ。

徹底した自己分析と自己批判こそ修行の根本であるはずだ。それは強い意志さえあれば、ごく、あたりまえの日常生活の中でも可能なものだ。人里離れた山奥へ籠らずとも、教団や教主を頼らずとも、人間は日常の中で修行し、向上できるはずだ。

注意しなければならないのは、自分をとりまく現実との関係を軽んじることだ。たとえば、あなたが精神世界の本や神秘学の本、哲学でも現代思想でもいい、そうした本ばかり読んでいるとしよう。多くの本を読むうちに、それらの分野に興味を持たない、あなたのまわりの人々のことが、とても馬鹿でつまらなくて矮小な存在に見え出すかも知れない。そうなったら要注意だ。冷静になれ、頭を冷やそう

たしかに本に書かれた「言葉」は立派だし、現実に生きている人間の見てくれはそんなに良いもんじゃない。だが、他人の知らない分野の知識を持つことがどれほどのことなのか? 叡知を学ぶのはエゴを肥大させる為でも、人を見下す為でもないだろう

洗脳された新興宗教の信者たちが見せる、さも「自分は真理を知ってるんだ」という、自信に満ちたあの不愉快なうすら笑いを思い出せ。信者以外の人間を「凡夫」と呼ぶオウムの信者を見てどう感じた? 度を越えたエリート意識や選民思想の醜さには不快の感を越えて哀しみすら覚えたのではないか。人は、そんなつまらない意識を持つために勉強したり、修行したりするのではないはずだ。それではあまりに情けない。

選民意識を持ち、自分達のまわりに見えない線を引き、「敵」を決めてそれらに向けての憎悪を育てることに何の意味があろう? オウム信者だけの問題ではない。私やあなたたち、マスコミや評論家たちみんなへ向けられる問題だ。

たしか、ロバート・ワイアットの歌う、革命を題材にした唄の中に「私たちは指導者の為に闘っているのではない。敵を倒す為に闘っているのでもない。いま闘っている敵も含めて、みんなで一緒に幸せに暮らしたくて闘っているんだ」という意味の歌があった。

我々ももう一度、自らの行動の目的を問い直す必要があるはずだ。何の為のオウム批判か? 何の為の報道か? 何の為の糾弾か? 何の為の修行か? 何の為の悟りか? 私は誰かを見下す為の修行なんかいらない。誰かを苛める為だけの報道なんかいらない。誰かを差別し、傷つける為の理論や教義なんか絶対にいらない。私は、言葉にすればカッコ悪くて間が抜けていて、ちっとも現実的じゃなくて、どうにも青くてダサイ「どうしたら、みんなで争いや差別のない平和な世界を実現できるだろう」という課題を一生考え続けたい。

あなたも私もただの人間だ。本当に全く大抵の人間は徹底的にただの人間なのだ。

救世主なんかいなくてもいい。我々はあらゆる疑問に対してもっともっと、限界ギリギリの所まで自分自身であがいて答えを探す必要がある。絶対者を欲したり、何かにすがったりするのはそれからでも遅くはないはずだ。救世主を自称するペテン師は放っておけ。安易に救世主を求める心こそ責められよう。

くり返し言う。唯一無二の絶対的な存在を見つけ出して、それに己の全てを預けることは、どんな言い訳をしても己の人生に対する怠慢行為であり、背信行為なのだ。目に見えるグルがいれば楽だろう

何でも決めてくれる指導主がいれば思い悩む必要はないのだから。だが、あくまでもあなたの人生はあなた自身のものだ。どんなことがあってもその運命を他人に預けてはいけない。

だからグルへの、批判精神を一切欠いた絶対的帰依など糞くらえだ

人と話そう、書物だけでなく人間を読もう。多くの人たちと触れ合い、関係しよう。我々はくだらなく思ったり、つまらなく思った人たちからでさえも反面教師として多くを学べるのだ。それも、じっくりと観察すれば一人一人の人間の複雑さに気がつき、嫌な人間からも魅力を発見できるだろう。そこには「凡夫」も「外道」もいない

あなたの身のまわりで現実に生きている人間は、マンガや映画に出てくるキャラクターのように善悪の役割分担が明確にあるわけではない。あなたがこれまで出会った人々について思い出してみるがいい。完全な善人もいなければ、完全な悪人もいなかったはずだ。誰にとっても、悪であり続ける人間など存在しない。ヒトラーは誰も愛さなかったか? 麻原は徹底して誰に対しても冷酷で無慈悲な人間だったか? そうではないだろう。あなたの身近にいる、どう考えても存在意義の感じられない会社の嫌味な上司にしても、家に帰れば家族にとっては「良いお父さん」だったりするのだ。

そんなふうに善にも悪にも徹しきれないのが我々人間の本性ならば、他人からはできるだけ善い部分を見つけてあげよう。それが他者への最低の礼儀である。

観念の中に閉じこもるな。現実としっかり向かい合え。何度も言うが出家や教団に入ることだけが悟りや覚醒の道ではないのだ

我々が生きるべき世界は、遠くヒマラヤの地下深くにあるというシャンバラでもなければ、ハルマゲドン後の千年王国でもない。今、まさにあなたが暮らしているその場所──限りなく平凡であたりまえの、退屈な日常の中なのだ

そして覚醒も堕落も、創造も破壊も、あらゆる可能性は常に我々の内にあり、いずれを選ぶかは、常に我々自身の意志に委ねられている。その権利と自由を決して手放すな

 





*1:村崎は『ユリイカ』1995年4月臨時増刊号「悪趣味大全」にも「ゲスメディアとゲス人間/ワイドショーへの提言」と題した共通テーマの原稿を寄稿しており、これがデビュー原稿であると公言していた(没後『村崎百郎の本』に収録)

*2:かつて雑誌『夜想』を出版していた特殊出版社。黒田一郎はアルトーウィリアム・バロウズ幻想文学を担当した。

*3:黒田の寄稿から引用者は宮台真司『終わりなき日常を生きろ─オウム完全克服マニュアル』(筑摩書房)の主旨である「コミュ力をつけて恋愛すること」と「理想論的に生きることを諦めること」を連想した。それに適応できない人間が終末的サブカルチャー自己啓発、オウムに向かったと。あの村崎百郎が「観念の世界に自閉するな」というと宮台以上に説得力がある

月刊漫画『ガロ』を思う/蛭子能収

ガロを思う

蛭子能収

もし『ガロ』という漫画雑誌がなかったら私は漫画家としてこの世に出ることはできなかっただろう。だから私はガロを尊敬しているし、ガロの編集者から何か頼まれたら嫌とはいえないし、ガロに足を向けて寝ることもできない。仕事がら数多くの雑誌が毎日何冊も送られて来る。ほとんどの雑誌を読まずに捨てている状態にあるが、ガロだけは絶対に捨てられないと思って、整理はしてないけど毎月その辺にポンと置いている。

しかし、正直な話、最近中味をほとんど読んでいないのである。ただペラペラとページをめくるだけ。時々読者コーナーを見て「蛭子能収さんのマンガが面白い、また見たい」とか書いてないかなーと思うが私の名前を見たことがない。

もう私の名はガロの読者から忘れられてしまったのだろうかと淋しくなってしまう。告知コーナーにも私の名前はない。加えて単行本の宣伝もない。ただ青林堂出版物一覧表の箇所に「蛭子能収」とあり、7冊の単行本が記載されており、一冊を除いてすべて品切れの*印が打たれているだけだった。もう私はガロの人ではなくなってしまったのだろうか、と淋しく本を閉じ布団の中で寝入ってしまった。何かこうガロにも取り残され、一人ぼっちの悲しい運命を辿る浮浪者のような心境である。

だからといって、もし今ガロの手塚(能理子)さんあたりから「マンガを描いて」と注文が来ても全然書きたくないし、いや描く内容もないし、でも断わりきれないしで困ってしまうが、何も描かなくてもガロの人ではいたいと思っている自分が情けない。

ガロの読者コーナーのあとに文通コーナーがあって「戸川純丸尾末広が好きです。例えばのぞき穴をのぞいている様な殺伐とした刺激を求めていろんな街を歩いています。体を痛めつけて遊ぶ私につき合って下さる方、男女年齢問いません、罪をおかしてみませんか。世田谷区ち乃21歳」とか「丸尾末広日野日出志山田花子等が好きです。人間嫌いで非現実なタイプの方、お手紙待ってます。埼玉県トラ太郎26歳」とか、とにかく文通したい人がたくさんいて、自分で堂々と暗い自分を強調して逆に明るくなっている。人間嫌い同士が文通し合うとどんな内容の手紙になるのか見てみたいものだ。

この文通コーナーを見ると、丸尾末広戸川純つげ義春寺山修司横尾忠則筋肉少女帯、インド、黒い服、などに人気が集中していた。私の名前はなかった。なんとなく傾向は分かる。分かるけどまた淋しくなった。もう私はガロの人ではなくなっていってるんだと思った。

そういえば最近ガロの忘年会というものに全然出ていない。何年か前までは必ず忘年会でガロの漫画家達と久し振りに会い、だからといって何を話すでもなく、二次会ではいつもお決まりの根本敬さんや平口広美さん、丸尾末広さん、他に若い漫画家も加わって喫茶店でチョコレートパフェなどを食って笑って過ごしていたものだった。そして帰る方向が平口さんと同じで、いつもタクシーに一緒に乗って帰って来ていたのだが、そのタクシーもその頃は全然空きがなくて平口さんと私は新宿の街をウロウロしていた。その平口さんとも、もうここ2年くらい会ってないような気がする。根本さんとかマディ上原さんとかも全然会ってない。ガロの漫画家と全然会ってない。

ひさうちみちおさんとは大阪のテレビの仕事で一緒にレギュラーで出ていたのでずいぶん会った。テレビではいろんな芸能人の人と一緒に仕事をするけど、やはり、ひさうちさんとかみうらじゅんさんとか、同じ漫画家の人と一緒の方がいい。芸能人は服や喋りや動きで自分を目立たそうとするけど、漫画家は内に秘めたものをポツポツと遠慮がちに出していく。ひさうちさんとは10カ月一緒にいて、ひさうちさんのマネージャーが「今度、ひさうちさんと蛭子さんがガロの知り合いの漫画家をお客に迎えてトークする番組をつくりましょうよ」と言った。私は「面白いですね。ぜひやりましょうよ、企画が通ったらいいですけどね」と言ったのだが、果たしてどうなることやら。

それにしてもガロから少しずつ離れて行ってる私がガロの若い漫画家を知らずにトークできるか不安である。それにしてもガロはしぶとい。今は新しい社長がガロの立て直しに一生懸命だが、そういう人が必ずガロには出て来るとこが本当にしぶとい漫画雑誌だと思う。(1996年刊『正直エビス』より転載)

ねこぢるの夫、山野一から愛読者への追悼文

ねこぢるの夫、山野一から愛読者への追悼文

追悼文① 月刊コミックビンゴ!

ねこぢるさんの夫、山野一さんから愛読者の方々へのメッセージです。

読者のみなさん

去る5月10日に漫画家ねこぢるが亡くなっことをお知らせします。故人の遺志によりその動機、いきさつについては、一切お伝えすることができません。また、肖像についても同じく公開できません。

彼女の作品を愛読して下さったファンの方々には、故人になりかわり、厚くお礼申し上げます。生前、彼女が作品化するため、書きとめていた夢のメモを、私がいずれ描くことで、読者の方々への説明とさせていただきます。

また、一部マスコミで"某ミュージシャンの後追い"との憶測報道がなされましたが、そのような事実はありません。

ねこぢるはテクノやゴア・トランスといった全く異なるジャンルの音楽に傾倒しており、本人の強い希望で柩におさめられたのは彼女が天才と敬愛していたAphex Twin(Richard D.James)のアルバムであったことをつけ加えさせていただきます。

漫画家  山野一

所収「漫画家・山野一さんからの緊急メッセージ」『月刊コミックビンゴ!』1998年7月号 文藝春秋 195頁

 

追悼文② ぢるぢる旅行記総集編

漫画家ねこぢるは、去る98年5月10日に亡くなりました。彼女の死の経緯については、故人の遺志により、何も明かす事はできません。

そこで生前彼女がどんな人物であったか、少し書いてみようかと思います。私はねこぢるが18の時から一緒に暮らし、彼女がガロでデビューしてからずっと、唯一の共同創作者としてアシストしてきました。それは私と彼女の作業分担が極めて微妙で外部のアシスタントを入れる事ができなかったからです。

そもそも彼女は漫画家になる気などさらさらありませんでした。暇を持てあましている時に、私の漫画を手伝いたいと言っていたのですが、あまりにも絵柄が違い、ベタぐらいしかやってもらう事がありませんでした。そこで彼女がチラシの裏などに描きなぐっていた無数の落書き…。その奇妙なタコのようなネコの絵が何とも言い難いオーラを放っていたので、それをモチーフに、彼女の個性というか、かなりエキセントリックな感性を取り込んで、私が一本ストーリーを創ったのが、ねこぢる漫画の始まりでした。彼女は自分の才能や魅力というものについてはほとんど無自覚で、漫画を読むことは好きでしたが、自分で何かを表現しようとか、それを誰かに見てもらおうという意識は希薄でした。当初はただ無邪気に絵を描く事の楽しさにハマッていたようです。

ねこぢるは右脳型というか、完全に感性がまさった人で、もし彼女が一人で創作していたら、もっとずっとブッ飛んだトランシーな作品ができていたことでしょう。それはもはや“漫画”というカテゴリーには収まらず、理解できる人も極めて限られたでしょうが、かなり芸術性の高いものになっていたと思います。そのニュアンスを可能な限り残しつつも、とにかく“商業誌に掲載し、それを手にする不特定多数の読者が、少なくとも理解可能”なレベルまでオトすことが私の役目でした。まあいうなれば“通訳”みたいなものです。私も以前は、だいぶ問題のある漫画を描いていたものですが、“酔った者勝ち”と申しましょうか…。上には上がいるもので、ここ数年はほとんどねこぢるのアシストに専念しておりました。

生前彼女はチベット密教の行者レベルまでトランスできる、類いまれな才能を持っておりました。お葬式でお経を上げていただいたお坊さまにははなはだ失礼ですが、少なくとも彼の千倍はステージが高かったと思われるので大丈夫…。今頃は俗世界も私のことも何もかも忘れ、ブラフマンと同一化してることでしょう。

所収:山野一「特別寄稿・追悼文」『まんがアロハ!増刊「ぢるぢる旅行記総集編」7/19号』ぶんか社 1998年7月19日 166頁

 

追悼文③ ぢるぢる日記

身長153センチ、体重37キロ、童顔…。

18の時出会ってからずっと、彼女はその姿もメンタリティーも、ほとんど変わることはありませんでした。それは彼女を知る人が共通して持っていた感想で、私もそれが不思議であると同時に、不安でもあったのですが…。

98年5月10日、漫画家のねこぢるは、この世を去りました。

生前彼女は、かなりエキセントリックな個性の持ち主でした。気が強い半面極めてナイーブで、私の他にはごく限られた“波長”の合う友人にしか心を開くことはありませんでした。“波長”の合わない人と会うことは、彼女にとって苦痛で、それが極端な場合には精神的にも肉体的にも、かなりダメージを受けていたようです。彼女程でないにしろ、私にも同じような傾向があり、二人ともノーマルな社会人としては全く不適格でした。

毎日二人して、会社に行くわけでもなく、家でブラブラしているので、ステディーな御近所様方からは「何やってる人達なんだろ…」と、だいぶウサん臭がられていたようです。

そのような自閉的な生活をしていても、彼女にとってこの社会は、やはりなじみにくい場所だったようです。しだいにテクノやトランスの、神経質な音の世界に沈潜することにしか、安住の場所を見出せなくなっていきました。

あと二・三年したら引退して、彼女が好きだったアジアの国々を放浪しようねと、二人で話していたのですが、それを待つまでもなく、インドより、ネパールより、チベットよりも遥かに高い世界へ、一人で旅立ってしまいました...。

所収:二見書房『ぢるぢる日記』(1998年)114-115頁「漫画家 山野一」による「追悼文」

 

追悼文④ ねこぢるまんじゅう

どうして彼女は…?

「どうして彼女は…」その質問はもう数限りなく受けた。しかし本当のところは私にも解らない。

書かれた遺書は二年も前のものだし。亡くなる前夜は、テレビでやっていた“マスク“というギャグ映画を、二人で見ながらゲラゲラ笑っていたのに…。

ねこぢるはよく“COSMOS“やアインシュタインロマンのビデオを見ていた。中でも量子力学の“シュレディンガーの猫”や“認識した現在から遡って過去が創られる”という、パラノイックで魔術めいた理論に、強く惹かれていたようだ。それはもう宗教や哲学の問題とシンクロしている。ねこぢるがトランス中に話す切れ切れの言葉を聞いてると、彼女がその鋭い感性で、この世界の構造を、かなりシビアな領域まで認識してる事が読み取れた。

まあそんな特殊な能力があった所で、別に自慢にもならず、なんの役にも立たない。むしろ無い方が、アフター5にカラオケでも歌いまくって、有意義な人生を送れるだろう。だって呆れ果てる程殺伐としたものなんだから、何もかも剝ぎ取ったリアルって…。

「どうして彼女は死んだのか?」

そう聞かれたらもうこう答えるしかない。

「じゃああなたはなんで生きてるんですか?」ちなみに私は“惰性“です。生まれてから一度も死んだことがないし、がんばって死ぬ程の理由もないから…。

所収:文藝春秋ねこぢるまんじゅう』(1998年)112~113頁「漫画家 山野一」による「あとがき」

 

追悼文⑤ バイオレント・リラクゼーション

彼女の元に来たたくさんのファンレター、その多くは中高生から寄せられたものだが、それを見ると、ねこぢるの漫画の内容のあまりの非常識さに、初めは驚き、とまどいを覚えたものの、次第に引きこまれ、繰り返し読んでいるうちに、自分の心が癒されていくのを感じたという…。またこの世の中や、人間の見方が変わったというものも多かった。

ねこぢるは別に自分の作品で社会批判をしようなどという気はまるでなかった。わざと人の感情を逆なでしてやろうという意図もなく、ただ自分の感性でとらえ、面白いと感じたことを、淡々と無邪気に描いていただけだ。

ではなぜ読者の方々は、ねこぢるの漫画に安堵感を覚えたのだろうか?…それは彼女の漫画がもつノスタルジックな雰囲気のせいかもしれない…。しかしそれよりも、自分との出会い…とうの昔に置き忘れてきた“自分自身”に再開した…そういう懐かしさなのではないだろうか?

まだ何の分別もなく、本能のままに生きていた頃の自分…。道徳や良識や、学校教育による洗脳を受ける前の自分…。社会化される過程で、未分化なまま深層意識の奥底に幽閉されてしまった自分…。その無垢さの中には当然、暴力性や非合理性・本能的差別性も含まれる…。

人間のそういう性質が、この現代社会にそぐわないことはよく解る。どんな人間であれ、その人の生まれた社会に順応することを強要され、またそうしないと生きてはいけない。しかし問題なのは、世の中の都合はどうであれ“元々人間はそのような存在ではない”ということだ。もって生まれた資質の一部を、押し殺さざるをえない個々の人間は、とても十全とはいえないし、幸福ともいえない…。

「キレる」という言葉に代表される、今の若者たちの暴走は、このことと関係しているように私には思われる。未分化なまま抑圧され続けてきたものが、ちょっとしたストレスで、自己制御できないまま、意味も方向性もなく暴発してしまうのではないか…?

ねこぢるの漫画は、そういった問題を潜在的にかかえ、またそれを自覚していない若者達に、カタルシスを与えていたのだと思う。

ねこぢるは右脳型というのか、思考より感性が研ぎ澄まされた人で、社会による洗脳を最小限にしか受けておらず、あのにゃーこやにゃっ太のような子供のままの心をずっともち続けていた。もし彼女が一人で創作していたら、もっとずっとブッ飛んだトランシーな作品ができていたことでしょう。

彼女と親しかったある女性は、ねこぢるの印象を、“いなばの白うさぎ”のようだと話してくれた。

“皮をむかれて赤はだか…” そのむきだしになった繊細な感性が魅力なのだという。でもそういう人間は鋭い反面弱い…。毛皮のあるうさぎ達が、難なくこなしたりかわしたりできることに、一々消耗し、傷ついてしまう…。このような生きにくさ、世の中に対するなじみにくさは、エキセントリックに生まれついてしまった者の宿命なのかもしれない。

98年5月10日 ねこぢるはこの世を去った…。

所収:集英社ねこぢるせんべい』(1998年)136~137頁「夫・漫画家 山野一」による「あとがき」

 

追悼文⑥ BUBKA

去る5月10日に漫画家ねこちるが亡くなった事をお知らせします。故人の遺志により、その動機、いきさつについては、一切お伝えする事ができません。彼女の作品を愛読して下さったファンの方々には、故人になりかわり厚くお礼申し上げます。

生前ねこぢるはかなりエキセントリックな女性でした。気が強い反面、社交性はほとんどなく、一人ではレストランや喫茶店に入ることもできませんでした。よく道ばたに座って、自動販売機で買った紙コップのジュースを飲んでいました。

私の他にはごく数人の友人にしか心を開かず、その友人の半分がイスラエル人であった事が、彼女のメンタリティを物語っているように思えます。彼女はよく「みつばちに生まれ変わりたい。」と語っっていました。

それは決してポエジーな意味ではなく、昆虫の、あの思考も感情もなく、死も恐れない…。ただD・N・Aに支配されているような無機質なゲシュタルトの一部になりたかったようです。

また一部マスコミで“某ミュージシャンの後追い”との憶測報道がなされましたが事実ではなく、多分一秒も聞いた事がないと思います。

ねこもるはテクノやゴア・トランスに傾倒しており、本人の意志で棺におさめられたのは、テクノの天才 Aphex Twin(Richard D.James)のアルバムでした。

漫画家 山野一

所収:コアマガジンBUBKA』1998年7月号

Memories of Nekojiru on Yoshiaki Yoshinaga

Yoshiaki Yoshinaga on Nekojiru

May 10, 1998.

Nekojiru is dead.

Cause of death: Suicide.

Born: 1967. Height: 153 cm. Weight: 37 kg.

Plain looking. Short-cropped hair.

She was she first suicide I knew.

Coming as it did right after the suicide of hide, lead singer of X-JAPAN, also by hanging from a rope tied around a doorknob, some fans and press speculated about the possibility of it being a copycat suicide.

I wanted to get down on record a few things I knew about Nekojiru.

Nekojiru as I knew her: A close friend, gone forever.

MEETINGS

I first met Nekojiru in 1990.

I was just starting out as an editor and a writer. Things were going great. I was full of spunk, fascinated by everything, exhilirated by my work.

A movie nerd approaching thirty, I was free of worries, dabbled in drugs, and felt totally open to life.

One of the magazines I read at the time was Garo.

If I ran across a manga I liked, I'd call the editors to get them to introduce me to the artist and get him to draw illustrations for my magazine.

Takashi Nemoto and Hajime Yamano were favorites from Garo. I knew both personally and commissioned work from them often.

At the time, Hajime Yamano drew manga about poor, stupid losers in a gritty, realistic millenial theater of desire.

His way of relentlessly exposing the insignificance and smallness of the human creature in his manga in a despaired, nonsensical tone won him the ire of sensible people and a cult following.

Self-styled renaissance man and misfit, reading a manga artist like Yamano was for me a healing activity.

"Exactly... That's exactly how it is..."

A common refrain when I read Yamano's manga.

Years after his manga had stopped appearing in Garo in the 90s, one day Garo published a piece signed "Yamano + Nekojiru Mama". It was Nekojiru's debut.

The title: Nekojiru Udon.

A father cat barges into an udon shop holding a kitten in his mouth, and asks the udon seller to neuter the kitten. The udon seller is taken aback at first but finally grabs a knife and stabs kitty. Kitty dies. A customer walks in and places an order: "One kitty udon." The Udon seller perks up: "Comin' right up!" The end.

Cute cats doing gruesome things.

The characters were drawn with a wobbly, hesitant line that gave it a curiously powerful impact you didn't get from better drawn work. I remember being slightly dazed for a while after reading the manga.

"Wow, Yamano-san has started up again."

Right away I knew I wanted him to draw a crazy cat manga for my magazine, so I gave him a call.

Our meeting took place the next day in a cafe. He had brought his wife, whom he introduced.

She was thin, short, boyish. The type of character you'd expect to see in a Moto Hagio manga.

"Actually, that cat manga was drawn by Chiyomi (Nekojiru's real name), though I'm helping out a lot. It's a joint effort."

Nekojiru seemed a bit shy that day. But she left a good impression on me.

"My wife is usually pretty blunt with most people. She'll say it right to your face if she doesn't like you. So I just hope the meeting goes well..."

Despite his fears, Nekojiru and I hit it off right away.

We got together relatively frequently after that, but I don't remember seeing her wearing a skirt during the whole time I knew her. She probably didn't own one.

Plain was the perfect word to describe her.

Following her debut, Nekojiru quickly established a strong base of support among a handful of people in the industry. One music writer I knew told me, "I interviewed her once, and it was love at first sight."

Nekojiru was like a fragile little animal in need of someone to protect her.

But behind this endearingly feminine side lurked a curious darkness. Something strange and dangerous had taken root in the depths of her soul. I was speechless when I realized the chasm of opaque desire that separated us.

 

TAKING UP ARMS

"I want a knife."

Nekojiru occasionally mumbled this under her breath.

Nekojiru was apparently gripped by a compulsion to arm herself with a weapon.

She would stand there in her army jacket with a completely serious look on her face and say: "I want a knife." What she wanted, really, was something to protect her from the world.

Once I got to know her, I felt I understood better how she could have come to the point of wanting to arm herself with a weapon.

To Nekojiru, the world around her was a dangerous place full of awful and repellant people and things. She couldn't let her guard down for a moment, so she escaped into her own world. When even that wasn't enough, she wanted a knife.

There were a few other special things about Nekojiru.

She was unrelenting in her criticism of others to the point of selfishness.

She could hardly eat anything. No fish, no meat. At restaurants, she would only order soup.

Once when she came to our house, my wife offered her an avocado.

"Try it. It's good."

Nekojiru seemed mystified by the strange fruit.

"Itadakimasu."

Nekojiru took a bite of the avocado.

"Pffff."

A moment later, pieces of avocado were flying across the room.

*

Nekojiru was perfectly satisfied with food you could suck from a straw.

It's not that she was picky about food. She just didn't care about food.

In the end, she didn't care about living.

And, like my wife, she wasn't picky about gender in matters of love.

Nekojiru's first love was a young woman.

In her later years, she was on good terms with my wife.

We'd drop by her house often as newlyweds. It wasn't long until they were good friends.

We visited each other at home, and we talked on the phone.

You could sense that Nekojiru had only accepted my wife because of me. And to my wife, Nekojiru was like a family pet. She was constantly petting Nekojiru.

Seeing them glued to one another was prone to give rise to misunderstandings. They were like two young maidens in a film by Renoir - dazzling, beautiful, and erotic.

And now both of them are gone.

 

FLASH OF INTUITION

At one point I contracted Nekojiru to draw two pages of manga for a travel magazine I was editing.

I sensed it was best not to make too many demands, so I left it up to her to decide on the content. My sole request was for something in the vein of her debut; something with cats.

I was reassured by the knowledge that Yamano was in fact the co-creator and manager of the cat manga.

"After all this time I'm still amazed that she gave you the OK. Usually she never does." Yamano confided later.

Why Nekojiru gave me the OK, why she accepted me, I don't know. Usually she rejected anyone who approached her, and accepted only the people she had picked.

By some miracle, I was among the elect. Perhaps it was because we were both right-hemisphere types. Or perhaps because she sensed a kinship with me due to my childhood traumas.

I had some serious traumas regarding my relationship with my parents.

It was like Nekojiru's laser vision had bored right through my surface layers and into my soul.

That intuition impressed me. I was fortunate enough to bear witness to several other instances of her intuitive prowess as time went on, and came to look on her as something of a shaman.

*

One day I got up close and personal with the shaman in Nekojiru.

It was back when I was living in an apartment the north side of Tokyo, drowning in hard drugs every day. One day Nekojiru informed me:

"You'll be dead at 35."

I went completely pale.

Why am I going to be dead at 35? A drug overdose? A hit and run? I don't want to die.

I couldn't stop thinking about her ominous prediction.

She had seen the shadow of death hovering over me.

But her premonition, it turns out, had in fact been directed at herself.

Why did Nekojiru, a shy and antisocial person, warm to someone like me?

I also enjoyed talking to Nekojiru.

Nekojiru had almost no friends, and she spent most of her time alone. Exceptionally, she was friends with an Israeli stallholder. She couldn't speak a work of English, but they got along well.

Nekojiru didn't have any salaryman friends, and she didn't seem to want any. She was strict about acquaintances, and hard to please. For some reason, an Israeli stallholder and a freelance writer were OK.

When I asked her what she thought of the manga-ka Takeshi Nemoto, she was respectful:

"He's a sempai who draws interesting manga."

Not so much a friend as an elder she respected. Nemoto himself had a good eye for judging people, and he had seen her potential since even before her debut.

After her debut, as before, Nekojiru was unconcerned by the business side of her work. She had no interest in worldly ambitions like making money and getting famous.

But a humble woman she was not. I knew nobody as unpredictable or as selfish as Nekojiru. She knew exactly what she wanted, and took it.

Garo didn't pay for manuscripts, so anyone who drew for them knew not to expect remuneration.

Having only drawn for the pages of Garo, Nekojiru later confided that she was grateful to me because I was the first person who had paid her for her work.

I had become something of a big brother to her.

Yamano was a father and a mother to Nekojiru. She addressed Yamano as mom, and she addressed me as big brother.

We were like a real family.

It was short-lived, but it was real.

 

TRIP

Nekojiru, Masaaki Aoyama and Saki Tatsumi. All three knew one another. All three are gone.

I eventually asked Nekojiru to draw manga for Abunai 1-go, a magazine Aoyama and I edited.

That's where Nekojiru got to know Aoyama, which is what led to him writing the afterword of her book Nekojiru Dango.

However, that had been arranged by the publisher. Nekojiru knew Aoyama through me, but they were never close.

In the early 90s, Nekojiru still wasn't too busy, and she was able to work at her own pace.

At the time I was in the habit of going over to Nekojiru's house and spending the night listening to techno/trance music. After discovering techno music, we often went out dancing at dingy clubs frequented by foreigners, or to Goa trance rave parties. We really loved the scene.

I'd go over to Yamano's house and the three of us would spend the night talking and tripping to the music.

This was before Saki and I got married. Nekojiru and Saki would drink, I would smoke weed, and we'd spend the night "music-tripping".

At the beginning I had to explain everything to them: "This is dub. It evolved from reggae. It's perfect with ganja." or "This is German Trance. It's all weepy sounding, with tinny synth."

Wrapped up in ourselves, we sat around all day doing nothing, just listening to music.

Sudden barks of vacant laughter, followed by endless reams of useless music trivia, and talk about our favorite artists, life and death.

Time flowing before our eyes , we were passengers on a ship of time bathed in a rain of music, riding into the light.

Seen from the outside, we must have looked like a bunch of degenerates.

Fearful but confident, at one with the universe, filled with ecstasy, we spent psychedelic days and nights dancing as if possessed. Worries about the future disappeared momentarily.

Nekojiru was open to just about anything at the beginning, but soon enough she got to know the music and developed preferences - "I like the faster stuff" or "I like the more screechy sounding stuff".

Finally, after listening to various things, she said her favorites were Aphex Twin and Hallucinogen, a Goa trance unit.

Hallucinogen is one of the best Goa trance units for tripping to LSD.

The only drug Nekojiru did while listening to music was Jack Daniels.

She couldn't stand the more melodic, emotional, weepy types of music.

The music of one of my favorite artists, Jam El Mar, seemed to please her at first, with its drugged-out sound and complex musical structures, but she later did a 180 and said she hated it because it sounded too "gay".

Near the end we usually wound up listening to whatever Nekojiru wanted.

Goa trance being dance music, I would often move my arms to the music, and I remember Nekojiru staring and looking very amused whenever I did.

Nekojiru never danced. She was the kind who sat still and went into herself.

I remember once, when we were listening to music, Nekojiru was in a particularly good mood and gave me a gift of a religious painting she had bought while on vacation in India, even though she was fond of the picture. She could be generous that way. We used the painting for the back cover of issue 2 of "Abunai 1-go".

Nekojiru went on vacation to India in 1994. I had said I wanted to go with her, but I wasn't able to get time off, so she went alone with Yamano.

In Benares she saw holy men called Sado who would sit around all day smoking cannabis. "Why can't Japan be that laid back?" she asked me.

Nekojiru had never done drugs in Japan, but she tried cannabis in India and rather enjoyed its gentle intoxication.

 

PERSONAL LIFE

Unsurprisingly, the reason Nekojiru got together with Yamano was because of his work in Garo.

Nekojiru personally came knocking on his door and forced her way into his life.

She had just graduated from beauty college, so she was around 18 or 19.

Though practically a shut-in, Nekojiru had made up her mind that she wanted to help Yamano with his manga. The problem was, Nekojiru's drawings looked nothing like Yamano's. Yamano's manga was drawn in precise detail, but Nekojiru could only draw simple figures that looked amateurish, almost childish. But her drawings nevertheless had a mysterious appeal.

Yamano had sensed something special about her drawings, so on instinct he collaborated with her on a story, just to see what would happen. That was how Nekojiru's debut came about.

From that point on, every once in a while she drew new episodes in the Nekojiru Udon series, and I commissioned one-pagers and illustrations from her for my magazine.

This was in the early 90s, before she had to worry about deadlines.

The stories were about Nyatta and Nyako beating a dog for no reason, or seeing a homeless bum getting drunk on a bus, running to tell their dad, and the homeless bum puking on dad... I enjoyed them because they were true to Nekojiru's feelings.

The editors asked me to "make it more accessible," but I sensed that these cats had real potential to take off, so I let her do as she pleased.

Before becoming famous, Nekojiru lived an irregular lifestyle, staying awake for thirty hours at a time or sleeping all day. It must have wreaked havoc on her circadian rhythm.

Nekojiru had a cat. Her way of training her cat was a bit hard to stomach. When he did something he wasn't supposed to do, she lashed him with a whip. She sometimes used an amount of force with her cat that was clearly animal abuse. As a result, the cat didn't listen to Yamano or I, but never failed to follow Nekojiru's instructions.

*

Nekojiru could be surprisingly persistent when she wanted something or someone.

Usually nobody interested her, but when someone did, she was unstoppable.

"I once forced a guy I liked to take my student notebook," Nekojiru told me.

Her first target was the lead singer of the funk band EP-4, Kaoru Sato. The second was Yamano. Later in her life she even fell for Aphex Twin.

Looks were important to Nekojiru. Richard D. James, AKA Aphex Twin, though not handsome perhaps, has a sort of boyish good looks. His music was very personal - beautiful at times, violent at others. His music made you wonder, "How much of this is planned out, and how much of it is pure instinct?" It was playful and free, not to say random.

Nekojiru fell for Aphex Twin through his music. Her feelings had become quite serious by the time the Richard D James Album came out. In accordance with her testament, they were joined forever in Nekojiru's casket.

Though Nekojiru could be aggressively go-getter with people she liked, most people interested her no more than food did. Her disinterest was impartial - pop stars mattered no more to her than did fans of her work. She was unpleasant to everyone equally; pure in her selfishness. She liked few things, and expressed her feelings concisely and emphatically: "I don't care." "I don't like it."

Despite a recommendation from Hyde of L'arc-en-Ciel on the cover of one of Nekojiru's books and widespread suspicions of her suicide being a copycat of X-Japan lead singer hide's suicide, the fact was, Nekojiru wasn't interested in pop stars like them. She could be just as much of an idol worshipper as anyone, but her idols weren't the popular kind. She had her own clear set of preferences that had nothing to do with popularity or musical quality.

"I love Jack Daniels nya~~!" read a line in her manga. Nekojiru loved to drink.

Once when we were at a restaurant, Nekojiru got drunk, and when the owner brought out a dish of grilled sweetfish on the house, Nekojiru became furious and made a big scene because "We didn't ask for it."

Otherwise, things rarely got out of hand when we got together to drink at Nekojiru's place in the early 90s.

But by 1997-98, at the peak of her popularity, Nekojiru had started to drink heavily.

*

Nekojiru had one other defining trait.

She couldn't lie. It was physiologically impossible for her. That's why she said it loud and clear if she didn't like something.

Once we were eating with a friend at a sushi bar that we frequented because we often came up with interesting ideas there. As we sat quietly eating, suddenly Nekojiru blurted out, "This roe is disgusting. I bet it's fake!"

The noisy restaurant went dead silent. The cook stood rooted to the spot in front of us, knife hovering in the air in mid-chop. Taken aback and uncertain what to do, I froze up.

Once the initial shock had worn off, the cook was able to respond, "I can assure you it's real..."

To try to save the situation, I gave it a good laugh to try to pass it off as a joke.

Nekojiru was always honest - sometimes to the point of rudeness.

Once she called up the editor of a major magazine in the middle of the night to make the following request: "I want a different liaison."

"Why?" the editor asked.

"Because he's fat."

The editor couldn't believe his ears, so he asked again and again for the real reason, but she wouldn't give any other reason.

Without solid justification for doing something so drastic, the editor must have been quite put out. In the end, I think she got her request.

Nekojiru could be impulsive in an endearing way, but also self-centered. But she didn't do it to be mean. She didn't have anything against fat people. Her body seemed to experience a kind of sympathetic resonance and began to sweat uncontrollably whenever she was around them. She was unable to cope with the slightest stress that others could easily endure.

She was too sensitive.

I imagine the editors of the big publishing houses must have had their share of problems with her. Kid gloves must have been the order of the day.

Can't stand most people, gets depressed when she has to be around people she doesn't like... What a small-minded, unkind person she must have seemed from a distance.

Natural and ingenuous to the point of arrogance, Nekojiru was baptised the "Child Queen" by Yamano. The title fit her to a tee - pure and easily hurt, without the immune system to protect herself, yet haughty, turning her nose up at this and that.

After molding her environment in her own image, all that was left for her to do was to shut her eyes and turn inward.

 

I'M NOT AFRAID OF DEATH

Nekojiru had attempted to commit suicide in the past.

Like my wife Saki, Nekojiru was a proud woman with her own view of the world.

Saki was a left-hemisphere type: logical and thoughtful. Nekojiru was a right-hemisphere type: temperamental and turbulent. It was like she could see things other people couldn't. We may have gotten along because we were both right-hemisphere types with a schizophrenic streak.

Nekojiru's husband, Hajime Yamano, on the other hand, is level-headed, sensible, cool.

It comes as more of a surprise that someone like Yamano could have created the sort of deranged manga he has.

The creator of the more recent version of the manga, "Nekojiru y", is in fact none other than Yamano.

Yamano uses this name when he draws manga using Nekojiru's characters. Nekojiru y's manga may look like Nekojiru's manga on the surface, but underneath it's a world apart.

Nekojiru often got depressed and spent her time holed up in her room playing Final Fantasy.

I don't play video games, but I once played a fighting game with Nekojiru and she tore me to shreds. She laughed when she saw me getting irritated because I couldn't figure out the controls: "You're getting all mad!"

What caused Nekojiru to become closed in on herself?

I've given the question a lot of thought, and the best answer I can come up with is that it must have happened when she was living with her family. By the time I met her she was already completely shut off from the outside world.

Nekojiru was seeing a psychiatrist. She had been diagnosed as manic-depressive.

I remember her saying on several occasions, "I'm not afraid of death."

Near the end of the publishing bubble, between 1992 and 1994, sales were still pretty good. I had it easy, putting together books for fun, getting royalties on the sales, and then in turn using the royalties to have more fun.

Nekojiru was still free to work at her own pace, so there was a relaxed atmosphere about her work.

We got together more often to have fun than we did to discuss work. She never seemed depressed when she was with me, but she may have just been hiding it.

Things were going well and everybody was still alive, so it was a relatively happy time for us.

Listening to our favorite music, having a bit of fun with drugs every once in a while, chatting about everything and nothing... time flew by.

Around this time, dreams of making it big may even have taken root in Nekojiru.

Buoyed on the waves of the publishing bubble, Aoyama had his own small but intensely devoted following, and in a sense was the most successful of us all.

But there would come a time when Nekojiru would sell more books than even she could ever have imagined.

And that was the beginning of the end for Nekojiru.

 

NEKOJIRU FEVER

Suddenly in the mid-90s, Nekojiru's popularity took off.

The nation was swept by Nekojiru fever. The epithet abunakawaii was coined to describe the special appeal of her work: Cute + dangerous.

The simple forms of the characters must have been a big factor in the sudden popularity. I also believe that to a large extent her work was accepted only because of its naive, childish drawing style.

Abunakawaii. The perfect word to describe Nekojiru's manga.

It's particularly apt for the early works, with their innocent cruelty. Nekojiru herself even fit the bill, with her unfeigned innocence.

From one moment to the next, Nekojiru was a star. Gone were the days when we could spend all night chatting and listening to music.

Saki and I had married by that time, and Nekojiru and Yamano were so busy they didn't even have time to sleep.

With the sudden popularity came the need to produce her manga in large quantities, and that was something that was not in Nekojiru's character.

It now became a battle with deadline after deadline, and eventually she became overworked.

Work came no longer just from Garo but from Tokyo Electric Co. and everywhere inbetween. Asking someone to mass-produce what were essentially personal whimsies thrown off for fun was misguided and inherently impossible, but she managed to do it anyway. No doubt this was partly Nekojiru's attempt to ingratiate herself with the big magazines.

Neither Nekojiru nor Yamano could turn down work. They accepted everything that came. After years of scraping by, the logic of poverty had led them to the conclusion that it was wrong to turn down work. I remember thinking they should be a little more selective about the offers they accepted.

 

COLLABORATION

When we speak of the manga artist "Nekojiru", in fact we're referring to two people: Nekojiru herself, of course, but also her husband and collaborator, Hajime Yamano. You could summarize the situation by saying that the ideas of the right-brained Nekojiru were arranged in dramatic form by the left-brained Yamano.

For the most part, the stories are based on dreams or things actually seen by Nekojiru. When things seem a little too strange for reality, it's probably because they're based on one of her dreams.

The line between reality and dreams seemed blurred in Nekojiru's mind. This special way of seeing things is behind the unique version of the world in her stories.

The encounters with strange people in her stories were a mix of reality and fiction. Yamano surely helped to mold Nekojiru's ideas into concrete form, but the division of labor is not at all clear. Their collaboration consisted of the delicate tightrope act of translating the fragile madness of Nekojiru's ideas into a concrete form that anybody could understand. Like siamese twins, there's no way of saying where Nekojiru ends and Yamano begins. In every story by Nekojiru there's always more or less Yamano mixed in.

But some stories do seem more purely Nekojiru. I think it's fair to say that her unpaid early work for Garo or for me - the work collected in books like Nekojiru Udon and Jirujiru Nikki - is high proof Nekojiru. Here it's obvious she was coming up with the stories quite freely.

On the other hand, you can sense that Yamano must have done the great burden of the work in the stories that they started having to churn out in large quantities only a short time later. With new publishers came new restrictions, and the stories had to meet those restrictions. It gets particularly striking with serials like Neko no Kamisama, where it's clear how far they've had to go to accomodate the major publishers. The more they had to do so, the more effort Yamano had to make, so the more his style came to the fore.

Stories like Invisible, written by Yamano based on the dream notes left behind by Nekojiru after her suicide, are clearly more Yamano than Nekojiru. Though identical on the surface, Nekojiru and Nekojiru y are not the same. It's as if, shorn of his siamese twin after the death of Nekojiru, Yamano had continued to publish under the name of the half-entity Nekojiru y.

 

NATURAL ACID

Reading the collection of early works that is Nekojiru Udon could very easily become a traumatic experience for a delicate soul.

Two cat siblings go around randomly killing whatever rubs them the wrong way. Whatever they dislike, they kill. The cuteness of the cats lures us into accepting their casual cruelty. It's an outlook that seems to bespeak at the very least an ounce of self-hatred, if not outright hatred of the entire human race.

Whenever Nekojiru was talked about in the press, she was usually described in terms something like these: "A mangaka with a cult following for her manga featuring cute cat characters commiting casual acts of cruelty." Casual acts of cruelty. If you think about it, it begins to seem like a despaired expression of resignation in the face of death; as if she were saying to people, "We're all going to die anyway."

Suddenly the public goes crazy for Nekojiru's work because it's abunakawaii. Short of reducing her work to such a simplistic formula, how else could hundreds of thousands of people suddenly have wanted to associate themselves with a story with such a dangerous message? Rather than relating to Nekojiru's message of "We all die", clearly most people were simply reacting to the powerful aura emitted by her simply drawn characters. In the end that was the element that gained her a broad readership.

All of Nekojiru's early work has a the same uniquely "trippy" feeling. You could almost call it psychotic. I liked to refer to these early works as "Natural acid".

In a sense it feels like Nekojiru used her stories to play family. I don't know anything about her family, but she didn't give the impression of being a family person. It seems probable that the family in her stories wasn't based on her own family, but was a sort of ideal family that Nekojiru wished she could have had.

In all probability, the character Nyako was her, and the character Nyasuo was Yamano. Nekojiru did have a real younger brother, but it seems unlikely that Nyatta was based on him.

Nekojiru Kenbunroku (Nekojiru Travelogue), included in Nekojiru Shokudo (Nekojiru Diner), has Nekojiru travelling to various places and giving her impressions. In typical Nekojiru fashion, wherever she goes, she says it sucks. But the editors really do only send her to places that suck. It's like they're doing it deliberately to get her to say bad things.

Did they really think Nekojiru would enjoy going to a popular theme park?

Jirujiru Ryokoki - Indo Hen (Jirujiru Travelogue - India) more effectively channels Nekojiru's unique viewpoint onto a real situation, and is perhaps her most accessible book. It's a book I'm very fond of because it bursts with the romance of travel. She also drew an account of her experience of tasting banglassi (yogurt with cannabis) while in India.

The real Nekojiru comes through in her late book Jirujiru Nikki (Jirujiru Diary).

Many of the pages depict things supposedly seen by Nekojiru in her daily life, such as a woman shitting in the middle of the road. Sometimes you have to wonder if she really saw all of those things.

Perhaps they were things only Nekojiru could see.

 

THE LIQUID ROOM

On February 1, 1997, Nekojiru and I went to see Aphex Twin live in concert.

My memory of the event is as clear as if it had happened yesterday.

It was at the Liquid Room in Kabukicho, Shinjuku. The room was packed to the brim. There wasn't even room to move.

DJ Cylob was the opening band. I asked Nekojiru what she thought of the music.

"It sucks. Hurry up and get off the stage."

Unusually for the club, about a third of the audience was sitting on the ground. Nekojiru pushed and shoved her way to the front of the stage to be near the DJ booth. Little old Nekojiru was practically tackling these big guys, pushing them out of her way. Though small and frail, she could muster tremendous power when driven.

Finally Cylob left the DJ booth. Two songs from Mike (μ-sik) & Ritchie's album started playing on the speakers. Richard was on.

It's hard to say whether Aphex Twin's music is for dancing or for listening. The dance floor was split about evently between people dancing and sitting. There may even have been more sitting. Nekojiru was moving her body to the rhythm in the first row. Her eyes never left the DJ booth for a moment.

Richard, on the other hand, stood hunched over the turntable the whole time. His long hair fell down and covered his face during the entire performance. Fuck the audience, he seemed to be saying.

Two teddy bears were duking it out behind Richard throughout the show, a photo of Richard's face taped over their faces.

After about an hour Richard abruptly left the stage. Nekojiru immediately left her spot and walked over to where Yamano and I were sitting near the back of the room.

"I've had enough. Let's go."

The party was supposed to go all night, but Nekojiru wasn't interested in the other DJs.

"How was Richard?" I asked.

"I couldn't see his face the whole time, but it was nice. I liked the teddy bears."

Nekojiru was always like that - short sentences, to the point. She could sound curt if you didn't know her, but she was actually the emotional type. Coming from her, a comment like that meant something like, "OMG, it was so fucking amazing I almost wet myself!"

In other words, she had fun.

 

INFERNO

During the last few years of her life, Nekojiru's workload had increased to the point that she was really and truly overworked.

By this time it was no longer about drawing for fun; it was about making the deadline no matter what.

In books like Jirujiru Nikki and Neko Kamisama, Nekojiru often simply transcribed stories she'd heard from other people.

"I deleted a whole book's worth of data from my PC," I lamented to Nekojiru once. Later the story turned up, word for word, in Nekojiru's manga.

I once sent a part-timer to go on a company outing in my place because I was too busy, and as an omiyage he brought me a plastic pouch of dried seaweed - the regular kind you can find at corner stores everywhere, to sprinkle on breakfast, with five individually wrapped portions inside(!). That story also found its way into her manga, word for word.

Overworked, Nekojiru had run out of ideas. But she had deadlines to meet, and did the best she could manage. She had a strong sense of responsibility, and always found a way to come through in the end. More than once she found herself cornered by several deadlines and had to push herself to the brink of collapse to finish everything.

Once I was at my office late at night and I heard a knock on the door.

"Can I sleep here tonight?" an emaciated and exhausted-looking Yamano inquired.

"What happened?"

"Well..."

Yamano hesitated. Apparently Nekojiru had attacked him with a boxcutter in a fit of rage.

I had Yamano lie down on the couch and brought him a glass of water.

It was hard to break the awkward silence.

The phone rang. I picked it up. It was Nekojiru.

"I knew he'd be over there. Put Yasuo on the phone!" Yasuo was Yamano's real name.

"I can't. He's sleeping right now."

I tried to calm her down, but nothing worked. "Put Yasuo on the phone right now! He ran out on me, so go wake him up and put him on the phone!" She was furious. Her nerves were completely shot.

Things like this happened all the time when the work got overwhelming near deadlines. Two people working as closely as they did were bound to break under the tension sooner or later. Usually it started with Nekojiru having a fit of rage (or more accurately, physically attacking Yamano).

As I looked at Yamano splayed out on the couch, visions of Nekojiru "training" her cat, Nyansuke, danced before my eyes.

I refused to let Yamano go home out of fear for his safety.

Before long, dawn broke. The sparrows began singing and the newspaper delivery truck passed by outside.

Nekojiru must have calmed down by now.

Yamano finally went back home to Nekojiru. "Nekojiru needs me," he said as he left.

Looking back on it now, the root of all their problems was the poverty that convinced them that they had to accept every commission once their books began selling.

If they had been in a position to choose their work, Nekojiru might not have died so soon.

*

"You guys need to take a break."

One day in 1998, at a time when Nekojiru and Yamano were in the midst of their hardest periods, my wife Saki and I paid a visit to the Nekojiru residence.

It was about three weeks before Nekojiru's suicide.

We sat together relaxing, listening to music. Nekojiru had a pair of speakers especially made for techno music, in the shape of a dodecahedron with speakers on each face. The high-hat came through particularly clearly on these speakers.

Nekojiru said little and sat still, completely focused on the grating sound of the high-pitched techno. Yamano, exhausted from the long days and nights of work, seemed pained by the harsh sounds.

Concerned, I suggested, "Let's listen to this," and put on some ambient dub. Yamano seemed releived, but Nekojiru, who preferred faster, more aggressive music, seemed displeased by the more mellow music and sulked in her corner.

Already on edge from lack of sleep, the psychedelic trance only seemed to serve to put her more on edge.

Nekojiru seemed to be in an unusually bad mood that day.

Suddenly I became uneasy when I remembered how she was prone to saying, "I'm not afraid of death."

As we left that day, Yamano and Nekojiru watched us for a good while from the porch. I can still remember the pleading, spent expression on Yamano's face.

"Don't go! Stay a bit longer! Don't leave us alone!" his eyes seem to beg.

After we left, I suppose they went back to work.

But they were already at the end of the line.

 

PEACE IN DEATH

"Chiyomi is dead. She committed suicide. You were one of her few friends, so I wanted to tell you right away."

I learned of Nekojiru's death by a phone call from Yamano.

They discovered her late, and rigor mortis had already set in. I learned of her death only a few hours after she was discovered.

When we received the call, my wife and I were in Shinjuku and thinking of going to the Imax. Yamano's call was a shock.

Yamano did his best to remain calm.

In the back of our minds we all had the vague notion that this might happen one day, but we never imagined she would actually go through with it.

The movie was put on hold and we ran to Yamano.

At that moment I was more worried about Yamano than about Nekojiru. I couldn't imagine the shock of losing one's wife to death. At the time I thought the most important thing - more important than mourning Nekojiru's death - was taking care of the person left behind.

Nekojiru's expression was calm. There was no trace of suffering on her face. No trace of regrets, of clinging to life. She seemed completely at peace.

It made sense to me, but it was also slightly terrifying.

A CD and a video of Aphex Twin were placed in her casket.

Aphex Twin's Ambient Works II was played at her funeral.

Nekojiru had written to do so in her will.

Having attempted to commit suicide in the past, Nekojiru had written wills on a number of occasions. Her last extant will in fact dated from several years prior.

However, at Yamano's discretion, not everything was done according to her will.

Nekojiru didn't want a gravestone. Yamano thought her family would want a gravestone so that they could visit her grave, so he had one made. But as if in a last act of defiance, the gravestone remains nameless. A single Sanskrit character decorates Nekojiru's gravestone.

Yamano told me once what it meant, but I've forgotten.

One line in Nekojiru's will reads: "No discussion of possible motives."

Yamano has for the most part refused all interviews.

At the time, the sight of Yamano was so painful to me that I almost couldn't bear to look at him.

5 years later. To think that now I stand in his position...

 

THOSE WHO CHOOSE TO DIE AND THOSE WHO CHOOSE TO LIVE

Suicide hurts the people left behind.

Nothing can describe the pain, or erase it.

Yamano only managed to endure it.

As the "Nekojiru" unit became popular, they became increasingly busy, until they became as inseparable as siamese twins. Nothing could separate them. To separate them you would have had to rip them apart. To do so would be to discard them, and you don't just easily discard a human being.

For a couple in a relationship as close as Yamano and Nekojiru, the pain of losing that other half must have been unbearable.

After Nekojiru's death, the abandoned half of the unit continued to release work in the Nekojiru series under the pseudonym of "Nekojiru y". Nekojiru and Nekojiru y look identical on the surface, but deep down they're completely different. Not in the sense that the former was hand-drawn and analog where the latter is digitally drawn; but in philosophy. Nekojiru chose to die, and her work clearly reflects her longing for death.

Yamano chose to live. That difference is immense, and reflected in their work. Yamano's work is completely lacking in the dangerous, trancelike mood of Nekojiru's work.

Many readers may have discovered the world of Nekojiru through Yamano's work done following the death of his siamese twin, but those who read Nekojiru from the beginning may feel something is lacking in the new work. The longing for death is completely absent in the new work. It's what I suppose you would call "healthy".

Yamano has become healthy again. That's why he no longer draws the sort of vicious manga he used to draw. He's grown beyond negativity.

When my wife committed suicide six years later in the fall of 2003, I found a pillar of support in another person who had lost his wife to suicide: Yamano. He understood my feelings of instability at the time. As I was teetering on the edge of mental exhaustion, he pushed me in the right direction.

Yamano had managed to overcome. That was a great comfort.

 

KILL OR DIE

Nekojiru's suicide made big headlines.

Almost certainly in no small part because it came so soon after the death of hide of X-Japan, Nekojiru's suicide was also given superstar treatment.

On May 28, 1998, the Shukan Shincho weekly wrote:

"There has been idle speculation that her suicide might be a copycat of hide. However, as far as I know she wasn't a fan of hide. Besides, she wasn't the type to copy other people."

The person the manga magazine editor was referring to in this quote was the mangaka Nekojiru. His point: The only similarity was that both seemed to have a bright future ahead of them.

Nekojiru began drawing manga after marrying the mangaka Hajime Yamano. She quickly gained a reputation for her style of manga that succesfully breached the gap between cute kittens and cruelty. After handling a television ad for Tokyo Electric, she looked to be on her way up.

The editor continues, "As anyone will realize if just they read her manga, beneath the surface cuteness was a self-destructive, pessimistic attitude towards life and death. In recent work she dismissed the earth as bound for annihilation, and laughed about how she almost went out of her mind after eating a magic mushroom in Bali. She was clearly teetering on the brink."

If only we could all be as uninhibited as Nekojiru's cats...

What could have made Nekojiru want to die?

Overwork was certainly a factor. Dealing with the big publishers must also have been a source of stress. Then there's her predisposition for depression.

But it's impossible to disregard the obvious signs in her work: The recurring theme of death's inevitability; the obvious disregard for life.

Nekojiru was the purest person I knew. My wife called her "authentic". Pure, authentic, natural acid, psychotic, shamanic. Words that spring to mind when I think of Nekojiru. It must have been impossible for someone of her purity and innocence to live in this world.

In the eight short year that I knew her, Nekojiru didn't change the slightest bit in terms of appearance or behavior. Most women would grow from childhood into adulthood, but it was like Nekojiru refused to grow old.

They say sales of Nekojiru character goods exploded after her suicide. Dying made her a hit. Nekojiru probably wouldn't have cared one way or another.

In any case, the living can never know what motivated the dead to take their lives.

I'm surprised she even made it to the age of 31. If she lived as long as she did, it must have been because of Yamano.

In the end, she wanted to die, so she died. That's all we can say for sure.

No attachments to life: Endearing though this trait of Nekojiru's might have been in one sense, it was terrifying in another. I'm the kind of person who wants to live as long and as enjoyable a life as possible, so I've always been somewhat scared of people who aren't afraid of death. But Nekojiru had lived long enough. Apparently she no longer needed this world.

She wrung herself dry in a furious fit of work over the span of a few years, and went out in a puff of smoke. It's so elegant it's almost scary.

Perhaps she was trying to tell the world about herself in her books all this time.

Kill or die: Given only one choice, the answer was obvious.

 

MEMORIES OF A RAVE

I'll never forget this memory of Nekojiru.

At a rave once I collapsed due to a combination of exhaustion and drug overdose. I needed an ambulance.

Seeing that I could barely stand, Nekojiru called the ambulance, made sure I got on safely, and waited worriedly for me until I came back from the hospital.

Other friends who had accompanied me to the rave, including Masaki Aoyama and Osamu Tsurumi, had disappeared by then, presumably fearing possible arrest.

Nekojiru wasn't afraid of dying, but she was afraid of a friend dying. She was selfish but caring.

Together we left the rave and joined Yamano at an onsen.

As I returned to my senses lying on the floor of a private room in the onsen, I was thankful to be alive, but also incredibly lonely. Tears began rolling down my cheeks. It's embarrassing to admit, but I couldn't stop crying.

"Why are you crying?" Nekojiru came to my side and asked with a worried expression. She stayed by my side for a while.

Perhaps she thought I might commit suicide if she didn't stay by my side.

"Are you all right?"

I had my arms over my face so I couldn't answer.

How could you have done something like that to yourself when you could be so caring about others?

I ask Nekojiru and I ask my wife.

How could you leave behind the people you cared for?

Part of me doesn't want to accept the selfishness of their act.

Nekojiru suddenly found her books selling. She probably didn't want to, but she had to accept all of the commissions that came her way. She worked hard and probably made a lot of money. But she didn't care about the money. She cared just as little about life. She predicted I would die at 35. Perhaps that's why she liked me - because she sensed in me another soul on the verge of death.

But I just act crazy. I don't want to die.

 

Translated from Jisatsu Sarechatta Boku 自殺されちゃった僕 by Yoshinaga Yoshiaki 吉永嘉明 (11/25/2004, Asuka Shinsha), a book describing in simple, direct words three of the author's acquaintances who commited suicide within the last seven years: Nekojiru, Masaaki Aoyama, and his wife.

つげ義春インタビュー「なんてつまらない人生なんだ、と思うこともあります。このまま終わってしまっていい」

「漫画家のつげ義春さん(現代の肖像)」

なんてつまらない人生なんだ、と思うこともあります

ねじ式」「紅い花」から20余年。

三たびブームである。生と死への不安漂う作風が、若い世代の心をとらえる。

(文・佐野眞一

───今度、映画になった「無能の人」シリーズが雑誌に発表されたのは1985~86年。87年は自伝的要素の強い「海へ」と「別離」の2作だけですから、随分、長い休筆ですね。

目が悪いんです。ふだんの生活に支障はないんですが、集中すると、目の中に花火のようなものがチラついて、とてもマンガが書けるような状態ではないんです

 

───われわれは作品を通じて、つげさんの日常を想像するほかありません。実際には、1日をどう過ごされているんですか。

朝10時半頃に起きて、近くの市民プールに行きます。不安神経症をなおすため医者にすすめられたもので、もう10年以上続いています。午後は多摩川の近辺を自転車で散歩して、夜はボーッとしています。新宿に出るのは1年に1回くらいです。大体、外への関心というものが全くないんです

 

調布駅前の喫茶店の昼下がり、暗血色のマフラーで顔の下半分を覆ったつげ義春(よしはる)が、ボソボソとしゃべっている。反対側で私は、初めて会うつげの話をうなずきながら聞いている。いくつかの作品が点滅し、突然、あらぬ妄想がやってくる。いま目の前にいるのは現実のつげではなく、作品が実像として立ち現れた姿なのではないか……。

 

───「無能の人」はつげ作品としては、初めての映画化ですが、よく映画化を許諾しましたね。

話があった頃、息子が高校受験だったんです。もし私立に行くとなると、まとまったお金がいります。原作料が丁度、その額と同じぐらいだったから、お受けすることにしたんです

 

東京の川べりの船宿で生まれた父の末期を見て対人恐怖症になった

───そのお金のことですが、マンガも文章も書いていないとなると、生活費はどうされているんですか。

ひと月の生活費は17万円と決めています。ムダな出費はしないよう、昔から肝に銘じているんです。団地のローンも月に2万円くらいですので、親子3人、どうにか印税収入でやっていけているんです

 

床屋にも行かず、散髪は状況劇場元女優で妻の藤原マキの仕事である。つげは、畳の上に散らばった髪の毛を眺めては、これをなんとか金にかえる方法はないものだろうか、とぼんやり夢想することがあるという。

なんてつまらない人生なんだ、と思うこともあります。創作も大それたものとは考えていません。自分の生活が支えていければいいんです。マンガ以上に、外の社会とはずれる商売はないか、と毎日考えているんです

 

重くゆっくりした声は語尾にくると、水に沈んだように、くぐもって尾を引く。内語をもどかしげに伝える、吃音者の努力にも似たその口調には、相手を気がねさせまいとする神経がめぐらされ、痛々しいほどである。

昔のマンガ家仲間は「あんなやさしい人は見たことがない。つげさんが結婚したとき軽い嫉妬を感じた」と述懐したが、それが素直に実感できた。

ぶしつけな質問に、時に眉根をピクリとさせるものの、内面に向かって靄ったような切れ長の目に、すぐ戻っていく。この人のガラスのような感受性は被弾しても外には飛び散らず、1枚残らず内側に突き刺さるのだろう。

1968年、『ガロ』発表の「ねじ式」で衝撃的な登場をしたつげ義春は、その後のマンガ文庫ブームで再度脚光は浴びたものの、その存在はそれ以降、大方の記憶から消えていた。

昨年公開された竹中直人監督の映画「無能の人」の、アンコール封切されるほどの人気や、やはり昨年出版された紀行文集『貧困旅行記』の、発売後3カ月足らずで8刷、4万7000部という好調な売れ行きは、記憶の彼方から三たび、つげをひっぱり出す牽引車の役目を果たした。

第3次つげブームともいうべきこの現象の特徴は、かつて「ねじ式」に熱狂した全共闘世代だけではなく、20代、10代の若者たちにも支えられていることである。

漫画評論家梶井純は、多摩川の河原で拾ってきた石を売る男や、鄙びた安宿を探して旅をする男の話に若い世代が共感するのは、彼らが前行世代ほど経済第一主義に汚染されずに済んだためではないかという。つげ自身は棒杭のように変わらず、そのまわりを去来する時代という川の流れが変わったことが、今回のブームの背景をなしている、というのである。

途切れたと思えばまたつづく、こうしたつげ読者の流れは、つげが私小説家的素質を濃厚にもったマンガ家であることとも無縁ではない。熱心なつげの読者は、彼の作品と同時に、つげ義春という、いささか現世ばなれした物語も読んでいるのである。

だからこそ、作品の舞台となった土地を探索して歩く、つげ義春研究会なるものが結成され、貸本マンガ家時代の処女作に30万円という高値がつき、一時は年収90万円の時代もあった超寡作に比して、数十倍にもなるほどの評論が書かれてきたのであろう。

だが、一見私小説的なつげの作品は、当然のことながら、自分の過去や、日常生活を単純になぞっただけのものではない。自伝風作品と並んで彼の主要ジャンルをなす、旅もの、夢ものといわれる異空間、異時間に迷いこんだ作品が、つげの作品全般に重層感と深度を彫りこみ、読む者に、恐怖にも郷愁にも通底する既視感を与えている。

いわばつげは、私小説という伝統的手法を借りながら、異常とも思える抽象力で、その手法自体を宙づりにさせている。そして、この抽象力という喩の力は、彼の出自、とりわけ、水のたゆたいのなかで生まれ、幼児期を海と川の辺で過ごした遠い水の記憶が、おそらく大きな源泉となっている。

つげは1937年10月、東京・葛飾区立石の中川べりの船宿で生まれた。父の柘植一郎は岐阜県恵那市の出身の板前で、名古屋の割烹旅館で修業中、同じ旅館に働いていた母・ますと知り合った。豪農一族の父方は家柄の違いを理由にこの結婚に反対し、2人は棍棒や竹槍で山狩り同然に追われたあげく、伊豆の大島に難を逃れた。

つげが生まれたのは両親が一時避難的に住み込んだ大島の旅館を離れ、福島県の四倉で寿司屋を開いたものの失敗、失意のまま再び大島に戻る旅の途上だった。つげを産んだ中川べりの船宿は、母の実父の家で、大島に戻る途中産気づいた母が、産屋がわりに借りたものだった。

大島では4歳まで過ごし、その後1年は母の郷里の千葉県・大原で暮らした。夏は氷屋、冬はおでん屋で生計を支えた母は、目の前の海につげを連れて行き、よく自分の背中につげを乗せて泳いだ。つげのなかに残る最も古い海の記憶はこのときのものである。

 

小学校卒業後、メッキ工場へ貸本マンガを描き始める

父は当時、東京・渋谷の旅館に出稼ぎ奉公に出ており、つげとはめったに顔をあわすことがなかった。その父はつげが5歳の時に死ぬ。つげはそのときの光景を今でも恐怖感をもって思い出すことがある。

死の直前、錯乱状態をきたした父は、出稼ぎ先の薄暗い蒲団部屋に隔離され、長く伸びた爪で中空を掻くような仕草をし、蒲団の間でしゃがんだまま息を引きとった。母は「これが父ちゃんだよ。よく見ておくんだよ」と、絶叫しながら、末期の父の前につげを引きずるようにして立たせた。

「人間が一番こわい」というつげの恐怖感は、たぶん、幼児期のこのただならぬ体験に始源を発している。

父の死後、母と、つげを間にはさんだ3人の兄弟は、つげを産み落とした葛飾区に移った。一家は京成立石駅近くの廃墟のような家に無断で住みつき、母はすぐ近くの闇市で2坪の居酒屋を開いた。だが、そんな収入では一家の生活を支えられるはずもなく、つげは小学校5年生時分から、兄と一緒に駅前でアイスキャンデーを売る生活を余儀なくされた。

経済的貧困以上につげを怯えさせたのは、母と再婚した義父の冷酷な仕打ちだった。近所の中華ソバ屋に住み込んで働きだしたのも、家に帰りたくない一心からだった。

対人恐怖症はいよいよ募り、小学校6年の運動会直前、みんなの前で走るのが急に怖くなり、カミソリで自分の足の裏を切った。つげを慰藉してくれたのは、人に会わないで済むマンガ模写への耽溺と、突然現れた養祖父の溺愛だけだった。だが、その養祖父は間もなく浜の網を盗んだ容疑を受け、つげの前から姿を消した。つげにとって新しい事態の出来は、いつも厄災をはらんでいた。

やがて母と義父との間に2人の妹が生まれ、一家7人は貧窮にあえいだ。本田小学校を卒業後、中学には進まず、兄とともにメッキ工場に働きにでたものの、経済的困窮と、家の中のいさかいは深刻さを増す一方だった。

その重圧に堪え切れず、つげは2度も密航を企てた。結局失敗に終わるが、この企てには、父母との平穏な生活の記憶に結びつく海への回帰のイメージが隠喩されているような気がしてならない。

この時つげが折檻のため預けられたのは、自分の産屋でもある中川べりの祖父の船宿だった。つげは、その近くにある繋留船の家が死者を弔わず、そのまま川に流した、と叔父から聞かされ、激しい恐怖心を覚えた。つげは幼年期のすべてを、生と死のイメージが浮遊する水のまにまにおくるのである。

「紅い花」にしろ「山椒魚」にしろ、つげの作品はどれも、水への偏愛と、それゆえの忌避が遠い心音となっている。

つげの原風景となった立石駅周辺から、中川べりまで歩いてみた。川はすぐ近くを流れているはずなのに、白茶けて、くねくねと曲がりくねった迷路のような細い道は、なかなか川岸にたどりつこうとしない。

角を曲がると夏ミカンの実がなる黒塀囲いの家が現れ、次の角を曲がると日の丸の旗を出したタイル造りのタバコ屋が現れる。水神社と碑のある小さな社の横の苔むした石段をあがると、やっと、思わぬ近さで、大きく蛇行する黒い川の流れが飛びこんでくる。

遠近法が全くきかないこの風景に強い既視感を覚えたのは、私がこの街のすぐ近くに住んだことがあるという個人的事情以上に、それがつげの描く世界そのものだったせいだろう。ここでは風景全体を中心でひきしぼる焦点はなく、個々の景物は互いに折り重なるように畳み込まれている。

つげの弟で、やはり寡作のマンガ家として一部に熱狂的ファンをもつつげ忠男がかつて働いていた血液銀行の建物も、ゴム工場に目隠しされるように、今もこの川べりに残っている。

忠男はここで採血ビンを洗浄し、売血者が少なくなってからは、産院から引き取った胞衣や胎児を出刃包丁で切り刻み、肉片から血液をしぼりとる仕事までやった。その血液銀行に、つげは弟に顔を合わせぬようにして通い、売血で当座の糧を得た。

当時つげは立石の家を出、錦糸町の運河沿いの3畳間のアパートで貸本マンガを細々と描いていた。対人恐怖症は進行し、谷崎潤一郎やポーの小説を耽読することで、自殺を思いつめるほどの不安をどうにかしのいでいた。

「女を知れば度胸が出るかも知れない」と思い、自転車で立石駅裏の赤線に行ったこともあった。この時の体験はつげの「断片的回想記」に書かれているが、ここにはすでに、つげ作品の基本韻律がはっきりと刻まれている。

外に出ると急に勇気が湧いてきたように思えた。附近の中川の土手を無茶苦茶に自転車を走らせた。そして川べりで仰向けになっていると、嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。数日して、また彼女に逢いに行ったら、そのときは、他の客がついていた。胸が張裂けそうな思いだった。それから二度と赤線へは行かなかった

 

───つげさんの世界が確立したのは、『ガロ』66年2月号の「沼」だと思います。雁を撃ちにきた少年とオカッパの美少女の一夜を描いた幻想的な作品で全編に思春期特有のエロチシズムへの憧れと恐怖が漲っている。明らかにそれまでの作品とは異質です。心境の変化があったとしか思えません。

それはよく聞かれるんです。でも、自分でも答えが出ないんです。それにあの作品は不評で、マンガ家をやめて凸版印刷の職工になろうと真剣に考えたくらいなんです

 

「沼」の舞台となった大多喜は、母方の郷里の大原からいすみ鉄道に乗り、40分ほど行った隠れ里のような城下町である。両側に小暗い森の広がる切り通しの軌道をゴトゴト走っていると、入眠体験にも似た甘美な幻想におそわれる。緑の蛇のような夷隅川の細い流れが、線路脇に現れては消える。

ここは白土三平の釣りの常宿で、白土が「つげを励ましてやろう」と誘ったのが、最初のきっかけだった。

 

初期の作品は難解だと酷評された 水木しげるの助手で生計をたてた

ここでつげは、大原八幡岬の白い波頭が歯を剥く海の叙情とも、期限切れの血液の放流で深夜、真赤に染まる中川のよどみの情念とも違う水の姿態に出会った。ゆるやかに蛇行し、瀬で沼のような深い瀞をなす夷隅川の景観は、つげに、静逸という水の新たな隠喩を注いだ。

それだけではない。『ガロ』元編集長の長井勝一によれば、同誌の初期資金はすべて白土三平がまかない、白土は自分の「カムイ伝」の原稿料もとらず、つげら仲間に回していたという。

その白土が宿代も全額負担してくれた約1カ月の大多喜滞在は、つげにとってあらかじめ喪失されていた父性への渇望を、たとえかりそめの形であれいやしてくれたに違いない。

だが、大多喜で生まれた数編の安定感ある作品は、難解、文学的と酷評され、つげは、「ゲゲゲの鬼太郎」の人気で忙しくなった水木しげるのアシスタントとして、1日2000円のアルバイト料で長らく糊口をしのがなければならなかった。

この頃書かれた作品は、マンガ家であるより作中人物になってしまいたいという切実感がにじみ、読むのがせつない。貸本時代の仲間によれば、つげは自分の失恋体験を、絵まで描き、倦まず語ることがよくあったという。

水木プロ時代の蒸発も、自分以外のものへの逸走衝動の現れだった。

『貧困旅行記』のなかに、この出来事を回想したすごい文章がある。

現在は妻も子もあり日々平穏なのだが、私は何処からかやって来て、今も蒸発を続行しているのかもしれない

孤独と絶望からの救済を自己滅却に希求する。同じ志向は実際にみた夢に題材をとった作品への傾斜にもみられ、この分野の傑作「必殺するめ固め」では、未生の自分に戻る胎内回帰願望すらつき破り、胎盤の毛細血管の中にまでもぐりこむDNA的世界が表象化されている。

 

───不安神経症の方は少しはいいんですか。

よくないんです。毎日漢方薬を煎じて飲んでいるんです。子供にも飲ませているんです

 

15年前、妻の癌がわかった時、つげは、空に浮かんだ巨大な目が、じーっと自分を見ている幻想に怯やかされ続けた。

変化があることがこわいんです。変化はいつも不吉な知らせなんです

 

空中の巨大な目。それ自体がもう、つげの作品世界である。つげをよく知る編集者によれば、つげは世評ほど寡作ではなく、かなりの数の作品を構想途中で破棄しているという。

散歩の途中、ふと廃屋に気がつく。なかに入っていくと、机の端に万力がくくりつけられ、間に真赤な金魚がはさみこまれている。男はわれ知らずハンドルに手をかけ、まだ生あたたかい金魚に力を加えてゆく……。「万力のある家」と題されたこの短編も、未生のまま放置された作品の1つである。

 

───「無能の人」の子供は実に悲惨な顔をしてますね。自分の子供時代の過酷な体験が投影されていませんか。

子供を見ると不憫でならないんです。だから自分の子供を溺愛してしまうんです。子供がひどく内向的になったのも、甘やかしすぎた僕の責任だと思っているんです

 

いつもの散歩コースの多摩川土手に自転車でやってきたつげは、新聞もテレビも天気予報以外見ません、ヒマにみえますが、アレルギー体質の一人息子用にチラシで見た防ダニ蒲団を買いに行ったり、結構忙しいんです、と、相変わらずの誠実さで答えつづけた。

糠雨に煙る川面から夜の気配が漂いだし、対岸のマンションの明かりがひんやりとした外気ににじみはじめる。

もう、妻と子供が待つ団地に帰る時間である。そこは、対人恐怖への理解と慰藉が待つ安寧の場所であり、それと引きかえに得た生活の煩悶から離脱する衝動を監視する、桎梏の場所でもある。

自分自身が物語そのものだったら、どんなによかったろう。

自転車のスタンドを外してペダルを踏みこむと、つげは、宵闇が濃さと冷気をます土手下の道を、材木のような長身をまっすぐに立て、小さな至福と大きな不安が待つ世界に吸いこまれるように走り去って行った。

(文中敬称略)

さの・しんいち

1947年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。著書に『業界紙諸君』『紙の中の黙示録』『昭和虚人伝』など。このインタビューはアエラ』1992年3月10日号に掲載された。

 

「必殺するめ固め」のつげ義春さん 内なる不条理漫画に託す

つげ漫画のファンには楽しみな本が出た。「夢の散歩」以来六年ぶりの作品集。昭和50~55年に発表された12編を集めている。年平均2編という相変わらずの寡作である。

ええ、なまけ者なんでしょうね。経済的に追い詰められないと描けない悪いクセがあるんです。ことにこの1年ほどは、精神のバランスを崩してしまい、仕事がつらかった

神秘的な漫画家、とさえ言われるつげさんだが、その目も語り口もあくまで穏やかだ。

代表作の「紅い花」「ねじ式」「沼」など、暗い情念を主調にする不条理漫画が若い世代に鮮烈な一撃を与えたのは、大学紛争に象徴される昭和40年代初め。漫画=芸術論争に知識人が熱くなったのも、つげ作品がきっかけだった。以来10年―。時代も漫画も変わったが、つげさんは同じものにこだわり続ける。

ひとが生きていることの不確かさ、その不安感とでもいうのでしょうか。ボクの関心はそこにしかない。外の世界への興味はありません。作品の中に社会的な広がりがあるとしても、それはボクの潜在意識の中で内化された社会なのでしょうね」。

そして、存在することの不安を、最も鋭いイメージで示してくれるのが夢という。作品集のほとんどの作品は、実際に見た夢を描いている。明確なストーリーのない作品も多いが、得体の知れない不安感が色濃く漂う。

夢はボクにとって(現実の)体験以上に強烈です」というつげさんは、進駐軍兵士に追われて必死に逃げる夢をよく見る。今度の本で最も好きだという「窓の手」は、そうした夢を5年間も発酵させた作品だ。

精神の健康もほぼ回復し、「ボクも43歳、年相応に自然の風物などを淡々と描いてみたい」という。東京・調布市の緑に囲まれた団地の3DK。わきで息子さんが積み木遊びに余念がなかった。

(読売新聞・東京朝刊 1981年6月8日号)

 

水木しげるさんを悼む 葛藤、悩み、本棚には哲学書 つげ義春

水木しげるさんが亡くなられたということは、大変なことで、しかも突然で、うまく言葉で言い表すことができません。

私が、水木さんのアシスタントを務めていたのは、水木さんがすごく忙しかった1960年代後半の4〜5年だった。当時、掲載していた雑誌「ガロ」の編集部からお願いされて、1か月に4、5回、手伝いに行くようになった。雑誌への掲載と、水木さんの手伝いで私の生活は成り立っていた。水木さんは無口で、私的な会話をした記憶はほとんどない。ただ、水木さんの本棚に哲学書がいっぱいあるのを見た時、驚いた。テレビなどでは、とぼけたところや、変人みたいな態度を取っていたけれども、内面はそうではなく、葛藤や悩みがたくさんあったのではないかと思った。その解決を、哲学書などに求めていたのではないでしょうか。

水木しげるさんと私の家は同じ東京都調布市にあるが、線路を挟んで、水木さんは北、私は南に住んでいる。歩けばわずか15分くらいなのだが、私たちを線路が分断しているみたいで、それを越えていくことがなぜかできなかった。

最後に会ったのは、4、5年前。水木さんの家の近くの神社で開かれていた骨董(こっとう)市の近くでばったり会った。そのとき、水木さんが「つまらんでしょう」と言ってきた。私も話を合わせるために「つまらないですね」と応じた。すると、水木さんは「やっぱり」と弾むように言った。会話はそれだけだったが、水木さんがそう言ったことの意味は何となく分かった。大人気になり、大家になったけど、内心では自分の人生はつまらないと思っていたところがあったのではないか。長い人生を、納得せず、常に悩みを持ち続けておられたのだと思う。(漫画家、談)

(読売新聞・東京朝刊 2015年12月1日号)

 

日本漫画家協会賞・大賞 つげ義春さん 空想と現実の間に漂う

◆「生活くさい漫画を描きたかった」「このまま終わってしまっていい

新作は30年前から描いていない。だが「ねじ式」「無能の人」といった作品が与えた衝撃はいまだに大きい。今月9日、第46回日本漫画家協会賞コミック部門の大賞に漫画家のつげ義春さん(79)の一連の作品が選ばれた。表舞台にほとんど出てこない伝説的漫画家が電話インタビューに応じ、創作の原点について語った。(文化部 川床弥生)

<ぼくはたまたまこの海辺に泳ぎに来てメメクラゲに左腕を噛(か)まれてしまったのだ>

1968年に発表した代表作「ねじ式」は、左腕の静脈が切れてしまった男が医者を探し回る幻想的な物語。最終的に女医にねじで血管をつないでもらうことになる。

説明するのが難しくて発売当時も話題になりました。しっかりしたテーマをつかんで描いたものではないんです。見た夢をヒントに、想像と混ぜたんですね

 空想と現実が入り混じった独特の世界観の作品が数多く生まれた背景には、雑誌「ガロ」の存在が大きいという。

 幼い頃は、手塚治虫のまねから始め、小学校を卒業後、メッキ工場や、新聞販売店などで働いた。17歳で漫画家デビュー。だが2、3年で、当時の人気漫画の主流だった空想冒険活劇に物足りなさを感じ始める。

早く働きに出て、現実の生活を見ていますから。生活くさい部分を持った作品を描きたいと、だんだんリアリズムを求めるようになりました

「ガロ」では自由に描かせてもらえた。「娯楽物から脱却して、自分なりに質のいいものを表現したいと」。一瞬のひらめきで思いついたという「紅(あか)い花」(1967年)は、少女が大人に成長する様子を川を流れていく花で表現し、女性からも高い支持を得た。売れない漫画家の日常を描いた「無能の人」(85年)はお気に入りの一つだ。

緻密(ちみつ)で不思議な美しい背景は、映画雑誌に掲載された写真を模写したり、自身が旅行した時に撮影した写真を描き写したりした。

ラストはあえて曖昧にして、読者の想像をかきたてる作品が多い。「まとまり過ぎちゃって終わるのは面白くない」。幻想の世界を描いてきたが、源流にあるのはやはりリアリズム。「現実から浮き上がりすぎた漫画はつまらないと思うんです

87年に発表した「別離」を最後に、漫画は描いていない。病気の妻を看病するため中断し、以後、創作意欲が戻らなかったという。現在は長男と2人暮らしで、生活に追われる日々だ。これまで描いてきた原画や道具も押し入れにしまったまま。「ありがたいことに作品が繰り返し再版されるので、何とか食いつないでいます」。唯一読む漫画は、数年に一度発行される「表現にこだわり、現実を描く」漫画家たちの作品を集めた単行本のみだ。

今回の大賞受賞は「漫画界の中でも異色の存在で、その作品世界は芸術性も高く追随を許さない」が理由だ。以前から作品に対する評価は高かったが、意外にも賞を取るのは初めて。「一作一作、一生懸命やってきたつもりなのでうれしい」と喜ぶ。

気になるのは新作の可能性だが、「今後も描くということは考えておりませんし、このまま終わってしまっていいと思っています」。

 (読売新聞・東京朝刊 2017年5月18日号)