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雑誌周辺文化研究互助

つげ義春インタビュー「なんてつまらない人生なんだ、と思うこともあります。このまま終わってしまっていい」

「漫画家のつげ義春さん(現代の肖像)」

なんてつまらない人生なんだ、と思うこともあります

ねじ式」「紅い花」から20余年。

三たびブームである。生と死への不安漂う作風が、若い世代の心をとらえる。

(文・佐野眞一

───今度、映画になった「無能の人」シリーズが雑誌に発表されたのは1985~86年。87年は自伝的要素の強い「海へ」と「別離」の2作だけですから、随分、長い休筆ですね。

目が悪いんです。ふだんの生活に支障はないんですが、集中すると、目の中に花火のようなものがチラついて、とてもマンガが書けるような状態ではないんです

 

───われわれは作品を通じて、つげさんの日常を想像するほかありません。実際には、1日をどう過ごされているんですか。

朝10時半頃に起きて、近くの市民プールに行きます。不安神経症をなおすため医者にすすめられたもので、もう10年以上続いています。午後は多摩川の近辺を自転車で散歩して、夜はボーッとしています。新宿に出るのは1年に1回くらいです。大体、外への関心というものが全くないんです

 

調布駅前の喫茶店の昼下がり、暗血色のマフラーで顔の下半分を覆ったつげ義春(よしはる)が、ボソボソとしゃべっている。反対側で私は、初めて会うつげの話をうなずきながら聞いている。いくつかの作品が点滅し、突然、あらぬ妄想がやってくる。いま目の前にいるのは現実のつげではなく、作品が実像として立ち現れた姿なのではないか……。

 

───「無能の人」はつげ作品としては、初めての映画化ですが、よく映画化を許諾しましたね。

話があった頃、息子が高校受験だったんです。もし私立に行くとなると、まとまったお金がいります。原作料が丁度、その額と同じぐらいだったから、お受けすることにしたんです

 

東京の川べりの船宿で生まれた父の末期を見て対人恐怖症になった

───そのお金のことですが、マンガも文章も書いていないとなると、生活費はどうされているんですか。

ひと月の生活費は17万円と決めています。ムダな出費はしないよう、昔から肝に銘じているんです。団地のローンも月に2万円くらいですので、親子3人、どうにか印税収入でやっていけているんです

 

床屋にも行かず、散髪は状況劇場元女優で妻の藤原マキの仕事である。つげは、畳の上に散らばった髪の毛を眺めては、これをなんとか金にかえる方法はないものだろうか、とぼんやり夢想することがあるという。

なんてつまらない人生なんだ、と思うこともあります。創作も大それたものとは考えていません。自分の生活が支えていければいいんです。マンガ以上に、外の社会とはずれる商売はないか、と毎日考えているんです

 

重くゆっくりした声は語尾にくると、水に沈んだように、くぐもって尾を引く。内語をもどかしげに伝える、吃音者の努力にも似たその口調には、相手を気がねさせまいとする神経がめぐらされ、痛々しいほどである。

昔のマンガ家仲間は「あんなやさしい人は見たことがない。つげさんが結婚したとき軽い嫉妬を感じた」と述懐したが、それが素直に実感できた。

ぶしつけな質問に、時に眉根をピクリとさせるものの、内面に向かって靄ったような切れ長の目に、すぐ戻っていく。この人のガラスのような感受性は被弾しても外には飛び散らず、1枚残らず内側に突き刺さるのだろう。

1968年、『ガロ』発表の「ねじ式」で衝撃的な登場をしたつげ義春は、その後のマンガ文庫ブームで再度脚光は浴びたものの、その存在はそれ以降、大方の記憶から消えていた。

昨年公開された竹中直人監督の映画「無能の人」の、アンコール封切されるほどの人気や、やはり昨年出版された紀行文集『貧困旅行記』の、発売後3カ月足らずで8刷、4万7000部という好調な売れ行きは、記憶の彼方から三たび、つげをひっぱり出す牽引車の役目を果たした。

第3次つげブームともいうべきこの現象の特徴は、かつて「ねじ式」に熱狂した全共闘世代だけではなく、20代、10代の若者たちにも支えられていることである。

漫画評論家梶井純は、多摩川の河原で拾ってきた石を売る男や、鄙びた安宿を探して旅をする男の話に若い世代が共感するのは、彼らが前行世代ほど経済第一主義に汚染されずに済んだためではないかという。つげ自身は棒杭のように変わらず、そのまわりを去来する時代という川の流れが変わったことが、今回のブームの背景をなしている、というのである。

途切れたと思えばまたつづく、こうしたつげ読者の流れは、つげが私小説家的素質を濃厚にもったマンガ家であることとも無縁ではない。熱心なつげの読者は、彼の作品と同時に、つげ義春という、いささか現世ばなれした物語も読んでいるのである。

だからこそ、作品の舞台となった土地を探索して歩く、つげ義春研究会なるものが結成され、貸本マンガ家時代の処女作に30万円という高値がつき、一時は年収90万円の時代もあった超寡作に比して、数十倍にもなるほどの評論が書かれてきたのであろう。

だが、一見私小説的なつげの作品は、当然のことながら、自分の過去や、日常生活を単純になぞっただけのものではない。自伝風作品と並んで彼の主要ジャンルをなす、旅もの、夢ものといわれる異空間、異時間に迷いこんだ作品が、つげの作品全般に重層感と深度を彫りこみ、読む者に、恐怖にも郷愁にも通底する既視感を与えている。

いわばつげは、私小説という伝統的手法を借りながら、異常とも思える抽象力で、その手法自体を宙づりにさせている。そして、この抽象力という喩の力は、彼の出自、とりわけ、水のたゆたいのなかで生まれ、幼児期を海と川の辺で過ごした遠い水の記憶が、おそらく大きな源泉となっている。

つげは1937年10月、東京・葛飾区立石の中川べりの船宿で生まれた。父の柘植一郎は岐阜県恵那市の出身の板前で、名古屋の割烹旅館で修業中、同じ旅館に働いていた母・ますと知り合った。豪農一族の父方は家柄の違いを理由にこの結婚に反対し、2人は棍棒や竹槍で山狩り同然に追われたあげく、伊豆の大島に難を逃れた。

つげが生まれたのは両親が一時避難的に住み込んだ大島の旅館を離れ、福島県の四倉で寿司屋を開いたものの失敗、失意のまま再び大島に戻る旅の途上だった。つげを産んだ中川べりの船宿は、母の実父の家で、大島に戻る途中産気づいた母が、産屋がわりに借りたものだった。

大島では4歳まで過ごし、その後1年は母の郷里の千葉県・大原で暮らした。夏は氷屋、冬はおでん屋で生計を支えた母は、目の前の海につげを連れて行き、よく自分の背中につげを乗せて泳いだ。つげのなかに残る最も古い海の記憶はこのときのものである。

 

小学校卒業後、メッキ工場へ貸本マンガを描き始める

父は当時、東京・渋谷の旅館に出稼ぎ奉公に出ており、つげとはめったに顔をあわすことがなかった。その父はつげが5歳の時に死ぬ。つげはそのときの光景を今でも恐怖感をもって思い出すことがある。

死の直前、錯乱状態をきたした父は、出稼ぎ先の薄暗い蒲団部屋に隔離され、長く伸びた爪で中空を掻くような仕草をし、蒲団の間でしゃがんだまま息を引きとった。母は「これが父ちゃんだよ。よく見ておくんだよ」と、絶叫しながら、末期の父の前につげを引きずるようにして立たせた。

「人間が一番こわい」というつげの恐怖感は、たぶん、幼児期のこのただならぬ体験に始源を発している。

父の死後、母と、つげを間にはさんだ3人の兄弟は、つげを産み落とした葛飾区に移った。一家は京成立石駅近くの廃墟のような家に無断で住みつき、母はすぐ近くの闇市で2坪の居酒屋を開いた。だが、そんな収入では一家の生活を支えられるはずもなく、つげは小学校5年生時分から、兄と一緒に駅前でアイスキャンデーを売る生活を余儀なくされた。

経済的貧困以上につげを怯えさせたのは、母と再婚した義父の冷酷な仕打ちだった。近所の中華ソバ屋に住み込んで働きだしたのも、家に帰りたくない一心からだった。

対人恐怖症はいよいよ募り、小学校6年の運動会直前、みんなの前で走るのが急に怖くなり、カミソリで自分の足の裏を切った。つげを慰藉してくれたのは、人に会わないで済むマンガ模写への耽溺と、突然現れた養祖父の溺愛だけだった。だが、その養祖父は間もなく浜の網を盗んだ容疑を受け、つげの前から姿を消した。つげにとって新しい事態の出来は、いつも厄災をはらんでいた。

やがて母と義父との間に2人の妹が生まれ、一家7人は貧窮にあえいだ。本田小学校を卒業後、中学には進まず、兄とともにメッキ工場に働きにでたものの、経済的困窮と、家の中のいさかいは深刻さを増す一方だった。

その重圧に堪え切れず、つげは2度も密航を企てた。結局失敗に終わるが、この企てには、父母との平穏な生活の記憶に結びつく海への回帰のイメージが隠喩されているような気がしてならない。

この時つげが折檻のため預けられたのは、自分の産屋でもある中川べりの祖父の船宿だった。つげは、その近くにある繋留船の家が死者を弔わず、そのまま川に流した、と叔父から聞かされ、激しい恐怖心を覚えた。つげは幼年期のすべてを、生と死のイメージが浮遊する水のまにまにおくるのである。

「紅い花」にしろ「山椒魚」にしろ、つげの作品はどれも、水への偏愛と、それゆえの忌避が遠い心音となっている。

つげの原風景となった立石駅周辺から、中川べりまで歩いてみた。川はすぐ近くを流れているはずなのに、白茶けて、くねくねと曲がりくねった迷路のような細い道は、なかなか川岸にたどりつこうとしない。

角を曲がると夏ミカンの実がなる黒塀囲いの家が現れ、次の角を曲がると日の丸の旗を出したタイル造りのタバコ屋が現れる。水神社と碑のある小さな社の横の苔むした石段をあがると、やっと、思わぬ近さで、大きく蛇行する黒い川の流れが飛びこんでくる。

遠近法が全くきかないこの風景に強い既視感を覚えたのは、私がこの街のすぐ近くに住んだことがあるという個人的事情以上に、それがつげの描く世界そのものだったせいだろう。ここでは風景全体を中心でひきしぼる焦点はなく、個々の景物は互いに折り重なるように畳み込まれている。

つげの弟で、やはり寡作のマンガ家として一部に熱狂的ファンをもつつげ忠男がかつて働いていた血液銀行の建物も、ゴム工場に目隠しされるように、今もこの川べりに残っている。

忠男はここで採血ビンを洗浄し、売血者が少なくなってからは、産院から引き取った胞衣や胎児を出刃包丁で切り刻み、肉片から血液をしぼりとる仕事までやった。その血液銀行に、つげは弟に顔を合わせぬようにして通い、売血で当座の糧を得た。

当時つげは立石の家を出、錦糸町の運河沿いの3畳間のアパートで貸本マンガを細々と描いていた。対人恐怖症は進行し、谷崎潤一郎やポーの小説を耽読することで、自殺を思いつめるほどの不安をどうにかしのいでいた。

「女を知れば度胸が出るかも知れない」と思い、自転車で立石駅裏の赤線に行ったこともあった。この時の体験はつげの「断片的回想記」に書かれているが、ここにはすでに、つげ作品の基本韻律がはっきりと刻まれている。

外に出ると急に勇気が湧いてきたように思えた。附近の中川の土手を無茶苦茶に自転車を走らせた。そして川べりで仰向けになっていると、嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。数日して、また彼女に逢いに行ったら、そのときは、他の客がついていた。胸が張裂けそうな思いだった。それから二度と赤線へは行かなかった

 

───つげさんの世界が確立したのは、『ガロ』66年2月号の「沼」だと思います。雁を撃ちにきた少年とオカッパの美少女の一夜を描いた幻想的な作品で全編に思春期特有のエロチシズムへの憧れと恐怖が漲っている。明らかにそれまでの作品とは異質です。心境の変化があったとしか思えません。

それはよく聞かれるんです。でも、自分でも答えが出ないんです。それにあの作品は不評で、マンガ家をやめて凸版印刷の職工になろうと真剣に考えたくらいなんです

 

「沼」の舞台となった大多喜は、母方の郷里の大原からいすみ鉄道に乗り、40分ほど行った隠れ里のような城下町である。両側に小暗い森の広がる切り通しの軌道をゴトゴト走っていると、入眠体験にも似た甘美な幻想におそわれる。緑の蛇のような夷隅川の細い流れが、線路脇に現れては消える。

ここは白土三平の釣りの常宿で、白土が「つげを励ましてやろう」と誘ったのが、最初のきっかけだった。

 

初期の作品は難解だと酷評された 水木しげるの助手で生計をたてた

ここでつげは、大原八幡岬の白い波頭が歯を剥く海の叙情とも、期限切れの血液の放流で深夜、真赤に染まる中川のよどみの情念とも違う水の姿態に出会った。ゆるやかに蛇行し、瀬で沼のような深い瀞をなす夷隅川の景観は、つげに、静逸という水の新たな隠喩を注いだ。

それだけではない。『ガロ』元編集長の長井勝一によれば、同誌の初期資金はすべて白土三平がまかない、白土は自分の「カムイ伝」の原稿料もとらず、つげら仲間に回していたという。

その白土が宿代も全額負担してくれた約1カ月の大多喜滞在は、つげにとってあらかじめ喪失されていた父性への渇望を、たとえかりそめの形であれいやしてくれたに違いない。

だが、大多喜で生まれた数編の安定感ある作品は、難解、文学的と酷評され、つげは、「ゲゲゲの鬼太郎」の人気で忙しくなった水木しげるのアシスタントとして、1日2000円のアルバイト料で長らく糊口をしのがなければならなかった。

この頃書かれた作品は、マンガ家であるより作中人物になってしまいたいという切実感がにじみ、読むのがせつない。貸本時代の仲間によれば、つげは自分の失恋体験を、絵まで描き、倦まず語ることがよくあったという。

水木プロ時代の蒸発も、自分以外のものへの逸走衝動の現れだった。

『貧困旅行記』のなかに、この出来事を回想したすごい文章がある。

現在は妻も子もあり日々平穏なのだが、私は何処からかやって来て、今も蒸発を続行しているのかもしれない

孤独と絶望からの救済を自己滅却に希求する。同じ志向は実際にみた夢に題材をとった作品への傾斜にもみられ、この分野の傑作「必殺するめ固め」では、未生の自分に戻る胎内回帰願望すらつき破り、胎盤の毛細血管の中にまでもぐりこむDNA的世界が表象化されている。

 

───不安神経症の方は少しはいいんですか。

よくないんです。毎日漢方薬を煎じて飲んでいるんです。子供にも飲ませているんです

 

15年前、妻の癌がわかった時、つげは、空に浮かんだ巨大な目が、じーっと自分を見ている幻想に怯やかされ続けた。

変化があることがこわいんです。変化はいつも不吉な知らせなんです

 

空中の巨大な目。それ自体がもう、つげの作品世界である。つげをよく知る編集者によれば、つげは世評ほど寡作ではなく、かなりの数の作品を構想途中で破棄しているという。

散歩の途中、ふと廃屋に気がつく。なかに入っていくと、机の端に万力がくくりつけられ、間に真赤な金魚がはさみこまれている。男はわれ知らずハンドルに手をかけ、まだ生あたたかい金魚に力を加えてゆく……。「万力のある家」と題されたこの短編も、未生のまま放置された作品の1つである。

 

───「無能の人」の子供は実に悲惨な顔をしてますね。自分の子供時代の過酷な体験が投影されていませんか。

子供を見ると不憫でならないんです。だから自分の子供を溺愛してしまうんです。子供がひどく内向的になったのも、甘やかしすぎた僕の責任だと思っているんです

 

いつもの散歩コースの多摩川土手に自転車でやってきたつげは、新聞もテレビも天気予報以外見ません、ヒマにみえますが、アレルギー体質の一人息子用にチラシで見た防ダニ蒲団を買いに行ったり、結構忙しいんです、と、相変わらずの誠実さで答えつづけた。

糠雨に煙る川面から夜の気配が漂いだし、対岸のマンションの明かりがひんやりとした外気ににじみはじめる。

もう、妻と子供が待つ団地に帰る時間である。そこは、対人恐怖への理解と慰藉が待つ安寧の場所であり、それと引きかえに得た生活の煩悶から離脱する衝動を監視する、桎梏の場所でもある。

自分自身が物語そのものだったら、どんなによかったろう。

自転車のスタンドを外してペダルを踏みこむと、つげは、宵闇が濃さと冷気をます土手下の道を、材木のような長身をまっすぐに立て、小さな至福と大きな不安が待つ世界に吸いこまれるように走り去って行った。

(文中敬称略)

さの・しんいち

1947年、東京生まれ。早稲田大学文学部卒。著書に『業界紙諸君』『紙の中の黙示録』『昭和虚人伝』など。このインタビューはアエラ』1992年3月10日号に掲載された。

 

「必殺するめ固め」のつげ義春さん 内なる不条理漫画に託す

つげ漫画のファンには楽しみな本が出た。「夢の散歩」以来六年ぶりの作品集。昭和50~55年に発表された12編を集めている。年平均2編という相変わらずの寡作である。

ええ、なまけ者なんでしょうね。経済的に追い詰められないと描けない悪いクセがあるんです。ことにこの1年ほどは、精神のバランスを崩してしまい、仕事がつらかった

神秘的な漫画家、とさえ言われるつげさんだが、その目も語り口もあくまで穏やかだ。

代表作の「紅い花」「ねじ式」「沼」など、暗い情念を主調にする不条理漫画が若い世代に鮮烈な一撃を与えたのは、大学紛争に象徴される昭和40年代初め。漫画=芸術論争に知識人が熱くなったのも、つげ作品がきっかけだった。以来10年―。時代も漫画も変わったが、つげさんは同じものにこだわり続ける。

ひとが生きていることの不確かさ、その不安感とでもいうのでしょうか。ボクの関心はそこにしかない。外の世界への興味はありません。作品の中に社会的な広がりがあるとしても、それはボクの潜在意識の中で内化された社会なのでしょうね」。

そして、存在することの不安を、最も鋭いイメージで示してくれるのが夢という。作品集のほとんどの作品は、実際に見た夢を描いている。明確なストーリーのない作品も多いが、得体の知れない不安感が色濃く漂う。

夢はボクにとって(現実の)体験以上に強烈です」というつげさんは、進駐軍兵士に追われて必死に逃げる夢をよく見る。今度の本で最も好きだという「窓の手」は、そうした夢を5年間も発酵させた作品だ。

精神の健康もほぼ回復し、「ボクも43歳、年相応に自然の風物などを淡々と描いてみたい」という。東京・調布市の緑に囲まれた団地の3DK。わきで息子さんが積み木遊びに余念がなかった。

(読売新聞・東京朝刊 1981年6月8日号)

 

水木しげるさんを悼む 葛藤、悩み、本棚には哲学書 つげ義春

水木しげるさんが亡くなられたということは、大変なことで、しかも突然で、うまく言葉で言い表すことができません。

私が、水木さんのアシスタントを務めていたのは、水木さんがすごく忙しかった1960年代後半の4〜5年だった。当時、掲載していた雑誌「ガロ」の編集部からお願いされて、1か月に4、5回、手伝いに行くようになった。雑誌への掲載と、水木さんの手伝いで私の生活は成り立っていた。水木さんは無口で、私的な会話をした記憶はほとんどない。ただ、水木さんの本棚に哲学書がいっぱいあるのを見た時、驚いた。テレビなどでは、とぼけたところや、変人みたいな態度を取っていたけれども、内面はそうではなく、葛藤や悩みがたくさんあったのではないかと思った。その解決を、哲学書などに求めていたのではないでしょうか。

水木しげるさんと私の家は同じ東京都調布市にあるが、線路を挟んで、水木さんは北、私は南に住んでいる。歩けばわずか15分くらいなのだが、私たちを線路が分断しているみたいで、それを越えていくことがなぜかできなかった。

最後に会ったのは、4、5年前。水木さんの家の近くの神社で開かれていた骨董(こっとう)市の近くでばったり会った。そのとき、水木さんが「つまらんでしょう」と言ってきた。私も話を合わせるために「つまらないですね」と応じた。すると、水木さんは「やっぱり」と弾むように言った。会話はそれだけだったが、水木さんがそう言ったことの意味は何となく分かった。大人気になり、大家になったけど、内心では自分の人生はつまらないと思っていたところがあったのではないか。長い人生を、納得せず、常に悩みを持ち続けておられたのだと思う。(漫画家、談)

(読売新聞・東京朝刊 2015年12月1日号)

 

日本漫画家協会賞・大賞 つげ義春さん 空想と現実の間に漂う

◆「生活くさい漫画を描きたかった」「このまま終わってしまっていい

新作は30年前から描いていない。だが「ねじ式」「無能の人」といった作品が与えた衝撃はいまだに大きい。今月9日、第46回日本漫画家協会賞コミック部門の大賞に漫画家のつげ義春さん(79)の一連の作品が選ばれた。表舞台にほとんど出てこない伝説的漫画家が電話インタビューに応じ、創作の原点について語った。(文化部 川床弥生)

<ぼくはたまたまこの海辺に泳ぎに来てメメクラゲに左腕を噛(か)まれてしまったのだ>

1968年に発表した代表作「ねじ式」は、左腕の静脈が切れてしまった男が医者を探し回る幻想的な物語。最終的に女医にねじで血管をつないでもらうことになる。

説明するのが難しくて発売当時も話題になりました。しっかりしたテーマをつかんで描いたものではないんです。見た夢をヒントに、想像と混ぜたんですね

 空想と現実が入り混じった独特の世界観の作品が数多く生まれた背景には、雑誌「ガロ」の存在が大きいという。

 幼い頃は、手塚治虫のまねから始め、小学校を卒業後、メッキ工場や、新聞販売店などで働いた。17歳で漫画家デビュー。だが2、3年で、当時の人気漫画の主流だった空想冒険活劇に物足りなさを感じ始める。

早く働きに出て、現実の生活を見ていますから。生活くさい部分を持った作品を描きたいと、だんだんリアリズムを求めるようになりました

「ガロ」では自由に描かせてもらえた。「娯楽物から脱却して、自分なりに質のいいものを表現したいと」。一瞬のひらめきで思いついたという「紅(あか)い花」(1967年)は、少女が大人に成長する様子を川を流れていく花で表現し、女性からも高い支持を得た。売れない漫画家の日常を描いた「無能の人」(85年)はお気に入りの一つだ。

緻密(ちみつ)で不思議な美しい背景は、映画雑誌に掲載された写真を模写したり、自身が旅行した時に撮影した写真を描き写したりした。

ラストはあえて曖昧にして、読者の想像をかきたてる作品が多い。「まとまり過ぎちゃって終わるのは面白くない」。幻想の世界を描いてきたが、源流にあるのはやはりリアリズム。「現実から浮き上がりすぎた漫画はつまらないと思うんです

87年に発表した「別離」を最後に、漫画は描いていない。病気の妻を看病するため中断し、以後、創作意欲が戻らなかったという。現在は長男と2人暮らしで、生活に追われる日々だ。これまで描いてきた原画や道具も押し入れにしまったまま。「ありがたいことに作品が繰り返し再版されるので、何とか食いつないでいます」。唯一読む漫画は、数年に一度発行される「表現にこだわり、現実を描く」漫画家たちの作品を集めた単行本のみだ。

今回の大賞受賞は「漫画界の中でも異色の存在で、その作品世界は芸術性も高く追随を許さない」が理由だ。以前から作品に対する評価は高かったが、意外にも賞を取るのは初めて。「一作一作、一生懸命やってきたつもりなのでうれしい」と喜ぶ。

気になるのは新作の可能性だが、「今後も描くということは考えておりませんし、このまま終わってしまっていいと思っています」。

 (読売新聞・東京朝刊 2017年5月18日号)

ブレイン・リゾーター高杉弾とメディアマンのすべて──僕と私の脳内リゾート特集

メディアマンライブトーク──高杉弾とメディアマンのすべて

蓮の花

4才から9才まで川崎の土手の下に住んでたんだけど、そこには蓮の池があって、毎年沢山の花が咲いてすごく綺麗だった。それで実がなると近所の悪ガキと一緒に池にズブズブ入って実を取って食べてたんですよ。蓮の池って結構深いんだけど、水面が鼻ギリギリになるくらいまで入って取ってたの。よっぽど腹が減ってたんだろうね(笑)。味は淡い味でコリコリしててすごく旨い!

それで実を取っている時に、フト見上げると、頭上に蓮の花があって、さらにその上には青空が拡がってる、つまり蓮の花を下から見るっていう、あの極楽のように美しい風景を僕は5才の時に体験しちゃったんだよね。あのときの美しさと気持ちよさは、僕の全ての原点になってるんですよ。

 

自販機本との出会い

『冗談王』が創刊号でつぶれちゃって、僕は大学中退して手伝ってたからいきなり失業(笑)。それでアメリカにいったり原宿でTシャツ売ったりしてブラブラしてたら、ある日ゴミ捨て場でエロ本を拾ったのね。それで家に持ち帰って見てたら、写真がすごくいいんだよ。版元をみたらエルシー企画ってあったんで、次の日さっそく電話して編集部に遊びに行って、そのままアルバイトに入ってスキャンダル『スキャンダル』の「Xランド」という8頁を編集したの。それが自販機本との出会いですね(笑)。

あの頃は自販機本の黄金期で出せば売れるという時代だったから、僕らみたいなわけの分からない奴にも作らせる余裕があったんだね。それに編集者は全共闘世代の人が多かったから、僕らみたいな下の世代に興味を持ってくれたんだと思うよ。それで『Jam』や『HEAVEN』を作ったんだよね。僕はポルノもエロもいまだに好きで、そういう業界とはつかず離れずで付き合ってるんですよ。やっぱりポルノ業界って山師みたいそうなとこあるからさ、そういうの大好きなんだよね(笑)。

 

作文

作文を書き始めたのは大学に入ってからで、『便所虫』と『BEE-BEE』というミニコミ誌を作ってたんですよ。でも内容が過激なんで、教授には疎まれてたし、体育会系からはよく襲撃うけたりしてた(笑)。僕は不良系が好きだからふざけた文章しか書かなかったんだよね。それで『BEE-BEE』が『本の雑誌』主催の第1回全国ミニコミガリ版誌コンテストで優勝して、椎名(誠)さんに「遊びにきなさい」って電話もらったりしてね。

でも本格的に書くようになったのは、『冗談王』という雑誌の編集を手伝ってからだね。その時「高杉弾」っていうペンネームを考えたんですよ。

本当は僕は漫画家になりたかったんですよ。でも絵がダメだったし、その頃不条理漫画は許されなかったからつまらなくなっちゃって、それで作文の方にいってしまったのかなぁ。

 

カメラとステレオ写真

どちらも趣味で始めたんだけど、赤瀬川(原平)さんのおかげでステレオ写真というものが脳内リゾート開発にすごく役立つ、脳内リゾート開発を説明する時に、ステレオ裸眼立体視トマソンは具体的にわかりやすいんだよね。誰も言葉でいえなかったものを面白いんだって思えるようになることが脳内リゾート開発だから。

それに写真ってある意味でその人の頭の中が出るから、いくらいいカメラ使ってもいい写真がとれるわけじゃないでしょ。僕は写真が大好きで、それも他人が撮った極上のものが好きだから、集めているうちにたまっちゃって、それで『写真時代』に「海外面白写真」の連載を始めたんですよ。

 

音楽

音楽も笑いと同じで、人間の悲しみや苦しみを救ってくれるものだから、生きていくためには絶対に必要だと思う。特に音楽って祝祭空間だからさ。ロックコンサートなんてまさにそうだよね。

僕の大好きなボブ・マーリーの曲なんかも虐げられた人達がパワーを持つための音楽だし、そう考えると、アジアや赤道文化圏の音楽、あそこは自然は過酷だし有色人種だから貧乏で虐げられてる、そこで発生した音楽が世界で一番いい音楽だと僕は思ってる。

レゲエのほかにもジミヘンやオーティス・レディングも大好きだし、あとはジャズ。ジャズは植草甚一さんに教えてもらったの。あの人は僕の先生だから。やっぱり自分を支えてくれる音楽ってだいたいの人が持ってるでしょ。

で、音楽はつまりはメディアでしょ。ある精神を違う時代の人達につないでいくという意味でね。だからやっぱりなくてはならないものだと思うよね。

 

モダン・プリミティブ

これって面白い言葉だよね。ヨーロッパの進んだ文化の人達が刺青してるでしょ。最初は絵を入れてたんだけれど、最近流行ってるのがアフリカの原住民が入れてるような文様なの。原始をモダンなものとして捉えてるんだよね。刺青のほかにもピアシングとかボディペインティングもそうだけれど。

これは何故かというと一つはキリスト教世界の成れの果て、もう一つはアイデンティティを求めてる。自分はドイツ人だ、とかさ。でもそういうことをいい始めると世界がどんどん厳密になってしまって、自分の皮膚から内側が俺、ってなってくるでしょ。だから刺青もピアシングもマニキュアも境界線と同じなんだよね。でもそんなこと言ってるの、日本では僕だけなんだけどね(笑)。

 

MONDO

これは日本に入って来たときに誤解されたよね。なんでもかんでもヘンなものをMONDOだってしちゃって。MONDOはもともとはイタリア語でWORLDのことなんだけれど、これを聞いたアメリカ人がすごくヘンな響きにきこえたらしくて、それで60年代にヘンなものを創ってる人達のことをモンドピープルって呼んだのが始まりだよね。

それでラス・メイヤーアンディ・ウォーホルジョン・ウォーターズなんかが「モンドカルチャー」とか「モンドニューヨーク」なんて言い出したの。要するにアメリカのアングラでもサブカルでもない、政治性を持たないマヌケな文化をそう呼ぶようになったわけだから、60年代でMONDOはなくなっちゃってるんだよ。

で、MONDOを日本語に訳したらひょっとこだよね。ひょっとこっていうのが一番近い日本語だよ(笑)。

 

トライアングル

ポルノ関係を置いてたから、いかがわし店だって思ってた人もいるかもしれないけれど、あれはあくまでもビデオ屋(笑)、しかも日本で紹介されてないような芸術性の高い作品を紹介したくて始めたんだから。でも自分の意志に反してポルノだけ買いにくるお客さんもいたよね。でも、自分の好きなものばかり並べてて、それをお金と引換にするという行為がだんだんイヤになってきちゃってさ、それで結局2年くらいでやめちゃったんですよ。でも今考えてみるとあそこは高杉弾の脳内リゾートを商品化して売ってるような場所だったかもしれないね。ビデオやポルノや写真集や玩具や、全部面白いものばっかりだったよね。

 

ポルノとエロ

日本ではセックスカルチャーとポルノカルチャーとエロティックカルチャーって全部ごちゃまぜになってるでしょ。僕はそれが嫌いでね、ちゃんと分離してほしいと思ってるんですよ。ヨーロッパなんかではちゃんと分離されてるんで混乱することがないんだよね。要するに日本にはポルノグラフィしかないでしょ。スカートの中を撮ろうとするのはポルノなの。スケベを見せるのがポルノで、スケベな恰好をしてない人に対して猥褻さを感じるのがエロティシズム。だからポルノとエロって別のことなんだよね。僕はその全部が好きだけど(笑)。

 

シーメール

これは十年くらい前に、アメリカのポルノグラフィの中から突然変異みたいにして出てきたもので、本当はアメリカのポルノグラフィの中にしか存在しない。男と女、それからレズ、ホモの組み合わせ以外に何かないかって考えた人がいて、それでシリコンで胸ふくらませてチンチンついてる、両刀使いのヤツを登場させてさ、組み合わせを多くして商売に利用したのがシーメールなの。だから決してプライベートな部分から発生したんじゃないんだよね。タイにもシーメールみたいな人達がたくさんいるけれど、あれはただのゲイですよ。

 

コメディ

蓮の花と同じで、笑いは僕の原点なんですよ。笑ってごまかすってこともあるし、笑いって人間を不幸から救えるでしょ。人間なんて本当は苦しくてやってられないじゃない。まともに生きてれば辛いことばっかりで。でも笑いはその辛さを救ってくれるんだよね。僕は何があっても笑ってるのが好きなの。だから全てを冗談で乗り切ったりする(笑)。だから笑いっていうのは僕にとってすごく大きな要素なんですよ。だから世界中のコメデイやジョークをすごく気にしながら見てるよ。

サタデー・ナイト・ライブ」なんかを見てるとさ、日本人の笑いってレベル低いなって思う。でもそれはしかたないんだよ、日本には宗教がないから。セックス、差別、宗教ってジョークの三大ネタだから。

 

臨済

何で臨済かというと、僕はいろんな宗派の本を読んだんだけど、臨済って坊主はまさにロックンローラーなんですよ。今でいったらね、キース・リチャーズみたいなやつ(笑)。ブルースマンなんだよね。『臨済録』を読むとさ、とにかくすごい坊さんで、弟子がいやでしかたなくて「おまえらみたいな馬鹿に何も教えることはない」って殴ってばっかりいるの(笑)。実際『臨済録』という本はすごく面白い本で、臨済的な、或は臨済禅的なものの考え方が自分にすごく合ってるんですよ。もう自分の教科書として使ってるから(笑)。それで或る時期から翻訳を始めたんだけれど、まだ出来上がってない。でもこれを高校生なんかにも通じる言葉で翻訳したいんだよね。で、完成したら英訳してアメリカで一儲け(笑)。

 

脳内リゾート開発

脳内リゾート開発っていうのは結論から言うと、無駄なことだよね。裸眼立体視なんか出来なくてもいいって言っちゃえばそれまでだから。生きていく上でトマソンとか知らなくても影響はないわけだから。でも一度知ってしまうといくらでも面白がれる。以前から赤瀬川さんや南(伸坊)さんがやってたことを言葉にしたのが脳内リゾート開発だから。ネーミングは赤瀬川さんなんだけど、この言葉を聞いた時は目から鱗が落ちた(笑)。赤瀬川さんて目から鱗を落させる天才だから。僕は生活っていうことにあまり興味がなくて、だって嫌だと思ってても自然に年はとっていくわけだし、そのうち誰だって死んじゃうんだから。だから人間の一生にあまり必要ないけれど、面白いことをたくさんやって楽しみたいの。

「自分度」の強い人って楽しめないでしょ。唯一の自分っていう関係性で世の中を見ちゃうから。そうすると他人にとっての社会と自分にとっての社会があまりにも違いすぎるんでそこでギャップと思い込みが出来ちゃうよね。

そうじゃなくてさ、社会って人間の数だけあるんだよね。社会っていうのは一人一人の脳味噌が作ってる。そう思えないから真面目になっちゃって、自分で自分を束縛してしまって、楽しむことができないんですよ。

脳内リゾートは本当は誰にでもあるんだけど、開発っていう部分がポイントでさ、それをするかしないか、自分の中のそういうものを重視するかしないか、そこの違いなんですよ、結局ね。

 

大麻と麻薬

僕は人間にとって気持ちのいいことは全ていいことだと思ってる。ただ快楽はつねに不幸と引換だから、好奇心なんかで麻薬に手を出すやつは最悪だけどね。でも麻薬を必要するヤツは絶対にいるんだよ。必要のないヤツがやるから不幸になるの。

もう一つ大きな問題は、大麻は麻薬じゃないってこと。あれは岡倉天心も書いてるけど、昔はお茶の友として使われてたんだよね。仏教関係者もやってたしね。麻薬は依存性があるけれど大麻にはない。法律だって麻薬取締法と大麻取締法って分かれてるでしょ(笑)。

とにかく麻薬であれ大麻であれセックスであれ気持ちいいものはみんないいの。でもそれを説明するのはすごく難しいから、そういうことを語る時には人を選ばないとダメでしょ。「倶楽部イレギュラーズ」読んでる人の中には「この人絶対にラリって書いてる」って思う人もいるだろうし(笑)。

 

椰子の実と赤道文化圏

これまでの学問や分類だと、地球を宗教や経済で区切る捉え方でしょ。でも気候で考えた場合、一番暑い赤道っていうのがあって、そこには共通する文化があるはずだって思ったんですよ。で、赤道文化に共通してあるのは椰子の木、さとうきび、要するに砂糖だよね。砂糖は熱帯に住んでる人にとって重要なエネルギー源だから、砂糖を食べないと死んじゃうわけね。

それで暑さに耐えるために脳味噌から脳内麻薬みたいなものを出してなきゃ耐えられない、その麻薬を出すのが砂糖じゃないかと僕は思ってる(笑)。砂糖の副作用が文化を生み出すもんじゃないかと思うわけ。そういう研究してる人っていないかも知れないけど、僕はすごく興味がありますね。

 

コンピュータとデジタル文化

僕も随分前からコンピュータを使ってるけど、デジタル文化って大嫌いなんですよ。でも道具として便利だから、それで使ってるんだけれどね。

世の中にはコンピュータは生き物だ、みたいな言い方する人がいるでしょ。確かにシリコンチップっていうのは組織が生命体と似てるけど、脳味噌の中にあるニューロンと同じ働きをしてるからね。でもそれは結果論であって、ニューロンを創ろうとしてコンピュータをつくったわけじゃないんだから、発生が違うよ。ニューメディアやインターネットが世界を変える、なんて言うけれど、バカヤローだよね(笑)。あと5年もすれば、必要としない人達は撤退すると思いますよ。

 

メディアマン

僕はいろんな仕事をしてるんで、自分のことを他人に説明する時に、自分と他人の間にもう一人の自分を置くと便利だな、って思ってそれで気がついたのがメディアマン。例えばAさんが思ってる高杉弾とBさんが思ってる高杉弾って違うヤツだろうし、その両方の高杉弾は、僕から見たら高杉弾ではないわけですよ。それは僕にとってはどうでもいい事なんだけれど、あちこちに僕の知らない高杉弾がいると分かりにくくなるんで、それで自分と他人の間にメディアマンというのを作って、そのメディアマンからいろんなことを他人に発信してみようと思ったの。だから、ヘンなこと書いてるって思われても、それはメディアマンが書いたことで僕には関係ない(笑)。

 

— 青林堂『月刊漫画ガロ』1997年3月号

 

高杉弾の作文

というようなわけで、世の中の大半は阿呆か間抜けか精薄のいずれかであるような気がするが、一説によると、現代の中高大学生は読めない書けない話せないの三重苦であるからしてこれはもうほとんど文盲の世界であり、これからの日本は彼ら多くの文盲世代を養っていかねばならず、そのためには国家規模の財テクもやむをえない。原発も心要、場合によっては自衛隊の海外派兵、核の保有。インテリなどというものは世の中に存在せず、したがってインテリジェンスなどという幻覚にうつつを抜かしている馬鹿どもは遠からず馬脚をあらわし路頭に迷う。「新しい」とか「カッコいい」とかいったその場しのぎの幻覚に惑わされている輩も同様、次第に精神の不調をきたし挙げ句は脳髄に黴(かび)を発生させて憤死するであろう。

―腐っていく「私」と現代の日本(『百人力新発売』)

 

夜、きれいな夕焼けが終わりに近づき、夜がやってきます。遠くのビルにあかりがついて、テレビはニュースを放送している。空には星がまたたきはじめ、気もちのいい風が窓をふきぬけていく。飛行機のとんでいく音がきこえたかと思うと、どこからともなく静かな音楽が流れはじめ、ここちのよいリズムとともに部屋の中に広がっていきます。植物たちが秘密の会話をささやきはじめ、時間はゆっくりと流れていく。

夜は都会の神秘。夜は都会の暗号。やがて音楽は終わり、部屋はふたたび静寂をとりもどす。テレビ画面に映ったおねえさんが、無音の笑いを投げかけています。夜。子供はなにもすることがない。

―乱調少年大図鑑(「Boom」連載)

人の命を奪う刑罰(死刑)と人の自由を奪う刑罰(終身刑)にまつわる報告

「人の命を奪う刑罰」

発表者:●●●●

報告者:虫塚虫蔵

2018年7月6日脱稿

まえがき

今回の発表は『死刑その哲学的考察』(萱野稔人ちくま新書、2017年)という書籍をまとめたもので、本書では死刑制度をめぐる様々な問題、存否、意義、そのあり方について5章にわたって考察されている。この発表では各章のメイン・テーマをピックアップし、根拠となる筆者の主張をその都度提示する構成となっている。

まったくの蛇足になるだろうし、あまり他人のふんどし(発表)で、くどくど私見を述べるのは忍びのないことなのだろうが、それでも付け加えておかねばならないことが二件ある。

2018年7月6日深夜から早朝にかけて、ぼくは徹夜でこのレポートを仕上げてて、6時ごろにようやく書き終わり、先ほどまで仮眠を取っていたのだが、寝ぼけまなこで朝9時に起きた時、同時に入ってきた二つの速報が「大雨による休校」と「松本智津夫死刑執行/オウム死刑囚7人同日死刑執行」であった。

まず徹夜で今日発表する予定のレポートを仕上げた意味がなくなった。

次にこのレポートで再三言ってきた「死刑でなく終身刑」というロジックが、全くの机上の空論であるということを思い知らされた。このロジックが通用ないし実現するには、おそらくまだまだ遠い未来なのだろうから。

二つのニュースは自分にとってダブルパンチ以外何者でもなく、とりあえず寝ることにした。「因果」というものがこの世にあるのならば、これを「因果」と呼ぶのかもしれない。

まず第1章では「文化相対主義」と「普遍主義」

を対立軸に死刑の是非について論じられている。「文化相対主義」とは、それぞれの文化によって価値観が異なる以上、あらゆる文化に適用できるような「絶対的な正しさ」は存在しないという考え方で、死刑に関しても、あくまで「文化の問題」として相対的にとらえ、各国の価値観に基づいて死刑の是非は判断されるべき、といったものである。。

一方で「普遍主義」とは、それぞれの文化を超えて適用できるような「絶対的な正しさ」が存在するという考え方で、例えば人権が「文化の違いで損なわれてはならない」のと同じ次元で、死刑に関しても普遍的な立場から論じるといったものである。

なお日本が死刑制度を維持している根拠として、しばしば持ち出されるロジックは「死刑は日本の文化だから」という“文化相対的“背景が挙げられるが、欧州各国は「死刑は文化だから」というロジックでは最早死刑を正当化することはできないと考える。

両者の意見を掛け合わせると「たとえ文化でも死刑を正当化できるのか」という問題になる。これが「文化相対主義」と「普遍主義」の対立構造である。

筆者の主張としては「死刑を肯定するにせよ否定するにせよ、できるだけ普遍的なロジックで考えなくてはならない」というもので、普遍主義寄りの立場を採用している。

 

第2章では「死刑制度の意義」

について論じられている。そもそも死刑は刑罰であり、人の命を奪うことが前提となっているが、死んだ方が楽だと考えるような犯罪者にとって、死刑は犯罪の抑止どころか、より凶悪な犯罪を誘発しかねなく、これでは死刑が刑罰としての意味をなさない可能性がある。

ならば、死刑よりも仮釈放なしの終身刑を極刑として導入した方がいいのかもしれないが、これを行ってしまうと”死刑を廃止しなくてはならない“という問いが浮かび上がる。なぜなら、死刑が存置されている限り、凶悪犯罪者に対する極刑は終身刑でなく死刑にならざるを得ないからである。

なお、日本には仮釈放付きの無期懲役刑が終身刑の機能を果たしており、もちろん無期懲役刑と終身刑は仮釈放の有無で明確に区別はされているものの、すべての受刑者が仮釈放になるわけでもなく、無期懲役刑は実質的に終身刑化しつつある。

これら制度を踏まえた上で、どれを凶悪犯罪者に対して適用すべきか考える上で、無視できないのは被害者遺族の感情である。とくに凶悪事件の場合、被害者遺族にとっては、加害者に極刑の死刑を科すことで被害者に報いたいという応報感情が存在する。

こうした応報感情がある以上、極刑に終身刑より死刑を求める流れは至極当然のことと思われる。ただし、被害者遺族の中には加害者が死んで簡単に全てを水に洗い流すような「ご破算」に納得がいかないものも多く、むしろ加害者に死刑よりも終身刑を与えることでより強い苦しみを生涯かけて与えることができるとわかれば、被害者遺族はより強い応報感情を満たせる場合もあり得ると述べられている。

実際、死刑と終身刑のどちらが苦しいかは、それぞれの受刑者が持つ考えによって異なってくるため、一概にどうとは言えないが、死刑が常に終身刑より苦しい刑罰になるわけでないというのは、下記に挙げるフランスとイタリアの事例*1をみても明白なことである。

しかし、道徳的歯止めという視点から考えれば、終身刑よりも死刑の方に意義が見いだせることがある。なぜなら、死刑制度には「命をもって罪を償わなくてはならない」という誰しもが納得できる道徳的な「歯止め」を見いだせ、これこそ死刑がここまで支持されてきた一つの背景にもなっている。そのため、死刑を廃止するとなると、前述の「歯止め」を取り払ってしまうことにつながってしまう。

しかし、「命を持ってしか償えない罪もある」という道徳的歯止めも「どうせ死ぬつもりなら何をしてもいい」という凶悪犯罪者の前では意味をなさない。そこで、犯罪者を司法によって罰した上で、死刑に処さなくてはならないという行為が必要になる。処罰することで死ぬこと以上の意味を、命による償いに付与することで、「死ぬのなら何をしてもいいというわけでない」という道徳の証明がなされる。

我々が凶悪犯罪者にとって強い処罰感情を抱くのは、その処罰によって道徳を証明する必要があるからで、「死刑の是非を考えるには、道徳の根源に迫ることが必要になる」と筆者は主張している。

 

次に第3章では「人を殺してはいけない」

という道徳的観点から論じられている。

例えば「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対しては「悲しむ人がいるから」「自分がされたくないことを他人にしてはいけないから」「誰も他人の命を奪う権利をもっていないから」など至って道徳的といえる回答が用意されているものであるが、いずれにせよ限定的なパターンに収束される。

なお、筆者によれば、これら回答には「なぜを人を殺してはいけないのか」という問いに対する「究極的な」回答には程遠いものだという。

例えば「自分がされたくないことを他人にしてはいけないから」という回答には「自分も殺されていいと思っている人は他人を殺してもいいのか」という反論が導けるし、「悲しむ人がいるから」という回答には「身寄りがまったくなくて、悲しむ人がいなければ人を殺してもいいのか」という反論を招く恐れがある。「誰も他人の命を奪う権利をもっていないから」という回答も「人を殺してはいけない」という命題を別の表現で言い換えているだけに過ぎず、つまるところ、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いには一般に思われているほど明白で確実な答えも根拠もあるわけでない。

また場合によっては死刑や安楽死によって「人の命を奪うこと」が正当化されることもある。上に挙げたような道徳観は普遍的なものというよりは相対的なものなのであり、時と場合によって変化する。そのため、死刑に関して言えば肯定することも否定することもできないのが現状である(つまり道徳的理論では死刑の是非について決着は永遠に付けられない、ということである)。

 

第4章では「なぜ死刑に於いては人の命を奪うことが合法化されているのか」

が論じられている。死刑における殺人が合法なのは、「その殺人を行う主体」と「合法か違法かを決定する主体」が同じだからであるという。公権力は法を決定する権限を持つ主体であり、それゆえ人を殺すことも合法化できる。そして公権力の側から見れば、死刑は他の刑罰と同じく、人々を従わせるための究極的手段として扱われる。しかし、このことを死刑制度への批判材料として使うには早計である。なぜなら物理的強制力をともなう、その一方的な法的措置がなければ、そもそも「犯罪の処罰」が成り立たないからである。

ここで考えるべきことは、死刑の権限を保持する/しない公権力のどちらが好ましいかについて考える上で最も重要なのは冤罪の可能性である。そもそも冤罪は犯罪捜査を行って犯罪者を処罰する公権力の活動そのものによって直接生み出されてしまうため、冤罪のリスクなしで公権力が対象の人間を処罰することは原理的に不可能である。しかし、冤罪で対象の人間が死刑となってしまったら、それこそ取り返しがつかない。そこで与えられる唯一の答えは「死刑を廃止する」しかない。

ここまで述べてきてわかることは「死刑の是非」は「冤罪の問題という具体的事案」と絡めてしか判断がつかないということである。

 

さいごに第5章「処罰感情」

についてまとめていく。上に挙げたように「冤罪の問題」は決して無視できないことであるが、それ以上に「犯人を罰するべき」といった「処罰感情」が先行してしまうため、これによって冤罪を予防することに対する意識の低下を招く恐れがある。死刑の是非について考える上では、人間に処罰感情があることを受け止め、死刑に負けずとも劣らない厳しい刑罰を死刑の代わりに置くことで人々の処罰感情に応えることが必要と筆者は訴える。

そして、その代わりになる刑罰の例こそが「終身刑」の導入であると筆者は提案する。「終身刑」は、これから凶悪犯罪を起こそうとする者に「死ねばすむと思ったら大間違いだ」というメッセージを突きつけるような刑罰になり得るからである。

 

質問

死刑は被害者遺族の応報感情を満たすかもしれないが、加害者家族にとっては身内が死刑を受けることで「精神的肉体的にダメージを受けるではという見方もできる。それについて何かしらの考慮やフォローについて本書に書かれていたか」という質問が出てきたが、本書の扱うテーマにそぐわなかったのか、ニッチなポイントの話題だったかで全く扱われなかった模様である

(→個人的な感想を言えば、身内が死刑になることのダメージよりも、加害者家族に対する世間の風評や嫌がらせの方がダメージでいえば大きいと思われる。例えば宮崎勤の父や加藤智大の弟は事件後自殺し、また加害者遺族の多くが辞職・転居に追い込まれている。中には社会復帰もままらなくなるほどのダメージを受ける場合もあり、加害者遺族の苦痛に関しては殊更注目されるべき話題だと思う)。

 

次の質問では1章の文化相対主義によるそれぞれの価値観の説明の補足として、それがどこまで適用されるかの具体例について求める質問が挙げられた。これに対して発表者は、インドなどで行われる姦通罪による石打ち刑(ちなみに姦通罪では女性しか死刑にならない)を挙げ、死刑制度が適用されることを自認する日本人もそれに対しては嫌悪ないし憐憫の情を示す(であろう)ことから、それぞれの文化に基づいた価値観と言えども、日本人はそれに対して拒否反応を示す場合もままある、という説明がなされた。

 

報告者の備考①…ウクライナ21と終身刑

ウクライナでは2000年2月に死刑制度が廃止されているが、2007年にウクライナドニプロペトロウシク(現・ドニプロ)で、19歳の若者2人が、わずか1ヶ月程度の間に快楽目的で21人(主に女性、子供、老人、ホームレスなど身体的・社会的弱者たち)を殺害する凶悪な事件が発生した。

犯行内容も人体破壊に加えて殺人行為をビデオで撮影するなど極めて残酷かつ愉快犯的なものであった。このスナッフ・ビデオは後にインターネットに流出して日本国内では「ウクライナ21」、国際的には「ドニプロペトロウシク・マニア」と呼ばれるようになる。

逮捕後起訴された犯人の2人は終身刑を宣告されたが、のちに行われた世論調査では市民の50.3%が量刑を妥当とする一方、48.6%はより重い量刑にすべきと回答し、ウクライナ国民の60%が本事件のような連続殺人事件には死刑を適用すべきであると回答した。

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(犯人のヴィクトル・サエンコとイゴール・シュプルンヤク)

個人的に驚くのは市民の半分も「終身刑で妥当」と回答したことであり、言い換えれば史上最悪の大量殺人をもってして、ようやく死刑と終身刑との間で人々の意見が半々に割れたというわけである。

国際的な死刑/終身刑論争を呼んだこの殺人事件は、日本ではスナッフ・ビデオのセンセーショナル性ばかりが注目されたため、事件の詳細なバック・グラウンドは全くと言っていいほど伝わっていない。ゆえに日本語の資料も極めて少ないのだが、この事件を報じたロシア語のニュース記事に、この論考と絡むような興味深い記述があったので以下に翻訳して抜粋してみようと思う。

10年前のこの日、ウクライナは新しい刑法として死刑の代わりに終身刑を採択しました。この決定がいかに正しいかについての議論は、今日も継続しています。/死刑推進派は、ウクライナの死刑の復活に関する法案を提出した。また共産主義者ヴァレリーは死刑の再開に関する法案を作成した。だが、議会では繰り返し拒否され続けた。/死刑反対派は、彼らの努力が支持を得ることはまずないと言う。死刑を回復するためには、ウクライナ欧州連合EU)との協定を見直す必要があるからである。/事件後犯人の2人は終身刑を宣告されたが、遺族たちはみな確信している。「これはあまりにも軽い罰」だと。

 

報告者の備考②…蛭子能収のロジックと見比べる

漫画家・タレントの蛭子能収はインタビューの中で以下のような発言を行っている。

いじめた相手が死んだときの対応が許せないんです。言い訳なんかしないで『私が悪かった』って責任をちゃんと取れよと。いじめるなら、一生かかって責任を取るくらいの覚悟でやってみろと。

いじめっぱなしで相手が傷ついたり死んでしまっても、ノホホンと社会生活したりしてるヤツらが許せないんですよ。そういう故意に相手を追い詰めて死なせた場合は、自分も死をもって償うのがオレは当然だと思いますね。 

蛭子能収インタビュー「暴言爆弾の絨毯爆撃! 人の悲しみをあざ笑う蛭子能収の真意とは何か!?」 OCN TODAY)

蛭子の言う「いじめで自殺に追い込んだ子供たちは死刑にすべき」というロジックは第2章で述べられた「命をもって罪を償わなくてはならない」とほぼ同義であり、日本が死刑制度を維持する以上、蛭子のロジックが「道徳的な歯止め」として人々を普遍的に納得させる意見として強力に作用することが伺える。しかし、仮に日本が死刑制度を廃止してしまった途端、蛭子のロジックは効き目を失ってしまう。そこで第5章で述べられる「処罰感情」が重要になる。つまり「死刑に負けずとも劣らない厳しい刑罰を死刑の代わりに置くことで人々を納得させる」ことが必要で、本書の結論から言えばその刑罰とは「終身刑」になる。

 

松本智津夫死刑執行/オウム死刑囚7人同日死刑執行に関して

2018年7月6日、一連のサリン事件(※とくに松本サリン事件では無実の人間に冤罪の嫌疑がかけられたことが問題になった)を起こしたオウム真理教の死刑囚7人の死刑が執行された。死刑囚7人が同時に絞首刑となったのは、東京裁判で1948年に処刑されたA級戦犯7人の例が唯一であり、国内では戦後2番目となる最大の死刑執行となった。

 

この出来事は世界に衝撃を与え、ドイツ外務省はオウム死刑囚の死刑執行に際して「他方、この犯罪がいかに重いものであろうとも、死刑を非人道的かつ残酷な刑罰として否定するというドイツ政府の原則的立場は変わらない。従って、ドイツは今後もEU各国とともに、世界における死刑制度廃止に向け積極的に取組んでいく」と声明を発表した。

また松本死刑囚は20数年にわたって心神喪失状態をふるまい、弁護側は「松本死刑囚心神喪失状態で訴訟能力がない」としていた。刑事訴訟法479条には「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する」とあるため、この刑執行は違法との声も一部であがったが、松本は執行直前に刑務官と意思疎通を行えていたことが報道で判明したことから、心神喪失の件に関して言えば、単なる詐病だったとして、これ以上の追及はされないとみられる。

なお松本と刑務官による最期の会話は以下の様なものであったという。

松本智津夫元死刑囚は、執行の7分前に、担当の刑務官から遺体や遺品の引き渡しについて問われると、「ちょっと待って」と少し黙り、刑務官から「誰でもいい、妻や子どもたちがいるでしょう。どうする?」と問われると、沈黙のあと、「遺灰は四女に」と意思を示したという。

(FNNニュース 7月11日)

 

世界に衝撃、非人道的と批判も

下記のニュース記事は朝日新聞デジタルがオウム死刑囚7人の死刑執行に際して報じた世界各国の死刑廃止状況である。端的にまとまっているので以下に転載させていただく。

戦後最大規模の死刑執行、世界に衝撃 非人道的と批判も

 

 欧州連合(EU)加盟28カ国とアイスランドノルウェー、スイスは6日、今回の死刑執行を受けて「被害者やその家族には心から同情し、テロは厳しく非難するが、いかなる状況でも死刑執行には強く反対する。死刑は非人道的、残酷で犯罪の抑止効果もない」などとする共同声明を発表した。そのうえで「同じ価値観を持つ日本には、引き続き死刑制度の廃止を求めていく」とした。

 

 EUは死刑を「基本的人権の侵害」と位置づける。EUによると、欧州で死刑を執行しているのは、ベラルーシだけだ。死刑廃止はEU加盟の条件になっている。加盟交渉中のトルコのエルドアン大統領が2017年、死刑制度復活の可能性に言及したことで、関係が急激に悪化したこともある。

 

 法制度上は死刑があっても、死刑判決を出すのをやめたり、執行を中止していたりしている国もある。ロシアでは、1996年に当時のエリツィン大統領が、人権擁護機関の欧州評議会に加盟するため、大統領令で死刑執行の猶予を宣言した。プーチン大統領もこれを引き継いだ。2009年には憲法裁判所が各裁判所に死刑判決を出すことを禁じた。

韓国では97年12月、23人に執行したのを最後に死刑は執行されていない。05年には国家人権委員会が死刑制度廃止を勧告した。

 

 今回の死刑執行を伝えた米CNNは、日本の死刑執行室の写真をウェブに掲載。「日本では弁護士や死刑囚の家族に知らせないまま、秘密裏に死刑が執行される」と指摘した。

 

またロイター通信は、「主要7カ国(G7)で死刑制度があるのは日本と米国の2カ国だけだ」と指摘。日本政府の15年の調査で、国民の80・3%が死刑を容認していると示す一方で、日弁連が20年までの死刑廃止を提言していることも報じた。(https://www.asahi.com/sp/articles/ASL766R87L76UTIL055.html

 

NHK時論公論』より「死刑の秘密主義」の現状

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これは去年12月の情報開示で公開された前回の死刑執行に関する文書である。全体の半分以上が黒く塗りつぶされており、これでは死刑囚の精神状態がどうだったのか、そしてどのような形で死刑が執行されたのか把握することはできず、議論や検証を行う事も極めて困難になる。これは日本の死刑の秘密主義を象徴すると指摘されている。裁判員裁判での死刑判決も出ている中で、情報公開のあり方を検討する時期にきているのではないか。(NHK解説委員・清水聡

前掲したニュース記事にある「日本では秘密裏に死刑が執行される」という指摘だが、死刑にまつわる公開文書に関しても、画像のように非公開な部分が多いのが現状である。死刑の是非は、こういう部分から議論していく必要がある。

 

著者紹介

かやの・としひと=哲学者。コメンテーター。津田塾大学教授。専攻は政治哲学と社会理論。パリ第10大学大学院哲学科博士課程修了。

*1:すでに死刑を廃止したフランスとイタリアで、2007年の1月と5月にそれぞれの国の終身刑囚320名が、「このまま生かされ続けて命を削られていくのは耐えられない。これなら死刑のほうがましだ。可及的速やかに死刑を執行してほしい」という旨の嘆願書を首相に出したことが話題になった。

1875年に日本で報道された自殺にまつわる事件リスト(未遂含む)

1875年の日本で発生した自殺にまつわる事件リスト(未遂含む)

自殺未遂

男性

1874.11.24

主人の3円使い込んだ男が自殺未遂 2度目に巡査が保護/東京・浅草 

小刀持ち自殺気配の男、巡査が発見し保護/堺 

1874.12.06

池に身を投げ自殺図った男、巡査の介抱で助かる 動機は不明/東京・三田 

1874.12.24

病苦などから欄干で首つりを図り川へ落ちた老人を巡査が救助/東京

1875.01.26

夫婦が短刀心中、一命はとりとめる/東京・業平 

1875.01.28

強情な養女に逆上、神田川に身投げした蒔絵師が巡査に助けられる/東京 

1875.02.27

生活苦で身投げを図った老人に力士が懐中の金を与え励ます/東京・両国橋

1875.03.21

入り婿の足袋職人、切腹自殺未遂 家付き娘の怠惰で借財苦に/東京・本所

1875.05.13

夫婦げんかで女房に逃げられた大工、井戸に飛び込んだが助けられる/東京・本所

1875.05.19

もち屋の義弟、道楽のあげく切腹未遂/東京・下谷

1875.06.08

男が切腹、命に別条なし 借金を苦に?/東京・神田

1875.06.14

あれこれ自殺を図る精神障害の男 周囲はおおわらわ/東京・向島

1875.06.27

茶屋の下女に振られ面目ないと井戸に飛び込む 助けられて間が悪い/東京・芝

1875.08.05

船宿の娘にけがさせ、自殺未遂 原因不明/東京・本湊町

1875.10.04

かみそりで腹を切った男が重体 動機は不明/横浜

1875.10.18

厩橋から身投げの男、巡査が船で救助/東京

1875.09.25

貧苦から身投げしようとした男を車引きが止める/東京・隅田川  

1875.11.07

貧苦から二男を絞殺 父は包丁で自殺図るが死に切れず/東京・神田美土代町

1875.11.15

刑務所帰りの厄介息子 素行改まらず、今度は自殺未遂騒ぎ/東京・深川

1875.11.20

妻に愛想をつかされ弟にも意見された怠け者がカミソリで自殺未遂/大阪

1875.10.24

17歳のあんまが川へ身投げしたが救助 心配性で前途に不安/東京・芝

1875.12.20

小刀と刺し身包丁を手に切腹と騒いだ男、酒に酔った上での行動/東京

女性

1874.12.08

夫婦げんかの末、井戸へ身を投げた女を人力車夫らが救助/東京・三田

1875.01.26

橋から身を投げた婦人、巡査に助けられる/東京・四谷

1875.02.09

破談の面当て、婚約者宅軒下で娘が首つり 巡査が助ける/東京・飯倉 

1875.03.03

役者に熱を上げ息子にしかられた老女が入水未遂 救助の米屋を表彰/埼玉県 

1875.03.19

仲人口にだまされて身投げの娘、水夫の手当てで蘇生/大阪

1875.04.12

しゅうとめにいびられた嫁が井戸に入水 巡査が救助/東京・湯島

1875.04.28

入水自殺を図った娘、掃除舟に救助される/東京・浅草 

1875.05.08

嫁の投身自殺未遂の理由は義父母のいじめ 夫や実家も頼りにならず/東京・神田

1875.05.22

男装した女の車夫、借りたふとん返せず面目失い入水直前保護/東京 朝刊

1875.06.02

隅田川に身投げの娘、通行の2人に助けられる/東京・両国橋

1875.06.12

病苦の女房が井戸に投身、近所のものが救助/東京・浅草

1875.07.13

夫婦の寝室に先妻が乱入 2人に切りつけ自殺図るが死に切れず逮捕/横浜

1875.07.17

橋から身投げの娘、通行人らが救助/東京・両国

1875.07.25

救助された身投げ娘 兄の就職困難などで思い詰めた/東京・浅草

1875.09.13

母親にしかられて女が身投げ 警官に救助される/東京・湯島 

1875.09.23

夫の虐待に耐えかねた妻が海に身投げ、干潮で死に切れず警察に訴え/東京

1875.10.10

吾妻橋から女が入水自殺 約1時間後に同橋から身投げした女は助かる/東京

1875.10.19

井戸へ老女が飛び込む 発見早く助かる見込み/東京・材木町

1875.10.29

江戸川に子連れで投身自殺図った女房 巡査が救助/東京・牛込

1875.12.07

18歳の新妻が入水図ったが助かる 養子の夫を嫌う?/東京・柳橋 

1875.12.19

人妻が身投げ寸前、巡査に見とがめられ助かる/東京・本所 

1875.12.20

実家へ戻るか、養家への義理か 娘が入水寸前/東京

 

心中

1875.01.26

夫婦が短刀心中、一命はとりとめる/東京・業平 

1875.04.04

継母の難題攻めに心労重なる若夫婦 小心の夫が自殺未遂/東京

1875.10.04

心中未遂の若い男女を、巡査が人力車にのせて保護/東京・本所

 

生死不明

1875.01.18

東京・下谷の米屋が家出 借金多くて投身自殺すると書き置き残す

1875.04.16

両国橋から中年男身投げ 遺体見つからず/東京

 

意味不明

1874.11.20

路傍の土を好んで食べる少女 ジャンプ一番、自殺 腹中にはイナゴの大群/米国 朝刊 アメリ

1875.03.09

男の首つり自殺に使った綱を欲しがる女あり/和歌

1875.03.29

火の玉が出るという自殺者の空き家を安く購入 何の支障もなし/大阪

 

以下すべて自殺既遂

1874.11.14

花の18歳に何が? 霊岸島小町が新婚早々に自殺/東京

1874.11.16

寺の境内で割腹自殺/東京・高輪

1874.11.22

継母に虐待された娘のど突いて自殺 めかけ奉公次々に強いられ新潟県

1874.11.24

のど突いて男が自殺/東京・牛込    

1874.12.06

16年前に母親の自殺を助けた職人逮捕 極刑にすべきか政府に照会/福井県 

1874.12.12

夫の後を追って自殺/清国    

1874.12.14

義母とけんかのすえ切腹、水を飲もうと井戸へ転落死/埼玉県    

1874.12.14

娘に縁談を無視され?逆上した母が投身自殺/東京・薬研堀    

1874.12.20

いじめ苦に娘が首つり自殺 非道の継母は役所で事情聴取/福岡県    

1875.01.08

増上寺で町人風の男が首つり自殺 懐中に「回向料」と書いた紙包み/東京    

1875.01.10

女所帯に強盗 犯人逮捕後、手引きした下女が投身自殺/東京・浅草

1875.01.16

19歳の下女、首をくくり死ぬ 動機は不明/東京・神田    

1875.01.18

小心者の息子が父にしかられ首つり自殺 イワシを余分に買ったのが原因/埼玉県

1875.01.20

祝田町で夫婦首つり心中 日吉町でも男性1人/東京    

1875.01.28

女性が細帯で首つり自殺 精神障害か/東京・牛込

1875.01.30

在神戸ドイツ領事館員がピストル自殺

1875.02.01

東京・四谷で裕福な尼が首つり自殺 動機不明    

1875.02.11

愛知県の男が東京の旅館で割腹自殺 

1875.02.17

東京・吉原の貸座敷で遊女を傷つけた男が切腹死したという 

1875.02.25

ばくちで負けた金払えず親子心中 返済強要の男に埋葬料出させる判決/大阪

1875.03.01

製作寮の雇員が工学寮の井戸に投身 原因は不明   

1875.03.03

東京へ転勤する役人の妾、別れ話を苦に首つり自殺/青森県    

1875.03.05

[投書]夫婦養子になった若妻が首つり自殺 義父母にいびられる/福島県

1875.03.07

親の言い付けと夫への操の板挟み 若い妻が入水自殺/東京・小網町

1875.03.07

店の金盗んだ?従業員が首つり自殺/東京

1875.03.11

兄嫁と冗談 兄の怒り気にした娘が遺書残し投身自殺/東京・浅草    

1875.03.23

隣家の寡婦と夫婦約束の商人 仲介の男を疑い2人を殺害して自殺/東京 

1875.03.27

四谷御門わきの和田堀で男が投身自殺/東京    

1875.03.31

ウソを真に受け人妻に懸想の男 逆上して6人殺傷のあと自殺/神奈川県 

1875.04.04

男性が切腹死/東京・深川

1875.04.06

普請中の土蔵で男が首つり自殺 縁起が悪いと死体を片付けた地主に罰金刑/東京

1875.04.06

深川の自殺者は御岳教信者 妻の留守中、刀でのど突く 机に辞世の歌と書き置き

1875.04.06

若妻が愛児と井戸に身投げ 芸者に心移した夫に絶望/東京

1875.04.06

日雇い労働者の妻が短刀で切腹自殺(続報で養女として入れた私娼の偽装殺人と判明)/東京・浅草

1875.04.08

主婦が隅田川に身投げ 夫の不倫に絶望/東京・神田

1875.04.12

支店の支配人がイギリス人宅で短刀自殺 原因不明/横浜

1875.04.16

新聞は世間の出来事を全部は書けぬ 身近の事件が出ないという問いに

1875.04.18

士族の父、銃で自殺 理由不明/横浜

1875.04.22

春先は暗いニュースばかり、ほめられる話題少なく外国人に外聞悪い

1875.04.22

[投書]未婚の母が入水自殺、愛児を親に殺された経緯を美文調で

1875.04.30

子守させた娘が赤ん坊を川に投げ死なす 娘を責め殺した母も入水自殺/東京

1875.04.30

機織りに出稼ぎの妻を探し当てたが呼び戻せず 悲観した夫が入水自殺/茨城県

1875.04.30

車引きが井戸で変死 息子の心中未遂などが原因の自殺か 他殺説も/東京・浅草  

1875.05.01

男の首つり自殺 腰に200円の借金ありと書き付け/東京・牛込

1875.05.01

女が恨みの元亭主を絞殺 男の狂言自殺が本物になる/東京・新宿

1875.05.05

19歳の母、家庭不和を苦に自殺 自らキツネとりの穴に落ちる/東京・多摩

1875.05.07

書生風の男のど突いて自殺 赤坂から乗った人力車待たせておいて/東京・品川

1875.05.10

寺で男が首つり自殺/東京・浅草

1875.05.12

回向院の相撲場わきで首つり自殺/東京・両国 

1875.05.20

亭主が腹を縦に切りもだえ死に、女房は留置中/東京・本所

1875.05.27

のどを突いて巡査が自殺/東京・駒込

1875.05.29

借金がかさんだコメ屋が自殺/東京・本所

1875.05.31

覚えがない妊娠を責められた18歳が自殺 医師の見立て「単なる肥満」/埼玉県

1875.06.03

妻を寝取った男に面罵され耐えかねた髪結い 2人を切り殺して自殺/東京・多摩

1875.06.12

東京・千住の宿で男が自殺した毒薬 医師の調べで烏頭(うず)と分かる

1875.06.15

主人と密通の使用人を殺して肉を主人に勧める 異臭で気づかれ妻自殺/兵庫県

1875.06.17

矢で突いた不発弾?が爆発、2児死なす 責任感じた雇い人が自殺/千葉県

1875.06.20

花嫁のオナラをからかったのが原因で本人と媒酌人妻、夫の3人が自殺/神奈川県

1875.06.22

車引きが、不倫の妻を短刀で刺殺 自分も割腹自殺/東京

1875.07.10

若い女房が割腹 老母が見つけ一命を取りとめる/東京・麹町   

1875.07.15

カミソリで妻の腹を刺し、自分は腹を切って死ぬ/横浜

1875.07.20

料理茶屋の馬つなぎで首つりの男、巡査が助ける/東京・品川

1875.07.23

商用で上京中の男、短刀で自殺/東京・麹町

1875.07.23

義太夫師匠の養子、妻を殺し自分ものどを突いて死ぬ/東京・芝

1875.07.24

一札取っての結婚も暗い結末 妻を殺して自殺/東京・芝 

1875.08.07

東京・築地の井戸で死体揚がる、死因不明  

1875.08.07

離縁した女房が復縁話で夫の留守中訪問、のどを突いて死ぬ/静岡県

1875.08.13

娘が母の墓前でノド突き自殺 魚屋との密会ばれて/京都

1875.08.14

寄留先の2階で、女性が短刀自殺 動機不明/東京・日本橋

1875.08.14

養父の自殺を病死で届けて葬式、警察に連行される/東京・向柳原

1875.08.14

取り調べ中、弟宅に身柄を預けられた兄が脱走 弟が責任感じて包丁自殺/千葉県

1875.08.15

15歳の少年が井戸で首つり自殺 動機は不明/東京・銀座

1875.08.18

嫁いびり明暗2件、自殺と和合と/東京

1875.08.22

神社の鳥居で娘が首つり 命かけて願かけをした、といううわさ兵庫県

1875.08.24

隠居が切腹自殺 今のところ原因不明/東京

1875.08.27

息子が10銭盗み逮捕、世間体気にした老父が井戸に投身自殺/埼玉県

1875.08.28

柳橋の身投げは新橋の元芸者 遺書から身元判明/東京 

1875.08.29

妾にそむかれた男、深間の男女を斬殺して墓前で切腹新潟県   

1875.08.29

若い男が割腹 傷口縫い合わせ、薬のませたが力尽きる/東京 

1875.09.02

子持ちの男、恋仲の女と人力車引きの仲をねたみ2人を惨殺して自殺/東京・築地
1875.09.04

厩橋から飛び込んだ男、翌朝、警察に出頭し説諭される/東京・浅草

1875.09.05

士族の自殺(既報)は、息子による刺殺と判明/東京・芝浜松町

1875.09.10

孤独老人が大川橋で入水未遂 同郷の焼き芋屋の親切を重荷に感じる/東京

1875.09.10

66歳独居老人、首をくくって自殺/東京・千駄ヶ谷 

1875.09.13

2日間に投身自殺などの女性3遺体が漂着/東京・深川近辺

1875.09.18

旅館の押し入れで客がのどを突き自殺/東京・芝

1875.09.18

婿養子、離縁話を一度は承知しながら妻に切りつけ井戸に飛び込む/東京・飯倉

1875.09.19

雇われ先の家で妊娠した女が海に身を投げ自殺/神奈川県

1875.09.20

身持ち悪い妻を離縁せよと親類に迫られた男が、娘を刺し殺し切腹自殺/香川県

1875.09.20

美少年襲った男らが巡査相手に大立ち回り 3人切腹、2人逮捕[投書]/熊本県

1875.09.29

首つり自殺した子分を変死扱いせず葬る 因業な親分を逮捕/東京・三田

1875.09.30

主人の金盗まれた長野県の男、刃物で自殺図る/東京・上野

1875.10.14

上野で投身自殺した女は、士族の妻と判明/東京

1875.10.15

入水自殺した男女の死体が漂着 守り袋から遺書発見/東京

1875.10.18

投身自殺を届けず勝手に葬式 寺の住職含め関係者を警察送り/千葉県

1875.10.18

髪結いの女房が首つり自殺/東京・芝 

1875.10.23

老女が土蔵の2階で首つり自殺 原因は不明/東京・浜松町

1875.10.25

亭主の死後を託した男が放漫経営 借金気にして酒屋の老婆が首つり/東京

1875.10.28

ぬれ紙を顔に当て自殺 梅毒を苦にした寺男/東京・麻布

1875.10.29

近衛隊の歩哨が自殺 原因は除隊できないと悲観して/東京・竹橋

1875.11.04

新吉原の遊女が服毒自殺 男との関係が新聞に出て面目失ったと遺書残す/東京

1875.11.05

義父母との同居を嫌って里帰りした妻、夫に切り殺される/東京・石神井

1875.11.07

順天堂病院で修業中の男の死、将来を悲観しての服毒自殺とわかる/東京

1875.11.12

零落の元旗本が投身自殺 昔の奉公人から盗みを諭され恥じ入る/東京

1875.11.13

30男と13歳の少女が情死/京都

1875.11.17

人気商売に障ると人妻の自殺を届けさせず 横浜の夫婦が捕まる

1875.11.19

八百屋の娘が首つり 器量良しでまじめ、厭世自殺か/東京・浜松町

1875.11.25

東京・浅草で首つり 勤め先の娘に恋慕の職人、思いかなわず悲観

1875.12.03

亭主の不在中不義に忍んできた男を養子が殴打 恥じた男が自殺/岡山県

1875.12.04

遊んだ芸妓に裏を返した男、自分ののどを突き自殺未遂/東京

1875.12.05

濁り酒屋の主人が経営苦の自殺 短刀でのどをつき井戸へ投身/東京・四谷 

1875.12.09

24歳の大阪府士族が自殺「覚悟の上だから殺して」かみそりでのどを突いた男/横浜・高島町

1875.12.19

50代の男女が山で首つり/埼玉県

1875.12.23

子のない夫が、未亡人に頼んで子を産ます 妻は夫を殺し自分も死ぬ/京都

1875.12.23

警官が外泊先で娘に短刀で傷付け、下宿へ逃げ帰って自殺/東京

1875.12.28

売春婦と情死図り、死に損なった男に懲役3年/東京・吉原

1875.12.28

主婦、カミソリでノドを突く/東京・鷺宮

 

(以上、ヨミダス歴史館より)

『臨済録』の現在的解釈(ゼミのレポート)

臨済録』の現代的解釈

作・構成/虫塚虫蔵

臨済について

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臨済宗の開祖・臨済義玄(?-867)は、悟りや霊性を呼び覚ますため、「カーッ」と一喝して身体を棒で叩くという、禅のスタイルを「臨済
という究極的な形にまで押し上げた中国唐代の禅僧である*1

 

臨済録とは

臨済の言行は弟子の三聖慧然によって『臨済録』として没後まとめられ、「語録中の王」として現在も親しまれている。この『臨済録』は大きく分けて、臨済と弟子との問答「上堂」、弟子への講義「示衆」、他の禅僧との問答「勘弁」、伝記「行録」、付記「塔記」の5つから構成されており、今回は「元衆」編と「勘弁」編を中心に語録の解釈を行う。

なお、『臨済録』は“真意がとらえにくい禅問答”のような読み方ができるので、一義的に言いあらわすことは難しく、これが『臨済録』を難解と思わせてしまうゆえんとなっている。このレポートは臨済宗の禅僧、有馬頼底による解釈に負うところが大きいが、どのように『臨済録』を解釈するかは各個人の自由である。

 

語録① 殺仏殺祖

仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。羅漢(小乗仏教において悟りを開いた高僧)に逢うては羅漢を殺し。父母に逢うては父母を殺し。親族に逢うては親族を殺し。始めて解脱を得ん。(元衆)

仏に会ったら、仏を殺せ」というのは、たとえ相手が偉大な「仏」だろうと「親」だろうと「友」だろうと、自分を縛る「しがらみ」は断ち切るべきという意味であり、つまり自由自在に生きるためには、「あらゆる執着を殺す」必要があるということである。

逸話として、禅が西欧に初めて紹介された際、この一文に触れた敬虔深いクリスチャンたちに「禅はなんと恐ろしいものか」と大いに顰蹙を買ったというエピソードがある*2

 

語録② 無事是貴人

諸君、わしの言葉を鵜呑みにしてはならぬぞ。なぜか。わしの言葉は典拠なしだ。さし当たり虚空に絵を描いてみせて、色を塗って姿を作ってみたようなものだ。

諸君、仏を至上のものとしてはならない。わしから見れば、ちょうど便壺のようなもの。菩薩や羅漢も手かせ足かせのような人を縛る代物だ。

もし仏を求めようとすれば、その人は仏を失い、もし道を求めようとすれば、その人は道を失い、もし祖師を求めようとすれば、その人は祖師を失うだけだ。

端的に言えば、「仏であろうと、他人の言うことは、あてにならず、易々と他人に影響されてはならない」「他人の言うことは便壺を素通りする糞のようなものでしかない」「何か自分以外のものに過度に期待して判断を全面的に他者依存してはならない」「きちんと自分の頭で考えなさい」ということ。

外に向かって師や仏にすがっても、それは結局のところ、自分を縛る手かせ足かせとなり、真の自由は得られない。自分に自信がないからといって、他人の教えを最上のものと思ってはならない。

すなわち臨済は「仏さまを信じるな。説法を聞くな。経典に頼るな。他人に相談するな。俺の言うことも聞くな。世の中全てウソである。自分以外の何者も信じるな」ということを教授しており、臨済自身が自らの教えを全否定する教え、というパラドキシカルなメタ構造にもなっている。

 

語録③ 求めるは地獄へ堕ちる業作り

また臨済に言わせれば、修行して悟りを求めようとする行為自体が「地獄」を作る原因であるという。

仏を求め、法(ダルマ)を求めるも、地獄へ堕ちる業作り。菩薩になろうとするのも業作り、経典を読むのもやはり業作りだ。仏や祖師は、なにごともしない人なのだ。だから、迷いの営みも悟りの安らぎも、ともに〈清浄〉の業作りに他ならない。

日常の地獄(餓鬼・畜生・修羅)から解放されるには、知識、金銭、快楽、地位、恋愛、悟りといった、ありとあらゆる執着・欲望・妄執を捨て去らねばならない。他人の存在に惑わされず、何も求めず、何もしない。それが臨済の言う「無事の人」なのであり、『臨済録』とは、「無事の人」に到達しようとする臨済の苛烈な自己格闘の様子をまざまざと描き切った語録集なのでもある。

 

語録④ 臨済と普化

臨済録』の「勘弁」編には臨済の分身ともいえる普化(ふけ、生没年不詳)という禅僧が登場する。普化は「風狂」「神異」の僧であり、大悟した臨済の上を行く存在として描かれるが、その行動には異様なものが多い。例えば臨済と普化の対話に以下のようなものがある。

ある日、普化は僧堂の前で生の野菜を食べていた。これを見た臨済は言った、「まるでロバそっくりだな」。すると普化は「メー」と鳴いた。臨済は「この悪党め!」と言うと、普化は「悪党!悪党!」と言うなり、さっと出て行った。

ロバのように生野菜をかじっている普化は一見奇人そのものに見える。

しかし、普化にとって生野菜をかじるという行為は、日常も非日常も関係なく普通のことであり、臨済の掛け合いに対しても、ただ、ロバのように「メー」と鳴く。普化は日常を淡々と生きており、臨済の言う「無事の人」を体現しているのである。

臨済と普化の対話は、ほとんど掛け合い漫才のようなものであり、「悪党」(馬鹿野郎)という掛け合いも、二人がお互いの真意を見抜き、認め合っているがゆえの言葉なのである。

 

語録⑤ 普化の最期

普化はある日、街に行って僧衣を施してくれと人びとに頼んだ。皆がそれを布施したが、なぜか普化はどれも受け取らなかった。臨済は執事に命じて棺桶一式を買いととのえさせ、普化が帰ってくると、「わしはお前のために僧衣を作っておいたぞ」と言った。

普化はみずからそれをかついで、町々をまわりながら叫んだ、「臨済さんがわしのために僧衣を作ってくれた。わしは東門へ行って遷化するぞ」。町の人が競って後について行くと、普化は言った、「今日はやめた。明日南門へ行って遷化しよう」。

こうしたことが三日も続くと、もう誰も信じなくなり、四日目には誰もついて来る者がなかった。そこで普化はひとりで北門から町の外に出て、みずから棺の中に入り、通りすがりの人に頼んで蓋に釘を打たせた。

この噂はすぐに広まった。町の人たちが先を争って駆けつけ、棺を開けてみると、なんと中身はもぬけのからであった。

ただ空中を遠ざかっていく鈴の音がありありと聞こえるだけであった。

ある日、普化は自ら棺桶に入って忽然と姿を消した。淡々と生きて何も残さず風のように消え去ったのである。普化は生涯を通して風狂を貫き、「無事の人」を体現した。普化にとっては、死もまたひとつの風狂(ユーモア)であったのである*3

こうした普化の風狂は、のちに一休宗純(1394-1481)にも受け継がれた。なお、一休は臨済宗の僧侶であり、「一休さん」の説話でも広く知られる*4

 

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普化(ふけ、生没年不詳)

 

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普化を祖とする普化宗の僧侶「虚無僧」

 

参考文献

臨済録』 入矢義高訳注、岩波文庫、1989年

臨済録を読む』有馬頼底、講談社現代新書、2015年

※『臨済録』の本文・訳は入矢義高注、岩波文庫に依った。

*1:臨済の「喝」は、若き頃の臨済が、師匠の黄檗と問答を経たのち、平手打ちと喝を黄檗に喰らわして悟りの証明を得た「黄檗三打」と呼ばれる故事が由来となっている。

*2:もし、これがホトケとかでなく、キリストやムハンマドだったら滅茶苦茶に糾弾されていたことだろう。これも仏教の寛容さゆえの賜物か

*3:風狂とは禅において、あえて秩序や戒律を「破戒」することで、禅の自由闊達で自由自在な境地を表す所作全般を指す。

*4:一休の風狂は普化のそれを上回るもので、仏教では禁じられている飲酒や肉食も平気で行い、男女問わず性的に交わりもした。一休の風狂は形骸化して腐敗した日本仏教界に対する強烈なアンチテーゼであり、痛烈な批判精神と反骨精神に満ちている。一休は普化と並ぶ奇人であり、真の僧侶であった。

震源地で大阪北部地震を体験して思ったこと

地震もそろそろ落ち着いてきたことだし、大阪北部地震が起きた時のことを回想してみよう。

地震発生時の8時前はまだ夜更かしして寝ていた。

そして緊急地震速報と同時に突き上げるような揺れで叩き起こされ、寝ぼける暇も地震だ!」と思う暇もなく、「あ!この世の終わりだ!」「宇宙が終わった!」とトチ狂っては布団の上で小さくなり、断末魔のようなものを心か声かで叫んでいた。

被害に遭った自宅は震源地帯にある高層マンション8階で、もはやP波どころの話ではなかった。実質、体感で震度6強はあったと思う。

そんでもって、頭を隠す暇も余裕もなかったのだが、小さくなってたことで四方から飛んでくる家具から奇跡的に逃れた。ほーんの数センチずれてたとしたら、きっと大ケガしてるかしていたろうし、もし頭上をめがけて家具が倒れたかもと想像すると、架空の痛みがリアルに感じられる。

弟の部屋も家具が倒れていて、すでに弟は出社していたが、もし寝ていたら、ひとたまりもなかったろうと思う。地震においては本棚が一番の凶器たりえるのだ。

とかなんとか偉そうに言ってみたが、震源地かつ直下ってもう何もできないし、ぜんぜん手も足も出ない。なおかつ今回の場合、下手に逃げたらケガをしていた。せめて出来ることはまくらで頭を守ることくらいだ。あー疲れた。

 

被害に遭った虫塚虫蔵のだらしない部屋







 

地震から2時間後ぐらいの摂津富田駅




 

茨木市の被害状況
瓦の落下、古寺の倒壊、壁の剥がれなど







(※上掲した画像の一部は手塚千夏雄のHNでWikipediaの「大阪北部地震」にもUPしました)