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混沌大陸パンゲア刊行記念/山野一インタビュー(ガロ1994年2月号)


──表題を『混沌大陸パンゲア』としたのは、この中に収録されている「カリユガ」第1話の扉に書いてあるように、現代はヒンズー教の言うところの最末期の状態で、その時に破壊の神シヴァが宇宙を混沌に戻すということと、その最末期の状態のようなことが描かれた漫画作品集ということでつけたのでしょうか。

山野 何となくつけたんですけどね。何百億年だか前に、大陸がみんな一つだったというのを聞いた時に、閃くものがあったんです。自分が考えていたこと…、それは精神的なことだったんですけど、それと通じるものがあったんですよ。根を手繰れば一つみたいな、そういう意味がないわけでもないですね。

 

──その精神的なことというのは、どんなことだったのですか。

山野 真面目に話し出すとキリがなくなるから一言でいいますけど、ユングの集団的無意識でしたっけ、誰の中にも共通の原体験とかそういうようなものがあるということですね。

 

──ユングは夢を分析していますけど、この単行本には、現実と幻覚が交錯している夢のような話が多いですね。

山野 そういうのは大体エロ本に描いたやつですね。そこは辻褄合わせというか、起承転結みたいなものがちゃんとあって、誰が読んでも納得出来る漫画というのを、あまり要求しないんですよ。タレ流しというか、女の裸さえ入れれば何を描いてもほぼいいというような所だったんで、そういうのを描いてましたけど、読者にはつまらないんじゃないかと思いますね。

そういう漫画は自分で描いてると楽しいんですけど、読み手を想像すると申し訳ないような感じがしますよ。センズリこく為にエロ本を買ってきたのに、こんな理解できないような漫画が載ってたら腹を立てるだけなんじゃないかと思いますね(笑)。実際に夢で見たことが織り混ぜられているんですけど、そういうのを描いている時は、珍しく漫画を描くのが楽しいというか、自分で満足できますね。

 

──夢を題材にして描く時は、夢を忠実に再現しようと試みたりするのですか。

山野 漫画で夢の中の変なビジョンみたいなものを描き留めようとすると、どんどんズレてきて、書き終った後で眺めてみると、始めに描こうとしていたものとは、全く別のものになっていますね。僕らは起きてる時に常に五感から入ってくる複雑な情報を、自分でも意識しないうちに処理してそれに対処して喋ったり行動しながら生きているわけですよね。ただ寝ころんで畳を見ているだけでも、脳の中では状況を把握するという精巧な作業がされているから、毎日毎日寝ないでその作業をし続けるということは、出来ないわけですよね、多分。夢というのは、眠ることによってそういうものから解放されて起きてる時のストレスを解消するみたいな形で理不尽なものが沢山出てくると思うんです。夢の中って辻褄の合わないことが一杯出てきますけど、そういうものを日記なりに書き留める時でたらめなビジョンを現実と類似した形に整理していくという作業を、無意識のうちにやっちやうんですよ。夢の中にあるビジョンがあって、それを文字に書き連ねてなるべく正確に描写していこうとしていても、書いている最中に、ああ、これは書こうとしていることとちょっとずつズレていってるな、みたいなことがありますよね。言葉なり漫画なりで夢の中での体験を書き留めるというような、理不尽なものを整理しようとする作業は、精神的に不健康な感じがしますね。多分言葉や漫画という形で置き換えるのが不可能なぐらい、混沌としたものなんだと思いますよ、夢というのは。

 

──現実のことでもあまりに悲惨な状況の中にいたりすると、これは夢なんじゃないかと思ったり、現実逃避で妄想を抱いたりしてしまいますよね。山野さんはとことん悲惨な人達を描き続けていますけど、小誌の特殊漫画博覧会(92年10月号)での座談会で、そういった人を目撃する機会が多いと言われてましたね。

山野 自分と関わりのない人を第三者の立場で目撃することは凄く多いですね。例えば自分の妹がアレだとかそういうことはないですけど、傍観するような視界の中によくそういう人が登場しますね。

 

──子供の頃からそうでしたか?

山野 あったと思いますね。
生まれたのが北九州で、四日市にも住んでましたし。両方ともろくでもない労働者の町でしたからね。廻りに文化的な人間なんて一人もいなかったんですよ。自分の育った家庭は特に悲惨ではなかったんです。ごく当たり前の団地ファミリーというか、別に問題もなかったし。高校ぐらいまで何も感じないで生活していたようですね。何か激昂するようなこともないし、沈み込むようなこともないし、何も感じないで何もしないでただボーッとしていましたね。

強い、悲惨な体験とかをして考え方がこうなったというような憶えはないんです。何でこんなにひねた見方をするようになったのかということのハッキリとした原因は自分でもよく解らないんですよ。団地の側面の全く窓のないただっ広い壁とか、そういうのを見て育ったせいかもしれないですね(笑)。ヒビが入った処を漆喰でヒビの通りに塗り固めて補修してあるんですけど、それが何か妙な象形文字みたいな形になったりしてましてね、そういうのを見てるうちに、こうなっちゃったのかもしれないですけど(笑)。大学に入ってから池袋に住むようになって、そこでもダラダラしてましたね。家族から離れたというのもあるけど、毎日マージャンとかパチンコとかやってただけで、劇的なことなんか何もなかったですね。ただボーッと4年間を過ごしていた感じですね。

 

会話が空転する感じなんです

──サラリーマンにはなりたくなかっんたんでしたよね。

山野 対人恐怖症という程ではないんですけど、人と関わるのがもう耐え難いんですよ(笑)。アルバイトとかをするにしても、バイクで書類を届けるとかそういうのをやってたんです。それだと受渡しの時以外は道路をただバイクで走っているだけだから、誰とも話をしなくてもいいし、時間が余れば喫茶店で寝るなり本を読むなり自由に出来ましたからね。例えば上司と部下みたいな、ある関係で結ばれた人と、狭い場所で同じ時間を過ごすような不愉快なことが(笑)なるべく少ないアルバイトを選ぼうと思いましたね。人と心が通じ合うということが、あまりないせいだと思うんですよ。子供の頃から言葉が通じないなということをいつも感じてましたね。多分それは自分が変なせいだと思うんですけど。ある特定の言葉があって、その言葉によって包括されるある概念の範囲みたいなものがありますよね、概念の方を頭に思い浮かべながら自分はその言葉を相手に発しているのに、相手の頭の中にあるその言葉と概念の関係が、自分のとはズレてるんですよ。言わんとしたことが全然伝わらないんです。相手の言ったことも自分では解ってると思っているんですが、本当は解ってないのかもしれませんね。言葉のやりとりが空転するというか、噛み合わないような感じがしましたね。子供の頃からずっとそういう状態で、中学、高校となるにつれて、相手に合わせて話をするようになるから、そういうことを意識的にやっているのを、どんどん忘れていっちゃうんですよ。だから、そんなに苦痛でなくなってもいて、昔はそういうことを感じていたなということも、思い出さない限りは意識しなくなるんです。

 

──家に篭って一人で仕事が出来る漫画家という職業は、かなり理想に近いのでしょうか。

山野 僕は今でもほとんど人と会わないんですよ。妻と喋るぐらいで、あとは4、5人の編集者と打ち合せをする程度ですから。以前根本(敬)さんといろんな話をしていて凄いなと思ったのは、一度も労働したことがないって言うんですよ(笑)。一度も労働したことがなくて、一度も給料というものを貰ったことがないというのが凄くいいなと思いましたね。僕の場合は、会社に勤めて社員とか役職がつくとかそういうことは一度も経験したことはないんですけど、少なくとも給料というものを貰ったことはありますね。だから根本さんにそれがないというのが、本当に凄いなと思って。多分一生何処にも就職しないで何の肩書も付かないまま終わるんだろうなと思うと、羨ましい気がしますね。僕は何年間かの間働いたことがあるし、今考えてみると、非常に拭い難い汚点を残してしまったんじゃないだろうかというような気がしますね(笑)。今は一応漫画が仕事でそれで食っているわけですけど、職業という感じはあまりしないですね。自分の好みとは関係なしに、こういう漫画を描いてくれと注文されて、その通りのものを作っている時は仕事という感じが多少しますけどね。

 

──注文通りの漫画を描かされている時は、苦痛になりますよね。

山野 それはそうですが、自分では全然面白くないなと思っている漫画でも、ある程度好意的な反響があると、読者がどんな読み方をしているのかだんだん解ってくるんですよ。だから、こういう読み方をしている人には、こういう風なことを描けば喜ぶだろうな、ということが解ると、作るのがそんなに難しくなくなってきますね。

あまり注文をつけない出版社で好きなように描いていても、一応読者に理解させようという、無意識な力みたいなものは働いています。どんなにでたらめなビジョンを漫画の中で再現しようとしても、どうしてもコマを切ってフキダシを入れて、主人公や脇役や背景をカメラ的アングルで描くという、漫画の基本的な形態がありますよね、結局それから逸脱しては描けないんです。

主人公が主体の場合でも、その主人公を客観的に別の所から描かなくちゃいけないみたいな。主体が感じとる世界をそのまま漫画という形で表現するのは、とほうもない天才でも出てこない限り無理なんじゃないでしょうかね。

自分の性質と全然違うものを作るというのは、漫画家とはいえ一表現者として非難されたり、堕落していると思われるんだろうけど、それはサラリーマンでも何でも同じじゃないかなという気もしますけどね。例えば鈑金工でも何でもいいですけど、その人が生まれつき鈑金工で、ただひたすら鈑金する為だけに生きてるってわけでもないですから(笑)。多分しようがなしにやってるんでしょう。大体仕事というのは、殆どの人にとってそんなものなんだろうと思うから、漫画家も同じだとは思いますけどね。だから、自分の我が侭通りに好きなことが出来ないからといって、そんなに悲観したものでもないのかもしれないですね。

 

ネガティブな望みばかりですね

──必ずしも我が侭を通すことが自分にとっていいことであるというわけではないのでしょうか。山野さんにとっていい状態というのは、どんなものなのですか。

山野 普通はこうであればいいなというような状態をイメージして、それに近付けようという努力はするんでしょうけど、自分はいい状態というのをあまり想像できないんですよ、それは不幸でもないということなのかもしれないけど。お金が沢山あればいいとかそういう普通のことは考えますけど、多分お金が一杯あっても、いい状態ではないんじゃないかという感じはしますね。仮に何億円欲しいなと願ってそれが実際手に入っても、あまりいい状態ではないような気がするんです。我が侭なんだか解らないですけど、サラリーマンが「部長になれたらよかんべなぁ」とか思って、部長になれたら凄く満足したりするようなことに相当する望みが想像出来ないというか、そんな感じですね。でもまあ、漫画はもしそうさせて頂けるもんなら、好きにやらせてもらった方がいいに決まってますけど。

 

──理想が高いんでしょうかね。

山野 いやそうでもないです。アレをやりたいとかコレになりたいとかいうポジティブな理想はあまりなくて、あんな事はやりたくないこんな物にだけはなりたくないという、ネガティブな望みばかりです。中でも一番世の中に出るのは嫌いだから、そういう意味では割と自分の思い通りにはなっていると思いますよ。僕みたいな立場の人間が世の中で生きていくのに、職業にしろ住居にしろ結婚相手にしろ、選び得る範囲というのがあるでしょう。凄く貧しい選択肢しか許されてないわけですけど、その狭い範囲の中では、一番マシな形に収まったのかなという気はしますね。

 

──ヒンズー教では、与えられたカーストの中で生きていかなければなりませんよね、山野さんのそういった考え方と何か通じるものがあるように思えるのですが。この単行本の中でも、ヒンズー教の神話などを題材にしたものが多いですね。

山野 ヒンズー教の神様というのは凄く神様らしいじゃないですか。他の宗教の神様みたいに嘘をついてはいけないとか、貞節でなくてはいけないなんてつまらないことは言わなくて、シヴァが何百万年も性交をし続けるとか、息子の首をはねて象の首とすげ替えるとか、いい加減ででたらめなとこが、僕にとって神様のイメージに一番近いなという感じがしたんですよ。

神様って、勤勉であれとか人を殺してはならないとか、そんな低俗でケツの穴の小さいこと言わないと思うんですよ(笑)。僕の感じでは、ある子供を彼が欲するままに好き勝手にやりたいことを何も禁止しないで育てたら、神様になるんじゃないかという気がするんですけどね。無制限に食いたいものを食わせてやりたいことはどんな犠牲を払ってでも全てやらせて育てたら、野蛮で無慈悲なヒンズー教の神様みたいな人間が出来るんじゃないかと思いますね。

 

──『ヒヤパカ』(小社刊)の後書で幼稚園の頃の神様のイメージというのは、団地の給水塔だったと書かれていましたね。山野さんはそういう高い所から世界を眺めているような視点で漫画を描いているように思えるのですが。

山野 給水塔程度の高さから見える範囲の世界ですね。
幼稚園に入る前後の頃僕が住んでいた四日市という所は、コンビナートがあって、ちょっと郊外に山を切り開いて作った団地があるんですよ。それで、その団地の近くにスーパーマーケットがあって、小学校があってというような所だったんです。

世界が丸いということも知らなくて、荒涼としたユークリッド平面が無限に広がっていて、その上に、工場と学校とスーパーマーケットと団地をワンセットにした殺伐とした町が、ある間隔をおいて点在している、そういう状態がそれこそ宇宙の果てまで広がってるのかと思ってましたね(笑)。日本の形なんてものも知らなくて、四日市の海岸線というのは、埋め立てられて直線になっていたんですけど、陸と海はその直線のまま永久に隔てられていて、これまた宇宙の果てまで続いてるのかと思いましたよ(笑)。

でも、僕が3歳の頃の世界というのは、本当にそんな姿だったのかなという気もしますね。それで、学校で地球は丸いとか教わっているうちに、世界の形というのがだんだん丸まってきて、今解っている形に収まったというか、自分が知っている範囲でしか世界は存在しないみたいな気がしますね。誰とも会わないで部屋に篭っているせいですかね(笑)。

 

文責●ガロ編集部
一九九三年十二月三日


月刊漫画ガロ』1994年2月号所載

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併録作品「癇癪老人日記」(単行本未収録)

f:id:kougasetumei:20171218015402p:plain初出ビデオ出版『月刊FRANK』1993年4月号

再録青林堂『月刊漫画ガロ』1994年2月号

 

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