Underground Magazine Archives

雑誌周辺文化研究互助

不幸の原因と不幸にならない対処法ーラッセル『幸福論』から

不幸の原因とは何か(ゼミの報告書より)

今回は1930年刊行の『幸福論』(岩波文庫、1991年、安藤貞雄訳)から「不幸の原因と不幸にならない対処法」について発表された*1。著者のバートランド・ラッセル(1872年–1970年)は、論理学者、数学者、社会批評家、政治活動家、平和活動家としての顔も持ち、それぞれの分野で多大な功績を残した現代イギリスを代表する思想家である。

彼が58歳の時に著した『幸福論』はヒルティ、アランのそれと並び「世界三大幸福論」のひとつに数えられる名著で、本書は全17章2部構成からなり、1部で「不幸の原因」を、2部で「幸福をもたらすもの」についてを、ジョン・ロックの大成した経験主義*2の立場に沿って、具体的経験をもとに議論が展開されている。

今回の発表では各章で述べられた「不幸の原因分析」と、その「解決策」についてそれぞれ論じられている。

 1「バイロン風の不幸」

まず1つ目に、不幸の原因として「バイロン風の不幸」が取り上げられた。

この不幸の原因は、理性によって厭世的になってしまうことで、つまり自分で勝手に不幸な世界観を理性によって築き上げ、ひたすら悲観主義的(ペシミズムとも)な思いに走ってしまうことにあるという*3

ちなみにラッセルは「どうしても行動を起こさなければならない必要に迫られた」ことによって、空虚的な気分から脱出した経験があるといい、不幸のループに陥った時には内的な「自己没頭」を繰り返すのでなく「外的な訓練」こそ「幸福に至る唯一の道」であると述べている。

 2「競争」

2つめの不幸の原因として「競争」が挙げられる。なお、地位や名声、富を得るため、ある程度の「競争」をすることは幸福をもたらすが、それがある一点を超えたところで不幸になるとした。なぜなら、成功は競争の一要素でしかなく、その競争に他の要素を全て犠牲してしまうからだ。

ラッセルは人生の主要目的としての競争を「あまりにも冷酷で、あまりにも執拗で、あまりにも肩ひじはった、ひたむきな意志を要する生き様」として捉え、「余暇すら退屈に思えてリラックスすることも出来なくなり、薬物に頼っては健康を害するだろう」と結論付けた。これに対する治療法はひとえに「人生のバランスを取る」ことである。

 3「退屈と興奮」

3つ目の不幸の原因は「退屈と興奮」である。人は現状と理想を対比しては、ひたすら退屈に感じ、それとは逆に興奮を求める(なお、求愛行為や戦争も興奮のうちに含まれる)。しかし、過度の刺激を求める事にはキリが無い。

ラッセルは「いくら偉大な人物や書物にも退屈な期間や部分が含まれている」として、ある程度「退屈を味わう、または楽しむ」ことを主張した。なお、人は「退屈」という感情そのものに否定的な先入観を抱いており、そうした当然の意識から脱却して目の前のことに楽しみを見いだすことが解決策となる。

 4「疲れ」

4つ目の不幸の原因は「疲れ」である。なお、運動による体の疲れは、ある程度の幸福感をもたらし、休めば充分回復するので、ここではあまり重視されない。問題は神経の疲れである。この疲れの多くは「心配」からくるもので、何も打つべきことが出来ないにも関わらず、あれこれひどく思い悩んで疲れを引きずる、といったものだ。

こういう場合の解決策としてラッセルは、心配事を四六時中不十分に考えるのでなく、「考えるべき時に十分考えて」から決断し、それ以上の優柔不断をやめることを示した。次にラッセルは悩みを宇宙規模で考えることで、悩みの原因となる事柄がいかにつまらないことかを悟ることができ、疲れの原因となる心配事が減らせると解説している。

ラッセルいわく「講演で上手にしゃべろうと下手にしゃべろうと、どのみち宇宙に大きな変化はない、と感じるよう自分に教え込んだ」ことで「下手にしゃべることが減り、神経の緊張もほぼ消滅した」という*4

 5「ねたみ」

5つ目の不幸の原因は、人間の情念の中で最も普遍的で根深いもののひとつであるとされる「ねたみ」である。この「ねたみ」が人間を不幸にするのは「自分の持っているものから喜びを引き出すかわりに、他人の持っているものから苦しみを引き出しているため」と本書では説明される。これの解決策として、「世の中には上には上がいるのを自覚し、比較はやめて無益なことは考えない」「不必要な謙遜はねたみを持ちやすいのでやめる」「今置かれている状況を明一杯楽しむ」ことをラッセルは推奨している。

 6「罪の意識」

6つ目の不幸の原因は、子供の頃に形成された「罪の意識」に、大人になっても無意識的に縛られることである。これについてラッセルは「幼児期の道徳教育」の中に原因があると指摘している。例えば幼少期に親のしつけなどで、何らかの遊びを禁じられると、大人になってからも、その行いに罪を無意識のうちに感じ、自身を束縛・抑圧することがこれに当てはまる。これを克服するには、「無意識まで浸透した合理的で裏付けのない教えを、無意識的に働きかけることで、意識的な考えを支配している合理的な信念に注目させる」ことが挙げられる。つまり、理性によって精神を無意識のレベルまで統一することで、無意識下にある「罪の意識」も払拭させることが望まれるわけである*5

 7「被害妄想」

7つ目の不幸の原因は、おおよその人が多かれ少なかれ患っているといわれる「被害妄想」が挙げられる。なお、軽度な範囲の被害妄想については自分自身で治癒することも可能であり、ラッセルは4つの予防法「そこまで自身の動機が利他的ではないこと」「自身を過大評価しないこと」「自分が思うほどの興味を他の人も持つと期待しないこと」「たいていの人はあなたのことを貶めようとは思ってはいないこと」を提示し、これら四つの公理を理解することを解決策としている。

 8「世評に対するおびえ」

8つ目の不幸は「世評に対するおびえ」であり、自分が他人にどう思われているのか気にしすぎてしまうことが原因である。これに対する有効な解決策として、自己と社会が調和するよう環境を変えるか、世評を気に留めず、自己の信念を貫くことが挙げられた。しかし、近年はやたらとマスコミが何かをかきたてるようになってきたことで、このやり方が通用しにくくなっているとラッセルは指摘する(現状では社会的迫害ないしメディアスクラムは、SNSによって一般人相手にも拡大した)。

これら害悪に対する治療法は、一般大衆が寛容になっていくことで他人に苦痛を与えることを楽しみとしない人間が増えることである。

総論「思考のコントロール

ラッセルは総論として、これら不幸の原因は、いずれも日常の習慣における「思い込み」であり、それらは「自己没頭」によって生じるとも語っている。これは「習慣を変えること」で解決することであり、それには「思考のコントロール」が最適であると語る。具体的に「思考のコントロール」とは、「ある事柄を四六時中、不十分に考えておくのではなく、考えるべき時に十分考えておく習慣」だといい、またそれは無意識下においてもコントロールできるようにしておかねば今まで挙げてきた解決法も余り役に立たないという。そのためには精神を訓練して意識の無意識への働きかけを実現することが必要で、そこではじめて幸福を能動的に捉えることができるという。

結論として、幸福になるにはポジティブに思考をコントロールすること、そして自己の内面でなく外界に興味を向けることの2つにまとめられる。

 質問と回答

今回の発表で出た1つ目の質問は「無意識下での思考のコントロールにおける精神の訓練なるものは、ここまで挙げられてきた解決策と同義であるのか」というもので、発表者は「その通り」であるとし「それらを実践することで意識を正し、無意識レベルにまで刷り込んでいく」ことを述べた。2つ目の質問は➀で挙げられた「バイロン風の不幸とは具体的に何か」というもので、発表者は「バイロン風の不幸」の典型例として「伝道の書」から以下の悲観的結論を引用した*6

既に死んだ人を幸いだと言おう。更に生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽のもとに起こる悪いわざを見ていないのだから。(伝道の書 第4章)

付記

*1:レポートの参考文献は、ラッセルの『幸福論』(岩波文庫、1991年、安藤貞雄訳)のほか、本書を解説したムック『100分de名著 ラッセル幸福論―客観的に生きよ』(NHK出版、2017年、小川仁志)も含まれている。本書は2017年11月にEテレで全4回にわたって放映されたテレビ番組を再構成したもので、各回のサブタイトルは「自分を不幸にする原因」「思考をコントロールせよ」「バランスこそ幸福の条件」「他者と関わり、世界とつながれ!と実に端的で分かりやすいものとなっている。

*2:経験主義とは「人間は生まれたときは白紙であって、人間の心は経験を重ねることによって形成されるもの」という西洋哲学から生まれた考え。ここから報告者は、東洋哲学(=仏教)の“空”の思想に基づく「自受用三昧」を連想した。「自受用三昧」とは曹洞宗の開祖である道元が提示した思想で、すなわち「経験になり切る」ことで「自分を忘れて何かに没頭する」という考えである。これはいわゆる「瞑想状態」「忘我状態」「フロー状態」「ピークエクスペリエンス」「無我の境地」と呼ばれる「究極的にリラックスした心理状態」に近い。また「自受用三昧」には「自分=経験である」と捉える面があり、自我や個性の存在は「元から存在しないもの」として否定される。言い換えれば、存在しない「自我」に固執するのは全くもってナンセンスで「自分」を捨て去って「経験」になり切り充足した日々を送る、という考えが「自受用三昧」なのである。今回の主題と「自受用三昧」は全くもって関係ないが「幸福論」という主題と妙に近似性を感じたことから注釈の形でここに記載した。なお「自受用三昧」はラッセルが提示した「自己没頭」とは対極に位置する概念である。

*3:ちなみに本章では、理性によって不幸になった者の具体例として、知識階級層のペシミストたちと、彼らのペシミスティックな言行を取り上げている。

*4:なお、報告者も過去に壮大な宇宙と矮小な自己を相対化して幾分か救われた経験があり、昔から人の考えることは多かれ少なかれ余り変わらないものだと実感したが、一部の聞き手は「宇宙規模で悩みを相対化して解決する」ことに関して少なからず「飛躍した解決策」という印象を抱いたようである。

*5:この章で扱われている無意識的な罪の意識は「超自我による過剰な罪悪感や劣等感に起因する」という解釈もできる。この「超自我」(スーパーエゴとも)は自身を監視して抑圧する心理的なシステムで、幼少期に親などから学んだ道徳的良心や道徳教育によって形成されるといわれる。この解釈でいくと、罪の意識による不幸の解決策は「子供時代に親によって作られた超自我(言うなれば親の呪縛)をぶち壊して新たに自分の超自我に作り直す」ことになる。この「超自我の解体」とも言える現象は、自我が目覚め出した思春期に「親への反抗」という形で自然と表れてくる。

*6:空の空、空の空、いっさいは空」という言葉で始まる「伝道の書」は紀元前に書かれた旧約聖書のひとつでエルサレムの王である伝道者の言葉と伝えられている。なお、引用した文章のような悲観的思考から脱却するためには、ひとえに「思考のコントロール」が必要不可欠である。

チャンネル争い史—三丁目の猟奇

チャンネル争い史ー三丁目の猟奇

はじめに

テレビの「チャンネル争い」は誰しもが(たぶん)経験する、家族間での代表的な揉め事であった。「あった」という過去形から、まず結論を言っておこう。「チャンネル争い」という家庭内紛争は少なくとも日本国内では、ほぼ終戦状態である。

もっとも、チャンネル争いは一台のテレビのチャンネル権を家族内の誰かが占有するという条件/状況下で発生するもので、現代でもないとは言い切れないが、すでにテレビは「一家に一台」から「一人一台/一部屋一台」という時代になり、そもそも娯楽多様化でテレビそのものを見なくなっているという人も多い。

だが、昭和中~後期まではビデオデッキも普及してなかったし、「録画して後で見る」ということはまず不可能で、ゆえにこの頃が最もチャンネル争いがヒートアップしていた時期であるといえよう。

ここでは、過去の新聞報道から国内のチャンネル争い史を振り返ってみよう。

1960年「毒薬入りウイスキー事件/大阪」

国内のチャンネル争いについて、『朝日新聞』や『読売新聞』といった全国紙では1963年頃からチャンネル争いに起因する「事件」を報じている。

しかし、チャンネル争いを扱った国内における最古級の記事は『毎日新聞』1960年(昭和35年)5月11日付・東京朝刊5頁に掲載された「深刻なチャンネル争いーテレビと家庭の問題」という記事である。

この記事内では冒頭にチャンネル争いに起因する大阪の殺人事件を紹介している。

最近、大阪で見たいテレビ番組のことで姉とけんかし、父にしかられてなぐられた男の子(一三)=中学三年生=が、この父をうらんで、ウイスキーに毒薬を入れて殺してしまったという事件がおこりました。

警察の調べによると、もちろん少年には“殺意”というものはなく、病気になって病院にいけばうるさくなくなるというほどの気持ちからだったようです。それに少年も平素の素行もよくなく、父も酒のみという特別な事情があったようです。それがテレビチャンネルの争奪というきっかけで爆発してしまったといえそうです。それにしてもテレビのチャンネル争いは、多かれ少なかれどの家庭でもみられることです。

のちに紹介する事件にも共通することだが、チャンネル争いに関係する事件は、チャンネル争いに敗れたことが「引き金」となって鬱憤が爆発し、殺人、傷害、自殺に発展するケースが目立つ。

されど、こうした諸々の問題を抱えた家庭において、致命的な「事件」が起こるというのは遅かれ早かれ、時間の問題だったろう。事件のきっかけとなる「チャンネル争い」なんて、結局のところ、事件を起こす動機の一要因に過ぎないのである。

ちなみに注目すべきは堀秀彦*1が寄稿した以下のコメントであろう。

テレビがうんと安くなって個室にテレビが置かれ、自由に好きなものが見られるようになれば(この結果どんな人間が生まれるか別問題として)この問題は解決するが、それまでは、いまのままではいつまでも多かれ少なかれつきまとうのではなかろうか。

結果的に堀の予言は的中することになるが、この予言が実現するまでには3、40年は待たねばならない。

また堀の「個室にテレビが置かれ、自由に好きなものが見られるようになれば(この結果どんな人間が生まれるか別問題として)…」という一文であるが、事実、現代の小中高生の多くはポケットに収まるスマートフォンで、親の目を離れては「好きなもの」を自由気ままに見れるようになっている。またその結果「どんな人間が生まれた」かも、皆様はよく御存知であるはずだ。

1978年「中二の兄、小六の妹刺す。両親、共働きの留守/埼玉」

1978年(昭和53年)4月20日夕方、埼玉県与野市で、木曜日の夕方5時に日本テレビで再放送されていた『さるとびエッちゃん』を中学2年生の兄が、小学6年生の妹はTBSで再放送していた『みつばちマーヤの冒険』を見たいと喧嘩

以前からふたりの間には喧嘩が絶えなかったらしく、兄の鬱憤が爆発、チャンネル争いの末に妹を果物ナイフで刺殺、ビニール袋を被せて段ボール箱に死体を入れてから警察に通報して自首するという事件が起こる。

Wikipediaより一部改稿)

この事件はWikipediaにも記載されているほか毎日新聞』『読売新聞』『朝日新聞』『週刊サンケイ』など主要紙でも報じられ、当時は結構話題になったらしい。

毎日新聞 1978年4月21号 東京朝刊 23頁)

事件翌日には、東京都小金井市立小金井第二小学校の六年三組で本事件に合わせてチャンネル争いにまつわる「学級討論会」が開かれた*2

以下、チャンネル争いにまつわる子供たちのエピソードをそれぞれ列記する。

大学の姉さんとけんかして、ブラウン管まで割っちゃった」と男子。取り合っているうちに、チャンネルのつまみが壊れた」と女の子も負けない。

兄ちゃんにいつもぶたれるよ

二年生の妹を突き飛ばしたら、障子がはずれてしまった

みそ汁をひっくり返したことがある

プロレスで決着をつけることにしてるけど、戦ってるうちに番組が終わってしまうんだ

 

その紛争を、家庭内では、どうやって解決しているか。体操着の男の子が不服そうに「うちのお母さんはいつも『あんたは兄さんだから我慢しなさい』という」と発言すると、賛同の拍手。

いい合いをしてると、うちの母さんは『二人とも外に出て考えなさい』と追い出してしまう」「ナイターを見たいお父さんとけんかしてると、最後はお母さんが入ってきて自分の好きな番組にしてしまう」という報告もあった。

ちなみにチャンネル争いで「けんか」をしたことがある六年三組の児童は出席39人のうち38人、実に97%にのぼった。

なお、解決方法に「テレビ2台論」や「ビデオデッキ」を求める児童の声もあったが、それに対して先生は「やはり高度成長時代に生まれた子ですね」と苦笑いし、「欲しいものは何でも買える、もらえる、という発想はこわいな。昔の子は我慢、あきらめ、という美徳を持っていた」とぼやかれになられた。

正直、年長者に多い「我慢と忍耐」を美徳とする日本人的根性論をこんな場面でも持ち出されるとは、正直辟易とさせられるのだが、こうした世代間でのジェネレーションギャップは今も昔も変わりはない、ということか。

1980年「中一の弟、中二の姉を射殺/徳島」

(読売新聞 1980年2月4日号 東京朝刊23面)

1980年(昭和55年)2月3日、徳島県三好市(現・三好郡東みよし町)で中1の弟が中2の姉を父の散弾銃で射殺した“昭和の田舎で起こり得るであろう最悪なチャンネル争い事件”が発生した。以下事件の内容である。

2月3日午後7時、地元の警察署に「姉を猟銃で撃ち殺した」という110番があった。

同署員がAさん宅にかけつけたところ、Aさん方の階下六畳間で少年B(13)が立ちすくんでおり、足下に長女C子(14)さんが散弾銃で頭を撃ち抜かれ血まみれになって倒れていた。C子さんは約10キロ離れた県立病院に運ばれたが、出血多量で死んだ。

Bの自供によると、姉弟二人はこの日の午後二時すぎからテレビを見ていたが、バレーボールの試合を見たいというC子さんに対し、Bが漫画番組を見るといって譲らずけんかになった。その後もチャンネルをめぐって口論を続けた結果、Bは父親の銃を持ち出し、姉に一発発砲した。銃は階下の勉強部屋にあった。

近所の人の話では、Aさん一家は五年前、二階建て約60平方メートルの家を新築、その支払いのため父親は茨城県内の建設作業現場に出稼ぎに行き、母親は同郡池田町内で飲食店を経営、毎日通っており、祖母(65)が姉弟の世話をしていた。姉弟の仲はよかったという。

猟銃は父親が昭和50年9月、許可を受けて購入した単発銃で、出稼ぎ中は銃を分解、二階の部屋のキャビネット式の保管庫に入れて施錠、隠していた。しかし、Bはカギと弾薬の隠し場所を知っており、銃も自分で組み立てていることから父親が銃を扱うのを見ておぼえたらしい。

Bは日ごろ家に猟銃があるのを自慢にし、最近も友達を呼んで見せびらかしていたという。

とにかく少年Bがクソ過ぎると思ったが、まあ好奇心旺盛な中学生の悪ガキに本物の銃を与えたら、こうなっても仕方ないのかなと思える。普通、人間は頭に血が上ったら「脅し」で包丁や銃を持ち出すことはあるとしても、情緒が欠落した小中生は本当に刺したり撃ったりするからコワイ。なんの解説にもなってませんが(笑)元々仲良しの姉弟だったという点で前掲した埼玉の事件より残酷に思える。

また同時期には小学生男子がいたずら目的で幼女を殺害してしまった事件もあったことから、記事内には東に西に凶悪犯罪の低年齢化現状を憂いた文章も書かれていた。(文◎虫塚虫蔵)

*1:東洋大学教授 / 1902年~1987年

*2:朝日新聞』1978年4月23日号

高杉弾インタビュー「ぼくはプロの編集者であったことなどなかったし、むしろ編集者に変装した変質者でした」

何人?高杉弾

数々の伝説を生み出した、あの80年代ニューウェーブ雑誌『Jam』『HEAVEN』の編集長にインタビュー

追体験は無益なことだろうか? 理解への一歩は追体験ナシにははじまらない。だから過去にこだわりたい。自販機雑誌『HEAVEN』は過去の遺物だ。しかしそれを振り返らなければならない現実は今、ここにある。テーマは自らを追体験することにある。そして今現在の自分をいかに理解するかだ。『HEAVEN』の1コラムにそのヒントを見つけたいと思うのである。

いつのまにか新しい雑誌がはじまってしまって、また細かい雑文を書きとばしたり、わけのわからない企画に頭をおかしくしたりという日々をおくらなければいけなくなった。

雑誌ブームみたいな現象が起きていて、本屋の雑誌売場にはもうありとあらゆる雑誌がひしめいている。こないだなど本屋の店員が雑誌をまとめてチリガミコーカンに出していたぐらいだ。作る方も雑誌はもーかるというので、いいかげんな文章にいいかげんな写真をくっつけて安易に雑誌コードにのせ、お気軽にもうけたりしている。それでも去年あたりからそろそろ淘汰の時期に入ったらしく、つぶれる雑誌が出たり、笑う編集者がいたり、走る車があったりで、ものいりが後をたたない。むずかしい世の中である。

大手出版社の出す殆どの雑誌は各ライターの個性や、取材力、情報収集力、宣伝力に負うところが多く、なんでもない企画を編集力によって面白い物にしていこうという視点がない。いまだに雑誌は読者やライターのものであって、編集者のものではないのだ。これがいけない。もっと編集力ということを考るべきだ。音楽、美術、文学、ファッション等の世界にニューウェイブが起こって、雑誌のニューウェイブが出ないのは実に編集者の怠慢と言わざるをえない。つい最近まで出ていた自動販売機雑誌「Jam」が、書店に置いたところ、月80冊売れたというデータから考えても、雑誌のニューウェイブが読者から拒否されるはずはないのである。

編集力とは変態力である。事態の伝達ではなく事態のカット・アップを。精神の表出ではなく精神の延展を。素材はその辺にころがっている「変態は自身の裡(うち)にある」というパーナリッツの言葉に従えば、誰もが「もうひとつの道」を歩んでいることになる。そしてもうひとつの道を紙面に照射することこそ編集だろう。編集には終わりがない。そして編集とは生き方であることを了解しなくてはならない。

終わりのない小説、終わりのない音楽、終わりのない事態に前から興味を引かれていた。これに「病気」という概念が加わってひとつの方向性を得た。世界とセックスをするなら、終わりのないセックスに限る。すなわちオーラル・セックスである。

 

(アリス出版『HEAVEN』創刊号「高杉弾のオーラルセックス」より)

 

高杉 前回東京の某誌からインタビューの連絡を受けたのも二年前のコサムイ滞在中で、FAXで返送した回答の補足を、バンコクのワット・ポー境内からGSMで長電話したことをよく憶えています

最近は一年の半分近くを海外で過ごす隠居生活を送っており、日本の友人とさえ音信不通の日々ですが、まだぼくのことなどを覚えている見知らぬ人がいるのですね。不思議な感覚です。東京に滞在しているときでさえ日本人マインドから遠く離れて久しく、自分の位置を自らナビゲートしなければ、まともに生きていくことさえおぼつかない毎日です。

さて、20年も前に『メディアになりたい』という本を出してしまっているぼくにとって、すでに〈メディア〉になどあまり興味がなく、ひたすら気になるのは〈メディアマン〉の消息だけです。このニュアンスをご了解いただければ幸いです。

 

───高杉さんが「自販機本時代」に編集された『Jam』とその後の『HEAVEN』は、相変わらず古本屋価格ではべらぼうな値段が付けられていますが、自分で持ち込んでプレミア価格で買い取ってもらったりしたことはありますか。なければさぞかし悔しい思いなのではないかと思うのですが…。

 

高杉 他誌の前回のインタビューもそうでしたが、また20年も昔の話ですね。『Jam』も『HEAVEN』も、過去の自分が戯れに作っていた物で、「過去の自分」など現在の自分から思えば他人同然ですから、これからぼくは「他人」について語らねばなりません。しかし、他人について語るのは自分について語るよりよほど面白いし、しかも楽だ。

『Jam』や『HEAVEN』が古本屋でかなりの高値で売られていることは、知人などに聞いて知ってはいました。しかし、自分の目で確かめたわけでもないし、もちろん売りに行ったことなどありません。そもそも、ぼくは『Jam』や『HEAVEN』を数冊しか持っていません。美沢真之助が死んだときに、全冊揃えるのに苦労したほどです。

それにしても、あんなものにプレミアを付けて高値で売り、それを買う人がいるなどということ自体が狂っている。深夜、退屈しのぎに見る自販機本ですよ。しかも20年も前の。「さぞかし悔しい思い」ですって? 人を舐めるのもいい加減にしていただきたい。ぼくは、そんな「架空の金銭」と交換する仕事をした覚えはありません。

 

───「いつのまにか新しい雑誌がはじまってしまって、また細かい雑文を書きとばしたり、わけのわからない企画に頭をおかしくしたりという日々をおくらなければならなくなった」(以下引用はすべて『HEAVEN』創刊号「高杉弾のオーラルセックス」より)

「自販機本時代」から「AV監督時代」などを経て「MEDIAMAN」となった高杉さんとしては、最近ではどのようなメディアに面白さを感じますか。また、今はどのようなわけのわからない企画などに頭をおかしくされているのでしょうか。

 

高杉 「高杉弾のオーラルセックス」という連載をしていたことさえ完全に忘れていたので、そこに書いていたことについて聞かれても、なんだか「今さらなあ」という感じを否めません。

つまり、ぼくは20年前からプロの「編集者」であったことなどなかったし、むしろ、編集者に変装した変質者でした。変質者が一時的な退屈しのぎに好き勝手な紙の切り張りをしていた。要するに、ゴミをカットアップしたスクラップブックですね。それに程々のお金を払い、それなりに楽しんでくれた人たちがいた、というだけのことでしょう。

ぼくが「わけのわからない企画に頭をおかしくしたり」とか、メディアがどうのこうのと偉そうに語っていたとしたら、それはもう若気の至りというものでしょう。はっきり言って、若い頃のぼくは単なる「馬鹿」です。

ですから、「今はどのようなわけのわからない企画などに頭をおかしくされているのでしようか」というご質問にはお答えしにくいです。わけのわからない企画どころか、「わけのわからない世界」に常に頭がぐらぐらになっています。昔のぼくは単なる「馬鹿」でしたが、今のぼくは「人間のクズ」です。これに関しては、確実に自覚があります。

外から日本を見ると、日本という国は完全に気が狂っていて、もはやどこの国からも相手にされていない「終わってしまった国」のように感じます。

世界が興味を持っているのは、日本ではなく日本円です。しかし世界は常に激動している。日本人の田舎臭いマインド・レベルは、もうどこの国に行っても通用しないでしょう。人間のクズと自覚しているぼくとしても、もう日本という国にはあまり興味が持てなくなっています。

興味のあるメディアといえば、「人間の脳味噌またはマインド」としか答えようがありません。

 

───「雑誌ブームみたいな現象が起きていて(中略)作るほうも雑誌はもーかるというので、いいかげんな文章にいいかげんな写真をくっつけて安易に雑誌コードにのせ、お気軽にもうけたりしている

90年代中ごろからのPCの成熟安定化と廉価化によって、雑誌はそれをつくる手段がほぼPCに移行し、i-Mac一台でもカンタンにつくれるほどに安易なものになってしまいました。しかしそのクオリティはといえば、その横着が悪いかたちで表われてしまい、合理的な文章、合理的な画像、合理的な企画で安易な内容のビジュアル重視のものがさらに増えてまったような気がしますが、それについてはなにか思いますか。

 

高杉 端的に申し上げて、「インターネットなど、もう古い」ということでしょう。インターネットはその発展と同様に、ものすごいスピードで「過去の遺物」になりつつあります。ぼくがずっと以前から言い続けていたのは「人間の脳味噌こそが地上唯一最大のメディアである」ということです。コンピューターに代表されるデジタル文化など、日本人洗脳の道具にしかすぎないということなど、心ある人ならすでに気づいていることです。

そもそも「合理的な物の考え方」などという貧しい発想が現在の地球を混乱に陥れているのは自明の理です。黒人を400年間奴隷にし、搾取して富と利権を蓄え、「合理主義」という窮屈で陳腐な思想が蔓延してクレイジーなデジタル信仰と経済原則がまかり通っている日本や西欧世界に、もう未来などありません。

日本人も陳腐な白人思想にかぶれてしまい、メディアという言葉をはき違えてきたように思います。腐ってしまった味噌や豆腐に毒物を添加して作った味噌汁を「あまり美味しくないなあ」と無自覚に思いながら食べているのが日本人の現実です。「洗脳は舌から」、これがGHQ以来の戦略だったのでしょう。そして、メディアや文化についても同じことが言えるのです。

 

───「大手出版社の出す殆どの雑誌は各ライターの個性や、取材力、情報収集力、宣伝力に負うところが多く、なんでもない企画を編集力によって面白い物にしていこうという視点がない。いまだに雑誌は読者やライターのものであって、編集者のものではないのだ

いわゆるインディーズ・マガジンをやっている連中というのは、その部分にたいするアンチテーゼの意識がある者もいれば、発行者の自己顕示欲を満たすためだけのものなどさまざまです。そこでお伺いしたいのですが、大手出版社誌がこれだけ読者(返品率)に強張り、淘汰に怯えるという現実において、雑誌は「編集者のもの」になりうるのでしょうか。また、そういった意味でインディーズ・マガジンには存在意義があると思いますか。

 

高杉 この問題は大手出版取次店の存在を抜きには語れないでしょう。そして、ぼくは当初から雑誌を「大手出版取次店のもの」にしてしまう日本の出版事情にはまったく興味がありませんでした。せめて雑誌は「編集者のもの」であって欲しかった。

それから時は流れて「インターネットの時代」。しかし、ぼくがWEB上に作った〈JWEbB〉という雑誌でさえ、すでに一度リムネットの検閲を受けて一方的に全ページ削除(契約破棄)という理不尽な手段に出られた経緯があります。日本に言論、表現の自由など、もともと無いのです。そのことを、若いインディーズ・マガジンの編集者たちにもはっきりと自覚していただきたい。

そして、「媒体」などにかかわらず、人間は生きているだけで〈メディア〉です。アナログからデジタルに移行し、「発行」が「発信」に変わったからといって、それがいったい何だというのか。完全に文字化けした日本語を「世界に発信」して、いったい何の意味があるのか。

 

───「音楽、美術、文学、ファッション等の世界にニューウェイブが起こって、雑誌のニューウェイブが出ないのは実に編集者の怠慢と言わざるをえない。(中略)雑誌のニューウェイブが読者から拒否されるはずがないのである

ニューウェイブが起った80年代については、今では忌み嫌う声ばかりです。高杉さんにとって80年代とはどんな時代でしたか。

 

高杉 80年代に自分が何をしていたのか、ほとんど覚えていません。雑誌に雑文を書き散らしていただけのような気もしますし、毎日大麻やコカインを吸ってラリっていただけのような気もします。ロサンゼルスやサンフランシスコで豪遊していたのも80年代だったかな。重要なのは「時代」ではなく、「ムーブメント」でしょう。

しかし、日本の雑誌界にニューウェイブはもう永遠にこないでしょうし、逆に、コンドームのように使い捨てられる雑誌ほど売れるでしょう。ぼくには、もうどうでもいいことです。ただ、日本の80年代でもっとも重要なのは、日本が企業社会主義国になった、ということだけでしょう。

 

───「編集力とは変態力である

これを今ドキのバカギャルにもわかるように説明してやってもらえませんでしょうか。

 

高杉 「今ドキのバカギャル」などにはまったく興味がありませんし、彼女らに教えることなど何もないと思います。ぼくには「バカギャル」というのがどのような女性を指す言葉なのかも把握できていません。「編集力とは変態力である」などと書いたのは、メディアマンではなく高杉弾というウツケ者でしょう。「編集力」も「変態力」も、今のぼくには日常の埒外です。

 

───「終わりのない小説、終わりのない音楽、終わりのない事態に前から興味を引かれていた。これに『病気』という概念が加わってひとつの方向性を得た。世界とセックスするなら、終わりのないセックスに限る。すなわちオーラル・セックスである

名文であります。ところで、なにげなーく拠点をコサムイに移されているように見えまが、コサムイにはどんな終わらないものがあるのでしょうか。

 

高杉 もともと「拠点」などという発想を持ったことはありません。拠点って、なんだか左翼の活動家みたいで気持ち悪いじゃないですか。コサムイは、ただ気候的に気持ちのいい場所なので行っているだけで、それもせいぜい年に2、3か月程度です。海と、椰子のジャングルと、馬鹿な白人観光客用バンガローと、不味いレストランがあるだけの島です。

コサムイに限らず、気候的に温暖で、物価が安く人々が仏教徒で温厚であれば、ぼくの周囲に「終わりのない世界」はすぐに出現します。タイは今年2544年です。バリのサカ暦はそれ以上でしょうし、そんなことにさえ関係なく、南国には南国の「寛容な空気」が流れています。そして、これこそが日本にはない一番重要なものなのです。

バンコクやコサムイやウブドの部屋で目覚めるぼくの日常は、それこそ終りの無い日々。その日何が起きるのか予想さえできませんし、明日何をするのかなんて考える気もしません。死ぬまで続くそういう日々の連続が「終りの無い世界」への夢を増幅させるのだと思います。多くの人々が「金銭」やら「デジタル」やら「情報」やら「健康」やらといった幻想にうつつを抜かしている間に、ぼくは気持ちのいい夢を見ることにしただけなんです。

 

───雑誌とインターネット。高杉さんにとって両者はどのように違いますか。

 

高杉 雑誌はメディア、インターネットは「情報」の運び屋、つまり運送屋でしょう。新幹線ができて、ちょっと便利になったのとあまり変わりませんね。ぼくはもう雑誌にもインターネットにも何の期待感も抱いていません。そんなものはもう古い。過剰に管理されるメディアなんて、もううんざりだ。

数年前に「脳内リゾート開発」という概念を提供しましたが、できることならもっと多くの人々に、人間がもともと持っている優秀なアナログ機関である脳味噌の、未開の部分に注目していただきたい。気楽に、柔軟にね。

 

───今後高杉弾及びMEDIAMANは新しい雑誌などを仕掛けられる予定はありますか。

 

高杉 雑誌にもデジタル・メディアにもあまり興味がありません。最後に唯一読んでた『太陽』も休刊になってしまったそうだし。ぼくは気楽で暇な隠居の身です。もし日本に面白い雑誌があるなら、お教えいただきたい。

自分で印刷媒体を作ることなどないでしょうし、デジタルなんかもともと信用していない。そんなことをしなくとも、世界の現実は雑誌以上に面白いですよ。

それから、〈メディアマン〉というのは特定の個人を指す名ではなく、「高杉弾という個人に内臓されるメディアとしての脳味噌」を経由して表現されるすべての事象に因んで公案された〈概念〉であると理解していただきたい。

 (所収:ラクダ・パブリシング『創的戯言雑誌』2000年刊/絶版)

高杉 弾(たかすぎ・だん)

東京品川生まれ。4歳から9歳まで、川崎市等々力の水郷地帯で蓮の花に囲まれて育つ。1979年から1980年にかけて自販機雑誌『Jam』『HEAVEN』の編集長として数々の伝説を生み出す。

現在は"メディアマン"というコンセプトのもとに言語アーチスト、作家、編集者、企画家、観光家、ステレオ写真家、臨済禅研究家、蓮の花愛好家、ラリ公などと呼ばれながら"MEDIAMAN"としての国際的な隠居生活を楽しんでいる。競馬と散歩と昼寝、南の島やタイ・香港旅行が道楽。毎年11月~3月はバンコク、サムイ島、バリ島、香港のいずれかにいることが多い。

雑誌、単行本、インターネット等のメディアに突発的な仕事を発表することもある。仕事は一貫してジャンルではなくマインドで選び独自の世界観からの発言や表現活動を極めて気まぐれに続けている。金銭的利益追求を第一義とするマスコミや出版業界は大嫌い。

脳内リゾート開発事業団所属。ステレオオタク学会会員。〈imperialMEDIAMANinternational〉代表。

高杉弾オフィシャルサイトより

娘が遺した日記と漫画で「教育」見詰め直す―漫画家・山田花子の自殺

連載[師走の街から](7)

娘が遺した日記と漫画で「教育」見詰め直す

五月の運動会から数日後のことだった。四年生を担当する女性教諭(50)が三十四人の教え子たちに手紙を託した。

〈これからは、子供たちの声にならない声に、もっともっと耳を傾けていきます〉

先生はおかっぱ頭。やせてはいても、東京郊外の小学校で「一番の元気者」を自慢にしていた。ところが、運動会が近づいたころ、長女が飛び降り自殺してしまった。手紙は、この悲しい出来事を静かに見守ってくれた父母たちにあてて書いたものだった。

長女は二十四歳、漫画家だった。「山田花子」のペンネームで、一時、「週刊ヤングマガジン」や月刊「ガロ」などに連載を持ち、単行本も二冊出していた。人間関係の息苦しさや疎外感を強調した漫画だ。内向的で感受性の強い主人公がいじめにあい、傷ついていく。遺(のこ)された十五冊の日記帳は、主人公が作者自身で、描くことで生きるつらさを乗り越えようとしたことを物語っていた。

日記や漫画を読んで先生はがく然とした。自分そっくりの教師が主人公に言う。「あなた、お友達がいなくて淋(さび)しくはないの」。確かに、友達が少なかった娘を同じ言葉でよく送り出した。日記の中の娘は一人で時間をつぶしては自ら服に泥をつけ帰宅していた。初めて知った。

教師歴二十八年。「いろんな子がいて当たり前。弱い子も強い子も個性を生かしてあげなきゃ」が口癖だった。いじめや登校拒否にも体ごと取り組み、二人の娘を育てた。「自由を口にしながら自分の型にはめようとしていたのか」

それから、追われるように仕事をした。救いは死後も絶えない読者からの手紙だった。「悩んでいるのは自分一人ではなかったと力づけられた」「私の人生を変えるのは山田花子かもしれない」

愛読していたという人気バンド「たま」知久寿焼(ちく・としあき)さん(27)は、霊前で「自分の姿を見るようで身につまされた」と涙を流した。これほど人の心を動かした「山田花子」の感性とは何だったのかと考えるようになった。

夫婦で娘のことを本にまとめようと決めた。毎晩、日記や作品、彼女の聴いたテープ、愛読書を整理する。書き始めたばかりの目次には大きく「学校といじめ―教師と母親の構造」とある。

「娘の供養ではなく、自分がこれから生きて行くために書き上げなくちゃ」と、先生は思う。(若江雅子)

(おわり)

所収:『読売新聞』1992年12月25日号 東京夕刊

山田 花子(やまだ はなこ、1967年6月10日 - 1992年5月24日)は、日本の漫画家。本名、高市 由美(たかいち ゆみ)。

自身のいじめ体験をベースに人間関係における抑圧、差別意識、疎外感をテーマにしたギャグ漫画を描いて世の中の矛盾を問い続けたが、中学2年生の時から患っていた人間不信が悪化、1992年3月には統合失調症と診断される。2ヵ月半の入院生活を経て5月23日に退院。翌24日夕刻、団地11階から投身自殺。24歳没。

青林堂創業者/漫画雑誌『ガロ』初代編集長・長井勝一インタビュー「世の中から差別をなくすことを、底の底に持った雑誌を出版していこう」

古き良き青林堂をしのぶ。追憶・長井勝一

生前最後のインタビュー

「漫画雑誌『ガロ』会長・長井勝一(現代の肖像)」

『ガロ』編集長・長井勝一「貧しかったけど、心は貧しくなかったよな」

漫画家・白土三平に口説かれた。「漫画雑誌をやろう」。忍者漫画を通して人間の本質を描く白土の真摯さに、本気になった。

水木しげるつげ義春───。思想をもった作品を生んだ『ガロ』は、創刊者長井の度量が人をひきつけ、作家の個性を伸ばした「学校」でもあった。

土曜日のある夜、長井勝一(ながい・かついち)宅を一組の夫婦が訪れた。4コマ漫画の、あの勝又進である。長井は、さっそく自宅近くの天ぷら屋で一席設けた。

「授賞式に遠くから来てくれてありがとうな」

長井は小柄な体を縮め、かすれた小さな、少し高めの声でお礼をいう。勝又は恐縮する。

今年の6月下旬、長井は第24回日本漫画家協会賞の特別賞をもらったばかり。漫画雑誌『ガロ』を30年以上も発行し、多くの漫画家を発掘、育てたのが、その理由である。勝又もまた、作品発表の場が『ガロ』であった。学生と機動隊の衝突を、明るくのんびりと描いていた。

長井はキスの干物を手でむしり、食べながら、つぶやいた。

「これ、うまいなぁ。……魚に骨がなければ、もっといいのにな」

こんなことをいう人は初めてだ。勝又に、「長井さんは、どんな人ですか?」と水を向けると、

勝又が照れ笑いを見せ、

「オヤジさんという感じ。こうして顔を見るだけで安心するんです。実家に来るみたいですね」

と、話し終わるや、「来れば、おれも楽しいさ」と、長井は、うれしそうにいう。

長井が『ガロ』を創刊したのは、1964年7月24日である。B5判130ページで定価130円。東京オリンピック開催の2カ月半前だ。創刊号からスタートの予定であった白土三平の『カムイ伝』が登場したのは、4号目の12月号だった。

勝又は、隣の長井をちらりと見て、「『カムイ伝』が始まったあとでしたね。いつも、『ガロ』の編集部にいりびたっていたんですよね。松田さんも学生で上野さんも、みんな遊びに行っていた」と話す。

「貧しかったけど、心は貧しくなかったよなぁ。漫画が好きだ、描きたいという人が集まってきた。それでいて、人まねなんかしたくない人ばかりでなぁ」

長井は淡々とした口ぶりだ。

「それでいて、長井さんにはなんでもいえましたね」

勝又が、そういうと、

「おれはエバルような人とは付き合わないよな。いまでもそうだ」

長井はなんでもないようにいう。あまり飲んではいけない酒を口にしながらである。一滴一滴を、本当にうまそうに飲むのだ。

二人の間で名前の出てきた、松田さんは筑摩書房松田哲夫、上野さんは評論家・上野昂志である。そんな『ガロ』を舞台にした漫画家を少しあげてみる。白土三平水木しげるつげ義春、楠勝平、勝又進池上遼一永島慎二滝田ゆう佐々木マキ林静一つげ忠男矢口高雄高信太郎やまだ紫近藤ようこ蛭子能収……。作家・赤瀬川原平もいる。評論家・呉智英もいる。井上迅もいる。編集部育ちでは、南伸坊渡辺和博たちがいる。

個性的な顔と、その作風が浮かんでくる。目がくらむようだ。集団として徒党なんて組むことのない、まさに群像である。

『ガロ』育ちの人たちを、評論家・鶴見俊輔は次のように表現する。

「戦後の学問の歴史でいうと、今西錦司さんの作った今西学派というのはたいへん大きなものですが、そうした区分を超えて思想史を考えるとき、ガロ学派は今西学派に匹敵すると私は思っています」

“ガロ学派”───。鶴見はこうもいう。

「『ガロ』は漫画雑誌というだけでなく、一種の総合雑誌としての気分を持っている。これは、初期から上野昂志さんが『目安箱』というコラムを書いていることでもはっきりしている。とても鮮やかな評論で『中央公論』や『世界』の評論より鋭いっていう場合がある。そういうのを出し続けていった雑誌でもあるわけで、そこに出てくる漫画も思想性がある」

 

白土三平さんと会うまで金もうけりゃいいってね、漫画本出してた」

戦後という時代について、ふと考えるようなとき、今後に思いをはせるとき、『ガロ』の人たちの影響力は無視することは出来ない。

それを育てたのが出版人・編集人の長井勝一である。だが、長井は、アッケラカンと語る。

「創刊してから、ぼくが現場にいたころまで、編集会議なんて一回もしたことなんてないんです。会議をしたっていう奴がいたら、インチキだよ。ナベゾ渡辺和博)にしたって、南(伸坊)にしたって、ぼくの顔なんて見ませんよ。好きなようにやっていた。『来月号は誰と誰の漫画を載せる』。これだけ。ワンマンなんかじゃないんですよ。編集会議するような雑誌じゃないもの。原稿並べるだけなら誰でもできますよ」

それから、右手の指でマルを作り、

「これの話はよくやったよなぁ」

と、妻の香田明子に確認する。香田は、遠慮気味に「ウーン」と、うなずく。彼女は、『ガロ』発刊以前からのパートナーで、経理をみてきた。

f:id:kougasetumei:20180522183346j:plain

こんなエピソードが語り継がれている。南伸坊が編集部にいたころである。

「そりゃあそうだよ、人間だからな」

長井の口癖だ。人間だから失敗することもあるし、人をだますことだってある。

原点は50年前の8月15日である。日本は敗れた。腹の奥では、いままでの日本はないと思う。だが、人間の日常は同じ。飯を食べトイレにもいく。ナーンも変わらない。理屈ではない。それだけだ。

そして、その2日後、長井は浅草に出来た露店の一角に店を出した。捨てられた雑誌をバラし、表紙だけを新しくしたものを売るのであった。それがなくなると、クズ屋に出た漫画本を、適当に束ねなおして売る。途中に別の漫画が飛び出してくる代物だ。これが売れたのだった。娯楽なんてない。子どもへのお土産である。人間はいい加減なのだ。オレもそうだった。

ある日、長井に南が、「人間だから、といったって毛沢東はエライんじゃないですか」といった。「この名前さえ出せば、一本取れる」。南はそう思った。毛沢東という名前に全く意味はない。世間で有名だったからだ。返ってきたのは、

毛沢東だって、人間だからな……」

返品されてきた単行本のカバー替えをしながら、そういったという。

長井によると、こうである。

「人間って、誰もさ、日常に流されるじゃない?たとえ孔子だって流されるよ」

長井勝一は、大正10(1921)年生まれだから、今年で74歳である。4年前の91年、『ガロ』発行元の青林堂を身売りし、会長になった。『ガロ』の顔としての名誉職だ。それ以来、経営にも編集にもタッチしていない。長井に30年前の回想をしてもらう。『ガロ』発刊の動機だ。“ガロ学派”が生まれる舞台の始まりでもある。

白土三平さんと出会うまで、金もうけりゃいいやってね、漫画本を出してたんです。バクチはするわ、女とは遊ぶわ。ところが、三平さんの漫画を制作する態度をみていて、自分もきちっとやらなきゃと思うようになったんです」

戦後の体験から、そのまま漫画出版の世界に入る。56年、「日本漫画社」を始め、翌年の夏の終わりごろ、白土三平に会う。

出会いは、いつも必然である。貸本屋に卸すため、仕入れた漫画本のなかから、面白い本を見つけたのであった。白土の『こがらし剣士』である。ストーリーがいい。絵もいい。どんな人だろう。一週間後、長井のもとに、その白土三平が作品を持ち込んできたのである。返事はもちろんオーケーだ。白土は、「ここでもし、ダメだったら、もう漫画を描くのはやめよう」と思っていた。出会いは偶然、とよくいうが、そんなことはない。相思相愛がある。長井は、「願ってもない偶然」と振り返る。看板は白土の作品にした。貸本屋向けの単行本『嵐の忍者』『甲賀武芸帳』を立て続けに出し、59年暮れには、『忍者武芸帳』第1巻の刊行を始める。

 

「世の中から差別をなくすことを、底の底に持った雑誌を出版していこう」

長井勝一白土三平コンビによる作品にいち早く注目したのが、のちの文化人類学者・山口昌男である。60年6月のある雑誌で、こう書いている。

「私の近所の貸本屋でも(白土三平は)人気ベスト・ワンであり、子供たちの中に割り込んで新作を借り出すのは仲々困難である」

白土作品の特徴として、上手な漫画、人間的な息吹、忍者をテーマにして組織の残酷さの強調などをあげ、「大人のマンガがエロのムードに酔っている時、残酷非道のムードを導入して単にそれによっているのではない白土の世界の方が、人間世界の把握では却ってその先のところにあるのかもしれない」と記している。

だが、『忍者武芸帳』刊行途中に、長井は結核で倒れた。七本の肋骨を切るという大手術を受けたのだった。

「『忍者武芸帳』を最後まで出せなくてね。入院中、これまでぼくは何をしてきたんだろうと思うと力が抜けていくような感じになって……。これでは、死んでも死に切れないと、ね」

退院してきた長井に、白土は「雑誌をやろう」ともちかけてきた。単行本には読者に限りがある。雑誌には広がりがある。そういった。

三平さんの大きなテーマは、いわれなき差別をなんとかしていこうということが願いなんです。その思いを大勢の人にわかってもらいたいと思っていたんじゃないでしょうか。『カムイ伝』がそうですよね。それに、その頃はいまと違って、漫画は日陰の状態にあって、これを日向に出すというか、文化の面にまで押しあげることはできないだろうかといったんです

記憶をたどるという様子は、全くない。長井にとって忘れようにも忘れることのできない話だ。

普通なら仕事が切れれば縁の切れ目だけど、三平さんは、ぼくの手術代から入院中の小遣いまで出してくれてね。三平さんと話しているうちに、ぼくは『できる』と思ったんです。もう、いいかげんな気持ちじゃなくなっていました。漫画のいい作り手を育てよう。『ガロ』の骨子は、新人を育てること、漫画の水準を押しあげること、それに世の中から差別をなんとかなくしていくことを、どこか底の底に持った雑誌を出版していこうと二人で話し合ったんです

雑誌の名前は、すぐ決めた。白土作品に『大魔のガロ』がある。長井によると「心優しく、技量のすぐれた忍者だったが、その優しさを逆手にとられ、彼になついた子どもを使った術にかかって悲惨な最期を遂げた忍者」だ。そこからとったのである。

f:id:kougasetumei:20180520215059j:plain

『ガロ』創刊である。すでに「青林堂」という出版社を作り、白土の『サスケ』を出していた。その売り上げを資金に発行するのである。白土は、翌年の65年6月号で「おのれの実験の場として、この『ガロ』を大いに利用していただきたい」との、文を載せた。実験と刺激の空間である。それを求めて、人は集まってきた。反響は意外なところからもやってくる。雑誌もまた人である。出会いを作っていく。

「私は、白土三平氏の漫画を大変おもしろく、且つ、貴重なものと思いながら、愛読しています。私は、京大経済学部の大学院に在籍し、マルクスの革命思想を研究し、公式的な石頭的公認マルクス主義の再生を日夜祈りながら勉強しております」

同年11月号、『ガロ』が行った「読者の感想文特集」の一通である。投稿の主は竹本信弘。これから7年後、全国に指名手配を受けることになる、全共闘運動のリーダー・滝田修である。大学生が漫画を手に取り、熱中する。その始まりが『ガロ』である。部数も創刊時の8千部から、66年暮れには10倍に伸びた。もちろん、多くの新人が登場してきた。

書籍取次店「トーハン」の出版調査機関・出版科学研究所によると、漫画についてのデータを取り始めたのは七六年からだという。出版刊行点数で、それを外して考えられなくなってきた。市場が急激に膨れ上がり、漫画の量産体制が始まっていたのだ。大手資本出版社の本格的な参入だ。零細企業にとって厳しさは増すばかりである。この2、3年前から『ガロ』は部数が減り始めてきた。『カムイ伝』も第一部が71年7月号で終わっていた。長井風にいえば、右手の指でマルを作ることが多くなってきたのだ。

 

南伸坊渡辺和博がよくいうんですよ、学校みたいだったよな」

毎月、資金繰りに追われる。税務署から、「管轄外ですが、もう少し、社員の給料を上げたらどうですか」といわれたこともある。しかし、会社をつぶすわけにはいかない。援助してくれた漫画家の人たち、印刷、製版関係の人たちがいる。なによりも、「これをやめて、お前になにが残るのか」と励まされるとピリオドはうてない。だが、とうとう力尽きて、91年、倒産よりもと身売りを選んだ。

「いまは天国みたいなもんです。こうして、起きては好きな山本周五郎司馬遼太郎の本を読んでるだけですから。会社をやってたときは地獄ですよ」

白土三平は昨年9月号の『ガロ』で、長井さんがいたからこそ『カムイ伝』が描けたという。普通の雑誌社だったら、ストーリーにクレームをつけただろう、と。

南伸坊は、「ナベゾ(渡辺)がよくいうんですよ。『ガロは学校みたいだったよな』って」と話す。南が編集者として『ガロ』にいたのは、72年から7年間だった。入社して、いきなり写植をまかされた。台割りで凝ると、長井が近寄ってきて「あんまり凝らないでなぁ、南」とささやいた。夏の暑い日、クーラーがないので、長井が「もういいか、今日は」というと、そのまま、みんなで銭湯に行った。

「ほら、学校で、先生が今日は外で遊ぼうか、ってあるでしょう、そんな感じでした」

雑誌『ガロ』で、作者に自由に描かせるのと同じ空間が編集部だった。勝又も松田も気ままに遊びに来ていた。南も、長井のことを「オヤジのような人」という。「長井さんに、自分のことがわかってもらえるのがうれしい」。“ガロ学派”は、「自分の好きなことをやる」と「長井さんにわかってもらうこと」が見えない校則かもしれない。人が人に出会う。すでに手垢にまみれてしまった、この言葉が、よみがえってくる。

出会いは次の出会いを用意する。9月、松田哲夫は『頓知』という新しい雑誌を創刊する。アートディレクターは、南伸坊だ。松田は創刊に向け多忙な日々が続いている。初めに考えた部数の2倍の数字を取次が出してきたそうだ。反響の大きさに驚いている。

長井勝一の周辺でいつのまにか出来上がった群像は、キーパーソンに満ちている。有名というのではない。何かが始まり、何かを始める、そんなときに“カギ”になっている人のことである。扇子を開いたときの要である。

(文中敬称略)

長井勝一=ながい・かついち(1921~1996)

青林堂の創業者であり、漫画雑誌 『月刊漫画ガロ』の初代編集長。

白土三平水木しげるといった有名作家から、つげ義春花輪和一蛭子能収矢口高雄滝田ゆう、楠勝平、佐々木マキ林静一池上遼一安部慎一鈴木翁二古川益三ますむらひろし勝又進つりたくにこ川崎ゆきお赤瀬川原平内田春菊丸尾末広ひさうちみちお根本敬南伸坊渡辺和博みうらじゅん杉浦日向子近藤ようこやまだ紫山田花子ねこぢる山野一泉昌之西岡兄妹東陽片岡魚喃キリコといった異才までを輩出していった名物編集長として知られる。

文・中川六平=なかがわ・ろっぺい(1950~2013)

ライター。編集者。1950年、新潟県生まれ。同志社大卒。学生時代、山口県岩国市で反戦喫茶「ほびっと」を経営。卒業後、新聞記者を経てフリー。日本の近代史に関心を持ち、雑誌『マージナル』編集長を務める。編著書に『天皇百話』(共編)など。2013年、逝去。

(所収『AERA』1995年8月28号)

 

漫画雑誌『ガロ』が30年間続いた秘密は

f:id:kougasetumei:20180520214003j:plain

『ガロ』。奇妙な月刊誌名である。白土三平の忍者漫画からもらった。

忍者「ガロ」は、優しさがあだとなって悲惨な最期を遂げた。「大好きな話だったんですよ」

1964年に創刊、20日には30周年の会が開かれた。

『ガロ』が育てた個性は多い。つげ義春林静一佐々木マキ川崎ゆきお蛭子能収……。「自分の感覚に合う作品を載っけただけなんです」。並外れていようとキラリと光る何かさえあれば、と。

「長期的な経営戦略はなかったねえ。その月、その月、好きなことでとりあえず食ってければいいってね」

大学生にも一目置かれ、67年、68年には8万部刷った。時代が熱かったころだ。しかし、70年代半ばに、部数はがくんと落ちた。原稿料を払えない状態が当たり前になった。

「楽しい思い出ねえ、うーん、浮かんできませんね。命を削るようにしてかかれた作品なのに、お金が出せなくて、悪いなあ、つらいなあってことばかりで」

「かかせてくれ」との申し出を、材木屋二階の編集部でひたすら待つ毎日。それでも芽吹き間近の才能が長井を慕い、『ガロ』の人間味を求めて集まった。何度か襲った雑誌存続の危機にも、どこからか支持者が現れた。

私の方が漫画家に面倒みてもらってきた感じです

3年前、山中潤社長に編集も経営も任せた。「お酒と本をやっと楽しめるようになりました」。ただし、今の漫画はまず読まない。

「漫画出版はお化けみたいな規模になっちゃった。その割に気の利いたものは少ない。若い人は活字離れするし。自分のやってきたことは良かったのかなんて思うけど、しょうがないよね。自分の器量では、ここまでがいっぱいいっぱいだから」

(文・鈴木繁)

所収『朝日新聞』1994年8月23日号

『ガロ』やる前は、金もうけもうまかったんですよ」。73歳。

 

付記「青林堂に関連する一連の報道について」(山中潤

2017年2月14日に『ガロ』元編集長である山中潤さんの声明が発表されました。以下全文のテキストを記載します。

創業者長井勝一氏および青林堂株主総会より正式な認証を得て青林堂を受け継いだものとして、最近の報道について、きっちり申し上げる責任があると思い、ここに記すことにいたします。

私は長井氏より「青林堂カムイ伝を連載するガロを出版するために作った」そして「ガロは差別を無くすために生まれた雑誌だ」という言葉をはっきりと聞いています。テーマも漫画家もいわゆるメジャー漫画誌では扱わないような「社会から零れ落ちそうな物を掬う」ということが根底にありました。

ガロに掲載された、芸術的作品も、面白主義や、差別や不条理を様々な方法で描いた作品も、全ての作品の根源には「カムイ伝」や「長井勝一の創業の精神」があります。

私もその魂を継続、拡大することが役目と思い、1990年より97年まで青林堂代表取締役兼編集長の職に挑んだつもりです。

会長の職に就いて頂いていた長井氏が96年に亡くなり、当時私が経営していたツァイトというパソコンソフトウェアの会社もWindowsの登場により、海外ソフトとの厳しい競争にさらされ、右肩上がりとは言えない状況ではありました。

そのとき、私をコンピュータの世界に引き上げたF氏にツァイトの社長を交代してもらい、私は青林堂に専念する事に決めました。ツァイトは自分で創立した会社だけれど、青林堂は私が預かっている“文化”であり、自分の事情でつぶすなどしてはならないと、本当に思っていました。

ところが、ツァイトの社長を頼んだF氏の父親が亡くなられ、F氏は心のよりどころを関西のO氏にゆだねるようになります。O氏は青林堂に興味を示し、青林堂の株式を取得するようにF氏を動かし始めました。

その様子が見えてきた時点で、私はF氏から距離を置くため、当時青林堂の株式を所有していた私の個人会社の印鑑を持って、極力東京から離れるよう努めました。

しかし、今、思い出しても胸が痛いのですが、私はF氏の様々な工作に乗せられ、無理やり青林堂まで腕づくで連れて行かれ、当時青林堂の実印と青林堂の株式を保有していた会社両方の実印をF氏に取られました。

その夜のことは、新聞などで大きく報道されたようですが、私は再度東京を離れたので、その後、ツァイトが私の社長名で倒産をしたこと以外は、詳しくわかりません。

その後の編集部の独立や新会社設立、その後の青林堂の動向は、内部の人間としてではなく、外部の人間として知る事になります。

とは言え、そこで踏ん張りきれなかったことは私の責任であり、今でも大きな悔恨として日々生きております。

報道されている現在の青林堂の社長であるK氏やW専務とは、97年以前より交流はありましたが、それは私個人の範囲であり、編集部との付き合いは極めて薄く、長井氏とは面識もありません。

つまり、現在報道されている青林堂は名前は同じであっても、創業者長井勝一氏とはまるで関係のない、単に株式を取得した人間が、元々の青林堂やガロの精神とは関係のないところで行っている全然別の事業に過ぎず、元々の『ガロ』とは無関係です。

私より、かつてのガロ・青林堂を愛して下さった、読者・作家・関係者、そして『ガロ』を今でも愛し続けてくださるファンの皆様が、様々な誤解や偏見に晒されることもあるかと思いましたのでこのような文章を記させていただきました。

『ガロ』元編集長・山中潤

図版

青林堂『月刊漫画ガロ』1971年12月号表紙(画・林静一

水木しげる『私はゲゲゲー神秘家水木しげる伝』角川文庫、2010年、194頁

勝又進作品集『赤い雪』青林工藝舎刊、2005年

高信太郎『ミナミトライアングル 解決編』(青林堂『ガロ』1977年6月号)

青林堂『月刊漫画ガロ』1992年8月号表紙(画・山田花子

https://twitter.com/seirinkogeisha/status/966485502546161665

青林堂『月刊漫画ガロ』1972年5月号表紙(画・辰巳ヨシヒロ

白土三平他『忍法秘話19』青林堂刊、1965年

赤瀬川原平『おざ式』(青林堂『ガロ』1973年7月号)

青林堂『月刊漫画ガロ』1997年8月号表紙(画・Q.B.B久住昌之久住卓也)※休刊号(64年の創刊以来初の休刊、その後も断続的に復刊休刊を繰り返し、2002年の休刊を最後に今日まで『ガロ』は刊行されていない)

青林堂『月刊漫画ガロ』1983年4月号表紙(画・湯村輝彦

青林堂『月刊漫画ガロ』1968年5月号表紙(画・水木しげる