Underground Magazine Archives

雑誌周辺文化研究互助

三流劇画ブームの頃/高取英(元『漫画エロジェニカ』編集長)

三バカ劇画ブーム

高取英(元『漫画エロジェニカ』編集長)

『漫画エロジェニカ』(海潮社)1978年11月号が発禁となってから20年の歳月が流れた。それを記念して何か書けとダーティ松本氏がいうのでこれを書く。

当時、『漫画エロジェニカ』は、『漫画大快楽』(檸檬社)そして、自販機本の『劇画アリス』とともに人気のエロ劇画誌で「三流劇画ブーム」などと呼ばれていた。『エロジェニカ』11万部、『大快楽』7万部、『劇画アリス』3万部だったので部数ではダントツのエロ劇画誌であった。『エロトピア』は隔月誌で三誌は月刊誌、つまり、月刊エロ劇画誌のブームだったのである。
『エロジェニカ』のレギュラー執筆陣は、ダーテイ・松本、中島史雄村祖俊一清水おさむ小多魔若史などで、みな個性的でパワフルな劇画家たちであった。

なぜ、ブームになったのかは詳しくは書かない。まだ『ヤング・ジャンプ』も『ヤング・マガジン』もなかった時代、個性的なマンガ家のそろったエロ劇画誌が、『ヤング・コミック』で人気のエロ劇画家・石井隆に続いて注目されたのである。そう、まず石井隆のブームがあった。彼もエロ劇画誌出身であったところから、ブームが始まるきっかけとなったのである。

正確にいうと、78年、話題になったのは『漫画エロジェニカ』と『劇画アリス』で79年になって、『漫画大快楽』が、ひさうちみちお、平ロ広美など『ガロ』出身の漫画家によって話題となる。エロ劇画+ニューウェーブ系の力である。『エロジェニカ』はすでに76年より『ガロ』の川崎ゆきおの連載を続けていて、79年には、いしかわじゅん柴門ふみ、山田双葉(のちに、作家山田詠美)、まついなつきが登場する。『アリス』は、吾妻ひでお、奥平イラ、まついなつきとやはり、ニューウェーブ系を起用していた。

要するに、三誌ともエロ劇画の業界のルール(エロ劇画家以外は掲載しない)を逸脱していたのである。ちゃんとしたエロ劇画誌は当時はむしろ『劇画悦楽号』(サン出版)、『漫画ハンター』(久保書店)の方であった。こちらが本来の主流で、ブームの三誌は邪道であった。それが証拠に、三誌の編集者はその後流転の人生を歩むが、『悦楽号』の櫻木徹郎編集長も、『ハンター』の久保直樹編集長もその後も、立派に業界の主流を担って今も同社に健在である。

ま、三誌は、実は三バカ大将みたいなものだったのだ。

何が三バカといって、編集者がである。そのトップは「俺は全共闘くずれのエロ本屋」だぜ」と出き、表紙に自ら上半身ヌード写真を掲載した『劇画アリス』の亀和田武であった。

その次は、俺だろう。トップでもいいが、ここは先生に敬意(笑)をはらうしかない。そして『大快楽』の小谷哲と、菅野邦明のコンビが三番目だな。二人で一誌だったから*1。三バカだからルールを無視してアホができた(こういうことも理解できずに当時、ブームに嫉妬していた遠山企画*2の塩山ナントカという現在、編プロ・まんが屋の編集者が、エロ劇画のその頃についてようやく最近、出いているが、乗り遅れたさらにバカもいたのかと感動的である)。

おっと、脱線してはいけない。『漫画エロジェニカ』の発禁について書いておかなくてはならない。78年、話題だったのは『漫画エロジェニカ』と『劇画アリス』、部数はダントツで『漫画エロジェニカ』、しかも、TV『11PM』が特集を組み、出席したマンガ家・あがた有為(大快楽に執筆)以外、中島史雄小多魔若史村祖俊一、他計5名、『エロジェニカ』の執筆者で、編集者は、俺と『アリス』の亀和田、そして『官能劇画』の岡村氏など。文句なしに『エロジェニカ』が目立ってしまったのだ。

というわけだ。問題となった劇画作品は、ダーティ・松本の「堕天使たちの狂宴」がダントツ。これは当局がそういったのだから、そうなのだろう。他の4名・4作品は、とばっちりみたいなものだった。

しかし、実は『漫画エロジェニカ』78年10月号の方がすごかったはず。というのは、TVに出ると何かあるというのは、ストリッパーの一条さゆり(やはり『11PM』に出演したところ、引退興行であるにもかかわらず摘発)で証明されていたので、11月号は、やんわりとマンガ家たちはかくように編集部にいわれていたからだ。ダーティ・松本はそれを無視した。

発禁で喜んだのは、上層部と営業部で、「万歳! これで本が売れる!」といったのだから、たいした商魂だった。12月号は、その通りで、12万部ほど刷って、95%が売れた。
面白かったのは、その12月号、11月号発禁の時、すでに刷り上がっていて、連続発禁になると雑誌は亡くなるということで、アルバイトをやとってスミ塗りとあいなった。

「なぁーんだ。写真集かとおもったら、マンガかァ」

と失望の声を上げたアルバイターがいた。ビニ本もない時代、修整前のグラビアが見えると思ったのだとか。夜、スミ塗りをしていたが、12万部は、計算すると、一週間かかる数。しょうがないので、刷り直しになった。

この時、『朝日新聞』は、コラム「青鉛筆」でやや好意的にとりあげたが、『週刊朝日』の穴吹史士記者は、トク名のコラムで、デタラメな記事をかきちらした。いわく、読者の大半は小学生とか、印刷は刑務所だとか(印刷は大日本印刷だった)。

この人、後に、新右翼の野村修介が、「風の会」という団体名で参議院選挙に出馬した時、「虱の会」とカラかったイラストを『週刊明日』に載せ、つるし上げをくらった。その時は、『週刊朝日』の編集長だったのだ。

ああ、やっぱり、こういうことをしでかすのか、と思った。

そのずっと前に、朝日新聞社に他の用でいった時に、蹴りを入れようと思ったら、留守だった。あの時、いれば、少しは身にこたえ、そうしたこともなかったかもしれないが…。

ま、アホのまわりも、アホだったわけだ。また、「三流劇画ブーム」は、劇画全共闘とも一部マスコミなどに書かれたが、これはそもそもは、三流劇画共闘会議という個人ペンネームを、『官能劇画』の川本耕次が使ったのが誤解されたものだ。そういうことも調べず、呉智英は、後に「劇画全共闘」という言葉を批判し、また亀和田武がそうした言葉を使った(ほんとは、使ってはいない)と思いこんで批判している。アホのまわりも、二回いうことないか。

それでも、劇画全共闘という言葉に感動した読者もいたらしく、後に出会った。しょうがないな。

そうだ。発禁の時、裁判を期待するむきもあったが、実は、俺は正式には編集長ではなかったのだ。編集・発行人は、あくまでも当時の社長であって、そうしたことは社長が決めることだったのだ。

社長は、発禁の時、週刊誌の取材に「遠いところで革命とつながっている」とコメントしたのだから、やっぱ、アホだったかも。60年安保くずれのサヨクだった。

澁澤龍彦の『悪徳の栄え』も、ストリッパーの一条さゆりも、有罪なら『漫画エロジェニカ』も有罪。それでよか。

それにしても、初代『エロジェニカ』編集長は、元全共闘(日大)、主流のS編集長も元全共闘と、なんだか元全共闘が多かったね。

それも世代のせいだろう。マンガ評論も書く呉智英早大)も、マンガ家の夏目房之介(青学)も、サン出版の櫻木編集長のそばでエロ劇面誌の編集をしていた作家の関川夏央上智)も元全共闘だ。

サン出版の櫻木編集長は、ダーティ・松本の発禁となった「堕天使たちの狂宴」をすぐに単行本にしてしまった。修整してあるので大丈夫と思ったとか。修整してあっても発禁になったことを知らなかったのだ。そんなアホな。

そうそう、忘れてはいけないのが、79年になってからのことだ。『エロジェニカ』と『大快楽』は、ちょっとした抗争になったのだ。すなわち、『大快楽』の編集者・小谷哲がコラムで『エロジェニカ』を攻撃し始め、さらに『大快楽』の執筆者・板坂剛(日大全共闘の一員だったとか)が、『エロジェニカ』執筆者の流山児祥を攻撃、「流山児殺し完成」とまで書いた。怒った流山児祥は、板坂を呼び出し、白星、下北沢の路上でKOしてしまった。その後、俺は呉智英と新宿の酒場で出くわした。

「勝った方? 負けた方?」

呉智英、ややシンチョーに聞く。

「トーゼン、勝った方」

そう答えると、呉智英はニッコリして、板坂剛の悪口をいいだした。「頭のコワレた奴で、青林堂も困ったもんだよ(板坂は青林堂から本を自費で出していた)」

まーどちらにせよ、みんなアホだったことはまちがいなく、実は『大快楽』にあと一回、文章で攻撃させ、編集部を攻撃するというのがこちらの計画だったのだ。やっぱり一番のアホは俺かも。その時は、もう一人の武闘派のマンガ家、九紋竜が一緒に行くことになっていた。

もっとも、日本刀をもっていくといってたから、そうならなくてよかったのかも(『大快楽』もそれを迎え撃つつもりだったとマンガ家のいつきたかしがいっていた)。

ひさうちみちおによると、小谷哲はキョーフにふるえ、俺たちもいる新宿には行きたくない、殴られるといっていたとか。しかし、大襲撃は考えてもこちらに小さなテロのつもりはなかった。誌面ではオドシたけど。

その前後より、流山児祥(元青学全共闘・副総長)は、亀和田武(元セイケイ大全共闘・構改派)を攻撃していた。

流山児は、麒麟児拳(きりんじけん)というペンネームで政治的なコラムを書いていた亀和田をきらっていて、「プロ学同の亀和田か? ミンセイみたいなもんだ」といっていた。

その亀和田は、俺が流山児に反論するようにいったのに拒絶し、その後、『劇画アリス』の仕事をサボってクビになり、『大快楽』に執筆、なぜか流山児ではなく、文章で俺の攻撃に出た。

今、明かすが亀和田の劇画論にローザ・ルクセンブルク理論をあてはめたものがあるが、あれは俺が教えたものだ。つまり平岡正明の「マリリン・モンロープロパガンダである」に出てくるのを劇画にあてはめることができると。喜んで、それイタダキといった亀和田はこの件では俺の教え子(笑)だったのになんだ!?

そこで俺も亀和田を攻撃、決闘となる予定が、亀和田は逃げてしまった。腰抜けだった。ちがうというのならいつでも対決してやるよ。連絡してこい。

亀和田は、その後、俺が『創』に執筆すると聞くと書かせろなどワメイたりセコイ奴だった(彼は編集部に同窓生がいた)。

米沢嘉博は、俺と亀和田の闘いを、「内なる寺山修司平岡正明の開い」と評したがマチガイ。俺は、学生時代、新聞会で平岡正明に原稿を依頼した平岡ファンで、亀和田も平岡ファン。そういうことさ。

亀和田は後に、ワイドショーのニュースキャスターとなって「全共闘くずれのエロ本屋だぜ」ときったタンカも忘れて「雅子様雅子様」というようになった。それを中森明夫にヤユされると、「いつそんなこといった?」と反論している。自分のいったことも忘れるのは底抜けのアホだからしょうがない。

いずれにせよ、彼は楽界から去った。同じく、俺もアホで劇団をつくって芝居をやるようになった。でも、業界とはつきあっている。

『大快楽』の菅野・小谷コンビは、なぜか*3コンビ分かれをした。小谷哲が今どうしているのか、わからない。菅野邦明とは数年前、白泉社の仕事を一緒にした。それから、たまに会うチャンスがある*4

20年の歳月は、当時のさまざまな人々を変えていった。ブームの元祖、石井隆は映画監督に転じて成功した。ダーティ・松本は今も健在で、エロ劇画の巨匠になった。中島史雄はその後、メジャーの『ビジネス・ジャンプ』で活躍するようになった。小多魔若史は、痴漢の本を出版し、話題になった。清水おさむは、村岡素一郎の『史疑徳川家康』を劇画化し、高く評価された。村祖俊一はその後『少年チャンピオン』や一般誌とエロ劇画誌の両方で活躍した。

とばっちりを受けた北哲矢、人生美行がどうしているのかは今はわからない。もうマンガはかいていないのだろう。

そういえば、最近、小学館漫画賞を受けた、いがらしみきおが、受賞の時の経歴でデビュー作品をあげ、『漫画エロジェニカ』掲載、と書いてあるのを見て感激した。

若い人は20年前のエロ劇画誌など知らないはず。何度かこの雑誌について書くチャンスも、あったが、伝説の雑誌になるほどのものでもないだろう。

元『大快楽』の菅野邦明とその頃のことを話した時、

楽しかったね。セイシュンだったね。

と彼はいった。

そうだね。みんなアホだったね。

それが、俺の応えだった。

(同人誌『発禁20周年本 真・堕天使たちの狂宴』所載)

 

三流劇画ブーム・抗争は燃え上がった

ぼくが『漫画エロジェニカ』の編集をまかされたのは、1977年、25歳の時であった。

その直前に、この雑誌には、川崎ゆきおの連載が始まっていた。川崎ゆきおは、ぼくの出身大学の新聞に原稿を書いてもらったこともあって、お願いしたのである。エロ劇画誌に、『ガロ』のマンガ家が登場するのは、当時の業界では、掟破りであった。業界では、『ガロ』を別世界と考えていたのだ。

しかし、同じ会社の『快楽セブン』には、渡辺和博の連載も始まっていた。この会社は、唐十郎・編集の文芸誌『月下の一群』、ジャズ雑誌『ジャズランド』、詩の雑誌『銀河』などを発行していて、業界から少しズレていたのだ。社長は安保全学連くずれで、編集局長は日大全共闘くずれであった。『快楽セブン』の編集者は、『ジャズランド』からエロ劇画誌にうつり、彼も67年の羽田闘争に参加したことがあった。この会社にぼくは安西水丸などの紹介で入ったのだ。ぼくは、学生時代から『ヤングコミック』(上村一夫・真崎守・宮谷一彦が三羽ガラスといわれた頃だ)のようなマンガ誌をつくりたいと思っていた。この雑誌は、コラム欄も充実していて、奥成達平岡正明竹中労が、小説では筒井康隆などが書いていた。

『漫画エロジェニカ』をまかされた時、したがって、ぼくは燃えた。ポリシーは、決まっていた。〈掟破り〉だ。まず、読者欄を充実させようと思った。エロ劇画誌に読者はハガキなんかよこさないという、定説をくつがえそうと思ったのだ。同時に、マンガ家の名前を売ろうと思った。エロ劇画誌は、マンガ家名よりも、SEXシーンにしか興味がない、という当時の定説をくつがえそうと思ったのだ。

そのために、読者による人気投票を試み、マンガ家名を書いてもらって、記憶してもらおうと思った。マンガ家の人気投票は、大手の少年誌でもやっている。しかし、それは、公表されることはない。この《掟》を破ろうと思った。人気投票は、雑誌に、正直に毎月発表した。

偶然にも、このことが、執筆マンガ家たちを燃え上がらせることになった。やはり、トップをめざしたく力を入れたのだ。

当時、石井隆がエロ劇画家として大ブームとなっていた。ぼくたちは、石井隆に追いっき、追いこせと考えた。

執筆陣は、ダーティ松本村祖俊一中島史雄清水おさむ、といったマンガ家がレギュラーとなっていた。『ガロ』出身の蟻田邦夫もいた。そして川崎ゆきおだ。

川崎ゆきおがかいていれば、『ガロ』の読者も注目するだろうと思っていた。

確かにこの予想は当り、サン出版の雑誌で『漫画エロジェニカ』に注目、といった記事が掲載された。匿名の記事だったが、後に、米沢嘉博が書いたものだと知った。川崎ゆきおにも触れた記事である。

〈雑誌倫理協会〉というのがあり、この協会に会社は加盟していなかった。この協会は、確か、女子高生の表現には、気を配るようにとか、文書にしていたが、〈掟破り〉をめざしていたので、女子高生はテーマとしてメインにした。

先輩は、「肉体労働者、まぁトラックの運転手などが読むんだ」といったが、ぼくは、マンガ好きの学生中心に方針を変えていった

『快楽セブン』の編集者は、寺山修司の言葉をマネて、「性の失業者/セックス・プロレタリアートのためだ」といったので、それなら学生だろうと思ったのだ。これも〈掟破り〉だったのかもしれない。さらに、月刊エロ劇画誌に、連載ものは無理だ、というのがあった。

これを破ろうと思った。最初は一話完結形式で、村祖俊一が「娼婦マリー」を始めた。

大丈夫なので、連載は、北哲矢・北崎正人の「性春・早稲田大学シリーズ」など、増えていった。

ギャグ以外の全てのマンガ家と打ち合わせをした。テーマ、ストーリー、といったところだ。喫茶店での打ち合わせは、マンガ家が恥ずかしそうに原稿を見せたので、そういう日陰もののようではいけないと、ぼくは大っぴらに原稿を広げた。マンガ家の一人はそのことに感激した。

コラム欄も流山児祥のプロレス論、岸田理生のSF紹介、平井玄のロック論が好評となっていた。少女マンガ論はぼくが書いた。

まかされた時の発行部数は、5万5千部、返品率4割5分。

社長は、「売ってくれれば、何をしてもいい」といった。

結果、『漫画エロジェニカ』は、おそるべきスピードで発行部数を伸ばしていき、我々はあしたのジョーであると宣言した。全盛期には12万部発行、返品率1割へと上昇した。当時のエロ劇画誌のトップになったのだ。

読者のハガキは大量にやってきて、編集部にも、読者が次々に遊びにきた。

ただ残念なのは、こういう時も、東大生、京大生が一番乗りで、アングラ・サブ・カルチャーもエリートが早いのか、と思ったことだ。ほどなく京都府大に「エロジェニカ読者の会」ができた。

『漫画エロジェニカ』がブームになっていくと同時に、『大快楽』(7万部)、『劇画アリス』(3万部)というマンガ誌も、御三家と呼ばれ、セットで、三流劇画ブームといわれることが多くなっていった。

最初は、大阪の情報誌『プレイガイドジャーナル』で、ぼくと、『劇画アリス』『官能劇画』の編集者が座談会をもったのがきっかけであった。77年のことである。この時、司会の人に、「トレンディになって、若者が小ワキにかかえて、原宿や渋谷を歩くようになったら、どうします?」と問われた。「そんなことにはなりませんね」と答えた。「当局に弾圧されたら、どうしますか?」とも問われた。「それは、わからないけど、弾圧されるとしたら、『エロジェニカ』でしょう」とも答えた。

なにしろ、掟破りだったので、どこかで覚悟していたのだろう。

劇画アリス』の編集長・亀和田武は、自らの上半身ヌードを表2に掲載し、気を吐いていた。

執筆陣は、飯田耕一郎井上英樹、つか絵夢子などであった。

77年、『漫画エロジェニカ』と『劇画アリス』がまず、話題になっていった。

日刊ゲンダイ』『夕刊フジ』などで『漫画エロジェニカ』が、『報知新聞』などで『劇画アリス』が記事になった。

そして、78年、9月に『11PM』がエロ劇画の特集を組み、出演したエロ劇画家4名のうち、中島史雄小多魔若史清水おさむと、3名までが『漫画エロジェニカ』のレギュラーであったことと、ぼくが出演して話したことが当局を刺激し、『漫画エロジュニカ』11月号(10月発売)は、発禁となった。

メインは、ダーティ松本の作品であった。彼は人気投票に燃え、性表現をエスカレートさせていた。他に村祖俊一、北哲也、小寺魔若史も問題となった。

NHKニュースはその日のラストに、このことを報道した。表紙が映った。その後、「君が代」が流れた。見ていた表紙のイラストレーターは、「俺の絵が全国ニュースで流れた」とコーフンした。

営業部長は、万才をし、「これで、もっと売れる」といったのだからたいしたものであった。安保全学連くずれの社長は、週刊誌の取材に、「遠いところで革命とつながっている」といったのだから、もうムチャクチャだった。

『別冊新評』は、「石井隆の世界」を出版した後、79年初春に「三流劇画の世界」を出版した。ブームはピークとなった。

79年に入って、『漫画大快楽』は、三条友美あがた有為などエロ劇画家の他に、『ガロ』で活躍していた、ひさうちみちお平口広美がエロ劇画を執筆し始めた。

劇画アリス』は、吾妻ひでおが連載し、奥平イラ、まついなつきが執筆した。

『漫画エロジェニカ』は、いしかわじゅんが『憂国』を連載、山田双葉(後の山田詠美)も連載、柴門ふみペンネームで執筆、いがらしみきおがデビューした。ひさうちみちお吉田光彦も執筆した。

三誌とも、エロ劇画+ニューウェーブ系マンガ家で、話題となったのである。

79年、その『漫画大快楽』のコラム執筆者・板坂剛(元・日大全共闘)が、『漫画エロジェニカ』のコラム執筆者・流山児祥(元・青学全共闘副議長)の批判を始め、「流山児殺し完成」とまで書いた。怒った流山児祥が、白昼、下北沢の路上で板坂剛をKOしてしまった。もう、ムチャクチャであった。流山児祥は、『劇画アリス』の亀和田武(元・成蹊大学全共闘)の批判もした。理由は、亀和田が構改系だったということらしい。「ミンセイみたいなもんだよ」といっていた。ぼくは、『劇画アリス』にマンガ論を書いていたが、これでパーになった。亀和田武は板坂の味方となり『大快楽』で流山児祥ではなくぼくの批判を始めた。頭にきたぼくは彼をKOしようとしたが、彼は逃亡した。それで高橋伴明(こっち側)と戸井十月(向う側)を立合人として果し合いを申し込んだが逃げた。

『漫画大快楽』と、『劇画アリス』をクビになった亀和田VS『漫画エロジェニカ』の抗争といわれるものだ。オーラル派VS武闘派の抗争であった。

次は我々が、『漫画大快楽』の編集者を攻撃するという噂も流れ、『大快楽』のマンガ家の中にも受けて立つという人もいたらしい。こっち側のマンガ家には日本刀で殴り込むと豪語する人もいた。天井桟敷の劇団員(コラム執筆者)も殴り込むといった。

もうハチャメチャであった。

しかし、『漫画大快楽』の編集者は、退社してしまった。

79年、『アリス』は、次の編集者の代で休刊、『大快楽』も編集者が代り、80年に『エロジェニカ』を休刊、エロ劇画ブームは沈滞した。

先日、小学館のパーティで、元『大快楽』の編集者の一人と会って、その頃のことを話した。みんな20代後半であった頃だ。なにしろ若かった。燃えていた。

「面白かったよね」と、元『大快楽』の編集者がいった。

「うん。セーシュンだったね」ぼくはいった。

「もう、あんなムチャクチャもないね」「そうだね」

三流劇画ブームは、歴史のかなただ。でも僕たちは、それをまだ胸にしまっている。

(文中敬称略/月刊『ガロ』1993年9月号「三流エロ雑誌の黄金時代」所載)

*1:俺も亀和田も一人で一誌を編集していた。また『劇画アリス』(亀和田担当)に俺はマンガコラムを掲載していた。

*2:当時、「なぜ『エロジェニカ』ばかりマスコミに取り上げられる。俺なんか30年やってるけど一度もない」と遠山社長がいっていた。それは邪道じゃなかったからさ。喜ぶべきだろう。

*3:知ってるけど、書かない。トホホだから。

*4:板坂剛に会ってるかと聞くと、全然と答えた。編集部のそそのかしもあって、流山児攻撃を書いたという。それにしちゃカワイソウだといっておいた。板坂剛に関していうと、77年だったかに一度会った。名刺がわりに女の股間をストローで吸ってる写真をくれた。 これで、持っていた『エロジェニカ』をあげるのをやめようとした。同席した府川充男が強くすすめたのであげたが…。板坂ファンの『ハードスタッフ』で、俺が雑誌をあげたのをウレシソウに書いている。が、シブシブあげたのが真相。アホらしや