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高市由美・特殊漫画家 山田花子を偲んで──父・高市俊皓

1992年に投身自殺した伝説の漫画家・山田花子
彼女の生涯からは、ある種の“信念”とも“業”とも言える「何か」が見え隠れしてならなかった。彼女の父でトロツキスト高市俊皓(2012年没)の寄稿(山田花子著/高市俊皓編『自殺直前日記』あとがき)から山田花子の抱えていたカルマ(業)の正体について探ってみることにしよう。


高市由美・特殊漫画山田花子を偲んで

高市俊皓(父)

一流高校―東京大学―上級国家公務員試験合格―高級官僚に。私の親父は、私を典型的な立身出世型の人間に育て上げようとした。親父は常日頃、私に昔の修身の教科書そのままの道徳を説いた後で必ず「お前の人生の目的は東大を首席で卒業して偉い役人になることだ」と言って聞かせた。

人生のある時期まで、私はそんな親父を尊敬していた。親父の期待に応えたいと思ってきた。しかし、成長するに従って、私は親父の人生観や価値観に疑問を持つようになった。親父の偽善に気付いたこともあった。また、私には親父の期待に応えられる能力がないことに気付いたこともあった。しかし、最大の問題は立身出世して富や社会的な地位を追い求めることが果して人生の目的たり得るのかという疑問であった。大学受験も真近に迫った高三の時のことだった。

高校を卒業して一年後、私は家を出て、東京の新聞店で働きながら受験勉強を続けることにした。「独立」しなければ、親父のお仕着せでない、自分自身の人生を歩むことはできないと考えたからだ。この頃、私は懸命になって哲学書を読み、人間如何に生きるべきかを真剣に考えた。当時、私が到達した結論は、たとえ貧しくとも、自分自身の信念に忠実に、人間らしく生きたいということであった。

一九六〇年四月、私は東京学芸大学に入学した。相変わらず新聞店で働きながら通学した。親からの仕送りはなかった。親父と喧嘩したからじゃない。生活保護とお袋の僅かばかりの稼ぎで暮らしている両親に、仕送りする余裕はなかったのだ。この頃には親父も私の生き方を認めていた。

私が大学に入った年は、御存知「六十年安保」たけなわの頃だった。連日、クラス討論―全学集会―国会デモへ、というのがお決りのコースだった。ところが、我が級友達(中学理科教師課程)の殆どが集会やデモに参加しようとしなかった。平穏無事に卒業したい、学生運動に参加して就職不利にしたくない、というのが本当の理由なのに、「学生の本分は勉強だから…」などともっともらしいことを言うので、むしょうに腹が立って騒ぎまくっていた。気がついたら何時のまにか執行委員になっていた。

安保闘争が終った後、ストライキを決議する為に開かれた学生大会で、賛否両論が伯仲してなかなか決着が付かなかった時、私が激烈な大演説!?をぶって、決議を通過させたこともあった。私が先頭に立って会場の体育館に突入して、教授会を流会させてしまったこともあった。学校側に「十分反省して、二度としませんと誓えば退学だけは許してやる」みたいな事を言われたが、私は拒否して帰ってきてしまった。お陰様で、その後間もなく退学になった。学生運動の渦中で、私はマルクスエンゲルスレーニントロツキーなどの著書を夢中になって読んだ。中でも、以後の私の生き方に決定的な影響を与えたのはトロツキーだった。トロツキーの思想や理論に共鳴したことは言うまでもないが、私はより以上にトロツキーの生き方に共感・共鳴した。一九二〇年代末~三〇年代にかけて、十月革命を担ったかつての同志達が、保身の為に次々とスターリンに降伏していく中で、トロツキーは敢然とスターリンに闘いを挑んだ。トロツキーは一九二九年に国外追放になり、一九四〇年にスターリンの放った暗殺者に、頭にピッケルを打込まれてその生涯を閉じた。私はとてもトロツキーのようには生きられないと思ったが、トロツキーのように生きたいという志だけは持ち続けたいと思った。

安保闘争が終って三年もたったころ、一人また一人と運動から去って行った。私は数少なくなった仲間と共に運動に踏み止まり、現在も社会主義を目指す文筆活動を続けている。

私事について長々と述べてきたのは、他でもない、由美の人格形成に私の生き方や考え方が色濃く投影しているように思われるからだ。日記に、「作家としての魂を売り渡して、つまらねー漫画描くくらいならバイトしながら好きな漫画描く」「素敵な大人(実は他人を踏み台にして知らん顔してる奴)より、傷だらけになって頑張ってる硬派の方が私は好きだぜ!」と書かれているのを見た時、とりわけその感を深くした。

私は、親父に価値観・人生観を押し付けられて育ち苦しい思いをしたので、自分の子供達は自由にのびのびと育てたいと考えてきた。しかし、日記を読んだ時、私もまた自分の暑苦しくてくっさい「前向き」の価値観を知らず知らずの内に子供達に押し付けてプレッシャーをかけてきたことを知って愕然とした。由美が日記に書いている通り私は偽善者だったと思う。

親父とのこと、学生運動のことなど自分の若かりし頃のことを、私はただ一度だけ真紀に話した。高校時代、学校の宿題で父親について書くことになった時のことだった。子供は親の背中を見て育つと言う。子供は親の日頃の言動ばかりでなく、人生観や価値観から実際の生き方まで、いわば親の全人格を見て自分の人格を築いていく。私は親父の価値観や生き方を反面教師として自分の人格を形成してきた。反対に由美は、多くの部分で批判や反発もあったが、コアの部分では、私の生き方や価値観の影響を受け、それを取り込んで自分の人格を形成していったように思える。そうであればこそ逆に、由美から見て、常に前向きに硬派として生きてきた私の存在が、「自然体」で生きようとする由美にとって、大きなプレッシャーになったのだと思う。これは確かに、親の意思でそうしたわけではないので、どうにもならない事なのだ。しかし、どうにもならない事であるだけに、あの時あんなこと言わなければ良かった、またあの時、何故もっと真剣に由美の話を聞いてやれなかったのか、という数多くの悔悟の念と重なり、私の気持ちを一層重苦しくする。

大小二十冊余りのノートに書かれた膨大な分量に及ぶ日記を読了した時、私は改めて、由美・山田花子の、人間としての、また表現者としての凄まじい生き方と自分自身に対する厳格さに驚嘆した。私は由美に比べれば遥かに不純だった。幾度も妥協したし、自分をごまかしもした。それでも、私は自分に寛大なので葛藤にならなかった。反対に由美の場合、余りに純粋で、余りに自分に厳格であり過ぎた為に、妥協したり自分をごまかすことができず、より正確に言うならば、一旦は妥協したり、ごまかそうとした自分が情けなくなり、葛藤が生じて苦しみ続けていた。

ヤングマガジン』『ガロ』『リイドコミック』など、生前、私は山田花子の作品を可能な限り入手して読んでいた。山田花子の作品を読むことは私の最大の楽しみの一つだった。しかし、当時の私には、山田花子の作品が持つ深刻きや本当の面白さが分かっていなかった。ただ漠然と「自分の体験を描いているんだ。この娘は苛めで負ったトラウマを一生引きずって行くのかな」などと思っていた。『ガロ』九十年九月号から連載され始めた「オタンチン・シリーズ」に主人公(作者)マサエの他にもう一人、作者の分身と思われる事態の冷静な観察者としての「山本さん」が登場する。楽天家の私は当時、「由美も少しは自分を突き放して客観的に観察することができるようになったのかな」などと考えていくらか安心していたものだった。しかし、由美の死後、遺品の中から出てきた「ノゾミカナエタマエ」という作品を読んだ時、もしかしたら「山本さん」の登場は、山田花子の精神生活上もっと深刻な意味を持っているのではないかという疑問を抱くようになった。

九三年夏~秋に、芸術家としての山田花子に深い関心を抱かれた香川医大精神科の石川教授が我が家を訪れた時、私はかねてからの疑問をぶつけてみた。教授はおおむね以下のような話をして下さった。

普通、作家は自分自身の冷静な部分を作中人物として登場させるようなことはしません。作家はそれを自分自身の内面に確保しておいて描くからです。山田さんが自分自身の冷静な部分を、作中人物として登場させたということは、当時自分自身で精神のバランスを維持することが極めて困難になっていたということを意味します。つまり、作中に自分自身の冷静な部分を具象化することによって、辛うじて精神のバランスを維持していたと言えます。

しかし、この段階では、ほとんどの精神科医は「病気」とは診断しないでしょう。この段階では有効な治療方法がありません。薬を与えますと、かえって発病を早めてしまいます。もし、どうしても発病を阻止しようとするならば、自分自身に関心を向けさせないこと、自分自身のことを描かせないようにするしかありません。しかし、そうしますと、その人の芸術家としての才能を殺してしまうことになります。ここに精神科医としての私と芸術愛好家としての私のジレンマがあります。

芸術家は、特に自分自身のことをそのまま作品にするタイプの芸術家は、「正常」と「異常」との間にいるような時に、もの凄い創造的なエネルギーを発揮して、常人では到底できないような素晴らしい作品を生み出すことがあります。山田さんの場合がそうです。自分自身のことをそのまま作品に描く芸術家は、たいてい最後には心の病になります。これは悲しいことですが事実なのです…

山田花子は九一年五月ごろ、『ヤングチャンピオン』誌に「ノゾミカナエタマエ」と題する作品を連載していた。主人公(作者)山田花吉が我儘女のセックス奴隷になり下がり、遂には自分自身のもう一つの分身として作中に登場する。プライドに見放されてしまうというストーリーの作品である。

山田花子はまた九一年十二月に、『アライビー』九二年二月号に掲載する予定の「新智恵子抄」と題するコラム原稿を書き残している。この作品では、近所の主婦の噂話という形をとって、同じ団地に越してきた若妻が追い詰められて発狂し、精神病院に入院してしまうまでの過程が淡々と語られている。この作品のコンセプトを指示する紙片に「自分自身の現実の姿を他者の視点で徹底的に客観視して描く」と記されていた。

山田花子は、プロデビューして以来一貫して、自己の内面の葛藤と苦悩を、作中人物に託して描き続けて来た。山田花子は最後の一年余り、「正気」と「狂気」の狭間をさまよいながら、創作活動を続けていたのであろうか?

嘆きの天使」「ファントム・オブ・パラダイス」「忘れられた人々」「エル」「マルチプル・マニアックス」「ポリエステル」等々、私は由美が見ていた映画を片っ端からみた。蛭子能収丸尾末広根本敬山野一など諸先生の作品も読んだ。中でも「四丁目の夕日」は凄い作品だった。ジョン・ウォーターズ山野一の素晴らしいところは、山田花子の言う「常識の嘘」を徹底的に暴き出し木っ端微塵に粉砕してしまうところだ。見ていて爽快な気分になる。

(月刊『ガロ』1986年6月号より山野一『四丁目の夕日』扉)

由美と私は元々趣味の周波数が近かった。由美や真紀が子供の頃、赤塚不二夫水木しげる小林よしのり日野日出志などの漫画を一緒になって読んでいた。映画も好きだった。主流はフィルム・ノワールロジャー・コーマン系のB級ホラー。しかし、私は漫画や映画を単なる「娯楽」としてしか見ていなかった。私が怖くて見ることができなかった、人間存在の真実に迫る芸術作品に引き合わせてくれたのは、由美・山田花子だった。

最近読んだ本では根本敬『因果鉄道の旅』が素晴らしかった。私にはこの本に出てくる内田という男の話が格別面白かった。内田が「実際にやっている事」と「自分がやっていると思っている事」の落差の大きさから笑いがこみあげてくる。根本氏の凄いところは、内田に「お前もうやめろよ」とかおためごかしの忠告などせずに「情報」を集めて、内田の思考回路や行動パターンを冷静冷徹に観察しているところだ。たぶん、根本氏は、この「とんでもない奴」を冷静冷徹に観察することによって、人間存在の真の姿を、人間の冷酷残酷さ、業の深さを見極めようとしていたのだと思う。

人間は自己の様々な欲望を充足する為に、他者を踏みにじり収奪する。また人間はエゴや保身の為に他者を差別し抑圧する。意識的であるか、無意識的であるか、また、犯罪にまで走るか、合法の枠内に踏み止まっているかは別として、これは誰もがやっていることなのだ。動植物など他の生命体を破壊することなしに生きていけない人間は、本来的に残酷で、“業”の深い生き物なのかも知れない。

根本氏の観察の対象が主に他者であったのに対して、山田花子の観察の対象は自分自身だった山田花子は自分を苦しめるいじめっ子を軽蔑していた。しかし、彼等を軽蔑することで、実際には、彼等にどーしてもかなわない自分自身のふがいなさをごまかしている事に気付いて一層惨めになり苦悶した。山田花子はまた、いじめっ子同様、自分自身の内面にも、冷酷さ、残酷さ、差別意識等がある事に気付いて苦しんでいた。山田花子が「自分自身の内面にある冷酷さ、残酷さ、差別意識」と言う場合、それは第三者からみれば、ほんのちょっとしたエゴ、保身、意地悪程度のものであった。しかし、繊細でナイーブな山田花子にとっては、それが耐え難い苦痛になり、激しい内面の葛藤の源になった。山田花子ほど厳格且つ深刻に自分自身の業の深さを見詰めて、それをそのまま作品化してきた作家はそう多くはないだろう。山田花子はやはり、特殊漫画家―真の芸術家だったと思う

山田花子がプロの漫画家として活動した期間は、僅か四年余りの短いものであった。この間に山田花子は、多くの方々―漫画家、ミュージシャン、イラストレイターなど様々な分野の芸術家や編集者、読者の皆さん―と出会い、何らかの形で交流を持った。これらの方々にとって、山田花子と関わりのあった期間は、長い人生に比べれば、ほんの瞬きする間ほどの短いものだった。にもかかわらず、山田花子の作品とその死は、何故か多くの人々に強烈なインパクトを与えた。生前山田花子と親しくお付き合い頂いた方はもちろんのこと、ほんの一~二度しか会ったことのない方や、恐らくただの一度も会ったことのない読者の方々までもが、真心のこもった追悼文を寄せて下さった。

山田花子は、ジーコ内山さんのライブに行った時に配られたアンケート用紙に「人生一回きりなんだから、どんどん好きなことやった方がいいですよ」と書いたという。山田花子は、妹と一緒にバンドを組んでライブハウスに出演した。演劇もやった。同人誌を作り、エッセイを書き、イラストも描いた。そして何よりも漫画を描いて、数は少なくても、どんな有名漫画家でも出会えなかったような熱烈な支持者、読者に巡り会えた。また、根本さん、蛭子さん、井口さん、知久さん、友沢さん、みぎわさん等を初めとする多くの素晴らしい芸術家の方々と出会い親しくお付き合い頂いた。一見すると、由美・山田花子は全くの絶望のドン底で自ら命を絶ったように見える。しかし、私には深い絶望感と共に、「やりたいことは一通りやった。この先生きていても辛いことばかり。もう終わりにしたい」というような諦めの気持ちも入り混ざったささやかな満足感もあったように思えるのだ。前日までの悲し気で苦し気な表情とうって変わって、その死顔は静かに眠っているかのように穏やかであった。


一九九四年二月末 父記す