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スーパーへんたいマガジンBilly伝説―誌面で流したウンチは200kg! 死体の数は300体! 日本雑誌史上最低最悪の変態雑誌! 毎号こんなどーしようもないクソみたいなド変態内容のため、ついに発禁をくらったBillyのすべてを初公開!

誌面で流したウンチは200kg!

死体の数は300体!

日本雑誌史上サイテーの雑誌!

幻の変態雑誌 Billy伝説

獣姦!ロ●ータ!レ●プ!切腹マニア!スカトロ!死体!奇形児!  毎号こんなどーしようもないクソみたいなド変態内容のため、ついに発禁をくらったBillyのすべてを初公開!

協力:田原大輔  菊池茂夫  加藤明典  S&Mスナイパー編集部  友成純一  下川耿史  白夜書房 (順適当)

(所収:ミリオン出版GON!』1995年10月号)

文・田原大輔

一見普通のグラビア誌。中を開くと、死体、スカトロ、切腹ロリコン、猟奇犯罪、フリークスなどなど、他の雑誌にないブッ飛んだものばかりを集結させた内容。それが日本のB級出版史上に輝く異端中の異端雑誌『ビリー』(㈱白夜書房発行)なのである。

Billy完全解読マニュアル

かつて『ビリー』という雑誌があった。

『ビリー』という雑誌を一言で説明するのはきわめて困難といえよう。いわゆるエロ系雑誌といえば、下半身をムズムズさせる写真や文章で構成されているのが一般である。ところが『ビリー』はこの常識を完全に無視した内容で埋め尽くされていたのだ。

表紙はとくに何の変哲もないモデルの写真。巻頭は、当時人気のあったビ二本モデルのカラーグラビア。と、ここまではよくあるエロ本なのだが、その次からのページがすごい。いきなり写真満載の「切腹特集」や人間の内臓の実物写真、思わず臭ってきそうなスカトロ写真など、いったん勃起しかけたモノも縮み上がってしまいそうなページが次から次へと繰りだされる。

とくに強烈だったのは毎号のように誌面を占拠する死体写真。自殺や事故死、殺人現場などなど、ありとあらゆる人間の死体をこれほど見せ付けた雑誌は、今まで存在しなかった。「死体雑誌」と表現する読者も多い。

だが、『ビリー』は死体やスカトロだけに限定されていない。当時ようやく言葉が知られはじめたロリコンをはじめ、猟奇犯罪、フリークス、スパンキングラバーフェチなどなど、他の雑誌にないブッ飛んだものばかりを集結させた、いわば総合アブノーマル雑誌と言った方がよい。

現在店頭に並んでいるエロ系雑誌のあらゆる要素は、『ビリー』においてほとんど先取りされているのである。まさに『ビリー』こそは、マニアックエロ雑誌の源流とも言っても過言ではない。

 

何でもありの雑誌

見せ物に撤していましたね。気取ったり、媚びたりしないで、実際あるものをそのまま見せ付けた雑誌でした

『ビリー』で記事を書いていた下川耿史氏は、その魅力をこう語る。死体をアートに見せようとか、スカトロに文化史的な意味を見いだそう、なんていうことをこれっぽっちも考えなかった点がすばらしい。

また『ビリー』は「エロ雑誌にしてエロ雑誌にあらず」というモノでもあった。元編集長の中沢慎一氏が言うには、「マスがかけないエロ雑誌を作ろうとしたんです。変態さんを満足させるというより、スゴイもの、インパクトのあるものを楽しんじゃおうという感じでしたね。その意味じゃ、変態さんたちに優しさを持たない雑誌だったかな

スゴければなんでもあり、面白ければそれでいい、と言うのが基本姿勢なのであって、死体やフリークスに特別の思い入れがあったわけではない。インパクトの強いものとして取り上げたものが、死体であり、切腹であり、獣姦やウンコであったに過ぎないのだ。

 

『ビリー』の変遷──『スーパーヘんたいマガジン』に至るまで

★創刊~《『ビリー』草創期》

『ビリー』の創刊は81年6月。誌名はビリー・ジョエルの3人のインバクトある生き方に共感して、「新しいインタビュー雑誌を作ろうとした」(元『ビリー』編集長、中沢慎一氏)という。判型はB5。内容は、ほとんどが著名人や話題の人物へのインタビュー・記事であった。

 ところがこの初代『ビリー』、思うように部数が伸びず、わずか3号で休刊となった。

 

★81年12月~《再生『ビリー』を模索》

『ビリー』が誌面を刷新して、再び書店に並んだのが81年12月号。判型もA4判と大きくなり、新たに「感じる男の感じる雑誌」というサブタイトルも付く。誌面は当時全盛を極めていたビ二本をはじめ、風俗、ピーピング、SM等、一般エロ雑誌の体裁を整えている。

しかし、内容が充実していたにもかかわらず、これまた売れ行き不振に。

 

★82年3月~《「スーパーへんたいマガジン」の誕生》

またもや休刊かと思われた『ビリー』だが、82年2月号で「排泄系ビニ本特集」や、同年3月号でウンコ特集を組むなど、他誌には無い変態色が次第に現われ、それとともに読者も増え出した。そしてその3月号で、サブタイトルが「スーパー変態マガジン」(のちに変態がひらがなに)に変更される。

さらに同年5月号に初めて死体写真を掲載。ここに伝説に残り神話とうたいわれる、超破天荒変態雑誌『ビリー』が誕生する。この後『ビリー』はこの路線で独走することになる。

 

★84年11月《都条令によりやむなく休刊》

無敵の進軍を続けていた『ビリー』だが、84年11月、東京都の条令によって休刊に。

元編集長の中沢氏いわく、「たしかに死体やウンコを見て健全に育つわけはないんですよね。まあ、お説ごもっともというところでしょう

 

★84年12月~《『ビリーボーイ』としての再スタート》

しかし、そのまま負けてしまう『ビリー』ではない。翌12月には『ビリーボーイ』と誌名を変えて再スタート。内容はまったく変更なし

 

★85年8月《終刊 神々の黄昏》

やはり都条令によって休刊を余儀なくされる。『ビリー』の歴史はここに幕を閉じる。

 

★後日談《『クラッシュ』へ引き継ぐ》

『ビリー』の内容の一部は、その後創刊された『クラッシュ』へと受け継がれた。

『ビリー』に思い入れのある編集者は多く、最近では『トゥ・ネガティブ』(吐夢書房)等一部カルトマニア誌にわずかにその幻影をみることができる。

 

Billyのヌードグラビアは意外な大物が―知らなくても生きていけるBillyコラム

『ビリー』はすべてグロ、と思ってら大間違い。巻頭のカラーグラビアの質の高さに驚く。まず当時はビ二本の全盛期。三浦みつ子や渡瀬ミク、沖田真子、青木琴美、大道かつ美に橋本杏子と、ビニ本裏本で人気絶美のギャルたちは、『ビリー』のグラビアの常連だった。次はAV女優。「隣のお姉さん」で一世を風靡した八神康子をはじめ、ビデオクイ~ンの早見瞳、元にっかつ女優で現在新宿ソープ「ヤングレディ」在籍の滝優子といった、有名ビデオギャルも次々に誌面に。また、妊婦SMモデル藤尚美や、刺青ストリッパーのスージー明日香など、マニア向けモデルも登場している。

さらになんと、ロリータアイドルの少女Mや可愛かずみまでもが、『ビリー』のグラビアを飾っている。変態雑誌の常識と質をはるかに越えた内容なのだ。

 

歴代Billy際作見出しBEST3

野を行く変態 雨にむせぶ(84年3月号)

“アウトドア変態”特集の際のタイトル。風光明媚な日本の野山でしめやかに降りそそぐ雨に濡れる変態。変態と蛇び・さびの世界のミスマッチが抒情をそそる。

カンチョー人生20年 オレは浣腸オジサンだ! (84年11月号)

20年のキャリアを前面に押し出しつつも「『浣腸オジサン』という、豪速球のようなネーミングがGOOD。シンプル・イズ・ベストにしてパワフルさも感じられる。

センズリ道を極めた小学校教師 パンクする先生! (83年5月号)

あえてセンズリという表現を使うリアリズム。しかもその道を極めた小学校の先生で、しかもパンクというメチャクチャぶりはまさに『ビリー』の真骨頂。

 

歴代Billy傑作企画BEST3

犯罪専科」(82年8月号)

「ビリー」イコール死体というイメージを確立した企画のひとつ。犯罪というよりも人間の死にスポットを当てた連載で、殺人に自殺、事故死などなど、ありとあらゆる人間の「死にざま」を、生々しい写真と文章で構成。

獣姦ここ掘れワンワン」(83年8月号)

獣姦も「ビリー」の定番ネタのヒトツだが、その中でも生々しさでタンドツの企画。32歳の獣姦マニアが登場し、自らの獣姦人生を赤裸々に語る。キャリアが積んだベテランの話しは、リアルでしかも奥深い。

切腹切り刻む擬態の快感!」(85年1月号)

切腹特集も人気があったが、内容の濃さだったら数あるなかからこの企画。切腹研究のオーソリティが、日本の切腹の歴史から、正しい切腹の作法、さらには切腹のエロティシズムまでを徹底解剖する。

 

狂ったBilly謎の変遷史

1981年6月に創刊された『Billy』はエロ本というより、中途半端な総合男性誌という、もっとも失敗しやすい典型的な内容。ちなみにロゴは白夜が産んだ大スター編集長末井昭の制作。売れない半端なBillyが半ばどーでもいいやとばかりスカトロ物を入れたのか1982年2月号。どーやらこの号の売れ行きは良かったらしく、以降、日本雑誌史上最低最悪の変態雑誌として大売れに売れ、売れ過ぎ目立ち過ぎで当局より発禁処分を受け自爆してしまう。

 

Billy不完全ディスコグラフィ

ロリコン雑誌の『ヘイ!バディー』と並んで80年代の白夜書房を代表する過激雑誌『ビリー』。死体、奇形、同性愛、スカトロ、獣姦、そしてありとあらゆる変態を取り上げた伝説の雑誌だが、創刊時はインタビュー中心の極めて真面目なカルチャー誌だった。

巻頭と巻末のヌードグラビアは篠塚ひろ美と小川恵子。一色ページは16歳の三原順子のインタビューから幕を開ける。誌名にひっかけた「ビリー派宣言」では、川本三郎ビリー・ザ・キッドについて、桑田佳祐ビリー・ホリデイについて、今井智子ビリー・ジョエルについて語る。

しかし、白夜書房の返本率記録を作るほど売れなかったらしく路線変更を余儀なくされる。1982年3月号からは「スーパー変態マガジン」を標榜し過激な誌面を展開。熱い支持を受けるも、1年に4回も不健全図書に指定されてしまい、1984年12月号より『ビリーボーイ』として再出発。若干のパワーダウンはあったものの、やはり不健全図書に指定され、わずか9号で休刊となった。

安田理央著『日本エロ本全史』掲載内容の抄録より)

1981年

6月号(創刊号)

とにかく記録的に売れなかった創刊当初。毎号のように内容一新される。今じゃ完全にB級アイドル?の三原順子も81年当時はかなりのスター。それが創刊号の表紙だった!



 

1982年

1月号

まだまだ誌面は大人しいものの三島由紀夫のそっくりさんSMショーなど当時のエロ本としては過激で奇抜な内容が目立つ。なお緊縛写真やパンチラ写真も掲載されているが、全盛期のBillyには到底及ばない。また本号から山崎春美のスーパー変態インタビューが連載開始(第1回はスターリン遠藤ミチロウ)。






オシッコ放尿記事が狂気の序曲だった2月号

明確に変態路線に舵を切り表紙には「誌面刷新」と銘打たれた。なお冒頭の一色ページでは『スカトピア』発行人の明石賢生ロングインタビュー(聞き手/山崎春美)が掲載されており、群雄社のスカトロ路線が白夜書房のBillyに与えた影響が何となく分かる。ちなみに本号で特集された「人間便器」こと中野泥児(排泄系ビニ本の男性モデル。のちに中野D児に改名)は当時群雄社の社員で、のちにBillyの下請けプロダクション「VIC出版」に移籍し、同誌の名物編集者として名を馳せる。


こーゆー、差別的なブラック企画(中卒マガジン)*1も2月号から多くなってきた。いよいよ来た!

そして3月号からBillyは完全に狂った! 

キャッチコピー「スーパー変態マガジン」の初出号。“変態雑誌”としての意気ごみが表紙からも感じとれる。Billyが狂気に走った歴史的一冊。蛭子能収の変態インタビュー(聞き手/山崎春美)も掲載。

4月号

表紙が何か思わせぶりの表情出していて、いかにもフツーのエロ本とは一線を画していると当時の意気込みが感じとれる。特集はオシッコ! 3000ℓは出てる。

11月号

表紙は当時のロマンポルノスター北原ちあき。“中絶は気持ち良かった”なんて危ない企画や、“さらばわが性春のオ××”なんてふざけたタイトルも目立つ。

12月号

すっかり変態マガジンして貫禄の出てきたこの頃。何といっても売りは獣姦物 “ヒーン馬だって本番なのだ!”なんてサイテーの見出しが堂々表紙に。

 

1983年

1月号

ロリータマニアには嬉しい少女Mが巻頭。しかし、そんな夢をぶち壊す特集“ウンチのお風呂でまっ黄色”思いついた本能を伊良部級の速球で投げつけている。





2月号

いったいどこまで狂ってしまうのかと少なからず周囲を心配させたこの号。新年の特集は“'83年ウンチでオメデトウ!” マジメに生きるのがアホらしい名言。

3月号

巻頭ヌードは当時話題だった北原香織の妊婦ヌード。しかしやっぱり欠かせないのがウンコ。特集は“下痢便バックでやせる!?” わきゃないだろ!!!

4月号

この号で特筆すべきは“こうして僕らは生まれた!!”なんていう出産企画。敬虔なる出産もBillyなりに変態処理。タイのロリータ売春もサイテー企画でいい。

5月号

傑作見出しでも見事BEST3に選ばれた。“センズリ教師”の企画はやはりキラリと光り。内臓はエロスのかたまり、なんて大ウソハッタリの切腹特集がすてきだ。

7月号

完全に狂った特集の“畜生を愛でる夫婦だ!”の獣姦物も凄いが、“死体に胸キュンキュン”なんて死体写真に見出しつけるマヌケぶりはサイテーに立派!

8月号

個人的にはこの企画が歴代最も好きです。“犬、ニワトリ、牛なんでもごされ、ここ掘れワンワン!” おそらく雑誌史上これ程知性を感じさせない企画はない!

9月号

巻頭は当時のオナドル青木彩美。しかし彼女が可哀相になる位内容は超サイテー。インタビュー特集は“生きている変態 オレはアナル男だ!” 琴美が切ない……

10月号

地味な企画(フツーじや超変態)だけど、この号の奇形動物写真はけっこーきてる。双頭の羊とか動物フリークスの大集合!なぜか所ジョージのインタビューが!!

11月号

この頃のBillyは完全にどのページでもヌケなくなった。特にこの号の死体特集“棺桶は僕らのオモチャ箱”はGON!の1億7千倍グロくてサイテー!!

12月号

多分この頃の編集部は見出しを付けるのが最大の喜びじゃなかったのかな。“痛がりません立つまでは” “オレは粗大ゴミじゃ!”なんてノー天気の見出しが続く。

 

1984

1月号

ここまで変態内容にしたズーズーしさが、けっこー有名人インタビューに出ている。高田文夫が今回は登場。きっと消したい過去でしょう。

2月号

“金髪美少女をイジメちゃえ”なんて相変わらず150kmの豪速球タイトルできている。しかしこの2月号表紙が妙にシックなイメージ。せめて表紙だけはと思ったのか。

3月号

おそらくBilly史上でもベストに入る企画だと思う“風船デブ・百貫デブ!” 空気浣腸の企画なのだが、このそう思ったから付けたタイトルが男らしい。

4月号

今や大先生になってしまった山田詠美がインタビューで登場 “日本人のチ○ポはおしんこの味”なんて語っている。“ひとつ目小僧は本当にいた!!!”が傑作!

5月号

とどまるところを知らない変態路線の頂点の頃。“家族そろって糞合戦” “近親相姦までも気持ちイイ!” いったい当局は何をやっていたんだ!

6月号

衝撃写真はフィリピンの犬料理! イグアナごときは手ぬるいって!? 殺られないためのこれが10カ条だ!なんて今なら大ウケの企画も当時すでに押さえている。

7月号

久々表紙にウンコがこんもり!“ウンコは最高” こーまで言いきられてしまってはハイそうですかとうなずくしかなくなってしまう。強いBillyだ。

8月号

隠れた(でもないか)好企画として腹切り物がけっこうあったが、この号の腹切り写真はきている。なぜかジャッキ一佐藤がインタビューに。不思議だ!

9月号

重大な記事が出ている。“ウンコマニアに夜明けはくるか” これは群雄新社のスカトロ専門誌『スカトピア』の廃刊を憂いての緊急企画らしい。バカ過ぎて敬服する。

10月号

やはり、この号最大の企画は“84年変態オリンピック” 自縛マニア、オシメマニアが一堂に揃い、凄絶な死闘を展開したどーしようもない企画。

11月号

ある意味では最高の一冊だ。“オレは完腸オジサン!” 俺の人生はションベンだらけ、とウンチとオシッコマニアの2大巨頭が登場している。

12月号

この号より『Billyボーイ』とボーイがつく。遅ればせながら前号で当局よりおしかりを受け一応改題させられたらしい。内容はまったく反省の色がみえない。

 

1985年

1月号

まったく反省の色もなく再び変態路線まっしぐらのボーイが腕白ぶりを発揮。“異物挿入格闘技戦”と女の身体をオモチャにする最低の企画が力強い。




2月号

表紙は伝説の裏本スタ一、渡瀬ミク。考えてみれば初めて雑誌の格と表紙のモデルがピタリー致した記念すべき号。しかし表紙はフツーのセンスしてるのにな~。

3月号

GON!は気が弱いので本当に小っちゃくしか載せない死体解剖ビデオを、堂々と表紙にデカく入れるこの男らしさ。兄貴と勝手に呼ばせてもらいます。

4月号

表紙は松本伊代じゃないよ、念のため。さすがに改題してちっとは大人になったのかひと頃のパワーに翳りがみえてきた。大判のSM誌と化してくる。

5月号

春になってこれじゃいかんと反省したのか、この号から再び“切腹”がドーンと表紙に登場。“花嫁さんと3P!”なんて下らない見出しで悪趣味が復活。





6月号

当時『週刊宝石』が大ヒットさせた“あなたのオッパイ見せて下さい”やっぱりBillyはやります “あなたのオシッコ見せて下さい”とサイテーのパクリ!

7月号

BilIyの楽しみな企画として殺人物があった。警察と軍隊のために殺人教則本なんていまなら単行本でベストセラーになる企画も入っている。

8月号(最終号)

何とあの三田誠広氏が登場している。良き時代だったとゆのか、太っ腹だったとゆーのか。“刺育”の特集はBillyとしては意外にも初めてだった。

なお終刊号には青山正明が企画した伝説の罰当たり企画(四ッ谷の於岩神社でヌード撮影)も掲載されている(後日、何も知らされていなかったモデルの子以外の全員に呪いが降りかかった話は東京公司のムック本『鬼畜ナイト』に詳しい)。

 

ウーン、大変参考になりました来月からGON!もウンコの企画もタレ流します!

 

1冊2千円前後のプレミア価格が!

現在、『ビリー』は超々レアアイテムになっており、古本屋で手に入れることは非常に難しい。『ビリー』は極めてマニアック&カルトな雑誌であるため、現在所持しているのは熱心な愛読者に限られる。したがって、そう簡単に手抜そうとはしない。今回、この企画のために、神保町をはじめとする古本街や、遠くは八王子や多摩、厚本の方まで探し回ったが、成果は完璧なまでにゼロ。たまたま立ち寄った京王線笹塚駅近くの古本屋に数冊が1000円から1500円程度で入手できたに過ぎない。おそらく、現在『ビリー』の古本相場は、1500円程度と思われる。むしろ値段よりも、モノを探し出すことの方がはるかに難しいのである。もし、古本屋で3000円以下で売られているビリーを見かけることがあったなら、迷わず買うことをお薦めする。

 

*1:中沢慎一インタビュー「社会に受け入れられない部分を本にするのがエロ本屋」

中沢「今、出版社は世間に気を配りながら雑誌を作らなければならない。『ビリー』の頃なんかはさ、〈中卒マガジン〉っていうコーナーやってたんだよ。中学しか出てない人を差別するというひどい企画。差別というのはいけないことなんだけど、でもいけないことだからこそ、そこには面白い何かがあった

東良「うん、タブーだからこそ意味があった。差別というものは厳然とあるわけで、でも世の中では一応『無いもの』とされてる。なので敢えて差別をしてみれば、色んな欺瞞が現れる。差別する側の傲慢さとか、人が人を差別するバカバカしさとか無意味さとか

中沢「だいたいエロ本自体が世に疎まれているような存在だったわけでさ、昔、銀行はエロ本出版社なんかに絶対金貸さなかったんだよ。そういう存在だから、エロ本に書いてあることなんて誰もちゃんと読まないだろう、本気にはしないだろうと。だから好き勝手書けたんだよ

コアマガジン代表取締役社長・中沢慎一インタビュー 「おれは編集の才能はないけど才能のある人物を見抜くのが得意なの」

コアマガジン代表取締役社長

スーパー変態マガジン『Billy』編集発行人

中沢慎一インタビュー

「おれは編集の才能はないけど才能のある人物を見抜くのが得意なの」

インタビュアー:沢木毅彦

(出典:ワニマガジン社『エロ本のほん』1997年12月/絶版)

出版界のサクセスストーリーを築いた白夜書房。その立て役者でもあり、スター編集者といえば末井昭氏(白夜書房編集局長)だが、末井氏の『写真時代』とともに、当時コアな読者層をつかんだ伝説の雑誌がある。スーパー変態マガジンと銘打たれた『Billy』だ。当時の編集発行人、そして現『ビデオ・ザ・ワールド』がある。当時の編集発行人・中沢慎一氏にインタビューした。

歴史に残る伝説の変態雑誌『Billy』

編集志望で編集になったわけじゃないもん

──まずは業界入りのきっかけを教えてください。

「大学4年の時に住んでいたアパートの二階にバンドマンが住んでいたの。その男の彼女というのが、団鬼六さんがやっていた鬼プロの編集者と知合いでさ、『SMキング』という雑誌なんかでモデルをやってたんだよ。そんな顔見知りがきっかけでさ、おれも鬼プロに出入りするようになった。そこで編集者をやっていた杉浦則夫(現カメラマン)さんが独立して、フリーになったの。おれはカメラに興味がなかったんだけど、助手を頼まれてさ、杉浦さんのアシスタントを始めた。仕事を取ってきたのが山崎紀雄(現バウハウス社長)さん。この3人でやってたんだよね」

 

──モデルの調達も中沢さんがやってたんでしょ。

「うん、その頃モデルクラブが少なかったから、女の子を連れてくれば雑誌の仕事もすぐ決まるわけよ。それでおれは卒業して、モデルクラブを始めたの」

 

──就職活動は全然しなかったんですか。

「一切しなかった。モデルの斡旋をちょっとし始めた時、これは美味しい世界だな、食えるかなって思ったから就職する気なんてなかったよ。さしあたって、事務所を始める費用がなかったんで、山崎さんといまのウチの社長(森下信太郎氏)にカネを出してもらって、すぐ始めた。新宿で2LDK借りて、住居兼個人事務所にしたのよ」

 

──で、モデルはどうやって集めていたんですか?

「『ヤングレディ』とかの女性誌で広告を出した。募集見てきた女の子を口説いてね。どこまでOKだとか色々ね。月に2、3人入りゃいいとこだったね。ギャラが1万から2万ぐらい。20何年前の話だからね。モデルクラブ自体がほとんどなかったし、出版社の数も少なかった」

 

──儲りました?

「サラリーマンよりも儲ったと思うよ。でもねぇ、その頃モデルはみんなシンナーやっててさ、仕事のすっぽかしが多くてさ、朝ちゃんと集合場所に行くかどうかとか、気苦労はあったよ。仕事なんていう意識ないんだもん。今のモデルはみんな勤勉でしよ。全然違うよね。モデルなんてロクなもんじゃなかったよ」

 

──モデルクラブ経営は何年続けたんですか?

「2年。やっぱり警察がさ、職安法の関係とかで、挙げようとしてさ、色々調べが入ったのよ。でも、おれんとこはモデルがいい証言をしてくれたの。2割しかピンハネしてなかったからね、おれ。おかげで警察の手入れは受けずに済んだんだよ。

そんなこんなで疲れて辞めて、森下社長(当時はセルフ出版)に誘われて、おれはグリーン企画に入ったの。25歳の時だよね。グリーンの社長さんが山崎さんで、おれがいて、あとMっていう自殺したカメラマン。社員は3人だった」

 

──3人で全部のビニ本作ってたんですか。

「そう。末井さんがセルフで書店売りのエロ本作って、我々はグリーンでビニ本。こっちのビニ本写真をセルフのエロ本にあげて、まあ両方を上手に動かしてたんだよ」

 

──当時のセルフの雑誌のグラビアは限りなくビニ本チックでしもんねえ。

「記事ページは末井さんが担当して、写真は我々が作ってたんだよね。おれは楽だったよ、仕事。あの頃は月4冊ビニ本作ればよかった。1冊につき撮影が1日、レイアウトを社内でやって、2日か3日間。ほとんど毎日遊んでたよ。モデルもプロダクションから調達してたから、探さなくても済んでたしさ。おれの仕事って朝11時に集合場所の新宿の喫茶店に行って、『高野』か『三愛』行ってパンツ探すくらいだよ」

 

──(笑)スケスケ具合いが命、と。

「どこまでスケされるかが勝負だったからさ。いかに女の子(レジの店員)の前で堂々とスケるパンツを買えるか、だよ(笑)」

 

──おれはこういうエロ本をやろう、なんて前向きなこだわりなどはありました?

「全然。編集希望で編集者になったわけじゃないもん、おれ。モデルをたくさん知ってるっていうだけで入ったようなところがあるしさ。それにビニ本なんて編集能力なんていらないもん」

 

──いかにスケパンを堂々と買えるか(笑)

「そうだよ。その後、股間ティッシュを乗せて濡らしてみたりさ。一応、頭は使っていたよ(笑)。その時代が2年ぐらいあって、やっぱり警察の摘発とかあったりでビニ本をやめて、おれはセルフ出版に入ったの。山崎さんは独立して、やがて英知出版を作ったんだよね」

 

編集技術なんて何も知らなかった

中沢さんは、セルフ出版で写真担当となる。社員カメラマン神尾潤氏(現フリー)と組んで、同社のエロ本のヌードグラビア撮影、制作する日々を送る。

その後『コミックセルフ』の編集者になり、『漫画タッチ』が創刊される際、声がかかり「そのかわり編集長をやらせてくれよ」ということで、中沢編集長が誕生。漫画家の石井隆を口説いて引っ張ってきた。写真を撮りたい、という石井隆にヌードモデルを紹介してページを設けた。連載はのちに写真集『名美を探して』として一冊になる。

「『名美を~』は大して利益は出なかったよ。あの頃、はっきり言ってセルフは儲ってなかったんだよ。『ウークエンドスーパー』はダメ、『ズームアップ』はダメ。『映画少年』もダメ。『漫画タッチ』も石井隆の名前が載っててもトントンぐらいでさ。

おれも編集長になったけど、編集技術なんて知らなかったもんな。上司という人がいなかったからさ。漫画のフキダシ(台詞)なんて級数指定しなくたって写植打ってくるからさ。まあ、それを5年か6年やったわけ」

 

──そして、伝説のスーパー変態マガジン『Billy』を手がけるわけですね。

「最初の『Billy』はね、ただのインタビュー雑誌だったの。おれの下にいた高橋君っていうやつがね、大学卒業して入って、そういう雑誌をやりたい、って訴えたの。よし、作れってほとんど彼任せ。映画俳優とか登場してさ。具体的に誰が出たかっていうのは憶えてないなあ。高橋君のやりたいように作らせてたし。で、6号か7号やって、返品7割か8割になって潰れたんだ。高橋君は責任感じて辞めたんだけど、今は講談社で『フライデー』の次長やってるからね、まあ辞めてよかったよね。でね、彼がいなくなったからおれが一人になって、『Billy』をどうしようかっていうことなった。その頃ね、変態写真があったの。結果的に下請けとして組むことになるVIC出版に。中野D児(現AV監督)とかいてさ、オシッコ物とか変態物のビニ本の写真があったのよ。ただ裸の写真載せても売れないだろうっ、てんで変態雑誌にチェンジしたの

変態のインタビューはおれがやったし、ライターは福ちゃん(永山薫)とか参加するようになったよね」

 

基本的に2人で1誌作るっていう個人誌でしたね

スーパー変態マガジンになってから、返品は2割になった。出版社は増え、エロ本黄金期を迎える。『Billy』の編集長をやりつつ、いわゆる「中沢班」を統括し、高寿常務(現カメラマン)編集長によるロリコン雑誌『ヘイ・バディ!』も担当した。

「この2誌と末井さんの『写真時代』が当たって、会社が持ち直したんだよね。基本的にエロ本は2人で1誌を作るという時代でさ、要するに個人誌ですよ。編集長の嗜好が出りゃ、それでいいわけ。組織の上の人間が編集者にああ作れ、こう作れって口出ししても、それで売れる本ができるってことはないわけでさ。一番怖いのは、それで編集者の才能を潰しちゃうっていうことなんだよね。ウチの会社は編集長が何作ってもいいの。だれも口出ししないし、台割のチェックもやんない。おれも今でもしないよ。好きに作れって。編集会議を開いたことも1回もない。おれはできあがった本を見るだけ。それで何も言わないもン

 

『Billy』が都条例に引っかかり、『Billy-Boy』と改めるが、それも同じく条例を食らうかっこうで撤退。版型をA4版にして、SM雑誌を作る気はない中沢さんは、編集長として『ビデオ・ザ・ワールド』を創刊。併行して、東良美季(現ライター・AV監督)編集長の『ボディ・プレス』など、今でも“プレミア物の伝説”となっているエロ本をプロデュースし、コアマガジン社長となった今でも変わらず、「やる気のある奴を編集長にして好きな本を作らせる」

 

「『~ワールド』はね、山崎さんが宇宙企画始めたり、周りのビニ本屋さんがみんなビデオ会社に転身したから、じゃあこれからはAVだろうってことでビデオ誌やることに決めたの。単純なんだよ」

 

―『ビデオ・ザ・ワールド』ってタイトルは?

「世界のビデオを紹介したかったから。世界に目を向けようト。それだけ(笑)」

 

──振り返ってみると、今までの道のりはどのようなものでした?

ウン、楽しかったよ。苦労してないからね

 

──素晴らしいですね。軽いですね(笑)

本作りで悩んだことがないっていうのがいいんじゃないの

 

──ツッコミようがないですよ。

ハハハ(笑)。何も考えてないもの。考えて作った本だって売れてないじゃん。おれなんて、成り行きでここまで来てるしね。編集者になりたくてなったわけじゃないしさ。編集者としての才能はないの。で、おれはね、才能ある人物を見抜くのが得意なの

 

──なるほど。中沢さんの下で本を作っていた東良美季、ハニー白熊(現ライター)、ラッシャーみよし(現編集プロダクション、ラッシュ社長)、青山正明(現データハウス)、永山薫ら。そうそうたる顔ぶれの才能を見抜いていたってことですもんね。

彼らに才能があったってことだよ。ちょっと話をしたら、そいつに才能があるかどうかっていうのは判るの。こういう本を作りたいって思いが伝わってくるもん。そういう奴らが雑誌を作ればいいんだよ。

要は情熱なんですよ。情熱持ってウチに来る奴には本を作らそうって思うじゃん。企画出したら通るからウチは。売れなきゃやめりゃいいんだしさ。おれは、このぐらいの予算で作れ、って言うだけだよ。

そういう意味ではさ、ウチの出版社は才能ある奴が来たら絶対伸びるよ、潰さないから今は人も増えて白夜書房コアマガジンに分かれたけど、派閥がないの、ウチは。トップの人間が仲いいわけ。内部で足の引っ張り合いは絶対しないから。楽でいいと思うよ。その代わり、才能ない奴はしんどいよね。上の人間は何も言わないわけだしさ。口出しも、アドバイスも。森下社長は営業畑出身だから(編集には何も)言わないってこともあるんだけどね

 

うさんくさい人物が好きなの

──エロ本も含めて雑誌界が低迷してるじゃないですか。どう思います?

「まだ可能性あると思うよね。若手で有能な編集者がいて、若手で有能なライター、カメラマンを見出して本を作ればさ。若い奴が作んなきゃダメよ」

 

──エロ本で言いますと、僕もライターとして企画に係わったりしますけど、ここ最近は「そこまで過激にやるとコンビニに置けない」という、ひとつのボーダーで彼ら編集者、まあ営業のセクションも含めて切り返してきますよね。

「コンビニに置かれなくたって、書店で必ず買ってくれる本を作ればいいじゃん。エロ本なんて2人か3人で作れるんだからさ。今はホント、才能の勝負だと思うよ。部数が3万でも4万でも、要は書店まで行っても買いたいと思わせる本を作りゃいいんだよ。万人にウケようとする本となると、逆に難しいでしょ」

 

──これは読者にウケないから、ってふたこと目には言う編集者がよくいるけど、ある意味、逃げですよ。何も考えていないんですよ。自分がただの読者だった頃を振り返ると、こっちに迎合されたらもう物足りなかったでしょ。「背伸び」したいんですよ。7歳の女の子は『セブンティーン』は「幼稚だから」読まない。『non・no』に行っちゃうでしょ。

読者参加の本を作る気は全然ないよね。『ビデオ・ザ・ワールド』も一切読者のお便りは気にしてないからね。ひとつ言えるのはね。おれはまだよそが作っていない本を作ろう、っていう気持ちは常にあったね。たとえば、今も、前科者ばかり扱った本ってないから、おもしろいだろうなあ、でも前科者を毎月探すのは大変だしなぁとか、そんなことばかり考えたりしてるよ」

 

──編集の仕事して、おもしろいなあと思うのはどういうところですか。

「基本的に編集者って人に会うのが仕事だからさ、いろんな人に会うのがおもしろい。『Billy』作ってた時は、毎月いろんなフェチの変態に会って、その人の人生を聞くのがおもしろかったしさ。『ビデオ・ザ・ワールド』作っていちばんおもしろかったのは、村西とおるに会ったことだよね。話がおもしろいもん。基本的におれ、語弊があるけど“うさんくさい人物”が好きなの。佐藤太一(ビデオ安売王etc)とかさ。今の時代にこういう人がいるの? っていう。最近あんまりいないでしょ、うさんくさい人物とか、詐欺師っぽい人物とか。でも才能もこだわりもある若手の編集者って減ってきてるよね、最近

 

──ライターも若い書き手が出てこないですね、エロ本は。「家賃を払ったから今月は酒を我慢」とか夢のないことばっかり書いてるからかな。

「そうそう、そうだよ(笑)」

 

──『別冊宝島』とかのエロ本ネタもこの本も、ライターの顔ぶれは、おなじみの人ばかりやなあト。

「そうなんだよな」

 

──話を戻して、私とエロ本、というタイトルで作文を書け、と言われたらどんなもんでしょう?

「代々木(忠=AV監督)さんが、女の股で食ってきた、って言ったけどさ、おれだってそうだもん。女性らには感謝してますよ。まずこれだよ。自分の人生、威張れるなんて思ったことないしさ。ビニ本とエロ本しか作ってないんだから。でも、まじめにはやってたんだけどね。これからも、エロ本を作っていくつもりだよ。うさんくさいもの、っていいじゃん。おれ、立派なものっていうのがとにかくダメだしさ。まあ、流れに身を任せてきたし、これからもそうだよ

 

──流れに身をゆだねていればキミも社長になれる!ですね。あ、話が飛び過ぎてスミマセン。

「(笑)あとはね、やっぱり、持って生まれた運ってあると思う。オレはツイてるなって思うよ。時代にマッチしたっていう部分もあるからね。これからはエロの才能ある人はコンピュータソフト業界に行くでしょ? そこでおもしろいエッチなゲームを作れば売れるんだしさ。おれの時代はそれがビニ本なりエロ本。そこで少しだけ頭を使って上手く行ったんだね」

 

この原稿と『ビデオ・ザ・ワールド』2月号の原稿と、どちらを優先させるかの局面に立たされた筆者。どちらも“中沢慎一仕事”だ。迫る締切に悩みつつ、つい日本シリーズのTVにチャンネルを合せて最後まで見てしまう。我が巨人軍がからんでいないので、どーだっていいのだが。

「中沢さんってヤクルトの古田やな」

フト思う。他球団をクビになった、決め球の球種が1個しかないようなピッチャーを上手くリードし、安心して投げさせ、それをウィニングショットにしてしまい、三振を取る。投手は一人前に育つ。要は、包容力。売れ線どころをあれもこれもと並べただけの今の「コンビニ球団」巨人軍じゃ勝てへんのヨ。

本作りは情熱があればできるけどさ、続けて行くには愛だよ。扱う対象に愛がないとね

 

ここまでのインタビューは1997年秋頃に行われた。

以下に続くインタビューはサン出版発行『マガジン・バン』誌に掲載された2009年のインタビュー記事の抜粋再録である。

 

全編エロじゃなくてもいいんじゃないか

インタビュアー:東良美季

──ビニール本(大人のオモチャ屋やアダルトショップを中心に流通したエロ本。その性質上、書店売りよりも過激な露出が可能だった)から取次本(書店で流通するエロ本)の編集者になって最初に手がけたのは劇画誌ですか?

「当時、石井隆がすごい人気で、石井隆の原稿を取れれば新しく一冊劇画誌を創刊出来るという話が会社であって、俺が一番下っ端だったから、『じゃあ俺、行って来ます』と。それで会って、石井さんは当時『ヤングコミック』の専属みたいな形だったんだけど、色々とねばって頼んだら『いいよ、描くよ』という話になってさ、それで『劇画タッチ』という雑誌が出来た」

 

──それがひとつ伝説なんですけど、超多忙な石井隆から中沢さんが原稿を取ったという。

「今は中村淳彦が『名前のない女たち』で可哀想なAV女優の話を書いてるけど、あの頃はさ、今以上に悲惨な境遇のヌードモデルがたくさんいたんだよ。親の借金抱えてとか、悪い男に無理矢理犯されて裸の仕事させられてるとか。そういう実話を色々話したら、石井さんの『天使のはらわた』ってそういう話じゃん? 男に騙されたり、レイプされて堕ちる女という。だからすごくノッて来たんだよね。それで何となく気が合ったというか、漫画のネタにもなっただろうしね、付き合いが始まった」

 

──で、初めて編集長になると。中沢さんには元々雑誌編集者になりたいという気持ちがあったんですか?

ないよ。俺は未だに自分に編集の才能があるなんて思ってないもんたださ、あの頃のエロ本の編集者なんて、優秀なヤツいなかったよ。末井さんだけだよ。あの人はすごい才能だと思ったけど、他はさあ、当時のエロ本の編集って、大手から流れてきた人が、嫌々作ってるみたいなのが多かったんだよ。ブンガク崩れで『俺も昔は吉行淳之介の原稿取った』なんて自慢してるようなのばっかりで。もう死んじゃったから言ってもいいと思うけど、『劇画タッチ』の前に『コミックセルフ』という劇画誌のグラビアを手伝ってたんだよ。その編集長がまさにそういう人で、撮影行っても現場で寝てるんだもん。ちょっとこういうのはないよなあと思った。その点我々は若かったからさあ、本作りの熱意だけはあったよね。それにエロ本なんて基本はイイ女連れて来て、エロいグラビア組めば売れるんだからさ」

 

──でも、そう言うわりに中沢さんの本って、『ビリー』にせよ『ビデオ・ザ・ワールド』にせよ、活字の多い、読ませるものが多いじゃないですか?

「それはやっぱ若かったから、安直な作り方はしたくなかったんだよ、きっと。今はさあ、売れればなんでもイイかと思うけど(笑)、若い頃は情熱があるからさあ、ただ単に女の裸並べて売れればイイなんて本は作りたくないじゃん? 他の部分で、ライターの優秀な人見つけて、面白い文章で本が売れたらイイなあと思うよな。いい原稿が載れば雑誌にパワーが出るから、より多くの人にアピール出来るだろうし

 

──ただ、大げさに言うと、そこでエロ本の歴史が少し変わるんですよ。末井さんの本にも出て来ますが、それまでのエロ本編集者って、「エロ本なんてドカタと変態が読むものだ」とか言って、わざと低俗なものを作ってた。少なくとも、あくまでオナニー向けのヌード・グラビアがメインであって、文章なんて本当に添え物だったわけです。それが変わった

「俺はさあ、ある部分をキッチリ押さえておけば、全編エロじゃなくてもいいんじゃないかと思ったんだよ。エロ本とはいえ雑誌なんだから、雑誌における遊びの部分というか、幅があった方がいいんじゃないかと。俺は売れればいいと思ってたから、押さえるところを押さえていれば、すべて読者が歓ぶものばかりじゃなくていいんじゃないか、売れるんじゃないか? と。読者がドカタかどうかというのは考えたこともなかったし、それとさあ、正直全編エロ、『エロとは何か?』って突き詰めるのは大変だろ? 疲れる。だからウチの夏岡(彰=投稿エロ本『ニャン2倶楽部』編集長)なんて偉いと思うよ。ずーっとエロを突き詰めてるじゃん? ああいうのは俺には無理(笑)」

 

スーパー変態マガジン『ビリー』

──しかしそれが結果サブカル色を強くして、白夜の本は大学生とかに支持されるようになる。つまり読者の幅が広がることになる。まあ、僕なんてまさにそういう読者のひとりだったわけですが。で、『劇画タッチ』の後が、『Hey!Buddy(ヘイ!バディー)』『Billy(ビリー)』ですか?

「『ヘイ!バディー』は高桑(常寿)がやりたいと言い出して、俺は発行人だけ。『ビリー』は元々、今は講談社で偉い人になってるけど、高橋さんという人がいて、彼が創刊したエロ一切ナシの、『スタジオ・ボイス』風インタビュー雑誌だった。ところが売れなかった。半年出して返品が七割。これは続けられない。高橋さんも退社することになって、俺が引き継いだはいいけど、さてどうしようと。ちょうどその頃、変態っぽいビニ本が流行ってたから、だったら〈スーパー変態マガジン〉というのはどうだろうと考えた

 

──うん。初期は「毛が見える」とか「透けてる」だけで売れてたビニール本が、その頃になるとどんどん過激にエスカレートしていた。フィストファックとか女の子にオシッコ浴びせるとか、中野D児が男モデルで出た『人間便器』(群雄社)なんてのもあった。今とはずいぶん感覚が違うけれど、当時はそれらをすべてひっくるめて〈変態〉と呼んでいたんですね。で、ある日中沢さんがVIC出版を訪れてみると、そういう変態ビニ本のポジがたくさんあって、「これなら雑誌が作れると思った」という話を聞いたことがある。VIC出版はKUKIの下請けとかで、その手のビニ本を作っていた。

そう。売れない雑誌を引き継いだわけだから、いかに安く作るかを考えた。だからKUKI本体にも借りに行ったし、巻頭のキレイキレイなヌードなんかは、英知出版宇宙企画から借りた

 

──つまりは安く作りたいがための苦肉の策だったわけですが、これもまたエロ本にひとつの変化をもたらすわけです。それまでのエロ本の王道と言えば、櫻木徹郎さん編集の『TheGung(ザ・ギャング)』(サン出版)とか、大川恵子編集長『Gals Action(ギャルズアクション)』(考友社出版)とか。こういう雑誌は、業界では「特写」と呼びますが、撮り下ろしのヌードが主体だった。ところがこれはお金がかかる。一方、『ビリー』や『ヘイ!バディー』は特写をやらないぶん、記事が充実した、撮影の費用に比べれば、文字の原稿料なんてしれてますから。

そうだね。特写は金がかかる。モデル代からカメラマンのギャラ、撮影場所も高い。それよりは、ライターに原稿料払った方が面白いものが出来るとは思ったね

 

──そういう方法論が、結局『ビデオ・ザ・ワールド』の創刊に続いていくわけですが、『ビデオ・ザ・ワールド』を作ろうと思ったきっかけは何だったんですか?

「都条例というものがあって、当時はその〈不健全指定〉というを連続三回、年五回受けるとタイトルを替えなければならなかった。これは青少年の健全な育成というのを目的にしてるから、SMとか変態というのはすべてアウトなんだよ

 

──にもかかわらず、何故か普通のSM雑誌はよかったんですよね。

「都の考え方というのはそうだった。つまり、当時の『SMセレクト』(東京三世社)とか『SMファン』(司書房)とか、ああいう判型の小さなSM雑誌は一部の大人が自分の責任で買うものだと。ところが俺のやってた『ビリー』や『ヘイ!バディー』はA4判グラフ誌だから、若い人が買うと見なされた。で、最終的に『ビリー』は『ビリー・ボーイ』とタイトルを替えるわけだけれど、どちらにせよコンセプトが〈変態〉である限り続かないなと思ったから、新しい雑誌を創刊しようと

 

──何故、次はビデオをテーマにと考えたんですか?

「何ンも考えてないよ。世間で『これからはビデオの時代だ』って言ってるから、じゃあ、ビデオかなあと」

 

──相変わらず短絡的だなあ(笑)。

「そう言うけどさー、エロ本なんて考えて作ったりしないよ。ビデオの時代だから『ビデオ・ザ・ワールド』、それでいいじゃん」

 

──タイトルも当時流行ってた『なるほど!ザ・ワールド』のパクリだし(笑)。

 

エロ本の本質はいかがわしさとウサン臭さ

──さて、そこから30年近い年月が流れて、今は本当にエロ本が売れない時代になっていますが、それに関してはどう思われますか?

時代の変化だろうね。雑誌全体、出版全体が売れない。エロ本は今、かろうじてパソコンを持ってない世代に支えられてる。だから長期的に見れば必ず衰退していく。俺は遠からぬ将来、アダルト雑誌は消えていく運命だと思ってる

 

──若い人は今、何故エロ本を読まないんだろう。やはりインターネットがあるから?

いやそれはさあ、ハッキリ言ってエロ本が面白くないからだよ。我々作ってる方に問題がある。面白い雑誌を作れてない。ただそれには理由もあって、何故かというと世の中に制約が多すぎるから。ウチもそうだけど、今、出版社は世間に気を配りながら雑誌を作らなければならない『ビリー』の頃なんかはさ、〈中卒マガジン〉っていうコーナーやってたんだよ。中学しか出てない人を差別するというひどい企画。差別というのはいけないことなんだけど、でもいけないことだからこそ、そこには面白い何かがあった

 

──うん、タブーだからこそ意味があった。差別というものは厳然とあるわけで、でも世の中では一応「無いもの」とされてる。なので敢えて差別をしてみれば、色んな欺瞞が現れる。差別する側の傲慢さとか、人が人を差別するバカバカしさとか無意味さとか。

「だいたいエロ本自体が世に疎まれているような存在だったわけでさ、昔、銀行はエロ本出版社なんかに絶対金貸さなかったんだよ。そういう存在だから、エロ本に書いてあることなんて誰もちゃんと読まないだろう、本気にはしないだろうと。だから好き勝手書けたんだよ。『ビリー』の頃は身障者団体に怒られて、謝りに行ったこともあったけど、あの頃は世の中が寛容だったというか、『ごめんなさい、もうしません』と言えば許してもらえる時代だった。今はもう無理だよね。ウチもかつて『BUBKAブブカ)』なんか相当芸能スキャンダルをやったけれど、やはりすぐ訴訟になる。それはやはりエロ本出版社が大きくなって金も儲かるようになって、アンダーグランドな存在じゃなくなったということだよ

 

社会に受け入れられない部分を本にするのがエロ本屋

『MAGAZINE・BANG!』T編集長「我が社(サン出版)も数年前に、読者からの投稿写真を一切掲載しないことを決めたんです。未成年のヌードかもしれないし、撮られた女性が同意しているかどうか確約が取れないので。でもそうやってエロ本出版社が健全な本作りをしようとすればするほど、本来持っていたパワーをどんどん失っていくような気がするんです

 

そうだね。エロ本というのはいかがわしさやウサン臭さを持ってるから成り立っているわけで、それを無くしてしまったら、エロ本の存在理由も無くなってしまうよね、きっと

 

──エロ本の本質がいかがわしさやウサン臭さだという、中沢さんがそう思うに至った理由を最後に聞かせてもらえますか?

「それはさあ、俺はビニ本から始めたわけじゃん? エロ出版社なんて女の股ぐらでメシ食って来たんだもの。見えるとか見えないとか言って、楽して本作って来た。本当にくだらないんだけどさ、でも、それはそれで面白いじゃん。つまり基本的には反社会的なんだよ。だからいつ叩かれても仕方ないと思ってずっとやって来たし。でもきっきの差別の話と同じように、世の中にはいかがわしいもの、ウサン臭いものは必ずあるわけでさ。それは人間メシ食えば必ずウンコが出るように、セックスもあればスキャンダルもあるし、ドラッグもあって変態もいると。そういう反社会的というか、社会に受け入れられない部分を本にするのがエロ本屋だと俺は思ってるから。だから反社会的なエロ本屋の本質、それをどう失わずに時代に対応していくか、それが今後の問題だろうけど。まあ難しいだろうな、きっと

(2009年9月2日/於・高田馬場コアマガジン近くのカフェにて)

 

(スーパー変態マガジン『Billy』編集人・小林小太郎インタビュー)

 (インタビューの完全版を収録した白夜書房中心のエロ本クロニクル)

腐っていくテレパシーズ:角谷美知夫インタビュー

腐っていくテレパシーズは1970年代後半から1980年代前半にかけて活動していた天然サイケデリック・ロックバンド。中心人物は吉祥寺マイナー周辺のライブハウスで活動していたアンダーグラウンドなミュージシャンの角谷美知夫。1959年生まれの山口県出身のアーティストである。裕福な家庭に育つが1974年に中学を退学後、住所不定のヒッピーとなる。1977年に東京に移り住み、1978年から工藤冬里や木村礼子と共に音楽活動を開始。1979年にオット・ジョンを結成し吉祥寺マイナーを中心に活動する、その後、オット・ジョンは自然消滅し、以降は「腐っていくテレパシーズ」として活動するが、この頃から重度の躁鬱と幻覚幻聴に悩まされるようになる。精神分裂病がもたらす幻覚作用や霊的感覚を表現した、どうしようもなく崩れ落ちていく陰鬱なロック音楽は「他に例えようもない、特異な感性から放射される音霊」と評された。その後、ジヒドロコデインリン酸塩というドラッグにはまり、1990年8月5日に31歳の若さでオーバードーズによるとみられる膵臓炎で夭折した。翌1991年6月、PSFレコードから生前の自宅録音とライブテープを再編集した追悼盤『腐っていくテレパシーズ』が発売される。なお中島らものドラッグ・エッセイ『アマニタ・パンセリナ』や自伝的小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』には「分裂病のガド君」として角谷が度々登場している。



ゆめゆめ うたがうことなかれ

大変な状態になっているんだ

狂った状態になっているんだ

俺の中に外が入ってくる

ゆめゆめ うたがうことなかれ

 

死ぬほど普通のふりをしているけれど

俺の中にはヨソモノが入りこんでいる

自分のかっこや 派出所や

ここがいったい何処なのか

わからないということが

恐怖して 君に会えない

金もなく 徹底的に一円玉と五円玉が

足の裏についているだけ

この屈じょくを

死ぬほど普通のふりをして耐える

 

 ────死ぬほど普通のふりをしなければ

(80年代初頭、東京のアンダーグラウンド・シーンで異彩を放っていた故・角谷美知夫の宅録音源。他に例えようもない、特異な感性から放射される音霊

 

腐ってくテレパシーズ

角谷インタビュー

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所収:1979年『Jam』特別ゲリラ号

角谷について、「日本のパンクの典型的な魂」という言葉を聞いた。この言葉には問題があるが、彼がこの現代の日本でいわゆるパンクをやるといういささか奇妙なこころみの真面目な負の曲率の極致だということは確かだろう。彼の下宿を訪ねて行くと、そこは表から見ると何気ないアパートだったが、中に入ると、30近くはあると思われる部屋がいびつな空間を形作り、廊下と階段は奇妙な方向を向いていた。そこは江戸川乱歩の小説の舞台を思わせる一方、何故か未来的な感じをおこさせた。ふと目についたある部屋のドアには次のような張り紙があった。

●新聞勧誘、セールスマンお断り。第一、新聞など読むことが出来ません。

この腐ってくテレパシーズ・インタビューは、角谷がお目当のテープをかけようとするのだが、どうしてもワーグナーがかかってしまうところからはじまる

角谷(K):あれ、おかしいな、このテープちょっとおかしいぞ。やっぱりおこりはじめたかなあ。物質の反乱。こういうのって共振みたいにして、緊張してて会話なんかを上手くやろうとするとおきるみたい。

X・BOY(X):物との間に。

K:そう、物と対応するわけ。本なんかの場合もあって、偶然開けた本の中に、あまりにも自分が問題にしていることが書いてあったりするわけ。

X:それはC・ウイルソンも、「オカルト」を書いている間に何度もそういう、「暗号」があったって書いているね。それが単なる妄想だったらわりと簡単なことなんだけど……。ボクも、ものすごく緊張して女の娘と公園を歩いていたら、むこうから来た子供連れの家庭の主婦が突然、「証拠を見つけたぞ」って喋ったのが聞こえてきたことがあるよ。それは女の娘も聞いているの。

K:(角谷の“僕ら糞ったれキリスト”のテープを聞きながら)そんなふうにして、ボクの波動の影響を他人が受けるわけ。だから、もうしかたがないから、どんどんかけていくわけ。

X:ははは、それはスゴイ。

K:それは正常な考えでやるわけだけど、ただ同時に、それが荒廃してきたら自分で制御できないわけ。エロティシズムの領域になってくるから。

X:はは、でもそれは他人も感じるわけ。たとえばさ、自分だけが……

K:みんな知ってる。

X:ああ、他人も知ってるわけか。それは気付いてなくてもいいわけ。

K:気付いていない人は一発で気付く。それはやっぱり困るわけよ。おかしい。腐っている。

X:物との関係ではそういうのないの。

K:ヴィアンの「心臓抜き」読んだ?

X:いや、読んでない。

K:閉鎖しているから、何もおきないから物の配列だけで変えていこうとするんだろうけど、それがなけりゃアナーキズムのような政治形態や宗教形態になるわけ。

X:閉鎖しているから並びかえるっていうのは、全てがこちらを向いているから並びかえて外部におけるっていうか…..閉鎖している状態っていうのは、あまりに並び方が秩序正しいから。自分の配列でもないし、他人の配列でもないし……。

K:でも、秩序正しいのもいいと思う。気持いいしさ。ところが、中年のだささとかにくたらしさとか糞ったれが浮き上ってくるとファシズムになるわけ。だけど、宗教の模型性(?)ていうのがあまりにきつすぎて、俺は宗教には行けなかったわけ。だから、「糞ったれキリスト」。自分自身にそのような妄想があるから。

X:だから、キャンディーズのように、「もう普通になりたい」

K:そう、そういう俗っぽいような、地獄のようなところもあるのね。問題はもう分っているんだけど、動けないんだ。全てを止めて外国に行くか、山にこもるか、「夜のはての旅」のようになしくずしになっていくか。

X:ヒュー(元「アーント・サリー」)とバンドをやる話があるって聞いたけど。

K:それはやりたいと思っている。ヒューってすごく覚めてて頭いいしさ。

X:クールなの。

K:したたか。さっぱりしている。

X:静かな曲はやる気ないの。

K:やる気ある。コードも弾かないような。上手くいえないけど。

X:呼吸とからめたような即興形式はあまり考えない。

K:そういうのはあまりない。むしろイコン。

X:ああ、ヨーロッパ的なんだ。

K:それとアフリカ的なのと。

X:ロックのルーツみたいなところね。

K:そう、やっぱりロックを選びたい。それから逆のところではグルジェフのような。

X:ロバート・フリップは聞いた?

K:昨日聞いたけど、あまり面白くなかった。次のが気になる。

X:でも、日本の場合、ああいう意識的な作り方っていうのはあまりないんじゃないの。

K:ない。(無調的な音階を単音で弾いていく)だめだなあ、いざやると。ポップ・ストックポップ!ストック!

X:何? それ。

K:そういうのがあるんですよ。自分にはポップのストックがいっぱいあるっていうのが。

X:資本主義みたいだね。ポップ資本主義。

K:あ、でもね。結局、ロシアの方がバラ十字のエーテル的なエロティシズムみたいなのが強いという気が最近している。冷えてて、空間的で、無駄がない。ただ、ロシア人ていうのは太っているけど。よく、ロシアの一家庭のイメージが浮ぶわけ。オフォーツクなんかの。

X:ドストエフスキーなんて興味ないの。

K:あるけど今さらって感じもあるし…。

X:そんなこと絶対ないよ。

K:それに、いい本屋がないから。旭屋書店なんて本当にひどいし。

X:どんな本屋が好きなの。

K:昔風の悲しい本屋。ヒューの影響だけど。……………………会話形式みたいになってしまうというか、他者との関係において倫理の封印がどうしても解けない。

X:どういうの、それ。

K:ボクの中の自尊心みたいなのが、究極におもむこうとした時、「結局、オレのいうことは面白くない」って感じになってしまう。

X:そういうのって、オレもよくあるよ。何かいおうとして、「もういいや」っていってしまうの。結果への思考が行為をどもらせるわけよ。

K:サービス精神。その反対が民族的なアストラル体的な、感情のみの……そういうのってバカげているんだ。本当にバカバカしいよ。

X:民族的な血でつながっているかのような?

K:他者の一人一人の問題が、抱えていることとか、いる状態が見えるわけ。

X:その時、まったく分らないやつがいたらすごいだろう?

K:ネガティブなグルみたいな奴。

X:毎日くらしてたって、たいてい分かってしまうわけだろう。サラリーマンにしろウエイトレスにしろ。まったく予想外の動きをする奴なんていないわけだろう。

K:しないからさ、ウエイトレスなんか感情的な目配せなんかできたりするわけよ。だからオレはまた緊張してしまう。「早く出ろ」とかさ。

X:だけどさ、そういう目配せにしたってだいたいの意味は分かるじゃない。「こいつはむさ苦しい奴だ」とかさ。

K:違うんだ、違うんだ。だって、サラリーマンなんかさ、すごく俺に共感を持ってくるんだ。体にさわってくるんだもの。悲しそうにして。

X:それはすごい。恐ろしい。

K:恐ろしいよ。

X:親しみを感じるわけかな。

K:バカなんだ。TVとかラジオなんかで、自分の今の状態をやさしさのヒーローみたいにしてやってたりさ、それが瞬間に偏在的におきちゃう。

X:糞ったれキリストだね。

K:キリストってすごく自己顕示欲の強い奴だと思わない。やさしいんだけど、ドラマにあこがれているわけ、スターなんだよ。

X:エロティックだけどね。

K:ホモセクシュアルの極致。そのへんからロゴスとか出てくるんだけど、あ、ロシアは逆ギリシャなんだ。エーテル体においてギリシャ的な形態をすごく持っている。それからバロックの空間意識。それがさ、ギリシャは暖かいのに較べて、逆に冷えているんだ。

X:そういうのを信仰してしまうとどうなるんだろう。

K:そうね、結局、最先端は銃口だろうな。

X:日本の場合は何だろう。何にもないのかな。昔、『JAM』の編集部にいた、八木さんなんかは、「バラのベッドに菊枕」なんていっているけど。

K:日本の場合はありすぎて、いろんなイメージやメディアや物質の表面をどんどん贖罪にしたり消化しているのだと思う。それが一つの誇りになっているのだと思う。

X:国家精神があらゆるものを象徴化してしまうのかな。

K:ちょっとドグマチックだけど、民の卑俗さがそれを最先端におし出していて、それが骨格を作るのに必要なんだ。残酷だけど、地球は今、そのような隣人愛的な闇に閉されているのを感じるよ。笠井(叡)さんは単にそういう霊界の事実を翻訳したにすぎない。でも、自分が王になるっていうのはどう思う。

X:うーん。ちょっと分んないな。

K:ああ、バカバカしい。

X:自分をコントロールできないっていうか、ある確信なんかが閃いても、現宝的な場面でそれを生きるほど強くはなれないっていうのは感じるけど。

K:自分の回路を開き切れないし、むしろそのやらないってところが誇りになっているから……。いろんな人の失敗が分かるだろう。シュタイナーのなしえなかったこととか、ユングのとかさ。そういうのを考えると、何もできなくなっちゃうというか、畏敬の念がなくなってしまう。

X:だから、それはさ、ある種のないものねだりだと思うけどさ、たとえばひとく抽象的になるけど、永遠なんていうのを信仰できれば、失敗にも納得があるわけでしょう。ところが、永遠は信じ込れないし、かといって社会の中のサラリーマン的な価値を問題にしているわけでもないから。

K:そこのところから冗談と本質のフラギリティが出てくる。最近のパンクを間いていると、そういう問題がいっぱい出てきている。「ヘブン」とか「スージー&バンシーズ」とか。

X:飯くいに行こうか。

K:うん。

二人で出かけた食堂はジャパニーズ・キッチュの極致といったところ。カラオケのテープを置いてあり、私小説文学で頭を腐らせたという感じの店主は、「どちらでもいいじゃないか」主義者にちがいない。ガラス窓ごしにストーンしたかのような中年の主婦やきらびやかな八百屋の店先を見ながら、角谷は話をしてくれた

K:この店、変な外人がくるよ。注文した後、よく歌を唱いだすの。この間なんか、そいつ路上につっ立って、ぶつぶついいながら自動販売機を見つめていた。

この間、井の頭公園でホモのオマワリに尋問されてキモチ悪かったよ。

X:えっ、ホモのオマワリ。荒々しい感じじゃなくて? オカマっぽいの。

K:そう、オカマっぽいの。でも、でっかくてさ。暗がりから懐中電燈でこっちを照らしながら近づいてくるの。

X:待ちぶせしてたのかなあ。

K:それで駅までついてくるの。急いで電車に飛び乗って振り切ったよ。

X:よくそういうのに会うね。

K:このあたりも変なの多いよ。この間なんか、近所の鉄鋼所でワーグナーを大音響でかけていた。

食事の後、新宿に出て、喫茶店に入る。注文をするとすぐ、隣のテーブルにコンパ帰りらしき大学生の一団がなだれ込んで来る

────てめえうるさいよこの野郎。

K:喧嘩だ。喧嘩だ。糞ったれ。気どりやがって、糞。

X:どんなコンサートをやりたい。

K:この間は、緊張して前に出れなくて、かえってそういうところがうけちゃったけど。

X:角谷はどちらかというと、毅然とやりたい方じゃないの。

K:毅然というか、めちゃくちゃ踊り狂ってやりたいけどね。それから、マースみたいに割れたサングラスに黄色い光をつけるとかさ。原始時代の混棒があるじゃない。

X:えっ?

K:石の棒で先が太くなっていてギザギザがいっぱいついたやつ。あんなので頭蓋骨をボクッとかガキッとか殴っていくわけ。ちょっと前に考えていたのは、握りがゴムの赤いハンマーとかね。

X:山手線の電車の中で、懐から突然力ナズチを取りだして、隣に坐ってた奴の頭をぶんなぐって殺した奴がいたけどね。

K:だから、よっぽど腹がたってたんだよ。

────人間は人間なんだよ、お前な

X:原始人みたい。

K:だけど、原始人はあんなに喋らないよ。東京の奴ってさ、結局、恥を内側に持ってて、いきがって喋っている。

バンドでやりたいのは痙レン。それに、粒子的な音のいらいらしたロックンロール。

X:粒子的って?

K:原子のドアを開いてね……うーん、開くっていうのはあまり好きじゃなくて、むしろ閉鎖した内側での電子の放電。

────人間なんていうのはな、学年じゃないんだ。人間性なんだよ。

K:気狂い。臭い。

茶店を出た後、ピカデリーで「さらば青春の光」を見、再び下宿に帰ってくる

K:ここはいろんな音が入るんだ。TVとか自衛隊の無線とかね。すごい時には、自衛隊のヘリからのやつが五分おきに入ってくるの。信じられないくらい、すごく飛んでいるよ。

X:西武池袋線江古田駅の踏み切りのわきにビデオ・テレビがあってね。そこの二階にカラオケ・スナックがあって、客が歌っているところをビデオで表に映しだしているわけなんだけど、夕方時のまだ何もやっていないんだけどスイッチだけは入っている時の画面がとてもきれいなんだ。様々な色の粒子が飛びかっていて、それが電車がわきを通るたびに変化をおこすんだ。

K:俺の場合は、そんな音の粒子をキャッチして、それをどんどんミックスダウンしていくわけ。

X:J・ケージのパーフォーマンスにそんなのがあるけど、あれは他人のやっているのを聞くより、自分でやった方がずっと面白いね。

K:低周波っぽい音になっていくみたい。

X:低周波といえば、あの装置をはじめて作ったやつが、どんな効果があるのか実験したら、内臓破裂かなんかで、あっという間に実験だいになったやつは死んじゃったらしいね。

K:ひでえ話だ。(文責・隅田川乱一

 

●ズルイロボット

ボクはズルイロボット

ボクはズルイロボット

ボクはズルイ素質が充分だから

ズルイロボットになりたい

ズルイ人間のズルイ精子がズルイ仲間を追いこしてボクができた

ボクの中でズルガシコイ光が炸裂する

ボクはズルイロボットになりたい

カガヤクマーケットの中でカガヤクツメタイズルイロボットに人間を追いこして

…………………

…………………

…………………

ボクはズルイ

 

●便所

みんなが彼のことを便所って呼ぶぜ

疑似感情

彼は便所でハーケンクロイツと菊の御紋章がつがっているのを見た

疑似感情

彼、腐ったガーゼみたいに生きるのさ

彼には何もかもそれですんじゃうのさ

疑似感情

彼には自殺なんて思いもつかないのか

彼は光の便所に入ってったのさ

壁に一列に並ばされて彼の一生は仲間と小便すること

 

●銀の幼稚園

ぼろぼろの銀の幼稚園に入園する

オレたちの中の犬

ふにゃふにゃした生物のヘルニアが俺たちを慰め隠す

 

俺のふるいふるい地下の貯水槽

 

体がだるい

不安にかられて習慣の眠りにおちる

俺自身の深いかかわりが眠りこける

子供はマスターベーションに夢中で

親指を吸い爪を噛み

お寝小をする

俺は解放されたかった

銀の幼稚園で

 

 

山崎春美談「角谷のシ」

俺 なんにも信じない

俺 信じる

ガチガチに凍ればいいのに

あたらしい天体 天体 天体

ナチスなんか 気にするやつはばかみたい

両方の意味なんか 死ねばいい

すごくあたたかい空 氷 水 氷ひょうのう

俺はなにも信じない すてき

神社の奥のバラバラマネキン

こんにちは を してます

カチャカチャ格闘している

つめたいあくしゅ をしてます

倫理の方眼紙が 死んで狂うのさ

この詩を書いた角谷美知夫は、現在19歳。田中トシと共に“オッド・ジョン” その後“腐ってくテレパシーズ”などのバンドを、短期間ずつやった事がある。通称、カド。今は田合へ帰って、脳病院で検査を受けている。分裂熱の初期と思われる被害妄想ががひどくて、道ですれちがった女の子に「ふん!」で鼻で笑われたとか、アパートの隣の住人が角谷を崇拝して、毎日壁の穴から覗いてるとか。そういえば彼の部屋には、灰皿に溜まった吸殻の山が、無造作に畳の上に捨てられてあった。

演奏は、延々と続くギター・リフの合間に、彼が歌おうとして何かに阻まれ、躊躇したあげくに中断する、といったものが多い。一時はヒューと一緒に演る話もあった。歌詞としてはこの外に、「ズルイ人間のズルイ精子がズルイ仲間を追いこしてボクができた/ボクはズルイロボットになりたい/カガヤクマーケットの中でカガヤクツメタイズルイロットに/人間を追いこして」とか「彼には自殺なんて思いもつかないのか/彼は光の便所に入ってったのさ/壁に一列に並ばされて/彼の一生は仲間と小便すること」などがあるが、実際にステージでは聞きとれない。

『宝島』1980年10月号掲載吉祥寺マイナーのはみ出し者(パンクス)たち」から抜粋(山崎春美著『天國のをりものが』収録

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それで、休刊後に山崎さん、『ロックマガジン』や『フールズ・メイト』で同じ『HEAVEN』ってタイトルで雑誌内雑誌やってるでしょう。香山リカさん*1野々村文宏さん*2祖父江慎さん*3なんかと一緒に。

 

山崎 祖父江慎は一時期、結核かかったっけ? 多いって結核高杉弾さんも結核になったって。高杉さんは病気を売り物にしてたから。

 

───高杉さん、糖尿病もそうでしょ。

 

山崎 いつ死んでもおかしくないとか書いてたね。結核は栄養とらなきゃならないし、糖尿は栄養とっちゃ……。そういえば群雄に出入りしてたカメラマンで、殺されちゃったのいますよ。市川の一家四人殺し事件で。

 

───市川の?

 

山崎 そう。どの死に方もまっとうじゃない。それで、僕が唯一、全然(話が)できないのは、篠崎さん(ロリータ順子)とかね。全然だめなのね、それは、どう考えても。

 

───まあ篠崎さんに関してはそうでしょうね。

 

山崎 だから(『Jam』『HEAVEN』にまつわる)ミュージシャン関係の取材は全部僕に集中するかもしれないけど。この『Jam』に載った“ 腐ってくテレパシーズの角谷(美知夫)の記事*4、書いたのは美沢さんだけど、まあ、僕にも多少責任あるんだけど。彼の「シ」*5は、あの頃一番強烈だった。僕が『Jam』に書いた小説に挿絵も描いてもらったんだ。

 

───亡くなったというのは、自殺ですか。

 

山崎 たとえば飲みすぎとか、そんな。

 

───アルコール?

 

山崎 違う違う。リン酸ジヒドロコデイン。僕もちょっとやったけど、あの人、全然(身体のこと)気にしてないの。彼の「シ」って異常だもん。精神科医の松本助六と話してた時に、いろんな変わったミュージシャンの話とかしてたんだけど、僕が角谷の話題ふったら、助六が「それは脈絡が違う」と。「僕は境界例の話をしてるんであって、あれは分裂病」みたいな話になったことはあるけど。

だけど、そういう人間を(『Jam』で)もてはやしたりスクープしたわけだから。その後、僕が追い討ちかけるようなことしたのは、吉祥寺マイナーの記事書いてくれって言われて、マイナーに出入りするミュージシャンの話を『宝島』で)書いて、その中で一番反響が多かったのが、彼のシ。凄かったから。読者の共感の仕方が

角谷って、お坊ちゃんでしょ。相当裕福な。だから、何が不満だったのか、典型的な例だと思うのね。それが中央線の四畳半で暮らしててさ。ファッションも、すごい変わってるでしょ。坊ちゃんから始まって、生活の条件すべて満たしてるのに、それなのに……。

 

───うん、わかります。

 

山崎 それで、僕が『ロックマガジン』とかで“アフター・ヘヴン”やったのも、アフター・ケアのアフターなのね。

 

───ああ……。

 

山崎 ひとつはね。だって、角谷に1ページ、篠崎さんに1ページとか。やったことあるし。

 

───いわゆる他誌での“アフター・ヘヴン”、“山崎ヘヴン”は、何回やられたんですか。

 

山崎 『ロックマガジン』で3回、あと、『フールズメイト』でも。『ロックマガジン』のやつは、羽良多さんのロゴ、ヘヴンのロゴをそのまま使ってるからね。……ちょっと待って。今テレビのニュースで……。

 

───(テレビ画面を見て)え? 酒鬼薔薇聖斗が捕まった?*6(インタビュー中断。一同、画面に目をやり、テロップを見て仰天する)

 

山崎 え? 14歳……。

 

─── 14歳!

 

山崎 14? へぇ……(そのまま酒鬼薔薇の話題にもつれこみ、インタビュー終了)

 

所収『Quick Japan』Vol.16(構成:竹熊健太郎

 

「彼が死んでしまった結果として、人は彼を、そんな自分の生き方を貫いた人として見るかもしれない。でも、人間は誰も、なにかを貫くことなどできはしない。どこにも至れない思いを常に抱えながら、生きてゆくしかない。そのことは、彼自身よく知っていた。だから、終わりたいというような言い方を万一したとしても、死にたいという直接的なことばを使ったことは最後までなかった……」

(ライナーノーツに寄せられた東玲子の文章の一節)

http://www.asahi-net.or.jp/~uh5a-kbys/discj/kadotani.htm

*1:香山リカ

精神科医。山崎版『アフター・ヘヴン』にもライターとして参加。香山リカ命名山崎春美によるもの。

*2:野々村文宏

後期『HEAVEN』に参加後、雑誌『ログイン』を経て80年代中盤の新人類ブームの担い手に。現在はヴァーチャル・リアリティ、マルチメディアのコンサルタントとして活躍。

*3:祖父江慎

多摩美マン研、工作舎を経てグラフィック・デザイナーとして活躍。『遊』や山崎版『HEAVEN』ではマンガも描いていた。

*4:角谷の記事

『Jam』の最終号というのは実は二つあって、その実質ラスト号に載った「角谷インタビュー」は、高円寺周辺の若者に「パンクの魂」として伝説視させたものだ。この意味不明なフレーズが彼を死にかりたてたのかもしれない。

*5:角谷の「シ」

ここの文章、いささか分かりにくい理由は竹熊とテープ起こし人が二人とも「詩」と「死」を取り違えていたため。しかし、角谷氏が死んだことは事実であり、なんとなく意味が通じてしまうのがコワイ。

*6:酒鬼薔薇聖斗

このインタビューが行れた1997年6月28日は、偶然にも酒鬼薔薇が逮捕された日だった。

エロ雑誌とオナニーと私―今をときめく天才編集者のエロ本原風景(青山正明)

エロ雑誌とオナニーと私

今をときめく天才編集者のエロ本原風景

青山正明

3度の飯よりオナニーが好きな私なのに、1日2回のオナニーしかできない寂しさよ…。いきなりダウンな出だしで恐縮だが、小学校5年生の夏の精通から数えて今年で26年、実に四半世紀以上にわたって毎日毎日オナニーし続けてきたこの私も、齢30の半ばを超えたあたりから、1日2回はどうにかイケるが、3回の射精は困難という状態に陥ってきた。ああ、寄る年波とは、げに恐ろしきものである。

オナニーを覚えたての当時は、『11PM』をはじめとする深夜番組には随分お世話になったし、‘80年前後、ビデオのハード&ソフトの普及以降は、いわゆるエロビデオも重要なマス材(ネタ)として数えきれないほど使用させていただいた。が、今日に至るまでなお、私のオナニーおいて欠くことのできない最重要のマテリアルは、ポルノグラフィーの類、いわゆるエロ本である。

 

ゴミをチェックしてエロ本を収穫

ここで言うエロ本も細かく分ければ、エロ雑誌、市販のエロ写真集、ウラ本、海外のポルノグラフィー等に大別されるが、私がベッドなり床なりにゴロッと横になった姿勢で陰茎をしごいて気持ち良く射精する際に活用してきたものは、これはあまねくエロ写真である。

世の中には少なからずいるようだが、私は文章や漫画では決してヌケない。したがって、ことエロ雑誌に限って言えばエロ写真さえ充実していればそれでいい、というのが私の持論であり、それ以外の要素として認められるのは、より豊かなオナニーへと導く道しるべ、要するにポルノグラフィーやエロビデオのカタログ紹介と、風俗情報のみと断言したい。

あっ馬鹿らしいので詳しい説明は割愛させていただくが、風俗遊びもセックスも、私にとってはオナニーの延長線上と言うか、オナニーのサブジャンルに過ぎないのである

今ではもうやっていないが、カネのない小、中学生の時分は、エロ本収集はほとんどゴミ拾いに頼っていた。ゴミが出される曜日は早起きして、近所を回って結束された雑誌を目にする度に、ひとつひとつ丹念に確認していき、発見したエロ雑誌を引き抜き、手にしたショッピングバッグに収めていった。「収穫祭」は当日の夜のお楽しみである。今宵のオナニーのことを考え、目眩を覚えるほどの劣情にかき立てられつつ学校から帰ると、その日の早朝に拾ったエロ雑誌をひもとき、股間にピンとくる写真があると、そのページをカッターで切り取って、ファイリングしていった。切抜きも100枚、200枚と溜ってくると、自然な流れで巨乳編、お尻の大きな女編、可愛い少女編等々、独自のテーマごとに分別して保存するようになっていった。

また、そうやって集めた雑誌の広告記事にも着目、「私の恥ずかしい写真密送します。切手500円分同封して下さい」といったものを片っ端からチェック、親の引出しから切手をガメて、バンバン注文しまくった。

そうこうしているうちに、あれは‘74年、中学2年の春、海外から一通のエアメイルが届いた。差出人はデンマークコペンハーゲンスカンジナビアン・ダイレクト・メイル。

開封してみると、中に入っていたのはオールカラーの豪華ポルノグラフィ・カタログで、ごくフツーの丸見え写真集に加え、スカトロもの、妊婦もの、黒人男性と白人女性の異人種姦もの、そしてチャイルド・ポルノ等々、ありとあらゆるポルノがジャンルごとに整理され、オマンコやオチンコ、肛門丸出しの写真に彩られた表紙がしめて100余掲載されていたのだった。

裏本が一般に流通し始める‘80年ぐらいまで、つまり高校を卒業する頃まで、私は、幾度もの税関での破棄処分通達にもめげず、お年玉を貰うたびに、その全てを投入して上記のSDM社に、様々なポルノグラフィを注文し続けた。そして、毎日毎日、最低2回、多い日には8回ものオナニー三昧の日々を過ごしたのである。

 

両親の見ている前でコレクションを焼かれる(涙)

今思い返せば、SDM社からのカタログが届いた中2の春から大学生になって、膣を使ったオナニーに耽けるようになるまでのおよそ5年の間は、誠に充実した毎日であった。第1次オナニー黄金期とでも称せようか。

が、楽あれば苦あり(逆か?)、陰陽の法則と言おうか、電脳時代の今なら0/1交互理論と言おうか、どのオナニーも心に残る楽しいものばかりというわけではなかった。

コレクションが親に見つかってしまい、両親の見ている前で、庭で全てを焼くことを強要され、涙したこともあった。また、とある事情で、隣に住む新妻から私の母へと苦情が舞込んだこともあった。

前述したように、当時の私は一晩に少なくとも2回は射精しており、その精液をぬぐったティッシュは自室のゴミ箱に捨てていたのであるが、いや、匂いが実にキツイのである。あの、何とも表現しがたいすえた精液臭が、自分の部屋ばかりか、家中にたちこめ、とてつもなく恥ずかしい状況になってしまったのだ。

これはイカン、親にバレる。まあ、今となっては可愛いもんだが、思い悩んだ私は、何をとち狂ったか、精液を拭き取ったティッシュを丸め、それを2階の自室の窓から、平屋だった隣の家の屋根の上にポンポンと捨てていった。そうして半年もたった頃、件の新妻の苦情が発生したのである。

雨樋から水がボテボテ滴ってきて、窓がビショビショになった。調べてみると、雨樋にはティッュがびっしりだった。これはおたくのお子さんの仕業に違いない──。

苦情の内容は右のようなものだったらしい。対応したのは母で、そんな報告だけを聞かされた私は、それらのティッシュが私の性欲処理に供せられていたものか否か等、ことの詳細を巡る会話が母と隣家の新妻との間で交わされたどうかはわからない。

ちなみに、その一件以来、20数年間、使用後のティッシュは、水洗トイレに流すようにしているが、トィレの排水管が詰まったことは2年前の1回のみである。

他にも、オナニーにまつわる失敗談は数えきれないほどある。

中3の身体検査のとき、「キミの身体は右半分に比べ腕も胸も左だけが異様に発達している。キミは左利きでテニスでもやっているのか?」そう担当医に言われた私だが、スポーツ等これっぽっちもやっておらず、心当りはなかった。

その晩、鏡の前にたって身体を映してみると、確かに左肩、そして左の胸筋が右よりも大きく迫り出しており、腕は太いばかりか、左の方が長かった。

ふと、そこで思い浮かんだのが、日課としてきたオナニーである。私は右利きなのだが、なぜかオナニーと糞をした後の肛門拭きだけは左手で行うクセがついていた。そう、毎日毎日、左腕だけを使ってオナニーを続けた挙げ句、左半身だけがいびつに発達してしまったのである。

その日以来、私は努めて、今日は左手、明日は右手と、左右交互に腕を使ってオナニーをするよう心掛けるようになった。この習慣は未だに続けている。

成人してからの失敗談と言えば、前の女房にはオナニー現場を10回以上も目撃され、あれは‘92年の春だったか、離婚直前、夫婦の関係が冷えきっていたこともあり、最後に彼女にオナニー現場を見つかったときは、それはひどい怒りようで、いきなりオナニーしている背後から無言のまま背中に蹴りを入れられ、彼女は家を出ていって、そのまま帰らぬ人となった。

あの時は、ダイニングルームのテーブルの下で、コレクションの巨乳編を床一面に広げ、極上のマリファナを吸いながらたいへん気持ち良くオナニーしていたと記憶している。フィニッシュまで持っていけなかったことは今もって残念でならない。

単なる自分の手指でのしごきに飽き、色々な複合技を模索した時期もあった。高校生のときだったか、扇風機の羽を束ねた中心部分に亀頭を押しつけ、気持ち良くなろうとしたのだが、そこはスベスベした金属製で摩擦率が低く、ちっとも刺激が得られない。

そこで、その部分にガーゼを貼付けてスイッチオン、グイッと亀頭を押しつけたものの、今度はあまりに摩擦がキツすぎ、私の亀頭粘膜は擦り切れて血まみれになってしまった。また、あれは大学を卒業してすぐの‘83年の夏、当時勤務していたコンピュータソフトの開発会社のトイレで、排便の快感と射精の快感を一時に味わってみたいと、ふと思い、しゃがみ込んで、オナニーを始め、脱糞のタイミングに合せて射精したことがあった。

が、射精した瞬間に肛門がギュッと締り、硬めのウンコであったにもかかわらず、ウンコは千切れて、射精&脱糞の快感は得られなかった。

後にピンクローターを購入、これならば肛門括約筋ごときで千切れる心配はなく、振動させ、それを出し入れしつつ、射精と疑似排便とのダブルの快感を堪能することができた。

こうした複合技を行うときも、もちろん私の傍らに常に、エロ雑誌の切抜きコレクションが広げられていた。

 

ドラッグとオナニーの関係

さて、複合技と言えば、セックスに媚薬がつきものなように、オナニーもまた、薬物の力を借りて行うと、快感は倍どころかケタ違いにアップする。

中でも一番のお薦めは、やはりマリファナ大麻)、ハッシシ(大麻樹脂)である。昨今、1,500円前後で手軽に誰でも手に入るようになったラッシュの類(プチルニトライト)を嗅いだり、カメラレンズの洗浄用のフロンガスをビニールの袋に吹き入れて、アンパン(トルエン)をやる要領で、吸い込む。

と、このふたつは、射精の瞬間に用いれば、かなりのインパクトで性感を高めてくれる。しかし、実際、合法的に手に入れるもので、マリファナ・レベルでの快感をもたらしてくれる物は存在しない。ここ数年流行りのハーバル・エクスタシーやら、クラウド9、ラプチャー等のリーガル・スタッフも、カバカバ、ヨヒンベ、ゴツコーラといった生薬等も、全然及びじゃあない。

勃起機能の刺激回復薬として唯一日本で認可されている塩酸ヨヒンビンでさえ、それほどの効き目は期待できない。吐き気や幻覚等、多々問題はあるにせよ、いわゆる幻覚性成分シロシン、シロシビンを含んだキノコ、すなわちマジックマッシュルーム以外、合法的なもので、しっかりと媚薬の役割を果たすものはこの世には存在しない。これは、紛う方なき真実である。

マリファナを喫煙してのオナニーは、筆舌に尽くしがたいほど気持ちがいい。また、これに並ぶスタッフとして挙げられるのが、かのティモシー・リアリーが‘67年、米プレイボーイ誌で「最高の媚薬」と喧伝したLSDである。これを服用してのオナニーも、いやはや、まさに「終わりなき性感マッサージ」といったアンバイで、一度体験すると、病みつきになること間違いなし。

ただし、男性の快感、すなわち勃起~射精のメカニズムは交感神経と福交感神経の絶妙なチームワークによって成り立っており、LSDを使用するとチンポは勃ちっ放しで凄まじい快感が2~4時間も続くのだが、なかなか射精には至らない。

ただ、この欠点はセックス使用に限って問題になるのであり、「オマンコ痛い」等という苦情が一切出ないオナニーにあっては、射精時間の延長は喜ばしい限りである。

セックス・ドラッグもとへ、オナニー・ドラッグとして皆さんがパッと思いつくのは覚醒剤やコカインだろうが、これもLSDと同じく、勃起はするが射精せず。また長期使用に陥りやすく、たどり着くのは悲しみのインボテンツ。マリファナLSDはお薦めできるが、こと性感増大使用に関して言えば、シャブやコカインには手を出さない方がいい。

アルコールや睡眠薬といったダウナー(抑制剤)も少量の使用なら、性感を高め、心地よい射精を得ることができるが、オーバードーズするとチンポが萎えてしまうのであまりお薦めはできない。

ダウナーの王様、ヘロインはまったくダメ。用いたその瞬間から、まったく使いものにならなくなってしまう。あと、シンナー(トルエン)もダウナー故、オナニー使用には向かない。しかしながら、チンポはフニャフニャなれど、何故か快感は残るので、長時間無射精オナニーにトライしたい方は、シンナー使用もありだろう。

参考までに、大学生の頃、一時シンナーにハマッていた私は、同棲していた女が外泊したときに、純トル(純度の高いシンナー)・オナニーに挑戦した。

結果は、夜の11時から翌朝の8時まで9時間もただただフニャチンをいじくり回して、射精せずじまい。自分史に残る、耐久マラソンオナニーとなったが、まあそれなりに気持ちは良かった。

 

スマートドラッグで挑戦

‘95年に大麻取締法に引っかかって逮捕されてしまったこともあり、現在、私はイリーガル・スタッフを用いてのオナニーは行っていない。正直、非常に寂しいのだが、それを潮に、「合法モノで、イケるのはないか」という探求心に拍車がかかり、また冒頭に述べたように30代半ばを過ぎて、「良い勃ち、良いネタ(エロ写真&薬物)、良い射精」が叶わなくなってきたという悲しい身体の老朽化を打破する、よい機会になった。

抜本的な精力の回復、つまり回春。それが、四半世紀を超えてオナニーを続けてきた現在の私のテーマである。中高生のときは、気に入ったエロ写真さえあれば、いつでもどこでも思う存分サッパリ抜くことができた。

あの当時のパワーさえ取り戻せば、非合法的な薬物など必要ないわけだし、また幸いなことに、現在の女房は日課とも言える私のオナニーに理解を示してくれている。

ガキの頃の第1次オナニー黄金期、そして20代半ば、マリファナ&LSDを用いての第2次オナニー黄金期に次いで、私は現在、1日2回の射精がせいぜいではあるが、第3次オナニー黄金期と言える状況にある。

決め手は、ミネラル、アミノ酸、そしてホルモン剤をメインとするスマートドラッグだ。

亜鉛とセレニウムのふたつのミネラルを、角50mg、50マイクロg毎日摂取。それに加え、4種のアミノ酸を空腹時にコップ一杯のジュースと共に飲む。具体的にはDL-フェニルアラニン1000mgを1日3回(計3000mm)、L-フェニルアラニン1000mgを1日2回、そしてL-グルタミン1000mgを1日2回、チロジン5000円mg1日2回。それらに加えて、一昨年あたりから話題になった生体時計を司る体内ホルモンの首領、メラトニンを就寝前に服用、あと抗欝作用のあるDMAEという物質を1日400mg、男性ホルモンの前駆物質DHEAを1日300mg摂る。

日本で市販されているホルモン剤は、テストステロン等のもろホルモンで、直接摂取すると結局は体內で自力でホルモンを作り出す能力が損なわれ、元も子もなくなってしまう。

だが、DHEAやプログネノロンといった前駆物質、つまり男性ホルモンの材料を摂取して、それが体内でホルモンに生化合されていくというプロセスを採れば、そんな心配はなく、めきめき性欲は高まり、精液は濃くなる。

ミネラル&アミノ酸&スマートドラッグのトリプル・パワーの恩恵を受けて、1日2回のオナニーペースを維持、満喫している現在、巨乳好きの私は『バチェラー』(ダイアプレス)や『Dカップ・ジャパン』(蒼竜社)、等身大の裸体ポスターが付いている『GOKUH』(バウハウス)や『Bejeon』(英知出版)を毎日購入して相も変わらず切取り収集作業を続けている。

さすがに理解あるとはいえ、女房の目の前でオナニーはしないが、見つかっても、「あっ、邪魔してゴメン」の女房の一言で片づくから、家中どの部屋でも、何時でも思いっきりオナニーに没頭することができるので幸せだ。

ついでに言えば中央から左右別々のバッグで仕切られ、オナニーしても振動が寝ている女房には伝わらない、とても便利なWジェルベッド(サンヨー製)を購入したので、エロ雑誌の切取りを見つつ、時折女房の身体に触れながら独り射精するという、夢のようなオナニーも可能となった。

そうだ。今晩は川口湖のレイヴに行って女房は帰ってこないし、原稿ももう書き終わる。(ここで一時原稿書き中断)そう思って、切れた煙草を買いに近くのコンビニに行き、図らずも『アクションカメラ』(ワニマガジン社)12月号と『ザ・ベストマガジン』(KKベストセラーズ)12月号を購入、前者に掲載されていた望月もも嬢の2ページ目のグラビア(使いこんだ感の漂う巨乳がいい)と、後者の180ページに掲載された風俗店『アンフィニ』の沢田ルミ嬢の美乳で、たっぷりと時間をかけて2発連続射精を遂げた。

うん、やはり2発が限度か…。まっとりあえず原稿書きはおしまい。仕事とオナニーですっかり体力を消耗し、眠剤メラトニンと精液を濃くする3種のアミノ酸──アルギニン・オルニチン・リジン各1000mgをかっ食らって床に就く、“初老(40歳)”まであと3年、37歳の私であった…。

付記ながら、膣をオナニーに用いるとき女の濡れが激しくノレンに腕押し状態になったら、迷わずチンポを引き抜いてタオルで拭き、ついでにそれを棒状にして膣に突っ込んでよく拭き取ってから再開するといい。

また膣の具合いが悪く、どうにも亀頭への刺激がぬるい女の場合には、女を横向きにして、向い合った体勢でチンポを挿入、手で女の腰部を上から押えつけると、膣の締まりがよくなるので覚えておくといい。

初出:ワニマガジン社『エロ本のほん』1997年12月(絶版)

 

世間に衝撃を与えた青山正明氏編集の『危ない1号』

三流エロ雑誌の黄金時代(ガロ 1993年9月号 特集)

特集 三流エロ雑誌の黄金時代

月刊漫画ガロ 1993年9月号

ガロの読者に馴染みの深い作家達のほとんどが、一度や二度はエロ劇画誌に作品を発表したことがあるのではないだろうか。三大エロ劇画誌でいうと『漫画エロジェニカ』では川崎ゆきおが連載を持っていたし、『漫画大快楽』ではひさうちみちお平口広美、オージ、アベシンなどが描いていた。『大快楽』の後を受けて『ピラニア』『カルメン』が創刊されると、エビス、マディ、イワモトケンチ、丸尾末広、杉作獣(J)太郎なども執筆陣に加わった。『大快楽』はもともとアブノーマル系の作品が多かったが、それがガロ系作家起用の一因か? 他の執筆陣は土屋慎吾あがた有為羽中ルイ能條純一、前田寿安など。この頃、ガロの誌面にやたらセックスシーンが多くなったことがあったが、やはり三流劇画誌の影響だろうか。『ピラニア』もやはり変態っぽい作品が主流。『カルメン』は青春マンガ系が主だった。

 

鼎談/高杉弾末井昭南伸坊「素人はバクハツだ!!」

全てはエロ雑誌から始まった!!

画期的な雑誌りで次々と話題をふりまく末井氏

アングラ誌の草分け的存在の高杉氏

そして70年代『ガロ』編集長をつとめた南氏の三快人がくりひろげる大爆笑鼎談!!



いきなり編集長?

──まず、お二人が手掛けた雑誌は当時とても話題になり、その後、いろいろな方面に影響を与えていましたが、あの頃のはどんな状況の中で雑誌を作られていたのでしょうか。

 

末井:それは自動販売機を抜きには語れないんじゃないですかね。自販機本なんかはよくお手本にしてましたよ。

 

高杉:末井さんの『ウイークエンドスーパー』は取り次ぎ本だったけれど、僕がやっていた『Jam』や『HEAVEN』は自販機で売っていましたし。

 

末井:自販機がなきゃ高杉さんみたいな悪どい商売はできませんでしたよ(笑)。だってへんな記事をエロ本に入れていたでしょ。これ書店だったら売れませんよ。

 

高杉:分からないで買った人は自販機を蹴っ飛ばしてた(笑)。

 

──高杉さんはどういう切っ掛けて編集を始めたんですか。

 

高杉:知り合いに八木眞一郎っていうやつがいてね、彼がへんなパロディ雑誌をやっていたのでそれを手伝ったのが最初なんですよ。でもすぐに潰れちゃって、学校もやめちゃったししょうがないからブラブラしていたら、ある日ゴミ捨て場に捨ててあったエロ本を、全部拾って持ち帰って、見てたらその中に普通のエロ本とは違う、ちょっとヘンな雑誌に目が止まってね。ヒマだったもんでその編集部に遊びに行ったんですよ。そこがエルシー企画という所だったんです。

 

──『Jam』の発売元ですよね。

高杉:そうですね。それで『悦楽超特急』という雑誌の編集の人(=佐山哲郎:引用者注)に「じゃ、とりあえず8頁だけやってみない?」って言われてやったのが「Xランド」なんですよ。でも編集のこととかまったくわからないから、切り抜き写真なんて、ホントにハサミで切り抜いてましたね(笑)。でもその企画がウケて、「じゃ、一冊丸ごとやってみないか」ということで作ったのが、『Xマガジン』だったんです。まったくの素人だったんですけどね(笑)。

 

──『Jam』の前身となったものですね。

 

高杉:ええ、それからすぐに『Jam』になったんですよ。南(雑誌を見ながら)この“原爆オナニー大会”っていいね(笑)。結構編集してんじゃない、ちゃんと(笑)。

 

末井:山口百恵のゴミ大公開は? あれ凄かったですよね。

 

高杉:『Jam』の創刊号ですよ。

 

末井:でもこれ、エグイね。使用済みナプキン(笑)、これやらせっていうのはないんですか(大爆笑)。

 

南:キャプションがいいよね。“高一のときの生物のテストの67点”だって(笑)この“ストッキングの包み紙・妹のだろう”って決めつけてるのは?(笑)。

 

高杉:この時は二回行って拾ってきたんですが、一応車のなかで本当に百恵ちゃんの家のゴミか確かめるんだけれど、もうすっごいクサイんですよ(笑)。

 

南:あとこの奇怪なファンレター、っていうのもいいね。ちゃんと活字に起こしている……。完全にイッちゃってるねこの文章。この企画はもう犯罪だね。傑作だよこれは(笑)。

 

末井:この企画は山口百恵だけ?

 

高杉:いえ、『Xマガジン』でかたせ梨乃をやってます。そっちはほとんど話題にならなかったけど(笑)。

 

末井:どうして一回目がかたせ梨乃だったんですか?

 

高杉:それが、かたせ梨乃の住所しか知らなかったの(大爆笑)。ただそれだけ。

 

末井:でもこれ単行本にしたら売れますよ(笑)有名人五十人くらいやってね。

 

高杉:百恵ちゃんをやった時は週刊誌なんかが取材に来ましたね。でも相手は一応取材だから丁寧な口調なんだけれど、もう完全に非難している(笑)。「そんなことしてて良心が痛みませんか」なんていうんですよ(笑)。

 

──『Jam』はどのくらい売れていたんですか?

 

高杉:1万くらいかなあ。自販機本だから表紙が勝負なんですね。表紙しか見られないから。だからヒドイ時には業者の人が表紙をめくっちゃってエロッぽいグラビアを表にして入れてたりしてたんですよ。凄いことするなって思った(笑)

 

末井:表紙が二つあるのもあったね。一枚目はおとなし目で書店用、捲るとまた凄い表紙があってそれが自販機用(笑)。

 

──あの頃はそういう面白い悪知恵ってたくさんありましたよね。

 

末井:うちの社長は凄いですよ。「本を切る」って言うの。

 

──えっ? 切るっていうと…。

 

末井:僕がデザインをしてたんですけれど「末井さんね、本を半分に切るから、そういうふうにレイアウトしてくれ」っていうわけ(笑)。A4の雑誌を半分に切ればA5が2冊できる、だから計3冊できるわけですよ(大爆笑)。

 

南:自由な発想だよなァ(笑)。

 

末井:結局ね、高杉さんも僕もいきなり編集長なわけですよ。「やれ」って言われてね。だから好き勝手と言ってもみんなそれなりに試行錯誤している。で、それがメチャクチャになって行くんですよね。だから編集を十年もやっている人が始めると、こういうふうにはならないんですよ。

 

南:そう、プロは自分勝手しちゃいけないって思っちゃうからね。

 

──じゃ、入っていきなり編集長になってしまうんですね。

 

末井:いきなりも何も一人しかいないですから(大爆笑)。あとね、あの頃はエロ本が作りやすかった、っていうのもあってね。ヌードが入っていればそこそこ売れていたからあとは何をやってもよかったんですよ

 

南:長井さんが終戦直後やってたカストリ雑誌みたいなもんだね(笑)。

 

ガロの作家は安かった!

──お二人の雑誌にはガロ系の作家の方々も随分執筆していましたが……。

 

末井:ガロの作家は安いから(笑)。まあ、ガロが好きだったということもあるんですよね。僕、ガロに投書して載ったことあるんですよ(笑)。

 

高杉:僕も投稿してましたよ。定期購読もしてた(笑)。単行本が出ると直接買いにいったしね。長井さんが風呂敷に包んでくれるのが嬉しくってさ(笑)。

 

末井:僕は恐れ多くて買いには行かなかったけれど、昔のガロも持ってますよ。高く売れるかな(笑)。

 

高杉:ガロには絵がいい人が一杯いたよね。でもストーリーはよく分からないような感じがしたけれど(笑)。

 

末井:でもその分からないのが良かったね。僕はつげ義春さんや林静一さんが好きだったんですけれど、林さんなんか話は分からなくても凄く懐かしいような、情緒があるんですよ。

 

高杉:南さんが編集してたころはなんかモダンな感じでしたよね。

 

末井:糸井さんなんかも入ってきたし。

 

高杉:湯村さんのインパクトは凄かったですねえ。僕は湯村さんが大好きで『HEAVEN』で4色の漫画をやった時まず湯村さんのところに行ったんですよ。最初『ねじ式』をカラーてやりたい、っていうのがあったんだけれど、湯村さんに相談したら湯村さんはエビスさんの大ファンだったもんで「じゃ、まずエピスさんから行きましょう」ってなったんだ。

 

──それが『忘れられた人々』ですね。

 

高杉:そうですね。エビスさんは、『Jam』のころから描いてもらってましたね。池袋で初めて会ったんですけれど。「最近ガロで描いてないようですが、8頁描いてもらえませんか、ギャラはちゃんと払いますから」って言ったら「ホントですか、どういう雑誌ですか」ってなかなか信用してくれない(笑)。物凄いチンピラが来たと思われたみたいで

 

南:そのころ全然ガロに描いてなかった時だしね。ガロに描いてもタダだし、だめだと思ったんじゃない。で、ナベゾ渡辺和博氏)に接触したのは?

 

高杉:渡辺さんには『Jam』の最初の頃から漫画を描いてもらったんですよ。

 

南:その頃まだナベゾ青林堂にいてさ、例によってオレの脇腹をつついて「昨日物凄いヘンな奴に会った」って報告するんだよ(笑)。多分八木さんのことだと思うんだけれど、「革靴、素足にはいてんだけど、そのヒモ靴のヒモがない」ってオレにいいつける(笑)。

ガロの作家は安い、って言えばさ、末井さんが『ニューセルフ』の編集長やってた時に、嵐山(光三郎)さんに原稿を頼んでね、その頃、嵐山さんは(安西)水丸さんと組んでやってたんだけれど、「水丸は高いぞ、だから伸坊にしろ」って言って(大爆笑)。

 

末井:もっと詳しくいうとね「水丸さんにお願いしたいんですけど」って言うと「もっと安いヤツがいるぞ」っていうの。その安いヤツが南さんだった(笑)。

 

──じゃ、ガロ系では南さんが初めて登場したんですか。

 

南:そんなことはないと思うよ。末井さんが面白いと思った人はどんどん登場してたから。

 

末井:僕ガロのファンでしたからね。だから荒木経惟さんもガロでやってましたから、電話番号は南さんに聞いたんです。

 

南:荒木さんは最初ゼロックスで自分の作品をいろんな有名人に送っていて、赤瀬川さんのところにも来たんですよ。それで美学校の授業の時にそれを赤瀬川さんが見せてくれたのね。それでずっと覚えていてね、それで最初は文章をお願いした。花輪さんのこと。それから漫画家じゃない人に漫画のようなことをやってもらう、っていう企画を立てた時に荒木さんに写真漫画を頼んだんですよ。

 

高杉:末井さんの雑誌に荒木さんが登場したのはいつ頃だったんですか?

 

末井:雑誌は『ニューセルフ』の時でしたね。写真エッセイで『地球がタバコを吸っている』っていうのね。火葬場の煙突の写真なんですよ、ただの(笑)。煙りが出ていて遠目で撮っているから確かにそう見えるんですよ。で「ウマイな」なんて思ったりしてね(笑)。だから最初はヌードじゃなかったんですよ。でも荒木さんが連載したのはガロが最初だったんじゃないですか。

 

南:カメラ雑誌ではもちろんやっていたんだろうけれど、普通の雑誌での連載ってのはなかったかもしれない。

 

豪快な作家たち。

高杉:でも白夜書房の雑誌に登場してた人って凄い人が多かったですよね。絶対値が高いっていうか濃い人が一杯いましたね。まず末井さんからしてそうなんだもの(笑)。

 

──高平哲郎さんや、田中小実昌さん、上杉清文さん、巻上公一さん、名前を上げたらキリがないくらいですよね。

 

南:平岡さんは『ニューセルフ』では嵐山さんより早かったね。

 

末井:最初平岡さんの所に行ったら「どういう雑誌?」って聞くんで「オナニー雑誌ですよ」って言ったら「うん、わかった。じゃっオナニー論を書こう」って言った(大爆笑)。

 

南:上杉さんはいつだったっけ?

 

末井:上杉さんは『ニューセルフ』のとき奥成達さんに紹介してもらったんですよ。会ったのは読売ホールでやった「冷やし中華大会」の時だったですけど。僕は第1回目の主催者だったんだけれど、机を片付けていたら、黙ってこう机の端を持ってくれる人がいて、それが上杉さんだったの(大爆笑)。

 

南:スゴク上杉さんの感じ出てるね。ホントのことだから(笑)。オレさ、ずっと前に上杉さんと新宿歩いていたら、糸井さんと会ってね。で、二人は初対面だったから紹介すると、糸井さんはまあ普通の大人の挨拶してんだけど、上杉さん、「あっ」とかいって完全に横向いちゃって横にお辞儀してんだよ(笑)。

 

末井:最初に会った時って自閉症みたいな人になってるよね、上杉さんは(笑)。

 

──『ウイークエンドスーパー』は演劇関係の人達もよく出ていましたよね。

 

末井:あれね、ヌードモデルによく劇団の人を使っていたんですよ。だからじゃないかな。

 

──劇団の人をですか?

 

末井:そう、あの人達は安いからね(笑)あのころモデルは3万が相場だったけれどうちは1万しか出せなかったから。それで劇団に行って「芸術やりませんか」って言って探すんですよ(笑)。コストパフォーマンスっていうのね。安く作るのウマイですよ、僕は(笑)。

 

南:劇団て言えばさ、前に幻の名作って言われてる『恐怖奇形人間』ってものすごく期待して観たんだけれど、全然セコイの(笑)。それよりもその映画に出ていた一平(山田一平/ビショップ山田)さんの話のほうがずっと面白いよね。一平さんが書いた『ダンサー』っていう本に載ってるんだけどさ。末井一平さん、内臓人間の役をあてがわれたんだけれど、どうしたらいいのか、って困って大森の屠殺所に行ったんだって(大爆笑)。それでとりあえず内臓を買って桶にいれてそれを背負って電車で運んだんだよね(大爆笑)。

 

南:やること極端。絶対にその話のほうが面白い(笑)。

 

末井:でね、それを体に巻き付けて土方さんに見せたら「内臓人間はやめよう」て言われたらしいよ(大爆笑)。

 

高杉:すっげぇー!(笑)

 

──それから(故)鈴木いずみさんも凄い人でしたね。ホントにアングラっていう言葉が一番よく似合っていた人でしたよね。

 

末井:そうそう。高杉さんはいずみさんと結構付き合っていたんだよね。

 

高杉:期間はそんなに長くはなかったですけどね。

 

南:末井さんもよくいずみさんの電話に付き合ってあげてたよね。ものすごい長話聞いてあげてるの。やさしいんだよ、末井さんは。なかなかできないよ。

 

高杉:とにかく元気のある人でさ、夜中に電話があって「今から新宿に来い、来ないと原稿を渡さない」っていうからタクシーで行くと、原稿なんか出来てないの(笑)。

 

末井:なんかさ、そういうことしている自分がいとおしくない?(笑)。

 

高杉:ハハハッ。でさ、カラオケバーを何軒も引きずり回されるの。それでGSの歌を歌わないと怒る(笑)。「知ってるはずだ」って。

 

南:いずみさんが亡くなったのをしばらく知らないでいてね。それで、オレんとこで宴会やって盛り上がってたら、末井さんに電話入って、「いずみさんが死んだって。自殺、首吊り」っていったんだよ。あのタンタンとしてるのがまた、末井さんなんだよなァ。「子供の前でストッキングで首吊ったって」って。さすが「お母さんはバクハツだ」だよな(笑)

 

末井:でも前から「死ぬ」って言ってたんだよ。だからあまり驚かなかった。やることもないし書くこともない、ってよく言ってたもの。

 

南:思い詰めていくとそうなっちゃうんだろうね。書くことなんかなくたって別にいいのにね。

 

高杉:そうですよね。でも「いつ死んでもおかしくない」って感じはありましたよね。

 

──鈴木いずみさんは最初は何をしていた方なんですか?

 

末井:文学はもともとやってたんですよ。それからピンク女優や写真のモデルもやってたし。作家としては五木寛之さんが押してたよね。まあ、とにかく凄い人でしたよ。

 

いい加減も必要ですね。

──「写真時代」は最盛期にはどのくらい売れていたんですか?

 

末井:25万まで行きましたね。

 

高杉:ええっ、それは凄い!

 

南:『写楽』の方が先だったよね。

 

末井:そう、だってあれを真似して作ったんだもの(大爆笑)。判型も同じですよ(笑)。平とじでね。

 

高杉:これだけ堂々という人も珍しいね。

 

──ロゴは?

 

末井:ロゴも……まっ、『写楽』を『写真時代』にしただけで(笑)。『写楽』は面白かったですよ。カメラ雑誌はいっぱいあったけれど唯一あれが面白かったね。

 

南:でも『写楽』はあんまりクダンないことはしなかったからね。だから末井さんはあっちが我慢してた部分を全部やっちゃったわけだよ、オモシロイこと(笑)。それを「写楽」も後追いするみたいになっちゃった。

 

──『写真時代』はホントに写真が面白かったですよね。

 

末井:僕らね、写真を選ぶ基準を決めていたんですよ。いやらしいモノ、危ないモノ、インパクトのあるモノってね。で、創刊号は10万部刷ったんですけど、これね“ヤケクソ十万部”っていってね。その時会社が潰れかかっていて「もうだめだ」って言う状態だったんです。それなら「もういいやっ」ってヤケクソで10万刷ったんですよ(笑)。

 

南:でもそのヤケクソのエネルギーが伝わったんじゃないかな。みんな面白がってやってたし(笑)。

 

高杉:何年続いたんでしたっけ?

 

末井:7年。それで発禁になった(笑)。

 

──警告は何回受けました?

 

末井:49回(大爆笑)。

 

──『HEAVEN』は1年くらい出ていましたが、どうして終わってしまったんですか。

 

高杉:あれはね、社長がビニ本の方でパクられたんですよ。それでおしまい(笑)。社長がパクられたら余剰の部分をやる余裕がなくなっちゃうでしょ。

 

──『HEAVEN』は編集もさることながら、羽良多平吉さんのデザインも大きかったですね。

 

高杉:平吉さんとはね、工作舎で出会ったんですよね。そこの『遊』って言う雑誌が普段とは違う冗談の雑誌を作りたいっていうんで僕達が呼ばれて、そこで会ったんです。で、僕も平吉さんのファンだったもんで「表紙のデザインやってもらえませんか」って頼んでね。

 

南:あっ、オレその雑誌で山崎(春美)さんて人に取材されたけど、じゃ『遊』の編集部の人だと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだ。

 

高杉:そうなんです。

 

──でも『HEAVEN』に載っていた情報って物凄くアングラでしたよね。ああいう情報ってどこから仕入れていたんですか。

 

高杉:半分はウソ(大爆笑)。でもそれでいいんですよ(笑)。写真とかは道で拾った本から切り抜いていたし。

 

南:でも高杉さん自身が面白いと思ったものを選んでるんだから、それが編集なんだよ。

 

高杉:僕も全然勉強してないまったくの素人から編集を始めたんだけれど、末井さんもデザインの勉強していて編集者になったんですよね。

 

南:俺もそうだから末井さんとは似てるんだよね。

 

末井:そうそう。だから文字の方から入ったんじゃないから誤植とかあっても全く気にならないんですよ(笑)

 

南:前に『笑う写真』本にした時さ、オレが文字の校正すると末井さんがさ、「どうせ字なんか読まないって、同じだって」て言うの(笑)。

 

末井:雑誌ってこうペラペラと見るものだからさ、一字違っていても前後の関係ってわかるじゃない(大爆笑)。

 

南:たしかにそうなんだよな(笑)。長井さんが似てんだよ、末井さんに。大体でいい、わかればいいって。南、コらないでいいって(笑)。

 

高杉:時々前後の関係さえ分からなくなるときもあるけれどでも「まっ、いいか」ってなる(笑)。

 

南:エロ劇画雑誌もそうだと思うんだけれど、あの頃はみんなオレ達みたいに素人がイキナリ始めるって言う形だったと思うし、だから元気があったのかもしれないね。抑制きかないからさ、ワガママな素人だから、自分が面白いことをする。末井さんのパチンコ雑誌が売れたのは、末井さんが「パチンコ雑誌」のプロじゃなくて、パチンコ好きになった末井さんの気持ちが前面に出たからでしょ。

 

末井:でもエロは今ダメだよね。締め付けがあるから。警察だけならいいんだけれど、どこかのおばさんの団体とかいろんな所からくるからね、誰を相手にしていいのかわからなくなっちゃうね(笑)。でも確かにあのころはやりたいことができましたよ。やっぱり規制とか会議とかあると皆元気がなくなっちゃう

 

南:ちゃんとした会社になっちゃうとそうなるね。

 

末井:徹夜で一生懸命企画書書いて「これは面白い」って思っても会議で「なにコレ?」って投げたりする。うちの社長のことだけど(笑)。

 

高杉:僕のほうは自販機本だったからよけいそうかもしれないけれど、たいがい版元の編集者と会議をやるもんだけど、僕たちはそういうの一回もなかった(笑)

 

:エロ本作りにお金を出してくれる人がいて「とにかく売れればいい」っていう状況ではあったよね。「売れればいい」っていうのはハッキリしてていいよ。

 

末井:あとね、いい加減だったらよかったんですよ。いい加減っていうのは必要なんですよね。「これは雑誌なんだから」っていうさ。雑誌たる所以ですよ、いい加減さっていうのはね。それがないとつまらない(笑)。

 

南:でもき「会議やらなきゃ売れる」っていうもんでもないんだよね。だってガロなんて会議なくて勝手にやってたけど、売れなかった(笑)。

 

末井:あっ、それはね、ヌードがなかったからじゃないんですか。ヌードを入れていればよかったのに(大爆笑)。

 

南:ハハハ……、いい加減でイイなァ(笑)。

 

1993年7月8日

ガロ編集部

 

座談会・根本敬湯浅学幻の名盤解放同盟)× 原野国夫(元『EVE』編集部)「自販機本は廃盤歌手みたいなもんだよね」

自販機本のルーツはおつまみだ!

──今回「三流エロ劇画特集」ということなんですが、原野さんのやってらした『EVE』はマンガ誌ではなくて所謂エロ本、自販機本でも後期の頃ですよね。ですから時期的にはちょっとずれるんですが、根本さんの「死体マンガ」が一番初めに載った記念すべき雑誌ということで

 

根本:蛭子さんにギャンブルエッセイを初めて書かせたのも原野さんですよ。あの頃は結構すごいラインナップだったよね。桜沢エリカとかさ。

 

──自販機本というとエロ写真を主体にしたものと、劇画誌がありましたよね。

 

原野:自販機本て最初がさ、どうしようもない、おつまみの自動販売機あったじゃない。あれにヒントを得て(一同笑)。

 

湯浅:コレいいんじゃねえかって(笑)。

 

──自販機本のルーツはおつまみから始まった(笑)。

 

根本:つまみ食って一杯呑んで、じゃ寝る前に…(笑)。

 

原野:平口さんの「お札の先生」ってあったでしょ。あれのモデルになったのが、その自販機本の会社の、親玉みたいな人(引用者注:自販機本取次最大手の東京雑誌販売社長の中島規美敏のことかと思われる)なんですよ。ホントに成金でね。

 

──あの角栄みたいなの。

 

原野:そうそう。ホントにマンガのとおりの人間でね。

 

──それで財をなしたという(笑)。

 

根本:自販機成金。どうしてんの今。

 

原野:復活したんだよ。ダイヤルQ2で(笑)。

 

湯浅:するどい奴だなあ(笑)。

 

原野:やっぱり世の中ってそういう奴に味方するんだよ(笑)。

 

根本:そういう奴って一度駄目になっても復活するんだよね。

 

原野:絶対復活するんだよね(笑)。

 

根本:敗者復活するんだよ。

 

湯浅:いや、敗者じゃないんだよなもう。負けがないんだよ。まあ勝敗なき勝負っていうんですか(笑)。

 

原野:でも三流劇画って自販機であんまり売られてなかったんじゃないかなあ。

 

──所謂三大エロ劇画のうち、書店売りしてたのは一誌だけだったみたいですね。書店売りしてたものが10万部、残りの2誌でそれぞれ5万部程度だったと。80年前後が全盛期ですよね。最初は劇画誌よりもエログラフ誌が主だったんですかね。

 

原野:実話誌って呼ばれてたのがありましたね。劇画誌が売れてる頃はマンガがいろいろ出てたけど、売り上げが落ち始めたらエロの弱いものから切り捨てて行くでしょ。そうすると一番初めに切り捨てられるのは三流劇画誌だから。だから俺が入った頃ってほとんど末期だったから、グラフと実話誌は作ってたけどマンガ誌は作ってなかった。あの頃マンガで面白い雑誌ってなかったもんね。

 

湯浅:ちょうどあの頃ね、『ビッグコミック』がいっぱい出すようになったじゃん。

 

──『スピリッツ』とか『スペリオール』とか。『ヤングマガジン』とか『ヤングジャンプ』とかもあの頃でしたよね。

 

湯浅:それと入れ替わるようにして、自販機系というか、マイナーなエロ雑誌って無くなった気がする

 

レイアウト1ページ200円

──原野さんが入社したのはいつ頃ですか。

 

原野:81年かな。

 

根本:最初の1年間は営業だよね。

 

原野:川崎の自動販売機の本の営業とか、あと駄菓子屋のスタンドあるじゃない。俺はそのスタンドの営業やってた。そのあと編集部に入って、会社も池袋に移って。

 

根本:その池袋のビルからまた移った後、そのビルのアリスの編集部だったところがファッションマッサージ(笑)になったんだよね。誰だったか、元編集部の奴が行って、「社長の机があったとこでホルモン出してきた」って(笑)。

 

原野:湯浅さんはアリス出版とのつき合いは俺より長いんだよね。

 

湯浅:渡辺さんの友達が雑誌やってるって言うから、会ってみたらアリスだったわけ。で「2ページあげるから好きにやってくれ」って言われて。

 

──その時は何をやったんですか。

 

湯浅:何だっけな。ああそうだ、おすもうの小説を書いてたんだ俺。

 

原野:ああ、あったあった。あれ霜田さんがイラスト描いてたんだよね。

 

湯浅:いや、あの時は俺が描いてた(一同笑)。いや、だから俺が文章書いてイラスト描いてレイアウトして、2年半ぐらいやったかな。「愛のおすもう」っていうタイトルで。そうしたら『モニカ』っていう小説誌があって、そこで書きませんかって話が来たわけ。その時に霜田さんが描いてたんだよ。

 

原野:あれもいい加減な本だったよね。

 

湯浅:何でもいいんだもん、ページが埋まってりゃ(笑)。その頃スージーさんがレイアウトやってたんだよ。

 

根本:そう。全然食えない頃でね。『ピンク特報』っていう本で表紙とかやってたよね。あとビニ本1冊作ったりしてたよ。夫婦でキャプション考えてさあ、新婚の頃。

 

湯浅:写真だけ渡されて「好きにやっていいよ」って。一晩で1冊分アタリをとって、キャプションを夫婦で考えて。アレ結構いい金になったんだよね。だってあの頃、船橋のやってた『官能旋風』ってあったじゃん。あれなんかレイアウト1ページ200円でさあ(笑)。

 

根本:あのユンさん用の「ワレメちゃんパックリ」とかいうスペシャルエディション出した本(笑……詳しくは『因果鉄道の夜』177頁参照)。

 

湯浅:で、あそこのオヤジ古い人だから校正記号とかすごい詳しく入れとかなきゃいけないの、原稿に。面倒くさかったよあれ(笑)。

 

原野:200円...(笑)。

 

湯浅:10ページやって2000円だからね(笑)。

 

根本:100ページやって2万円(笑)。

 

湯浅:で、原野が「マンガ家で誰か面白いのいる?」とか言って、それで根本を紹介したんだよね。

 

根本:そう。それからのつき合いだよね。

 

湯浅:その前にもう同盟があったからな。

 

やりたい放題だった『EVE』

──「幻の名盤解放同盟」が世に出たきっかけというのは。

 

湯浅:あれは『コレクター』っていう雑誌をやってた群雄社の木村(昭二)さんっていう人が言ってきたんだよね。それで1回か2回やったんだよ。それをそのまま『EVE』でやって。

 

原野:あの頃一人で月5冊ぐらい雑誌作ってたけど、4冊までは会社の好きなものを作って、1冊は自分の好きなのを作ろうと思ったわけ。

 

──それで「死体マンガ」とかが世に出たと。

 

原野:そうそう。だってああいうことやったって、誰も何にも言わないんだもん。

 

根本:死体マンガは原野さんのアイディアだから。

 

湯浅:ゴッドファーザー・オブ・死体マンガ。

 

根本:で、「あの死体写真はどこから手に入れたんですか」ってよくいろんな人に聞かれるんだけど。

 

原野:あれ久喜(九鬼の誤字と思われる:引用者注)っていう出版社があったでしよ。あそこで死体写真集をすごい高い値段で出したの。その写真を借りてきて複写して。

 

根本:ケン太くんなんてアイドルになっちゃったもんね(笑)。「極楽劇場」ってのも原野さんのネーミングなんですよ。一応、エロ本の体裁さえとっとけば、あとはもう好きにできたもんね。原稿料もそんなに悪くなかったしね。だってあれで結構食ってたもん俺。『平凡パンチ』までは。

 

原野:『EVE』って何年くらい続いたんだっけ。

 

湯浅:23冊くらい出たんだよ。2年か。あの時スージーさんとさ、表紙の色をどっちがたくさん使うかとか競争してたんだよね。

 

原野:スージーさんの表紙すごかったもんね。かっこよかったな。

 

根本:『EVE』って湯村さんも描いたんだよな一度。

 

原野:終り頃ね。

 

湯浅:霜田さんのカラーマンガなんか連戦だったもんな。

 

根本:あと湯村さんのカラーマンガとスージーさんのカラーイラストと。

 

根本:それで「幻の名盤解放同盟」と死体マンガとさあ、蛭子さんのギャンブルエッセイとか、杉作J太郎桜沢エリカ、平口さんも描いてたもんね

 

原野:後半だと山野一とか。

 

──今考えるとすごい豪華ですよね。

 

原野:でもあの頃はまだみんな暇だったからね。

 

湯浅:それがエログラビアと一緒に載ってるという。

 

原野:そうそう。意味のないエログラビアと。

 

──意味のないエログラビア(笑)。

 

根本:毎回「何とか号」とか付くんだよ。あれが良かったよね。「像が踏んでも壊れない陽春号」とか(笑)。下らなかったよなあれ(笑)。

 

湯浅:グラビアの別冊誌みたいなのもあったよね。写真使いまわすやつ。

 

原野:いい加減な本。

 

湯浅:別の雑誌なのにどっかで見た写真が一杯載ってるの(笑)。

 

根本:女もピンからキリまで載ってたよね。

 

原野:「ブス特集」とかやったもんな。

 

幻の「廃盤レコードコンサート」

湯浅:モデルの名前を廃盤歌手の名前にしてさ(笑)。

 

根本:写真のタイトルはみんな廃盤のタイトルだったよね(笑)。

 

原野:コピーはみんな廃盤の歌詞でさ(笑)。

 

根本:「解放歌集」に感動したマニアは『EVE』のバックナンバー探さなきゃいけないよね。

 

──でもそれを、ある目的のために買う人がいるわけですよね(笑)。

 

根本:でも山田花子なんかさ、お父さんに買ってもらってたんだよ。高校生ぐらいの時に。『EVE』をお父さんに買ってもらって(笑)。

 

湯浅:お父さんにエロ本買わせてるの、娘が。

 

原野:自販機で(笑)。

 

根本:で、読むのって「解放レビュー」と「死体マンガ」(笑)。

 

原野:すごいね(笑)。

 

──ああいう本って固定読者って...。

 

原野:固定読者はいないでしょう。

 

──山田花子以外は(笑)。

 

湯浅:一度さ、「廃盤福袋プレゼント」って出したんだよ。一通も応募が来なかったもんね(笑)。

 

根本:記事のために買わないもんね。飽くまでもちょっと一本抜きたいからだから。

 

原野:でも、すんごい山奥から一年ぐらい後に読者カードが来たり、ハングル文字の読者カードが来たりしたよ(笑)。

 

根本:読者カードって、送ると何かもらえるんだっけ。

 

湯浅:何かもらえるって書いてあったよ。「モデルの着用したパンティーあげます」とか。

 

根本:でも送らないんだよね。今だから言うけど(笑)。

 

──「解放同盟」の活動が一般に認知されたのって最近ですよね。

 

原野:横浜で「廃盤レコードコンサート」やったりしたのにね。

 

根本:1月の5日。雪の中(笑)。それにも山田花子来たんだよな。

 

湯浅:来た。客3人だったよな。

 

根本:3人のうちの1人が山田花子だったんだよ。だって新横浜のラブホテルしかないとこだよ。

 

湯浅:あそこで3回くらいやったよな。「韓国ロック大会」とかな。

 

根本:普通雪の中来ないよな。

 

湯浅:俺、結婚してすぐでさ、30になって初仕事がそれだったんだよ(笑)。

 

エロ本業界ちょっとイイ話

根本:Hっていたよね。すごい業界の嫌われ者がいてさ、もう色んなとこで嫌われてたヤツがいたんだよ。床屋からエロ本屋になったヤツでさ。みんなで使ってる共同の茶碗とかに入れ歯入れたりするんだよね。

 

──ジジイなんですか。

 

根本:今考えれば若いよね。30歳ぐらいなんだけど、頭ツルッパゲでさ。

 

湯浅:『GORO』のバックナンバー全部持ってる(笑)。

 

根本:で、少しづつ会社のエロ本を隠匿して。一番俺の好きなエピソードはさ、当時だんだんエロ本からアダルトビデオに移りだした頃、まだビデオって普及してなかったんだよね。で、会社にビデオあるじゃん。ある日、原野さんが仕事してたら「原ボウ、今日は帰っていいよ、俺があとやっとくから」って急に言い出して。そこで原野さんはピンと来るもんがあったんだよね。しばらく近くの飲み屋で時間潰しててさ、夜中の2時とか3時にそぉーっと会社に行ってみると、明りは消えてるんだけどテレビの明りがチカッ、チカッてついてんの。で、原野さんは階下へ降りてって何回も電話して、出るとカチャッて切っちゃって(笑)。それを何回も繰り返して(笑)。その後、Hさん風俗営業の店に行ったんだよね。

 

湯浅:よくあったよね、アタリ取りながらセンズリかいてて見つかって辞めちゃう奴とかね。

 

根本:まあ、ズリネタ作ってる現場だからな。

 

湯浅:しょうがないよねアレ。

 

根本:結局辞めちゃうとこがイイよね。

 

湯浅:いりゃあいいのにさ。いて欲しいよね。

 

──結局、自販機本って何だったんでしょうね。

 

原野:もう雑誌じゃなかったよね。雑誌の体裁はとってるけど。

 

根本:廃盤歌手みたいなもんだよね(笑)。

 

原野:どんな本作っても誰も相手にしないしさ、誰も見ないし。被差別雑誌だよね(笑)。不可触雑誌というか。だからこそ好きなように出来たんだろうね。

七月九日・初台・LIBRAにて

 

大いなる勘ちがい―三流エロ劇画―(文・呉智英

時代のいきおいはしばしば奇妙なものを生み出す。服飾の歴史をふり返ってみれば、それは明らかだろう。ほんの2、3年もすれば人々の記憶から消えてしまうようなものが、時代の化石となってそこに残っている。もっとも、ネクタイの幅が広いの狭いのは、そのネクタイをしめて喜んでいる当人でさえ、別に不易の美が実現したのだとは思っていない。しょせん流行だと承知の上で、それを楽しんでいるだけなのだ。

ところが、時には、あたかもそれが歴史の牽引車であるかのように、自らも言い、人もそう思うものが現れる。後になって考えれば、なんであんなものがと思えるのだが、その当時は我も人も大真面目なのだ。「時代の産物」というのはこれだろう。しかし、だからといって、時代の産物を全部バカにしてはいけない。注意深い観察者には、その中に時代の駆動力や逆に歴史の危機の予兆が見えるからである、また、時代の産物でありながらも、時の淘汰に耐えうるものも存在している。いわゆる「三流エロ劇画」を考察する場合、以上のことが前提になる。

三流エロ劇画とは、エロを主目的として描いた劇画で、とりわけ自動販売機用の雑誌など、中小・零細出版社の出版物に掲載されたものを指す。劇画を含むマンガという表現形式にエロが描かれることは、もちろんこれに限らない。艶笑コントを4コマに割りふったようなお色気マンガは終戦直後から描かれていたし、戦前の地下出版の春画に現代のマンガにつながる技法を見いだすこともできるだろう。逆に時代を現在に近づければ、今もなおエロ劇画専門誌は出版され続けている。このように、マンガにエロが描かれることはいつの時代にもあることなのだが、三流エロ劇画とは、ほとんどの場合、1970年代初めから80年代初めにかけての10年余りの間に出現したものを指す。そこには、時代の産物とも言ふべき奇妙な熱気が満ちてるたからである。エロ劇画誌の嚆矢は1973年創刊の『エロトピア』だとされる。従来からあったお色気マンガではないポルノグラフィとしての性格の強いエロマンガ誌が登場したのである。60年代後半、マンガが飛躍的に発達し、大学生になってもマンガを手放さない風潮が広がりだした。それに対応して、マンガは単なる児童向け娯楽や社会諷刺の戯画ではなくなった。文学や映画と同じように、ほとんどあらゆるテーマを描きうるメディアとなり始めてるた。メディアとしてここまで成長すれば、純然たるポルノグラフィが登場するのも必然であった。

エロ劇画の勃興には、メディアとしてのマンガの成長の他に、マンガを作る人たち、すなわちマンガ家や編集者たちの気負いも大きな要因となっていた。

1970年代前半。それは戦後民主主義の退潮が始まった時期である。

家制度の解体、個人の重視、物質的欲望の第一義化、恋愛の讃美、性の解放……渾然一体となって民主主義・人権思想という形をとった戦後思潮は、60年代半ばまでの牧歌的な時代を経て、60年代末期には全共闘運動に代表される極相(クライマックス)を迎える。牧歌的な“反体制的秩序”さえもが崩壊の兆しを見せ始めたのだ。反体制的な若者たちが、夢野久作小栗虫太郎を愛読したり、日本浪漫派の思想家に惹かれたり、梶原一騎原作の『巨人の星』『あしたのジョー』に熱中したりするのは、明らかに“反体制的秩序”を逸脱したことであった。

しかし、その逸脱を当の“反体制的秩序”が準備したものであることは、これも明らかだった。ドストエフスキーの『悪霊』に倣って言えば、温和な進歩的理想主義者スチェパン・ヴェルホヴェンスキーは過激で破壊的なピョートル・ヴェルホヴェンスキーを生んだのである。そして、これも『悪霊』に予言されたように、内ゲバが始まり、1972年には連合赤軍事件が起きる。戦後民主主義はこうしてゆっくりと退潮を始める。ドストエフスキーの予言とちがっていたのは、思想は内部崩壊を起こして退潮を始めながら、日本の経済的繁栄だけは石油ショックも乗り切って安定のうちに継続したことである。戦後民主主義の敗残兵たちは、指導の旗を失ひながら、経済的繁栄に依拠して生き永らえた。

これを私は倫理的に非難するようなことはしない。ただ最低限、自分が何をしてあるのかという自覚は必要だろう。さらに望むらくは、時代の意味の分析が端緒だけでもほしい。話が少しわき道に外れた。ともかくも、1970年代前半、戦後民主主義がその極相を迎え、退潮を始めた。その余燼を抱えた者たちがエロ劇画製作の場所へ流入したのである

大手出版社の雑誌では売り上げと良識への配慮から、さまざまな表現上の規制が設けられていた。性、天皇、差別。この3つが表現上のタブーの最も強いものであったし、今もなおそうだ。エロ劇画に流入してきたマンガ家や編集者たちは、好んでこのテーマを……いや、好むもなにも、ここはエロ劇画界なのだ、性を過激に描くことは初めから望まれていた。性描写さえ一定の割合で登場させれば、他は何をやっても良いという“寛容”もあった。かくして1970年代の終はり頃、『エロジェニカ』『アリス』『大快楽』の俗称“エロ劇画誌の御三家”を中心に、中小・零細出版社の出すエロ劇画誌は奇妙な熱気をはらむようになった。

奇妙なと何度もくりかえす理由の説明は要しまい。当時エロ劇画誌の編集長をやっていた亀和田武が「三流劇画全共闘」を名乗ったの名乗らないので論争が起きたこともあった。亀和田が署名入りでそう名乗ったかどうかはともかく、確かに誌面にそれらしい言葉を見たことはある。いづれにしても、ポルノグラフィを目的とした工ロ劇画がどうして全学共闘会議の略称である全共闘と結びつくのか、今となってはこれも時代の産物としか言いいようはない。平岡政明が、犯罪者は警察と戦っているから革命家だと言い、上野昴志が、字をまちがえることは文部省的抑圧への挑戦だと言ったのと同種の、あやういレトリックであった。このレトリックのあやふやさに気づく人たちより、レトリックに魅せられた人たちの方が、少なくともその時点では多かったのである。

三流劇画は、1978、9年にそのピークを迎え、80年代に入ってから次第に熱気を失っていった。ポルノグラフィの世界も、ビニ本やビデオなどのライバルが現れ、エロ劇画の人気は下降した。大手出版社のマンガ誌に、もう少し上品で手の込んだ性描写が登場するようになったことも、下降の一因だらう。しかし、何よりも、作家や編集者に1970年代という時代の産物である大いなる勘ちがい、がなくなったことを挙げなければなるまい。80年代になって、みんな少利巧になった。勘ちがいよりは、なるほど良いだろうが、大いなる勘ちがいの価値をまるまる忘れてしまうのもつまらぬではないか。

 

自販機本の頃の神保町(文・渡辺和博

僕がウィーク・エンドスーパーを初めて見たのはまだガロで働いている頃だった。

そのころちょうど最初のビニール本ブームで神保町にもそれを専門に売るお店が出現していた。

ガロの田端にあった倉庫はエロ本屋さんとシェアして使っていたので、僕は時々いく倉庫整理の時に廊下にはみ出した返本のビニール本の山から何冊か抜き出して立ち読みしていたのだが、その頃から返本の山がなくなり、楽しいハーフタイムが出来なくなった。

もちろんブームでは良いことの方がたくさんあったわけで、それはまず自販機本を作っている会社が事業拡大の一環として漫画誌やグラビア誌を始めたことである。

そうなると漫画の作家が必要となってくるのだが、漫画の作家というのはたいてい出版社のおかかえみたいになっていて他の仕事をなかなかしてくれないし、ましてや新興勢力の出版社ではムツかしい。

そこでガロで描いているような人々に仕事をたのみにくる自販機本の編集者が増えたのである。

当時ガロに描いていた人はみなビンボーであった。

それは作品が一般出版社に受け入れにくいというのもあったけど、何よりも作家の性格や態度が世間から受け入れてもらえないような人ばかりだったからだ。

壊れた人物の描く、壊れた漫画というのは今なら受けたりするけど、当時あまり相手にする出版社はいなかった

自販機本の会社から仕事の来るようになったガロ作家の面々は、たちまち食べられるようになった。

中には僕が働いている編集部に来て「自販本は1ページ五千円くれはるので1時間で五千円札1枚作ってんのと同じですワ、赤セ川さんの時代にも自販機本があればあんなコ下されなくても良かったのに…」と白昼堂々自慢される方も現れた。

僕は、赤セ川さんはアートだから…と言いかけて、その「五千円」男が最近やっとカラーTVを買った話するので、まあしょうがないかと思った。

一方そのころウィーク・エンドスーパーのグラビア誌は、僕のようなヘタクソライター、イラストレーターにとって、とてもありがたい存在だった。

それはグラビアのソリ毛写真のウメ草になんか字と捨てカットのかける人間がいないか!と偉大なる末井昭編集長がおっしゃったからである。

末井氏は今でこそ、パチンコ誌を3誌も同時編集されている“僕たちの星”なのであるが。当時はグラビア写真に載るモデルのインモーを剃っておられた。

これを当時末井氏は、やや恥ずかしそうに「ソリマン」とおっしゃっていたが、この順法エロ写真は一部に大受けで、写真家荒木経惟氏のカメラによって今や神話である。

そして僕もその写真誌のイラスト+文の仕事をさせていただいていた、乗っていたオートバイをヤマハRD250からカワサキZ650にグレードアップすることが出来た。

今思い出すと、どれも楽しい思い出だけどその後自販機本ブームも去って、アダルトビデオのブームが来る。

そして神保町のビニ本屋はビデオ屋に変換されてゆくのだった。

 

三流劇画ブーム・抗争は燃え上がった(高取英・元『エロジェニカ』編集長)

ぼくが『漫画エロジェニカ』の編集をまかされたのは、1977年、25歳の時であった。

その直前に、この雑誌には、川崎ゆきおの連載が始まっていた。川崎ゆきおは、ぼくの出身大学の新聞に原稿を書いてもらったこともあって、お願いしたのである。エロ劇画誌に、『ガロ』のマンガ家が登場するのは、当時の業界では、掟破りであった。業界では、『ガロ』を別世界と考えていたのだ。

しかし、同じ会社の『快楽セブン』には、渡辺和博の連載も始まっていた。この会社は、唐十郎・編集の文芸誌『月下の一群』、ジャズ雑誌『ジャズランド』、詩の雑誌『銀河』などを発行していて、業界から少しズレていたのだ。社長は安保全学連くずれで、編集局長は日大全共闘くずれであった。『快楽セブン』の編集者は、『ジャズランド』からエロ劇画誌にうつり、彼も67年の羽田闘争に参加したことがあった。この会社にぼくは安西水丸などの紹介で入ったのだ。ぼくは、学生時代から『ヤングコミック』(上村一夫・真崎守・宮谷一彦が三羽ガラスといわれた頃だ)のようなマンガ誌をつくりたいと思っていた。この雑誌は、コラム欄も充実していて、奥成達平岡正明竹中労が、小説では筒井康隆などが書いていた。

『漫画エロジェニカ』をまかされた時、したがって、ぼくは燃えた。ポリシーは、決まっていた。〈掟破り〉だ。まず、読者欄を充実させようと思った。エロ劇画誌に読者はハガキなんかよこさないという、定説をくつがえそうと思ったのだ。同時に、マンガ家の名前を売ろうと思った。エロ劇画誌は、マンガ家名よりも、SEXシーンにしか興味がない、という当時の定説をくつがえそうと思ったのだ。

そのために、読者による人気投票を試み、マンガ家名を書いてもらって、記憶してもらおうと思った。マンガ家の人気投票は、大手の少年誌でもやっている。しかし、それは、公表されることはない。この《掟》を破ろうと思った。人気投票は、雑誌に、正直に毎月発表した。

偶然にも、このことが、執筆マンガ家たちを燃え上がらせることになった。やはり、トップをめざしたく力を入れたのだ。

当時、石井隆がエロ劇画家として大ブームとなっていた。ぼくたちは、石井隆に追いっき、追いこせと考えた。

執筆陣は、ダーティ松本村祖俊一中島史雄清水おさむ、といったマンガ家がレギュラーとなっていた。『ガロ』出身の蟻田邦夫もいた。そして川崎ゆきおだ。

川崎ゆきおがかいていれば、『ガロ』の読者も注目するだろうと思っていた。

確かにこの予想は当り、サン出版の雑誌で『漫画エロジェニカ』に注目、といった記事が掲載された。匿名の記事だったが、後に、米沢嘉博が書いたものだと知った。川崎ゆきおにも触れた記事である。

〈雑誌倫理協会〉というのがあり、この協会に会社は加盟していなかった。この協会は、確か、女子高生の表現には、気を配るようにとか、文書にしていたが、〈掟破り〉をめざしていたので、女子高生はテーマとしてメインにした。

先輩は、「肉体労働者、まぁトラックの運転手などが読むんだ」といったが、ぼくは、マンガ好きの学生中心に方針を変えていった

『快楽セブン』の編集者は、寺山修司の言葉をマネて、「性の失業者/セックス・プロレタリアートのためだ」といったので、それなら学生だろうと思ったのだ。これも〈掟破り〉だったのかもしれない。さらに、月刊エロ劇画誌に、連載ものは無理だ、というのがあった。

これを破ろうと思った。最初は一話完結形式で、村祖俊一が「娼婦マリー」を始めた。

大丈夫なので、連載は、北哲矢・北崎正人の「性春・早稲田大学シリーズ」など、増えていった。

ギャグ以外の全てのマンガ家と打ち合わせをした。テーマ、ストーリー、といったところだ。喫茶店での打ち合わせは、マンガ家が恥ずかしそうに原稿を見せたので、そういう日陰もののようではいけないと、ぼくは大っぴらに原稿を広げた。マンガ家の一人はそのことに感激した。

コラム欄も流山児祥のプロレス論、岸田理生のSF紹介、平井玄のロック論が好評となっていた。少女マンガ論はぼくが書いた。

まかされた時の発行部数は、5万5千部、返品率4割5分。

社長は、「売ってくれれば、何をしてもいい」といった。

結果、『漫画エロジェニカ』は、おそるべきスピードで発行部数を伸ばしていき、我々はあしたのジョーであると宣言した。全盛期には12万部発行、返品率1割へと上昇した。当時のエロ劇画誌のトップになったのだ。

読者のハガキは大量にやってきて、編集部にも、読者が次々に遊びにきた。

ただ残念なのは、こういう時も、東大生、京大生が一番乗りで、アングラ・サブ・カルチャーもエリートが早いのか、と思ったことだ。ほどなく京都府大に「エロジェニカ読者の会」ができた。

『漫画エロジェニカ』がブームになっていくと同時に、『大快楽』(7万部)、『劇画アリス』(3万部)というマンガ誌も、御三家と呼ばれ、セットで、三流劇画ブームといわれることが多くなっていった。

最初は、大阪の情報誌『プレイガイドジャーナル』で、ぼくと、『劇画アリス』『官能劇画』の編集者が座談会をもったのがきっかけであった。77年のことである。この時、司会の人に、「トレンディになって、若者が小ワキにかかえて、原宿や渋谷を歩くようになったら、どうします?」と問われた。「そんなことにはなりませんね」と答えた。「当局に弾圧されたら、どうしますか?」とも問われた。「それは、わからないけど、弾圧されるとしたら、『エロジェニカ』でしょう」とも答えた。

なにしろ、掟破りだったので、どこかで覚悟していたのだろう。

劇画アリス』の編集長・亀和田武は、自らの上半身ヌードを表2に掲載し、気を吐いていた。

執筆陣は、飯田耕一郎井上英樹、つか絵夢子などであった。

77年、『漫画エロジェニカ』と『劇画アリス』がまず、話題になっていった。

日刊ゲンダイ』『夕刊フジ』などで『漫画エロジェニカ』が、『報知新聞』などで『劇画アリス』が記事になった。

そして、78年、9月に『11PM』がエロ劇画の特集を組み、出演したエロ劇画家4名のうち、中島史雄小多魔若史清水おさむと、3名までが『漫画エロジェニカ』のレギュラーであったことと、ぼくが出演して話したことが当局を刺激し、『漫画エロジュニカ』11月号(10月発売)は、発禁となった。

メインは、ダーティ松本の作品であった。彼は人気投票に燃え、性表現をエスカレートさせていた。他に村祖俊一、北哲也、小寺魔若史も問題となった。

NHKニュースはその日のラストに、このことを報道した。表紙が映った。その後、「君が代」が流れた。見ていた表紙のイラストレーターは、「俺の絵が全国ニュースで流れた」とコーフンした。

営業部長は、万才をし、「これで、もっと売れる」といったのだからたいしたものであった。安保全学連くずれの社長は、週刊誌の取材に、「遠いところで革命とつながっている」といったのだから、もうムチャクチャだった。

『別冊新評』は、「石井隆の世界」を出版した後、79年初春に「三流劇画の世界」を出版した。ブームはピークとなった。

79年に入って、『漫画大快楽』は、三条友美あがた有為などエロ劇画家の他に、『ガロ』で活躍していた、ひさうちみちお平口広美がエロ劇画を執筆し始めた。

劇画アリス』は、吾妻ひでおが連載し、奥平イラ、まついなつきが執筆した。

『漫画エロジェニカ』は、いしかわじゅんが『憂国』を連載、山田双葉(後の山田詠美)も連載、柴門ふみペンネームで執筆、いがらしみきおがデビューした。ひさうちみちお吉田光彦も執筆した。

三誌とも、エロ劇画+ニューウェーブ系マンガ家で、話題となったのである。

79年、その『漫画大快楽』のコラム執筆者・板坂剛(元・日大全共闘)が、『漫画エロジェニカ』のコラム執筆者・流山児祥(元・青学全共闘副議長)の批判を始め、「流山児殺し完成」とまで書いた。怒った流山児祥が、白昼、下北沢の路上で板坂剛をKOしてしまった。もう、ムチャクチャであった。流山児祥は、『劇画アリス』の亀和田武(元・成蹊大学全共闘)の批判もした。理由は、亀和田が構改系だったということらしい。「ミンセイみたいなもんだよ」といっていた。ぼくは、『劇画アリス』にマンガ論を書いていたが、これでパーになった。亀和田武は板坂の味方となり『大快楽』で流山児祥ではなくぼくの批判を始めた。頭にきたぼくは彼をKOしようとしたが、彼は逃亡した。それで高橋伴明(こっち側)と戸井十月(向う側)を立合人として果し合いを申し込んだが逃げた。

『漫画大快楽』と、『劇画アリス』をクビになった亀和田VS『漫画エロジェニカ』の抗争といわれるものだ。オーラル派VS武闘派の抗争であった。

次は我々が、『漫画大快楽』の編集者を攻撃するという噂も流れ、『大快楽』のマンガ家の中にも受けて立つという人もいたらしい。こっち側のマンガ家には日本刀で殴り込むと豪語する人もいた。天井桟敷の劇団員(コラム執筆者)も殴り込むといった。

もうハチャメチャであった。

しかし、『漫画大快楽』の編集者は、退社してしまった。

79年、『アリス』は、次の編集者の代で休刊、『大快楽』も編集者が代り、80年に『エロジェニカ』を休刊、エロ劇画ブームは沈滞した。

先日、小学館のパーティで、元『大快楽』の編集者の一人と会って、その頃のことを話した。みんな20代後半であった頃だ。なにしろ若かった。燃えていた。

「面白かったよね」と、元『大快楽』の編集者がいった。

「うん。セーシュンだったね」ぼくはいった。

「もう、あんなムチャクチャもないね」「そうだね」

三流劇画ブームは、歴史のかなただ。でも僕たちは、それをまだ胸にしまっている。

(文中敬称略)

 

「いかがかしい」―あ、名前だけでイッてしまう―(絵と文・友沢ミミヨ

“三流エロ雑誌”というものは、わたしから見ると、いかがわしさの王様揃いで、どれも一流品でした。皆さんの単行本の初出一覧の箇所に、『ピラニア』やら『カルメン』やら『大快楽』やら、くらくらする程いかがわしい誌名が、ズラーッと、これでもかというぐらいにオン・パレードしていると、それだけでコーフンしたモンです。憧れの世界でした。

執筆者の方々も、名前がカタカナまじりだったり、ケモノまじりだったりして、もの凄くいかがわしかった。

で、本人がまた、全然名前と違う顔だったりして、そのいかがわしさったらナイ。

編集者の方々は、ぱんこちゃんにいわせれば、「皆、鼻毛がのびてた」(笑)そうですが、一流の人達はヌケてたなァ(鼻毛が、じゃなくって)という印象。あまりいかがわしくなかった(ような気がしますが……)。

当時、ソフトボールが流行ってて『ピラニア』に描いてたイワモトケンチさんに連れられて、所沢の公園にいった時、エビスさんや平口さんや根本さんが、ヒドク非日常で、吃驚した。そんでもって、根本さんがこれまた超スピードボールピッチャーだったりして二度吃驚。その時、平口さんとキャッチボールをしたんですが、あまりの白日夢に、ボールをキャッチする度でっかい精子をうけとめているようで、アタシ、妊娠するかと思いました。(冗句)

忘年会に連れてってもらった時には、ドアを開けたらいきなり遠藤みちろうさんがカラオケ唄ってて、目がとび出した。……奇妙な時代。エロにもいかがわしいものとそうでないものがあります。ひと昔前のエロ本は、何やらわからんほど中身がぎゅうぎゅう詰まってて、いかがわしさがプンプンしていた。あたかも錬金術。今はそういうのが少ないので、人間も丸くなりがちです。皆、あの頃の本を古本屋で探して、そのいかがわしさを鼻から吸って(スニッフィンク)くらくら(トリップ)しましょう。すぐイケます(ウルトラヘブン)

 

とにかく感謝してます(蛭子能収

エロ劇画で一番思い出深いことは、私がまだダスキンの会社に勤めていた頃、33歳位だったかなー、渋谷のナイロン100%とかいうバーで渡辺和博さんとひさうちみちおさんと、あと奥平イラさんだったかな? ちょっと記憶があいまいになってますけど、この3人が展覧会をしているので、そのオープニグパーティに来ませんか? と佐内順一郎さん(高杉弾)に誘われて行った時のことです。

佐内さんは山崎春美さんという人と自動販売機にいれる、ピンク雑誌の編集をしていて私も仕事を何回か貰っていたんです。でもそのピンク雑誌が潰れてしまって、私に他のエロ雑誌の編集者を紹介するからと、そこへ来るのを誘ってくれたんですね。

その頃、私もダスキンの会社を辞めて、マンガでなんとか食っていけないかなーと考えていたので、ダスキンの会社の仕事が終わった後、その展覧会のオープニングパーティとやらに行ったのでした。

当時私は他の漫画家と接触したことがなく会場にいた、渡辺和博さんとかひさうちみちおさん、そして平口広美さん達を見て感激したことを覚えています。

そして数々の編集者や関係者が狭い部屋にぎっしり埋まっており、ムンムンとした中で私はこれがナウイパーティなんだなーと思ったのでした。

そこで佐内さんが私に菅野さんという人を紹介してくれました。

菅野さんはEUオフィスという事務所を小谷さんとやっていて、仕事はエロ劇画の編集でした。

そして菅野さんが私を見て「ああエビスさんですか。ちょうど良かった。エビスさんに頼みたいことがあるんですよ。今度『漫画ピラニア』というのを創刊するんですが、エビスさん、その雑誌に連載してくれませんか」と言うのでした。

私は、これは助かったなと思い、喜んで「お願いします」と返事したのでした。

茶店のようなバーの狭い所で編集者と漫画家がギッシリとひしめき合って、それぞれこの人と思う人に挨拶しては、又別の人の所に行く有様を経験して、漫画の仕事というのはこういうふうにして貰うのかなーと考えていたのであります。

それまで私のつき合いといえば高校の時の友達か会社の人、そして家族という具合で、同じ趣味を持った人とのつき合いというのは殆どなかったのです。

エロ劇画とは言え、私には華やかな業界に思え、喜んで飛び込んで行ったのでした。

ガロで漫画を発表していた食えない漫画家は大体エロ劇画を描いて生活しているようなふしもありましたし、また編集者もその頃は物わかりが良く、エロに関係なく好きなように描いて下さいという注文が多かったような気がします。今は物わかりのいい編集者も減ってしまったようで残念ですが、私は当時のエロ劇画編集者に感謝しています。

 

杉作J太郎レッスルマニア

1982年、より大人になるべく、俺はエロ漫画家としてデビューした。

高校時代の友人に左近(仮名)という男がいて、これは今も俺の無二の親友である。この左近が、高校時代、エロ漫画の大ファンであった……と、いうのが実は特筆すべきことなのだ。なぜなら、当時のエロ漫画というのは、親父だけが読む、年寄り臭いものだったからである。(俺も含めて普通の連中は、グラフ誌を愛好していた)。が、なぜか左近はエロ漫画だった。左近は大体において年寄り臭い男だった。高校時代からやたら内外の政治状況に詳しく、一度、クラスの女のコに沢田研二の話をふられ、「宮本顕二がどうしたって?」と問い返したりしてた。左近の部屋は物置を改造したものだったので、親の干渉が少なかったが、その代わりにネズミが出た。ある日、学校帰りに左近と一緒に部屋の扉を開けたら、ネズミの死骸が畳の上に転がっていたことがあった。驚く俺を無視して、まるで紙屑を蹴るように、平然とネズミを外へ捨てた左近の迫力……。本文とは関係ないが思い出したので書き記してみた。

その左近の部屋だが、いつ行ってもそこにはエロ漫画が山と積まれてあった。

それは、親父趣味丸出しの漫画群であった。

俺たちはその部屋でエロ漫画を学習した。左近は別にコレクターではなく、気にいったものは持ち帰っても文句は言わなかった。家に持ち帰って読んでいたら、通信販売(オナマシン、ガラナチョコ、南極Z号、穴あきパンティ等)の広告のページに金額を計算した痕跡があった。世の中には時刻表を眺めて旅行した気になる人が多いそうだが、左近はそうしたグッズを買った気になって楽しんでいたのだろう。翌日、学校でそのことを問い詰めると、いや、それは室田(仮名)に貸した時に奴が書いたものだと言い張ったが、その後17年に及ぶ付き合いの中で、それが左近の仕業だったことは疑うまでもない。

さて、そんな左近の活躍により、俺達ボンクラの仲間内では、エロ漫画が異様な盛り上がりを見せていた。特に、人気の高かったのが、あがた有為の作品であった。中でも俺達にバカウケしたのが、あがた有為の漫画に多く見られた、若い夫婦と年老いた男が同居するうちに事件が……という設定のものだった。いわゆる、ひとつ屋根の下ものである。

若い夫婦だから性交渉は毎晩である。だが、若妻は、常に奇妙な感覚を背中に感じていた。それはだれかに覗かれているような感覚であった。若妻は、男が苦手であった。どことなく陰湿で冷淡な、そして妙に若々しい男が苦手であった。そして、遂にある日、若妻は自分の感じていた奇妙な感覚が、実は男の視線だったことに気付くのだ。が、それを聞いた亭主は若妻の身体を責めながら言うのだった。「あれがお父さんの若さのエキスなんだよ」

当時、高校生の俺達がどうしてそんな設定に酔ったのかを俺は知らない。ただ、事実として、それぞれがあがた有為の漫画に登場するねばい老人を切り抜いて、生徒手帳に入れ、

「こういうもんですけどね」

警察手帳を見せる按配で互いに見せあって大いに喜んでいたものである。

なにをバカな、という気もするが、男女共学の高校で、ともすれば女色にヨヨヨと傾きそうになる軟派な心を戒めるには、「俺達、悪いけどおめえらみたいな小便臭いガキにゃ興味ないぜ。やっぱ、人妻の熟れた秘肉だよな兄弟!」

あがた有為の親父パワーが必要だったのである(腹が立つぐらいバカだねえ今考えると)。さて、そしてその頃が『ガロ』との出会いの時期でもあった。当時、『ガロ』は、一部インテリ系不良学生にはなぜか人気があったのだ。

「うちの兄貴が毎月読んでるんだよ」

ラグビー部の黒鶴(仮名)が持って来たガロを授業中に回し読みしながら、「俺は荒木の写真がいいよ」「クーッ、エロいな、おめえは!」

とつきあったボンクラ仲間も今ではオナニーも飽きた頃か……。

そんなわけで、俺達いわゆるポンクラ学生に人気のあった漫画が、エロ漫画、そしてガロだったのだ。

真面目な話をすると、俺達ボンクラは、勉学の成績こそ劣悪でも、心底はインテリ揃いであった(それが一種のコンプレックスから出たものであったとしても)。そして、ガロはもちろんのこと、当時のエロ漫画には、少年誌や青年誌では実現不可能な、俺達好みのインテリ漫画が多数掲載されていたのである。1982年。俺はさらにインテリ路線を進むべく、より大人になるベく、読み手では満足できず描き手として、エロ漫画家としてデビューした。(同年ガロは落選)。そして今日……。

万事は結果ではない。

                                                                                                                                       

スケベはエネルギーの源だ!(対談・『漫画大快楽』小谷哲VS『漫画ピラニア』菅野邦明)

『漫画大快楽』『カルメン』『ピラニア』を創刊させ、三流エロ劇画ブームのまっただ中を走ってきた劇画界の荒くれ者をいち早くガロの作家を起用し、また隠れた才能をひき出し、新たな漫画家を次々とデビューさせてきた二人が語る、三流エロ劇画界の裏話

 

新しいスケベを探す

── 一番最初に手掛けたエロ劇画雑誌はやはり『大快楽』だったんですか。

 

小谷:そうですね。僕がその発売元の檸檬社に入社したのは、先に知り合いが入ってそれで入れてもらったんですよ。その頃『黒の手帖』や『風俗奇譚』なんかを出していてね。その頃は『話の特集』が全盛の頃だったからそういう雰囲気の所に行きたいっていうのもあったし、それにどうせマトモには就職できないだろう、とも思っていたし。

 

──何年頃ですか?

 

小谷:74年のころかな。長髪だしロンドンブーツだしサングラスはかけてたしね(笑)。そのまま雇ってくれる所なんて限られていたし。

 

菅野:俺は後から入ったんだけれど、小谷くんをみたら「ああ大丈夫だ、俺も働ける」って思いましたよ(笑)。

 

──『大快楽』は創刊から手掛けたのですか?

 

小谷:僕は創刊からやってましたね。その頃、亀和田さんがいて、一緒に作ったんですよ。創刊する前に、もう『エロトピア』や『快楽号』が売れていて、すでに予兆はあったんですが、多くは実話誌的エロ漫画で、古いオヤジ体質ばっかりで、そういうのは嫌だなと。自分が抜けるぐらいのリアルなエロがほしいよね、なんて亀和田さんと理論武装したりなんかして(笑)。で、創刊したら売れちゃった。その後、亀和田さんはアリス出版に行って『劇画アリス』を創刊させたんだね。

 

菅野:亀和田さんが抜けて、それで俺が入ったんだよね。それまでは編集プロダクションにいて『別冊少女コミック』をやっていてね。萩尾望都さんの『11人いる!』の原稿取りとか、行ってたんですけど、『エロトピア』を見たときこっちの方が面白そうだな、って思って檸檬社に行って、それで俺は『別冊大快楽』をやったんですよ。

 

──その頃ガロは読んでいたんですか。

 

菅野:前から読んでましたね。鈴木翁二さんとか好きでしたし。

 

小谷:僕は高校のころから読んでましたね。どちらかというと『COM』よりも『ガロ』派だったなあ。

 

──『大快楽』ではひさうちみちおさんが随分と描いてましたよね。

 

菅野:あのころ『大快楽』はあがた有為能條純一羽中ルイが、三本柱になっていたんだけれど、能條さんが抜けてしまったので「新しいスケベなヤツを探そう」ということになっていろんな雑誌を見て探したんですよ。それでガロのひさうちさんを見て「この人がいいんじゃないか」ってなったんですよ。

 

──どの作品を見たんですか。

 

小谷:『パースペクティブキッド』です。あの作品は別にどぎついエロを描いたわけじゃなかったんだけれど、あの絵の感じっていうのが「ホントにスケベな奴だな」って。それでこの人にエロを描かせたら面白いんじゃないか、って思ったわけですよ。線も奇麗だし今までにないタッチだったし。要するになにかね、妙なニオイがしたんですね(笑)。

 

菅野:ひさうちさんは凄かったよね。プロットがあがって「それじゃこれでやってください」っていうと今度はコマ割持ってくるんだけれど、それを見るとガロで描いているようなコマ割でね。「うちはエロ本なんだからバーンッって見開きを入れたりしないと」ってさ。あの人くらい描き直しさせられた人はいなかったりして(笑)。

 

小谷:でもその絵コンテっていうのがさ、ボールペンで描いてあるんだけれど、殆ど仕上がりと同じなんですよ。僕はその絵コンテをしばらーく持っていたけれど、あれは凄かったね。

 

──でもひさうちさんはあの時期数々の傑作エロ漫画を描きましたよね(笑)。

 

菅野:最初はね、ちょっと危ない話だったんだけれど映画の『ジョニーは戦場に行った』と『女体拷問人間グレダ』を合わせたようなのをやってくれって言ったら「あっ、いいですねそれは」って(笑)小谷それが『女博士の異常な愛情』っていうタイトルになった(笑)。あれがひさうちさんのエロ劇画の始まりだね。

 

菅野:その後あの名作と呼ばれる“〇〇に捧ぐ”のシリーズを描いたんですよ。「誰が好きですか」って聞いたら「太田裕美です」っていうから、「じゃ太田裕美でやって下さい」って。それで始まったんですよ。

 

またヘンなヤツが来た?

──あと、やはり平口広美さんの『大快楽』デビューもインパクトありましたよね。

 

菅野:平口さんはね、持ち込みに来たんですよ。最初それが平口さんとは解らずに、またアブナイ奴が来たな、って思っちゃって(笑)。

 

小谷:そうそう、それで僕、菅野くんに押し付けてね。で、菅野くんが仕方なく応対したら「ちょっとちょっと、平口さんだよ」って(笑)。ビックリしましたよ。僕は『愛のタバコ屋』なんか大好きだったからさ。

 

菅野:ひさうちさんと平口さんの出会いっていうのも凄かったよ。平口さんの家にひさうちさんを連れていったら、平口さんが死体写真集を見せてさ「いいですねえ、いいですねえ」って二人で興奮してましたよ(笑)

 

──その頃ガロは忘年会とかあまりやらなかったんで、外の雑誌を通して知り合った、というのが多かったですね(笑)

 

小谷:でもガロの人達は仕事がやり易かったですよ。あのころって一人が一冊を作る、っていうのが殆どだったから、自分のカラーが出ちゃうでしょ。で、結構拘りに走ったりしちゃってね。だから作家の人達にも好きに拘ってくれれば、と思ったし、ガロの人達はよく拘ってくれたと思うし……。ひさうちさんは描くことにもフェティッシュだったね。トーンも使わずに一生懸命線を引いてる。「その時は何も考えなくていいんですよね」ていうから「あっ、オナニストだな」って(笑)。

 

菅野:俺ね、平口さんの漫画で凄いと思ったのは、新婚夫婦の家のゴミ箱からコンドームを拾い上げたオヤジが「外側は奥さんだな」っていうんだよ。これ、凄いセリフだなと思った(笑)。普通のエロ漫画でもここまでは出てこない(笑)。

 

小谷:いかに思春期にいい目を見てなかったか、だね(笑)。

 

菅野:あと鈴木翁二さんや安部慎一さんにも3回くらい描いてもらったね。

 

小谷:翁二さんはね、真夏に原稿を持ってきてくれたことがあったんだけれど、Tシャツ着ててさ、それも白い下着のシャツなんだけれど、ズボンもヨレヨレて貧乏な格好なのね。でもそれがピーカンの日差しの中で凄くカッコよかったな。

 

菅野:安部さんはね、初めて喫茶店で会った時、俺コーヒーを全部飲んじゃったら「もう少し飲みます」って俺のカップに自分のコーヒーをドボドボって入れたんだよね。変わった人だなあ、って思った(笑)。

 

小谷:あといしいひさいちさんの商業誌デビューは『大快楽』だったんですよ。高信太郎さんが紹介してくれたの。

 

──『大快楽』にはどのくらいいたんですか?

 

小谷:5年くらいかなあ。好きなことやってたから、あっという間で。

 

菅野:趣味が漫画とエロ本だったんですけど、仕事がそれもんになっちゃって要するに仕事すればするほど、趣味がなくなっていくという。ちょっと悲しかった。

 

小谷:その悲しみをオナニーにぶつけたりして(笑)。

 

菅野:そうそう(笑)。

 

──どのくらい出てたんですか?

 

小谷:売れてるって言っても12、3万部くらいだったかな。でもね、僕らとしてはガロの人達と付き合いを持つことで、凄く世界が広がりましたね。人脈も広がって行くしさ、流行の先端みたいなものにも引っ掛かってくるっていうか(笑)。そういう経験ができたのは嬉しかった。

 

菅野:それにもともと描いていた漫画家にしてもいい刺激にはなっていたみたいだね。全然毛色の違う作家が入ってくるわけだから。

 

ラストウェーブの中で

──それで『大快楽』を経て『ピラニア』『カルメン』に移って行くわけですが、その辺の話をちょっと……。

 

小谷:僕の場合『大快楽』で一つ盛り上がってそれが終わってしまった後に、『カルメン』・『ピラニア』と二枚腰でやらなきゃいけない、っていう辛さはありましたね。でもエロ劇画誌ブームの中ではあの2冊はラストウエーヴみたいな感じだったから、それなりの意味はあったって思いますよ。

 

菅野:檸檬社をやめて事務所を作ったばかりだったから、営業しなきゃいけない、っていうのもあったしね。それであの2冊を創刊する時カルメン』は平口さんが載せられるような雑誌、『ピラニア』は蛭子さんが載せられるような雑誌って思って創刊したんですよ(笑)

 

──でもあの2冊にはいろんな人が次々と登場して、面白かったですよね。桜沢エリカ吉田戦車原律子さんとか。

 

菅野:杉作(J太郎)さんは持ち込みに来たの早かったね。その当時から風貌がオヤジみたいなやつでさ(笑)。自分と同じくらいかな、って思ってたら10歳も下だったのには驚いた(笑)。

 

小谷:ひさうちさんなんかそのころもう売れっ子になっちゃってたんで漫画は無理だったからコラムをやってもらってたし。みんなメジャーにいっちゃって忙しくなっちゃってたから。

 

菅野:あっ、イワモトケンチさんも持ち込みだったね。リキテックスで描いたスクラップブック持ってきてさ。それが面白かったんで『アットホーム劇場』をずっと描いてもらってたね。あとさ、俺マディ上原さんは天才だと思うんだけれどね。だって陰毛漫画をやったのマディくんが初めてでしょ。陰毛を人の形にしたりしてさ、それをコピーして渡してくれた。あれ生原稿だったらヤダよね(笑)。

 

小谷:マディくんの4コマでさ、3コマまでで話が終わってしまって4コマ目に「ひとコマ余りました」っていうのがあったけれど、あれ、凄かったね(笑)。

 

──丸尾末広さんもあの2冊には随分描いてましたよね。

 

小谷:丸尾さんはね、時代をよく考えて描いていたね。その頃はもう80年代に入っていたわけだから、拘りを追求した70年代から、フワッって少し抜けていたね。自由な軽さがあったんですよ。あの漫画っていうのはコラージュとも、ポップとも言っていいんだろうし。で、あえて描く世界といえばドロドロとしたものだからさ。でもあの人の感性というのは少し浮いた状態で描くからそのバランスがちょうどいいんだよね。だから女子高生なんかでも受け入れ易いのかもしれないな。それに、丸尾さんはプレゼンテーションも上手いね。作品の中でパフォーマンスしてるでしょ。それは広告的な方法論に近いものがあって、その辺が80年代的だな、って思った。

 

菅野:でも発売元の営業からはよく怒られていたね。大変でしたよ(笑)。

 

小谷:切れっ、って言われるのがみんなガロ系の人達だったもんね(笑)。でも、ハイハイとか言いながらずっと切らなかったりして(笑)。結局マイナーな人達って好きだったんだね。

 

菅野:何か病気を持っていてそれでもちゃんと漫画を描いている人って好きだね。それを自覚している人っていいよね。自覚してない人は困るけど(笑)。

 

拘り方がセクシーだった

──基本的に小谷さんも菅野さんも漫画が好きなんですよね。

 

小谷:好きだよね。それにスケベなの好きだし。スケベな欲求っていうのはエネルギーでもあるしね。ものを作り出すエネルギーだよね。そこが感じるんだよ。で、つい抜いちゃったりする(笑)。俺さ、いろんな漫画で抜いたよ。小学校の時なんか『鉄腕アトム』で抜いたよ(大爆笑)。

 

菅野:ウランちゃんで? ヤダねえ(笑)。

 

小谷:劇画においては石井隆さんの存在っていうのも大きかったとおもいますよ。ずっと前にね、山上たつひこさんがどこかに「榊まさるも凄いけれど、石井隆はもっと凄い」ってコメントしていてさ、亀和田さんと「あの山上さんが凄いっていうんだから本物だよね」とか話したことがあったんですよ。榊さんの場合はエロを提供する、って言う感じだったけれど、石井さんの場合はエロでありながら作品を描きたい、って言う感じが強かったね。そのころ『別冊新評』で『別冊石井隆の世界』が出たんだけれど、あれだけさ、いろんな人が一人の作家について書きたがる、っていうのは本当に凄いことだと思うんだよね。

 

菅野:とにかくさ、エロに対する個人的な拘りがすごかったですよ、みんなね。その拘りかたがセクシーっていうか(笑)

 

小谷:あの頃は情報量が少なかったから拘り易かった、っていうのもあるかもしれないね。で、その拘りから妄想が生まれてきたりする。

 

菅野:そうだね、結局は妄想好きだったのかもしれませんね(笑)。俺たちもそうかもしれないし(笑)。

 

小谷:スケベっていうのは頭の中を非常に原始的な状態にしてくれるから(笑)。それって、一種のドラック的なものかもしれないね(笑)。

 

菅野:あとね、あの頃のことはよく時代的なことで片付けられていうけれど、まあ、確かにそういう面は大きいとは思うんだけれどね、それを方便みたいに使うのはよくないよね。

 

小谷:結局その時自分がやりたいことをやっているだけの話だからね。それは時代にマッチしている人は、才能のある人で、10年早すぎた、なんて言ってる人って結局マヌケなだけなんだよ(笑)。

 

菅野:まっ、早い人も遅いひともマヌケっていうことだね(笑)。

 

小谷:「迎合してる」なんて言いたがる人もいるけれどそうじゃないんだよね。

 

菅野:でも今はエロってあちこちに溢れてて情報量が多すぎるっていうか薄まっているというか、パワーが落ちてる、ってことはありますね。メジャー誌はエロはやっちゃイカンね(笑)。

 

小谷:そう、情報量の問題はあるね。エロの情報っていうのは貧乏だと妄想が肥大していくわけだけれど、今みたいにエッチなものがそこら中に散逸していると、集約された形にするのは難しいでしょうね。今『性愛の散逸構造理論』っていうのがあるからさ(笑)。

 

菅野:何いってるんだかね(笑)。でもしたたかなエロチズム、っていうのはあまり感じられないね。スケベな人が減ってきたのかなあ(笑)

 

一九九三年七月九日

文責・編集部

 

すぐれたエロ劇画はすぐれたひとりSMに似ている(S&Mスナイパー編集長・緒方大啓)

エロ劇画誌との出会いは、やはり『ガロ』出身作家との出会いによるところが大きい。真夜中のコンビニエンスストアーで立ち読みをした『大快楽』や『ピラニア』(それにしても凄い名前!)に掲載されていた、平口広美さんや、蛭子能収さん、根本敬さんの作品は、特に鮮烈に憶えている。暴力的で残酷なセックスを執拗に繰り返す平口さんの『白熱』や、チョン切られた女の首から、一すじにひかれた墨の色が、真っ白な空間に映えて、鮮血よりも生々しく赤かった蛭子さんの作品。そして、妊婦の腹をかっさばいた強盗が、取り出した胎児を別の女の腹を割いて中に入れ、御丁寧にも縫合までするという、空恐ろしい根本敬さんの作品に出会った時には、ただもう呆然として、コンビニエンスストアーのブックスタンドの前に立ち尽くしてしまったのを憶えている。

もとより『ガロ』の読者であったから、御三方の作品を愛読してはいたのだが、性欲の処理を目的としていた当時のエロ劇画誌で見たこれらの作品は、特に強烈だった。これではオナニー出来ない。ズリネタにならないエロ劇画は何なのだ、と思いながらも、何かエロ劇画誌はとんでもないことになっているのかも知れないと興奮したものだ。つぶさに見てみると、いつもの肉弾相討つ劇画の他にも、俺のはエロとはちょっと違うもんねと主張する若手の作品や、女性ライターのエッセイが並んでいたりして、中には作品のバランスが悪い本も多かったし、何を描いているのか判らないものもたくさんあった。それでも性欲の処理を意図しない面白い作品が載っているのは凄いことだった

そうした作品には圧倒的なまでの個性があった。エロなんてなんぼのもんじゃいという、声が聞こえた。叫び、犯し、ヤリまくる者も、笑いながら女を殺し屍姦する者も、田舎者も労働者も、都市生活者も、ともかく日常から逸脱せずにはいられない超個性的な性の世界を生きていた

彼達はきっと肉体を越えたセックスを目指していたのだと思う。あるいは、セックスの向こうにある欲望に突き動かされていたのだと思う。実は、少ないながら私が垣間見たSMの世界も、セックスの向こうにある欲望に近いような気がする。脚フェチやヒップフェチといったオナニズムに欲情する人々。ラバーで全身を包みこみ、通常の肉体を越えたところでしか欲情しない人こうした、個性的な性であり続けるのは、結構大変なことでもある。例えば始めてM女性を前にした男は、ムチひとつ振るうにしても相手の身体を気遣うあまり、貪欲なまでに男を求めるM女性の心理を捕えることなどとうてい出来ず、ともすれば、最終的にセックスでしめくくったりする場合がよくある。SMでの男と女の関係は、セックスを乗り越えた世界にもっと足を踏み入れたがっているはずなのに。相手を縛り、ムチを打ち、果ては浣腸を行い排泄を強要する、こうした手の込んだことをするのは、セックス以上の欲望を満たそうとする個性のあり方のせいだと思う。

すぐれたエロ劇画は、圧倒的に個性的だった。すぐれたエロ劇画は、日常のセックスを粉砕した。その時、作家は、自らの肉体的な欲情をがんじがらめに拘束していたのだろうか。それとも、全身を包んだラバリストのように、暗闇の中でほくそ笑んでいたのだろうか。すぐれたエロ劇画は、すぐれたひとりSMに似ているような、気がする。(違っていたらスミマセン。ところでSMエロ劇画のオススメは、三条友美の『少女菜美』シリーズであります)。

 

三流劇画15年目の総括(解説・米澤嘉博

三流劇画ブームと言われた時代から、既に15年が過ぎた。今だから言えるのだが、あれは、半ば作られたブームだった。僕や川本耕次あたりが中心となって、批評同人誌『漫画新批評大系』を核に、いろんなメディアに波及させ、業界の一部の人達がそれにノリ、『プレイガイドジャーナル』『別冊新評』が参画することで何とか形になっていったというのが、実際の流れだったような気がする。意図はと問われれば、面白がりたかったからと言うしかない。つまり、マンガはエロも描きうるのだし、マンガファンにも一般にも相手にされていなかった世界にも、才能と変革の意志を持つ作家や編集者がいることを知らせたかったからだ。

手塚を生み出した赤本、多くの劇画家を輩出した貸本マンガ……マンガは常にマイナーで俗悪な部分から収奪することで、次の時代を創ってきた。少女マンガが手垢にまみれ始めていた時代、三流劇画の垣間見せるパワーは、マンガ状況にとって有効な力たりえるという確信もあった。そして、実際この時期、自販機本の台頭とからむ形で、エロ劇画誌は日増しに面白くなり始めていたのである。

状況と歴史を整理しておこう。

────戦後まもなくのカストリ雑誌の中から、小出版社が生まれ、それは昭和30年代の大人漫画誌のブームを作り出していく。『土曜漫画』『週間漫画Tims』『漫画天国』といったそれらは、ヌードグラビア、実話、記事、大人漫画などで構成された大人の為のエロ週刊誌だった。その中にエロチシズムをテーマにしたストーリー物が現れるのは、1965年頃のことだった。そこから70年代頃にかけて、貸本劇画の作家や児童マンガの作家の参入、『漫画アクション』『ビックコミック』といった青年漫画誌の創刊ブームもあって、大人漫画誌は、エロ劇画誌へと変化していくことになる。記事やナンセンス漫画が減り、エロ劇画が中心になっていく。それでも70年代に入ってからも『トップパンチ』『ヒットパンチ』『漫画Q』などは、末だ古い誌面構成だった

大きな変化が起こるのは『漫画ベストセラー』改題の『漫画エロトピア』がヒットする74~75年頃のことだ。榊まさるの劇画的な描き込みによる肉体とその量感の生み出すエロチシズム。パタナイズされた性愛ドラマが大ヒットの要因だった。そして『事件劇画』というリアルな題材で描かれる雑誌に、石井隆が登場してくることになる。売れるものがあれば右へならえする利にさとい業界は、74~5年にかけて『ベンチャーコミック』『漫画大快楽』などを創刊させ、能條純一あがた有為羽中ルイつつみ進といった作家が人気を得ていくことになる。それは性愛をねちっこく劇画的な絵で展開する、榊の流れにある正縫エロ劇画だった。

これまた人気を得たことによって78~9年にかけて30~40のエロ劇画誌が創刊されることになっていく。雑誌の数が増えれば、作家の数も増加するわけで、様々な才能がひしめきあう場所へとそこは変わっていった。少年マンガや少女マンガから、貴村光、福原秀美、小山春男、水島健一郎、村祖俊一、貸本の流れから橋本将次、湧井和夫さがみゆき...。『COM』世代の作家達もデビューしていく。飯田耕一郎井上英樹中島史雄...。『ガロ』の作家達も描いていく。花輪和一丸尾末広平口広美ひさうちみちお...。

エロの部分さえ押さえておけば、あとは何をやっても許されるというある意味ルーズな了解が、宮西計三やいつきたかしといった作家を許容出来もしたし、ダーディ松本や清水おさむといったエロとバイオレンスのマンガを突出させていった。そして、いしかわじゅん川崎ゆきお吾妻ひでお、といった作家をも描かせていったのである。

そうした状況の中からエロ劇画界のエスタブリッシュメント的存在であった『大快楽』、意欲的に少女マンガ的なものを取り入れていた『漫画エロジェニカ』、戦闘的姿勢を売りにする『劇画アリス』の三誌は、御三家としてマスコミに取り上げられていくことになる。マイナーであるが故の自由さ、お祭り騒ぎ的な状況の中で、『エロジェニカ』『アリス』はさらに先鋭化していった。コラムの充実、マンガ評の掲載、山田双葉(詠美)、近藤ようこ柴門ふみ坂口尚、奥平イラ、峰岸ひろみ等の起用。それは閉塞状況にあったマンガ状況に対する新たな勢力の台頭といえなくもなかったのである。村祖俊一中島史雄は美少女路線をさらに推し進め、飯田耕一郎井上英樹は新たなエロスに挑戦し、宮西計三の絵はますます美しくもグロテスクになり、次々と登場してくる新鋭の作品も、ワンパターンだったエロ劇画の領域を拡大していった。インテリ文化人が注目し、女子高校生が『アリス』を求めて自販機を捜し、一般誌へ進出していく作家も出始める頃、『漫画エロジェニカ』が発禁をくらうことになる。

そして『別冊新評・三流劇画の世界』が出た79年頃より、業界はいっきに失速していくことになる。『エロジェニカ』が会社の倒産と共に休刊、『劇画アリス』もまもなく廃刊となり、『大快楽』も編集者がやめることになっていく。『カルメン』『ダイナミック』『ピラニア』など、後を荷負う方向性を持つ雑誌もあったし、『漫画ハンター』『漫画スカット』『ラブ&ラブ』など、面白くなっていた雑誌もあった。だが、幻の三流劇画全共闘内ゲバ(?)、当局の締め付け、自販機の衰退など様々な要因もあって、80年代に入ると、まるで祭りの後のような寂しい状況になっていった。

三流劇画の後を受けたマニア誌を中心にしたニューウエーブ・ブームも含めて、70年代末のマイナーなマンガ群は、80年前後に相次いで創刊されていった『ヤングジャンプ』『ヤングマガジン』などの新青年誌に、いいところだけ吸収されていくことになる。より安く、より有名作家による、明るいSEX物が出回れば、三流劇画誌はたちうちできなかった。また時代は、内山亜紀の人気でも解るように、劇画的な描き込み、青年マンガ的暗さより、明るいロリコン物を求め始めてもいた。エロ劇画誌そのものが、ロリコン誌という過渡期を経て美少女コミック誌へと転回していくのが80年代だ。

さらにエロも、自販機本、ビニ本裏本、アダルトビデオと、よりハイグレードなものへと進化していったことも、エロ劇画誌のよって立つ基盤を失わせていったのかもしれない。エロ劇画誌の読者には、マンガファンもいたが、大半は安手のポルノを求める読者達であったことは言うまでもない。ブームがエロ劇画に思想を植え付けてしまったことが、業界のジリ貧につながっていったという言われ方もされたが、それがなくとも、やがては終息していったはずである。20代から30代前半の、作家や編集者のエネルギーのカオスが、そのまま、一つの時代を創っていた。そう見るべきなのである。

あれから、マンガの中では時代は3回りも4回りもした。美少女コミック誌や青年マンガの「有害」コミック問題でさえ、今や忘れられようとしている。かってのエロ劇画の出版社は今も、そうした雑誌を出し、半分以上を美少女コミック誌に変えた。押さえつけられれば、サッと引き、大丈夫と見れば次々とエスカレートさせていく。そのしたたかさがエロ業界なのである。そして、そこは今もマイナーであるが故の自由さを残してもいる。エロ劇画、三流劇画誌は役目を終えたにしても、エロとマンガの蜜月は相変わらず続いており、それは常に可能性のカケラを秘めているのである。

 

近頃の自販機事情はどーなっているのか?(取材・ガロ編集部)

一般の目に触れにくい「自販機」というメディアの特性を逆手に取り、やりたい放題の誌面作りをすることによって独自のアンダーグラウンド文化を作り上げた「自販機本」。その誌面のブッ飛びようは今回の特集である程度お分かり頂けたと思う。

最近では自販機そのものも少なくなり、あっても中身は一般書店でめに入る本だったりするが(『BOOK VENDER』などというフザけた名前がついているものもある)、あの懐かしい自販機本は果たして無くなってしまったのだろうか。我々取材班は、自販機を求めて夜の町をさまようのであった。

中央線のK駅近くに、ちょっと冷しげな、イイ感じの自販機があるとの情報を得た我々は、早速現地へ赴いた。目当ての自販機はすぐに見つかったが、最近の自販機は本だけでなく、ビデオやオトナのオモチャまで売っている。一般書店で見かけないような、老舗の自販機本らしきものもあるにはあるが、普通に書店売りされている本の方が多い。しかたがないので3千円のダッチワイフを買う。

ダッチワイフにもピンからキリまであるが、1万円以下のものは大体下半身のみと考えてよい。しかし、ここで買ったダッチは3千円のわりにはなかなかよくできている(特にケツのラインがすばらしかった)。オトナのオモチャ屋で売っている「看護婦*1なんとか(1万円)」よりもずっとよく出来ていたぞ! 下半身だけのビニール美女なんて、アクセサリーとして部屋に置くのもちょっとキッチュでいい。さらに布団乾燥機をジョイントすれば「ズボン乾燥機」にもなりそうなので一石二鳥だ(本当か?)。

肝心な本の方はというと、いくつかの自販機をまわってみたものの、めぼしいものはない。写真主体のエロ本も自販機にはよく入っているが、むかーしのビニ本の焼き直しだったりする。一冊買ってみたが、スミの入れ方がものすごくて、アップのショットは何が何だか全然分からない。一発抜こうと思って自販機の前で散々迷った挙げ句、こんなものつかまされちゃたまらんだろうな。他には一般書店でも売っている投稿誌なんかがあったが、最新号ではなく、ちょっと古い号を多少安く売っている。まあ、古い号でも抜くのには問題ないか。

 やっぱりオモチャ関係に目が向いてしまう。「健康増大ポンプ」*2と「バールローター」*3がセットで7千円は安くないか。新宿のオモチャ屋ではローターだけで6千円で売っているぞ。「アヌス責め」とかいうオナニーグッズは、筒状のグミキャンディのような材質のもの(スゴイ例えだな)に肉棒を入れてシゴクものらしい。名前通りケツのアナ状の皺が刻まれている。ちゃんとローションも付いていて3千円。でもこういうオモチャって使い終ってから洗うのがムナシイだろうな。

というわけで、自販機本を探しに行ったつもりがオナグッズばかり見てきてしまった。

 

エロ劇画、自販機本出現以前、性表現に限らず、出版界には様々なタブーがあった(もちろん今でもあるが)。カッコ良く言えば、それ等のタブーを、試行錯誤しながら一つ一つ打ち破って行ったのが今回の特集で取り上げたような雑誌である。確かにそういった側面もあったのだ。今回のインタビューでも分かるように、そうした雑誌の作り手はほとんど素人だった。エロ雑誌の身軽さと、素人のムチャクチャが、20年前後の特殊な状況を作り出したのである。

 

編集後記

 ☆今月は対談の方でも楽しませてくれた高杉弾氏は、やっと結核も治ってメデタク退院したと思ったら、今度はまた糖尿で入院されてしまいました。糖尿はゲッソリと痩せてしましますが、もともと痩せておられた高杉氏はさらにガリガリになってしまい「なんとか40キロ台はキープしておきたいんだけれど」と嘆いておられました。デブには羨ましい話ですが、ビョーキはつらいので、励ましのお便りを出しましょう!

 

♡今月は特集を通じ、大勢の先輩編集者に聞く(読む)ことができ勉強になった。例えば白夜の末井さんは、『写真時代』で年商80億という現在の白夜につながる道をつくりだした人だ。「所詮雑誌なんだから」という言葉の深みをどう解釈するかが、今後のガロの課題だ。(山中)

〄「編集後記」というものはフツウ編集が終ってから書くものだが、これから書かなきゃならない原稿が6ページ分ある。ということは当然、1日発売は無理なわけで、書店に行って下さった方どうも済みませんでした。(浅)

🌸ヌマゲン氏と、憩写真帖の撮影をしていると、「何を撮ってるんだ」といかつい顔したおやじに聞かれることがありますが、「あの、憩の写真を......」と言うと、「ああ、憩ね!」と豹変します。不思議な力があるもんだ、憩には。限定本の予約をお待ちしてます。(高市

⛩その昔、私もエロ本にはお世話になったものです。青林堂の給料では食えず餓死寸前だった時、エロ本編集者の方々からお仕事をいただき命拾いしました。会社が終わるとそのまま白夜書房EUオフィスに直行して原稿を書いたりして。そういえばずっと前に給料をいっぱい貰っていた末井さんに「もうビンボーはヤだから末井さんの子供になりたい」といったら「いいですよ」と笑ってましたっけ。ハハハ(手塚)

♬あーまた買っちまったよ三脚と雲台! マクロレンズの接写用にミニ三脚と、微動装置付マクロスライダーだ。世の中にや世渡りがウマいっつーか運がいいっつーか、人からものを貰うのにッイてるヤツって必ず身近にいて、わしの場合はO場(仮名)営業部員がそーなんだけど、わしにゃ「マミヤの645、モデルチェンジしたから古いのあげるよ」とか「ハッセルブラッドあきちゃったからあげる」とか「ライカ、使いませんかのぉ」とかゆー人がちっとも現れないぞ。(当たり前だが)それどころか某カメラ雑誌(ガ●ケンの『CADA』)に恥をしのんでモニター応募したが見事に外れるし。こういう「物貰い運」は全てO場嬢が持ってってるのではないか。←やつあたり...さて先月山中編集長にカメラ俺にくれよお宣言をした私ではあるが、結果「あれ、面白かったよ」の一言であった。ケチ。(白取)

撮影用に購入したダッチワイフがそれから何処へ行ったかというと、実はまだ俺の部屋に居たりするのだが月の九十九里浜で浮き輪がわりにダッチワイフを小脇に抱えた坊主頭の男がいたら、気軽に声をかけてくれ。そいつがこの俺サ。(ぞの)

今月、青林堂内には資料用のエロエ口本がわんさかあって、ペラペラとみてたら、なんだか人生観が変わってしまいました。そういった事を何年も続けていると、北園さんのような立派なエロの帝王になれるのですね。(大場)

今月中旬に鳩山郁子さんの2冊目の単行本『SPANGLE』出版予定です。1冊目の『月にひらく襟』も同じ位に再版予定なのでこちらもよろしくお願いします。(志村)

*1:看護婦とうたいながら服は付いてないので看護婦でもなんでもない。箱の写真が看護婦なだけ。

*2:筒に肉棒を入れてをしゅこしゅこすると中の空気がぬけ、肉棒に血が集まってピンコ立ちになる機械の事。

*3:小型のバイブのようなもの。クリトリス管め、アナル責めなどに使う。

鼎談/高杉弾・末井昭・南伸坊「素人はバクハツだ!!」

鼎談/高杉弾末井昭南伸坊「素人はバクハツだ!!」

全てはエロ雑誌から始まった!!

画期的な雑誌りで次々と話題をふりまく末井氏

アングラ誌の草分け的存在の高杉氏

そして70年代『ガロ』編集長をつとめた南氏の三快人がくりひろげる大爆笑鼎談!!



いきなり編集長?

──まず、お二人が手掛けた雑誌は当時とても話題になり、その後、いろいろな方面に影響を与えていましたが、あの頃のはどんな状況の中で雑誌を作られていたのでしょうか。

 

末井:それは自動販売機を抜きには語れないんじゃないですかね。自販機本なんかはよくお手本にしてましたよ。

 

高杉:末井さんの『ウイークエンドスーパー』は取り次ぎ本だったけれど、僕がやっていた『Jam』や『HEAVEN』は自販機で売っていましたし。

 

末井:自販機がなきゃ高杉さんみたいな悪どい商売はできませんでしたよ(笑)。だってへんな記事をエロ本に入れていたでしょ。これ書店だったら売れませんよ。

 

高杉:分からないで買った人は自販機を蹴っ飛ばしてた(笑)。

 

──高杉さんはどういう切っ掛けて編集を始めたんですか。

 

高杉:知り合いに八木眞一郎っていうやつがいてね、彼がへんなパロディ雑誌をやっていたのでそれを手伝ったのが最初なんですよ。でもすぐに潰れちゃって、学校もやめちゃったししょうがないからブラブラしていたら、ある日ゴミ捨て場に捨ててあったエロ本を、全部拾って持ち帰って、見てたらその中に普通のエロ本とは違う、ちょっとヘンな雑誌に目が止まってね。ヒマだったもんでその編集部に遊びに行ったんですよ。そこがエルシー企画という所だったんです。

 

──『Jam』の発売元ですよね。

高杉:そうですね。それで『悦楽超特急』という雑誌の編集の人(=佐山哲郎:引用者注)に「じゃ、とりあえず8頁だけやってみない?」って言われてやったのが「Xランド」なんですよ。でも編集のこととかまったくわからないから、切り抜き写真なんて、ホントにハサミで切り抜いてましたね(笑)。でもその企画がウケて、「じゃ、一冊丸ごとやってみないか」ということで作ったのが、『Xマガジン』だったんです。まったくの素人だったんですけどね(笑)。

 

──『Jam』の前身となったものですね。

 

高杉:ええ、それからすぐに『Jam』になったんですよ。南(雑誌を見ながら)この“原爆オナニー大会”っていいね(笑)。結構編集してんじゃない、ちゃんと(笑)。

 

末井:山口百恵のゴミ大公開は? あれ凄かったですよね。

 

高杉:『Jam』の創刊号ですよ。

 

末井:でもこれ、エグイね。使用済みナプキン(笑)、これやらせっていうのはないんですか(大爆笑)。

 

南:キャプションがいいよね。“高一のときの生物のテストの67点”だって(笑)この“ストッキングの包み紙・妹のだろう”って決めつけてるのは?(笑)。

 

高杉:この時は二回行って拾ってきたんですが、一応車のなかで本当に百恵ちゃんの家のゴミか確かめるんだけれど、もうすっごいクサイんですよ(笑)。

 

南:あとこの奇怪なファンレター、っていうのもいいね。ちゃんと活字に起こしている……。完全にイッちゃってるねこの文章。この企画はもう犯罪だね。傑作だよこれは(笑)。

 

末井:この企画は山口百恵だけ?

 

高杉:いえ、『Xマガジン』でかたせ梨乃をやってます。そっちはほとんど話題にならなかったけど(笑)。

 

末井:どうして一回目がかたせ梨乃だったんですか?

 

高杉:それが、かたせ梨乃の住所しか知らなかったの(大爆笑)。ただそれだけ。

 

末井:でもこれ単行本にしたら売れますよ(笑)有名人五十人くらいやってね。

 

高杉:百恵ちゃんをやった時は週刊誌なんかが取材に来ましたね。でも相手は一応取材だから丁寧な口調なんだけれど、もう完全に非難している(笑)。「そんなことしてて良心が痛みませんか」なんていうんですよ(笑)。

 

──『Jam』はどのくらい売れていたんですか?

 

高杉:1万くらいかなあ。自販機本だから表紙が勝負なんですね。表紙しか見られないから。だからヒドイ時には業者の人が表紙をめくっちゃってエロッぽいグラビアを表にして入れてたりしてたんですよ。凄いことするなって思った(笑)

 

末井:表紙が二つあるのもあったね。一枚目はおとなし目で書店用、捲るとまた凄い表紙があってそれが自販機用(笑)。

 

──あの頃はそういう面白い悪知恵ってたくさんありましたよね。

 

末井:うちの社長は凄いですよ。「本を切る」って言うの。

 

──えっ? 切るっていうと…。

 

末井:僕がデザインをしてたんですけれど「末井さんね、本を半分に切るから、そういうふうにレイアウトしてくれ」っていうわけ(笑)。A4の雑誌を半分に切ればA5が2冊できる、だから計3冊できるわけですよ(大爆笑)。

 

南:自由な発想だよなァ(笑)。

 

末井:結局ね、高杉さんも僕もいきなり編集長なわけですよ。「やれ」って言われてね。だから好き勝手と言ってもみんなそれなりに試行錯誤している。で、それがメチャクチャになって行くんですよね。だから編集を十年もやっている人が始めると、こういうふうにはならないんですよ。

 

南:そう、プロは自分勝手しちゃいけないって思っちゃうからね。

 

──じゃ、入っていきなり編集長になってしまうんですね。

 

末井:いきなりも何も一人しかいないですから(大爆笑)。あとね、あの頃はエロ本が作りやすかった、っていうのもあってね。ヌードが入っていればそこそこ売れていたからあとは何をやってもよかったんですよ

 

南:長井さんが終戦直後やってたカストリ雑誌みたいなもんだね(笑)。

 

ガロの作家は安かった!

──お二人の雑誌にはガロ系の作家の方々も随分執筆していましたが……。

 

末井:ガロの作家は安いから(笑)。まあ、ガロが好きだったということもあるんですよね。僕、ガロに投書して載ったことあるんですよ(笑)。

 

高杉:僕も投稿してましたよ。定期購読もしてた(笑)。単行本が出ると直接買いにいったしね。長井さんが風呂敷に包んでくれるのが嬉しくってさ(笑)。

 

末井:僕は恐れ多くて買いには行かなかったけれど、昔のガロも持ってますよ。高く売れるかな(笑)。

 

高杉:ガロには絵がいい人が一杯いたよね。でもストーリーはよく分からないような感じがしたけれど(笑)。

 

末井:でもその分からないのが良かったね。僕はつげ義春さんや林静一さんが好きだったんですけれど、林さんなんか話は分からなくても凄く懐かしいような、情緒があるんですよ。

 

高杉:南さんが編集してたころはなんかモダンな感じでしたよね。

 

末井:糸井さんなんかも入ってきたし。

 

高杉:湯村さんのインパクトは凄かったですねえ。僕は湯村さんが大好きで『HEAVEN』で4色の漫画をやった時まず湯村さんのところに行ったんですよ。最初『ねじ式』をカラーてやりたい、っていうのがあったんだけれど、湯村さんに相談したら湯村さんはエビスさんの大ファンだったもんで「じゃ、まずエピスさんから行きましょう」ってなったんだ。

 

──それが『忘れられた人々』ですね。

 

高杉:そうですね。エビスさんは、『Jam』のころから描いてもらってましたね。池袋で初めて会ったんですけれど。「最近ガロで描いてないようですが、8頁描いてもらえませんか、ギャラはちゃんと払いますから」って言ったら「ホントですか、どういう雑誌ですか」ってなかなか信用してくれない(笑)。物凄いチンピラが来たと思われたみたいで

 

南:そのころ全然ガロに描いてなかった時だしね。ガロに描いてもタダだし、だめだと思ったんじゃない。で、ナベゾ渡辺和博氏)に接触したのは?

 

高杉:渡辺さんには『Jam』の最初の頃から漫画を描いてもらったんですよ。

 

南:その頃まだナベゾ青林堂にいてさ、例によってオレの脇腹をつついて「昨日物凄いヘンな奴に会った」って報告するんだよ(笑)。多分八木さんのことだと思うんだけれど、「革靴、素足にはいてんだけど、そのヒモ靴のヒモがない」ってオレにいいつける(笑)。

ガロの作家は安い、って言えばさ、末井さんが『ニューセルフ』の編集長やってた時に、嵐山(光三郎)さんに原稿を頼んでね、その頃、嵐山さんは(安西)水丸さんと組んでやってたんだけれど、「水丸は高いぞ、だから伸坊にしろ」って言って(大爆笑)。

 

末井:もっと詳しくいうとね「水丸さんにお願いしたいんですけど」って言うと「もっと安いヤツがいるぞ」っていうの。その安いヤツが南さんだった(笑)。

 

──じゃ、ガロ系では南さんが初めて登場したんですか。

 

南:そんなことはないと思うよ。末井さんが面白いと思った人はどんどん登場してたから。

 

末井:僕ガロのファンでしたからね。だから荒木経惟さんもガロでやってましたから、電話番号は南さんに聞いたんです。

 

南:荒木さんは最初ゼロックスで自分の作品をいろんな有名人に送っていて、赤瀬川さんのところにも来たんですよ。それで美学校の授業の時にそれを赤瀬川さんが見せてくれたのね。それでずっと覚えていてね、それで最初は文章をお願いした。花輪さんのこと。それから漫画家じゃない人に漫画のようなことをやってもらう、っていう企画を立てた時に荒木さんに写真漫画を頼んだんですよ。

 

高杉:末井さんの雑誌に荒木さんが登場したのはいつ頃だったんですか?

 

末井:雑誌は『ニューセルフ』の時でしたね。写真エッセイで『地球がタバコを吸っている』っていうのね。火葬場の煙突の写真なんですよ、ただの(笑)。煙りが出ていて遠目で撮っているから確かにそう見えるんですよ。で「ウマイな」なんて思ったりしてね(笑)。だから最初はヌードじゃなかったんですよ。でも荒木さんが連載したのはガロが最初だったんじゃないですか。

 

南:カメラ雑誌ではもちろんやっていたんだろうけれど、普通の雑誌での連載ってのはなかったかもしれない。

 

豪快な作家たち。

高杉:でも白夜書房の雑誌に登場してた人って凄い人が多かったですよね。絶対値が高いっていうか濃い人が一杯いましたね。まず末井さんからしてそうなんだもの(笑)。

 

──高平哲郎さんや、田中小実昌さん、上杉清文さん、巻上公一さん、名前を上げたらキリがないくらいですよね。

 

南:平岡さんは『ニューセルフ』では嵐山さんより早かったね。

 

末井:最初平岡さんの所に行ったら「どういう雑誌?」って聞くんで「オナニー雑誌ですよ」って言ったら「うん、わかった。じゃっオナニー論を書こう」って言った(大爆笑)。

 

南:上杉さんはいつだったっけ?

 

末井:上杉さんは『ニューセルフ』のとき奥成達さんに紹介してもらったんですよ。会ったのは読売ホールでやった「冷やし中華大会」の時だったですけど。僕は第1回目の主催者だったんだけれど、机を片付けていたら、黙ってこう机の端を持ってくれる人がいて、それが上杉さんだったの(大爆笑)。

 

南:スゴク上杉さんの感じ出てるね。ホントのことだから(笑)。オレさ、ずっと前に上杉さんと新宿歩いていたら、糸井さんと会ってね。で、二人は初対面だったから紹介すると、糸井さんはまあ普通の大人の挨拶してんだけど、上杉さん、「あっ」とかいって完全に横向いちゃって横にお辞儀してんだよ(笑)。

 

末井:最初に会った時って自閉症みたいな人になってるよね、上杉さんは(笑)。

 

──『ウイークエンドスーパー』は演劇関係の人達もよく出ていましたよね。

 

末井:あれね、ヌードモデルによく劇団の人を使っていたんですよ。だからじゃないかな。

 

──劇団の人をですか?

 

末井:そう、あの人達は安いからね(笑)あのころモデルは3万が相場だったけれどうちは1万しか出せなかったから。それで劇団に行って「芸術やりませんか」って言って探すんですよ(笑)。コストパフォーマンスっていうのね。安く作るのウマイですよ、僕は(笑)。

 

南:劇団て言えばさ、前に幻の名作って言われてる『恐怖奇形人間』ってものすごく期待して観たんだけれど、全然セコイの(笑)。それよりもその映画に出ていた一平(山田一平/ビショップ山田)さんの話のほうがずっと面白いよね。一平さんが書いた『ダンサー』っていう本に載ってるんだけどさ。末井一平さん、内臓人間の役をあてがわれたんだけれど、どうしたらいいのか、って困って大森の屠殺所に行ったんだって(大爆笑)。それでとりあえず内臓を買って桶にいれてそれを背負って電車で運んだんだよね(大爆笑)。

 

南:やること極端。絶対にその話のほうが面白い(笑)。

 

末井:でね、それを体に巻き付けて土方さんに見せたら「内臓人間はやめよう」て言われたらしいよ(大爆笑)。

 

高杉:すっげぇー!(笑)

 

──それから(故)鈴木いずみさんも凄い人でしたね。ホントにアングラっていう言葉が一番よく似合っていた人でしたよね。

 

末井:そうそう。高杉さんはいずみさんと結構付き合っていたんだよね。

 

高杉:期間はそんなに長くはなかったですけどね。

 

南:末井さんもよくいずみさんの電話に付き合ってあげてたよね。ものすごい長話聞いてあげてるの。やさしいんだよ、末井さんは。なかなかできないよ。

 

高杉:とにかく元気のある人でさ、夜中に電話があって「今から新宿に来い、来ないと原稿を渡さない」っていうからタクシーで行くと、原稿なんか出来てないの(笑)。

 

末井:なんかさ、そういうことしている自分がいとおしくない?(笑)。

 

高杉:ハハハッ。でさ、カラオケバーを何軒も引きずり回されるの。それでGSの歌を歌わないと怒る(笑)。「知ってるはずだ」って。

 

南:いずみさんが亡くなったのをしばらく知らないでいてね。それで、オレんとこで宴会やって盛り上がってたら、末井さんに電話入って、「いずみさんが死んだって。自殺、首吊り」っていったんだよ。あのタンタンとしてるのがまた、末井さんなんだよなァ。「子供の前でストッキングで首吊ったって」って。さすが「お母さんはバクハツだ」だよな(笑)

 

末井:でも前から「死ぬ」って言ってたんだよ。だからあまり驚かなかった。やることもないし書くこともない、ってよく言ってたもの。

 

南:思い詰めていくとそうなっちゃうんだろうね。書くことなんかなくたって別にいいのにね。

 

高杉:そうですよね。でも「いつ死んでもおかしくない」って感じはありましたよね。

 

──鈴木いずみさんは最初は何をしていた方なんですか?

 

末井:文学はもともとやってたんですよ。それからピンク女優や写真のモデルもやってたし。作家としては五木寛之さんが押してたよね。まあ、とにかく凄い人でしたよ。

 

いい加減も必要ですね。

──「写真時代」は最盛期にはどのくらい売れていたんですか?

 

末井:25万まで行きましたね。

 

高杉:ええっ、それは凄い!

 

南:『写楽』の方が先だったよね。

 

末井:そう、だってあれを真似して作ったんだもの(大爆笑)。判型も同じですよ(笑)。平とじでね。

 

高杉:これだけ堂々という人も珍しいね。

 

──ロゴは?

 

末井:ロゴも……まっ、『写楽』を『写真時代』にしただけで(笑)。『写楽』は面白かったですよ。カメラ雑誌はいっぱいあったけれど唯一あれが面白かったね。

 

南:でも『写楽』はあんまりクダンないことはしなかったからね。だから末井さんはあっちが我慢してた部分を全部やっちゃったわけだよ、オモシロイこと(笑)。それを「写楽」も後追いするみたいになっちゃった。

 

──『写真時代』はホントに写真が面白かったですよね。

 

末井:僕らね、写真を選ぶ基準を決めていたんですよ。いやらしいモノ、危ないモノ、インパクトのあるモノってね。で、創刊号は10万部刷ったんですけど、これね“ヤケクソ十万部”っていってね。その時会社が潰れかかっていて「もうだめだ」って言う状態だったんです。それなら「もういいやっ」ってヤケクソで10万刷ったんですよ(笑)。

 

南:でもそのヤケクソのエネルギーが伝わったんじゃないかな。みんな面白がってやってたし(笑)。

 

高杉:何年続いたんでしたっけ?

 

末井:7年。それで発禁になった(笑)。

 

──警告は何回受けました?

 

末井:49回(大爆笑)。

 

──『HEAVEN』は1年くらい出ていましたが、どうして終わってしまったんですか。

 

高杉:あれはね、社長がビニ本の方でパクられたんですよ。それでおしまい(笑)。社長がパクられたら余剰の部分をやる余裕がなくなっちゃうでしょ。

 

──『HEAVEN』は編集もさることながら、羽良多平吉さんのデザインも大きかったですね。

 

高杉:平吉さんとはね、工作舎で出会ったんですよね。そこの『遊』って言う雑誌が普段とは違う冗談の雑誌を作りたいっていうんで僕達が呼ばれて、そこで会ったんです。で、僕も平吉さんのファンだったもんで「表紙のデザインやってもらえませんか」って頼んでね。

 

南:あっ、オレその雑誌で山崎(春美)さんて人に取材されたけど、じゃ『遊』の編集部の人だと思ってたんだけど、そうじゃなかったんだ。

 

高杉:そうなんです。

 

──でも『HEAVEN』に載っていた情報って物凄くアングラでしたよね。ああいう情報ってどこから仕入れていたんですか。

 

高杉:半分はウソ(大爆笑)。でもそれでいいんですよ(笑)。写真とかは道で拾った本から切り抜いていたし。

 

南:でも高杉さん自身が面白いと思ったものを選んでるんだから、それが編集なんだよ。

 

高杉:僕も全然勉強してないまったくの素人から編集を始めたんだけれど、末井さんもデザインの勉強していて編集者になったんですよね。

 

南:俺もそうだから末井さんとは似てるんだよね。

 

末井:そうそう。だから文字の方から入ったんじゃないから誤植とかあっても全く気にならないんですよ(笑)

 

南:前に『笑う写真』本にした時さ、オレが文字の校正すると末井さんがさ、「どうせ字なんか読まないって、同じだって」て言うの(笑)。

 

末井:雑誌ってこうペラペラと見るものだからさ、一字違っていても前後の関係ってわかるじゃない(大爆笑)。

 

南:たしかにそうなんだよな(笑)。長井さんが似てんだよ、末井さんに。大体でいい、わかればいいって。南、コらないでいいって(笑)。

 

高杉:時々前後の関係さえ分からなくなるときもあるけれどでも「まっ、いいか」ってなる(笑)。

 

南:エロ劇画雑誌もそうだと思うんだけれど、あの頃はみんなオレ達みたいに素人がイキナリ始めるって言う形だったと思うし、だから元気があったのかもしれないね。抑制きかないからさ、ワガママな素人だから、自分が面白いことをする。末井さんのパチンコ雑誌が売れたのは、末井さんが「パチンコ雑誌」のプロじゃなくて、パチンコ好きになった末井さんの気持ちが前面に出たからでしょ。

 

末井:でもエロは今ダメだよね。締め付けがあるから。警察だけならいいんだけれど、どこかのおばさんの団体とかいろんな所からくるからね、誰を相手にしていいのかわからなくなっちゃうね(笑)。でも確かにあのころはやりたいことができましたよ。やっぱり規制とか会議とかあると皆元気がなくなっちゃう

 

南:ちゃんとした会社になっちゃうとそうなるね。

 

末井:徹夜で一生懸命企画書書いて「これは面白い」って思っても会議で「なにコレ?」って投げたりする。うちの社長のことだけど(笑)。

 

高杉:僕のほうは自販機本だったからよけいそうかもしれないけれど、たいがい版元の編集者と会議をやるもんだけど、僕たちはそういうの一回もなかった(笑)

 

:エロ本作りにお金を出してくれる人がいて「とにかく売れればいい」っていう状況ではあったよね。「売れればいい」っていうのはハッキリしてていいよ。

 

末井:あとね、いい加減だったらよかったんですよ。いい加減っていうのは必要なんですよね。「これは雑誌なんだから」っていうさ。雑誌たる所以ですよ、いい加減さっていうのはね。それがないとつまらない(笑)。

 

南:でもき「会議やらなきゃ売れる」っていうもんでもないんだよね。だってガロなんて会議なくて勝手にやってたけど、売れなかった(笑)。

 

末井:あっ、それはね、ヌードがなかったからじゃないんですか。ヌードを入れていればよかったのに(大爆笑)。

 

南:ハハハ……、いい加減でイイなァ(笑)。

 

1993年7月8日

ガロ編集部

初出:青林堂『月刊漫画ガロ』1993年9月号「特集/三流エロ雑誌の黄金時代」

対談企画『GON!』比嘉健二VS『危ない1号』吉永嘉明「卑屈でも鬼畜でも飯は食っていける!! 」

卑屈でも鬼畜でも飯は食っていける!! ザ・対談!!GON!』比嘉健二VS『危ない1号』吉永嘉明

(比嘉健二)

吉永嘉明

今、巷で話題の雑誌を仕掛けた張本人一人が、飲み屋で語った危ない編集裏話。あらゆる雑誌のスキ間を狙って活字世界に揺さぶりをかけるそのワケは…!!

初出:青林堂『月刊漫画ガロ』1995年12月号

☆遊び心を活かす面白さ。

吉永:比嘉さんが暴走族雑誌について受けたインタビューは、ずいぶん読んだ覚えがありますよ。結構でてましたよね。

 

比嘉:そうですねえ。『ティーンズロード』を編集してたときですけれど、『ユリイカ』とかに。そういうイメージのほうが強いんですよ、僕の場合は(笑)。でも『危ない1号』とうちの『GON!』とは読者が一部だぶってますよね。

 

吉永:アンケート葉書では、ほとんどの人が読んでる雑誌に『GON!』と『クイック・ジャパン』をあげてますよ。ほかに似ている雑誌が思い付かないみたいですね。

 

比嘉:うちのは『クイック・ジャパン』とは違うと思うけどなぁ(笑)。

 

〇『GON!』は創刊当時から話題になっていましたが、かなり暖めていた企画だったんですか?

 

比嘉:以前やってた『ティーンズロード』が成功したので、それはもう若い人たちにまかせて、また新しいことやろうと思いまして。それで何をしようか、と思ったんですが、もともと東スポが好きだったもんで、東スポを雑誌にしたいなぁってずっと思ってたんですね。そんな時にアメリカのタブロイド誌で『ウィークリーワールドニュース』を銀座のイエナで手に入れまして。東スポの一面に載っているような、生まれた子供が三百キロだった、とか、ETとクリントンが握手してる写真とか、うさんくさい記事を載せてることで有名なんですけれど、でも買っても英語が全然わからなくて(笑)。でも何かニオイたつものがあったんですね。表紙にドラキュラの骸骨の写真があって、それが発見されたという記事が一面にあるんです(笑)。あと、犯罪やフリークスものがてんこ盛りになっていて。

それでその雑誌を訳してもらったら、訳した人が「これは非常にレベルが高い」って言うんですよ。そんなレベルの高いものをそのままやるっていうのはできないけれど、マネなら何とか出来るんじゃないかと考えたんです。うさんくさい記事をメインに持ってきて、あとはいろいろな要素をいれていけば、日本のタブロイド誌に出来るんじゃないかな、と思って(笑)。

 

吉永:でも、よく創刊できましたね(笑)。

 

比嘉:普通そういうものが営業会議では通りにくいでしょ。でもたまたま「これは面白い」といってくれたやつがいまして。「売れないかもしれないけれど、こういう本の営業をしてみたい」って。でも自分としてはせっかく前の雑誌が当たって会社に貢献できたのに、これで失敗したらどうしようって、結構不安だったんですよ。誰も売れないと思ってた(笑)。でもラッキーなことにコンビニエンスでの展開ができまして、最初から十万部でスタートしたんです。

 

吉永:えーっ、十万まいたの。すごいなあ。メジャー誌より部数が多い(笑)。

 

比嘉:実売は全然ダメなんですけどね(笑)

 

吉水:でもさっき言ってました『ウィークリーワールドニューズ』って、確かに面白いですよね。だいたいメインの記事がウソなの。ウソなんだけれど面白いんですよ(笑)。それでサブの記事が事実なんだけれど、ちょっとヘンなやつばっかりなんですよね。だから僕はそういう小さいネタのほうが好きでした。小さいネタのほうが結構ジャーナリスティックなんですよ。

 

比嘉:それで、もう少しよく調べたら、あのタブロイド誌は、ワシントンポストやニューヨークポストなんかにいた連中が作ったらしいんですよね。もともと頭のいいやつが落ちてきて作ったやつだから、もう勝てない(笑)。

 

吉永:すでに基礎があったわけですね。

 

比嘉:だからアメリカはすごいなって思いましたよ。

 

吉永:遊び心をうまく活かせるというか、基礎がある人のお遊びですよね。

 

比嘉:それって余裕がないと出来ないですよ。余裕がないとマジで怒る人がいますから。

 

吉永:『GON!』でもそういう投書は多いんですか?

 

比嘉:多いですね(笑)。ちゃんとしたクレームはもちろん受けますけれど。でもそうでないものもありますよ。例えば“尾崎豊は生きていた”というネタをやった時なんか、テレビのワイドショーが信じてきましたよ(笑)。

 

吉永:マジで信じたんですか?

 

比嘉:そう、マジで(大爆笑)。

 

吉永:バカじゃないの(笑)。なんか楽しんで読む、っていうことが出来ないんですね。

 

比嘉:“スケボーおじさん”のネタをやったときもやっぱりテレビ局がきましてね。「どこにいるんですか」っていうから「砧公園にいるから捜してみて下さい」って(笑)。でも最近はウソだってわかったみたいで、全然こなくなりましたけど。でもそういうことで思ったのは、活字の恐さですよね。雑誌に載ってしまうと意外と信じてしまうというか。

 

吉永:ボードに手書きでかいてあっても信じないのに、活字になるとすぐに信じてしまうんですよね。でもそれちょっと知力がなさすぎますよ(笑)。

 

比嘉:ちゃんと取材した記事もいっぱいあるんで、そういう記事でくればこっちもちゃんと答えるんですけど、でも来るのはきわどいものばかりで(笑)。

 

吉永:うちなんて来たら困るなぁ。「あの強姦魔の人をインタビューさせてください」っていわれてもねえ(笑)。

 

〇吉永さんは、最初に手掛けた雑誌は『EXCENTRIQUE』でしたが、旅行雑誌というふれこみであったにもかかわらず、すでにあの雑誌に『危ない1号』の要素は入っていましたよね。

 

吉永:そうですね。あの雑誌は4人でやってたんですが、結局1年くらいで廃刊になってしまって、その後事務所を借りてくれるという条件でちょっと教育関係の情報誌をやって。でもそっちも危うくなってきたんで、宝島社に売り込みに行ったんです。「別冊宝島で『EXCENTRIQUE』をつくりたいんですけれど」って。そうしたら話をきいてくれまして「じゃ、特集部分だけを抜き出したものを別冊宝島でやりましょう」ってなって、それで作ったのが『別冊宝島EXタイ読本』だったんですけれど。

 

〇あれはタイの本当に知りたいところが書かれてあって、面白かったですね。

 

吉永:あれも、その後に出した『別冊宝島EX 裏ハワイ読本』も結構売れたんですよ(笑)。でもそうこうしてるうちに事務所がなくなってみんなバラバラになってしまったんですね。でもやっぱり仕事はグロスで受けたほうが好きなことができますから、それでまた集まって、まずクライアント探しでしたね。それでデータハウスさんと出会って、そこの社長さんが理解のある方で、『危ない1号』の企画が通ったんです。現在は3人ですけれど“東京公司”が一番力を入れているのが『危ない1号』なんですよ。でもこの本は取材をしてから出すまでに1年かかりました(笑)。実質ふたりでつくってますしね。もうひとりはプロレスの本なんかを作ってますから。

 

〇でも、売れましたよねえ。

 

吉永:売れたというか、僕の感覚では初刷部数が多かったんで、まずそれが不安でしたね。地方からガンガン返本がくるんじゃないかって(笑)。返本が多かったらもう2号はつくれないなって怖かったんですけれど。だって初刷2万って、相当ブランドイメージがついてないと絶対につらいと思うんですよ。ホントに心配だったんですが、でも今は5刷で4万かな。で、もうすぐまた再版がかかるんです。だから年内には5万くらいかなぁ。

 

比嘉:すごいねっ、5万!

 

吉永:でも、5万いったらこれ以上売れないように、読者の皆さんが買いたくなくなるようなテーマを入れなきゃいけないと思って。これが10万いってしまったら、もう好きには作れないでしょ。多分抗議の山だと思うんですよ。だからこれくらいで押えておきたい(笑)。

 

比嘉:ゆくゆくは月刊にするんですか?

 

吉永:いやそれは絶対に無理ですね。今の状態では人を雇えないし、また人を管理する能力もないし(笑)。来春あたりから隔月でいこうかな、と思ってるんですけれど。だから春からはちょっと人が欲しい。でもお金がないからボランティアでも募集しようと思って(笑)。『GON!』は何人で作ってるんですか?

 

比嘉:うちは今4人ですね。最近2人いれましたから。

 

吉永:えっ、少ないですね。あの細かい誌面を毎月4人でやってるんですか?

 

比嘉:そう、だからいつ倒れてもおかしくないですよね(笑)。でもうちは『危ない1号』さんみたいに単行本として耐えられるような内容じゃないから。ドラッグやったって上っ面で。だから数は出てるけれど、中身が全然ないの(笑)。

 

吉永:いや、でも『GON!』はストリート感覚の強い雑誌ですよ。

 

☆下世話なものは規制があったほうがいい

〇『GON!』は地方での反響はどうですか。

 

比嘉:わりといいんですよ。特に南のほうが。葉書や電話も多いですね。

 

吉永:でも、地方の読者は特に大事にしたほうがいいですよね。情報に飢えてますから、かえって敏感に反応してくれますよね。1号のアンケート葉書でも、次が買えるか心配です、っていう人もかなり多かったですから。

 

比嘉:あっ、同じですね(笑)。そういう不安は強いみたいですね。『ティーンズロード』なんかは読者が暴走族だから、東京よりも地方の方が売れていて、書店に置かれてる場所がすごく優遇されてましたよ、ジャンプの隣りに並んでたりしてね(笑)。

 

吉永:いい話ですねぇ(笑)。地方にはそこの文化っていうのがありますよね。『カミオン』っていうトラック雑誌なんかも結構いいところに置かれてますよね。根強い人気というか。でも『GON!』みたいな雑誌を作ってくれる人って少ないでしょ。出版社って東京に集中してるでしょ。それでインテリなんかが多くて、そういう人は地方のカルチャーというか、高校を卒業してすぐに工員になるような人達の気持ちが全然わからないんですよね。だからそういう人達に何かメッセージが伝わってくるような雑誌っていうのが実は少ないんですよ。だから『GON!』みたいな雑誌が増えていけば、活字文化は広まっていくと思いますよ。

 

〇面白ければどんなに活字が小さくても隅から隅まで読みますから。

 

比嘉:でもそれは多分うちの場合は記事が短いからだと思いますよ(笑)。週刊誌なんかで特集記事とかあっても長いと結局読まないんですよね。作ってる自分がそうんなんだから、読者ってそんなに長い文章を読むのかなって(笑)。だから自分が読者だったらこれくらいの本かなと。自分のレベルにあわせてるんですよ、実は(笑)。

 

吉永:でもそれはちゃんと読める雑誌を作ってるっていうことですよ。多分ね、『文藝春秋』とか『世界』とか買っても、あまり読んでないと思いますよ。一冊まるごと読む人ってあまりいないんじゃないか、って思います。入院してたり東京拘置所に入ってたりする人なんかは読むでしょうけれど(笑)。

 

比嘉:もともと日刊ゲンダイとかああいう新聞のほうが好きだったから、こういう雑誌にしたんだろうな。あまり長い文章だと自分でも理解できなくなっちゃうから(笑)。

 

〇そうすると、ものすごい量のネタが必要になってくると思うんですが、情報はどこからひろってくるんですか?

 

比嘉:創刊号を出してから、読者の反応がかえってくるんですよ。例えば「口裂け女を見つけたから取材にきてくれ』とか。そうするとすぐに電話して取材にいって、そうやってどんどん拡がってくるんです。今はファックスもかなり普及されてますから、地方の読者なんかはファックスで送ってきますね。

 

吉永:なんか『噂の真相』みたいになってますね。すばらしいことじゃないですか(笑)。

 

比嘉:でも8割がガセだけれどね。でも逆につい信じちゃって、なんだかバカみたいですよ(笑)。

 

吉永:でも『GON!』は読者とかなり一体感があるんじゃないですか?

 

比嘉:そうでしょうね。だから喜んでくれるんだと思うけれど。

 

吉永:うちの場合はわかってくれていない読者も多いんですよ。でもそれも嬉しいんですね。「じゃ、少しづつ鍛えていくか」っていう気持ちになれるじゃないですか。少し誤解しているんだけれど、正確に読みとってはいないんだけれど、でも何か感じとってくれてるんですね。そういうのはすごく嬉しいですね。逆に裏の裏まで読みとってしまうようなインテリの人から葉書もらっても嬉しくないですから。シニカルに分析されると、イヤ~な気持ちになりますよ(笑)。

 

比嘉:読者に女の子って多くないですか?

 

吉永:あっ、実はうち半分が女性です。

 

比嘉:うちもそうなんですよ。でも最近アナーキーさがなくなってきたんで、これはちょっとイカンなって思ってるんです。「親と一緒に読んでます」なんて葉書もくるし。でも違うんだよね。親には「こんな本は読んじゃいけません」って言って欲しい(笑)。

 

吉永:でもアンケートの半分が女の人だっていうのは、勇気づけられますよね。事務所にも電話はよくかかってきますよ。でもちょっと困るのは「あのぉ、シャブってどこで買えるんですか、こっそり教えて下さい」なんていう電話ですね(笑)。そういう時は「一応ここは普通の編集室なんでそういう質問にはお答えし兼ねるんですけれど。一応覚醒剤はイリーガルになっておりますので」ってちゃんと応対してますよ(笑)。

 

〇どちらも店頭に並ぶ本なので、読者が考えているよりもタブーには敏感なところがあるんじゃないかと思うんですが?

 

比嘉:うちはもうコンビニエンスにきられたらおしまいですからね。だからそういう意味では読者も誤解してるところはありますよね。「タブーに挑戦してくれるところが好き」とか「SPA!でもできない過激なことをやる」とかいわれるんだけれど、そんな大層なもんじゃないんだよね。姑息に売れてほしいってだけだから(笑)

 

吉永:うちもタブーだらけ、もう自主規制の嵐ですよ

 

比嘉:やっぱりそうですよね。

 

吉永:本屋で売る本は、顔も知らない人に買ってもらうわけだから規制だらけですよ。というか自分で規制してしまいますね。まったく規制のないドロドロしたエグイ本はそういう人達に見せちゃいけないですよね。でも見たい人もいるだろうから、そのうち通信販売の本を出そうかと思ってます(笑)。

 

〇規制のない本っていざつくるとなると結構難しいですよね。逆に書きっぱなしになってしまう危険があるから。

 

吉永:要するにオナニーみたいなもんでしょ。みうら(じゅん)さんみたいに人にみせるオナニーができる人はいいですよ。でもたいがいの人はそういうオナニーってできないんですよ。サービス精神がないから。

 

比嘉:やっぱりある程度規制があったほうが、逆に面白いですね。もともとエロ本作ってましたから(笑)。『写真時代』とかも規制の中でいろいろ面白いことやってましたよね。荒木(経惟)さんなんか、ちょとミを出したりして、それで怒られると「ごめんなさい」して、今度はスケパンはかしてとかってあの手この手で考える、そういう悪さをしてるのが楽しいんだから(笑)。だから全部いいですよ、なんて言われちゃったら何かつまらないでしょ。だから僕は規制があったほうが、こういう下世話なものはいいと思うんですよ。

 

吉永:そうなんですよね。規制があると、ない頭を絞ろうとするでしょ。それは予算の規制ってことでも同じことが言えますよね。『危ない1号』も制作費があまりなかったから、表紙のモデルも渋谷のセンター街で調達に行ったりして(笑)。

多分お金のあるところの編集者っていうのは、デザインはどこにたのむ、写真は誰にって分業するでしょ。それはもちろんいいことなんだけれど、あまり恵まれていると、自分で細かいところまで工夫しようっていう気にはならないですよ。だからうちは同人誌とメジャー誌の中間のスタンスですね。でも次号の表紙はエロ本にモデルを配給している事務所から探しました。写したのは顔だけですけれど(笑)。

 

比嘉:でもこの1号の表紙はスタジオ撮りでしよ。

 

吉永:いや、倉庫の中で撮りました(笑)。

 

比嘉:でもオシャレにみえますね。

 

吉永:それは今回の反省点です。この表紙、ちょっとスカしてるじゃないですか。こんなにスカしちゃったら、地方の工員の方々は手にとってくれないですよね。「あっ、俺には関係ないな」って瞬間的にね。そういう人達ってスカしに敏感ですから。きっと『スタジオボイス』なんか雑誌だと思ってないでしょ

 

比嘉:いやそれよりも知らないかもしれないですよ。『ティーンズロード』やってたときにね、読者の暴走族が面白いこと言ったんですね。暴走族雑誌の表紙っていうのは、たいがいネームがごちゃごちゃしてて、それでバイク写真の切抜きがあったりして、という感じでね。で、一時期うちが表紙をモノトーンにして気取ったときがあったんですね。そうしたら反応がすごく悪くて「こんなの全然よくない」っていうんですよ。「なんで、カッコいいじゃない」って言っても全然受け付けないんですね。感覚が違うというか、表紙は電車の中刷広告と同じで、それを見て買うか買わないか決めるんです。シビアといえばシビアですよね。だから『スタジオボイス』みたいにスコンってやっちゃうと、何だかわからねえや、って。

 

吉永:ホントにそういうところは敏感ですね。だから僕も日々闘いですよ。自分のスカしをどう押えるかって。やっぱりどこかスカしたところありますからね(笑)。それをどう押えてあけすけにしていくかってデザインなんかもカッコいいんだけれども読みやすく、っていうのを一応基本にしてるんですよ。

 

比嘉:恥ずかしいでしょ、うちの表紙、すごく恥ずかしい(笑)。自分じゃ買わないよ

 

吉永:低俗なネタと高尚なネタがあって、普通はどっちも好きなんだけれど、でもそれが両立する雑誌ってなかなかないんですよね。そういう雑誌を作りたいんですよ。スカしちゃえば簡単なんですけれど、でもわかりにくいじゃないですか。わかりやすいんだけれど、ちょっと高尚なものも入ってるっていうね。『GON!』なんかはその中間の線でうまくいってるのかも知れませんね。

 

☆“くだらない”部分をこだわる?

〇そのお手本になる、というか好きな雑誌はありますか?

 

比嘉:僕の好きな雑誌はみんな廃刊になっちゃう(笑)。『写真時代』や『Billy』とか、ああいうのが好きでしたよ。あと、みんなあまりしらないんじゃないかと思うんだけれど『タイフーン』っていう雑誌があったんですよ。僕はちょうど『POPEYE』世代で、あれが出たときはすごい衝撃を受けたんですね。でも読んでいるうちに、何かウソくさいなって思ってきて。最初はあこがれてたんだけれど、西海岸ってそんなにいいのかなぁって(笑)。

そうするうちに、ペップ出版からそれとはまったくアンチの、悪ガキ版『POPEYE』みたいな雑誌がでたんです。それが『タイフーン』という雑誌でね。それが結局『ティーンズロード』の原点になってるんだけれどね。そのころは暴走族の全盛期だったから、千葉の九十九里ブラックエンペラーがどうした、とか、総長の話なんかがあったりさ。でもつくりは『POPEYE』なの。レイアウトなんかがそっくりで(笑)。そこにまたボブ・ディランのインタビューが入ったりしてて、もうめちゃくちゃなんですが、それがすごくおかしかった。でも廃刊になってしまって(笑)。

 

吉永:きっと売れなかったんでしょうねぇ(笑)。

 

〇吉永さんは、どんな雑誌を読んでいたんですか?

 

吉永:あまり読んでいないんですけれどね。高校のときに読んでたのは恥ずかしいものばかりで(笑)。『世界』『朝日ジャーナル』『噂の真相』『現代の眼』。ちょっとかわいげがないでしょ(笑)。それで大学に入ると『ユリイカ』や『夜想』なんかを読んでいたんですが、自分で仕事をするようになってからは、逆にそういうものが嫌いになりましたね。単なる一読者のときは、そういう雑誌を読んで背伸びするのが好きだったんだけれど、編集の仕事を始めたら、スカしたものが嫌いになってしまいました(笑)

そもそも僕は『世界』を生協で買ってたんですが、でも一冊読むのに半年かかるんですよ。だから年刊でいいんじゃないかなって(笑)。自分の仕事でそういうものは作っちゃダメだなって思ってね。だから読んでた雑誌で影響されたものはないです。まあ、反面教師ですね。

 

〇やっぱり読者でいたときと実際仕事に携ってからだと、いろんな意味で考え方が違ってきますよね。お二方が作るような雑誌を編集してみたい、と思っている若い人達も多いと思うのですが…。

 

比嘉:どうなんだろうね。やっぱりちゃんとした大学に入ってちゃんとした道があるんだったら、こういう雑誌は作らないほうがいいですよ(笑)。だって最初からスタンスが全然ちがうじゃない。やっぱりミリオンってどうしようもない会社だから。高卒が当たり前っていう世界だからね(笑)。そういうやつらでもここまでやれるっていう話だけであってさ。だからこの雑誌がコンビニエンスで『VIEWS』や『BURT』と一緒に並んでいるのを見るのは快感ですよ。やっぱり卑屈な根性はあるから(笑)。

 

吉永:でも『GON!』がこれだけ売れていると、いい影響ががあるなと思うのは、大学を出て大手の出版社に勤めてカタイ媒体の仕事をして、でもそれがあきらかに肌に合わないなって自覚してる人達もいると思うんですよ。「俺ってちょっとキチガイなんじゃないかな」って不安を持っているんだけれど、反面どうにか世間に妥協を持っている、そういう人達を勇気づけてくれますよね(笑)。世の中にはもっとおかしな人達がいっぱいいて、その程度じゃおかしくないんだ、それを仕事に活かしている人もいるんだってね。うちが鬼畜系路線で言ってるのもそういうことなんですよ。人と違っていてもそれは別におかしいことじゃない。本当は人と違ってなきゃいけないと思うんですよ。モラルとか道徳観っていうのは、限りなく偏差値に近い人のためにあるものだから。だいたい平均の人なんて面白くも何ともないじゃないですか。ちょっと違ってて危なっかしいような人のほうがいいんですよ。それでもちゃんと生きていけるし、飯も食っていけるんだから(笑)

 

比嘉:でも、みんながこんなふうになったらちょっとイヤだよね(笑)。

 

吉永:岩波書店が『GON!』出したらイヤだよね(笑)。信じていたものがガラガラと崩れてしまいますよ(笑)。

 

比嘉:改めて考えてみると、ちゃんとした雑誌って意外とないんですよね。一見ちゃんとしてるように見えるんだけれど、書いてあることといったら「三浦和良がどうしたこうした」でしょ。結局あまり差がないんですよ。まっ、うちはそこにつけこんだワケですけれど(笑)。だからもっと立派な本がどこかから出ればうちはもっと売れるかも(笑)。

 

吉永:要するにリッパな本とね、あっ、いや『GON!』がリッパじゃないって言ってるワケじゃないけど(笑)。

 

比嘉:リッパじゃないですよ(笑)。

 

吉永:さっきも言ったように、高尚な本と庶民的な本ってあるでしょ。それやっぱり両立できるんですよね。どっちも読めるようなものが出てくる、というのが本当だと思うんですよ。どっちもなくてどっちも読めないっていうのが今なんですよ

昔、エロ本が元気だったころは、その中間というようなものがいっぱい出てきたじゃないですか。『写真時代』とかね。でもあくまでも商売が前提ですから、何等かの理由でうまくいかなくなると、どんどん追いやられていって、情報化を辿るでしょ。情報は情報で役に立つんですけどね。でも『GON!』を定着させたら、比嘉さんは『GON!』と『文藝春秋』みたいなものを両方つくればいいんじゃないですか。カッコいいですよ。あの人は何でもできるんだって尊敬されますよ(笑)。

 

比嘉:でもうちの雑誌はきっとマネするところが出てくるところ(引用者注:コアマガジン時代の『BUBKA』は『GON!』の完全な亜流誌だった)が出てくるでしょうね。だけど一言いいたいのは『ティーンズロード』があれだけ売れたのに、マネしないところはズルイですよね(笑)。

そこに編集者のヒキがありますよね。だってやりたくないよ、暴走族相手にしてさ。取材しながら一緒に走るのイヤじゃない(笑)。でもそれはカルチャーっぽいっていえばカルチャーっぽいでしょ。だからなんでまず『ティーンズロード』をマネしなかったんだって(笑)。

 

吉永:でも、言わせてもらえば『ティーンズロード』こそカルチャーでしょ。ドップリとその世界に浸ってますから。あの雑誌は自分も時々読んでたんですが、要するに自分の知らないカルチャーなんですよね。だから違う世界を見るようで楽しかったですよ。知らない世界って興味がわきますから。

 

〇これから先、どのようなスタンスを保って行こうと思ってますか?

 

比嘉:とにかく、くだらない、というところを、すごく拘って守っていきたいですね(笑)。

 

吉永:うちもいろいろと出版計画はあるんですけれど、今のところできないんですよ、人がたりなくて。比嘉さんのところはライターは足りてます?

 

比嘉:いや、全然足りないですね(笑)。

 

吉永:でも月刊でこれだけ出てるんだから凄いですよ。月刊誌なんて今売れてないじゃないですか。大手の月刊誌って売れてないですよね。だから『文藝春秋』『噂の真相』に次ぐ売上を誇るのは『GON!』かもしれないですよね。総合誌としては(笑)。

 

比嘉:だからうちのライバル誌は『SPA!』なんですけどね(笑)。

 

吉永:じゃ、うちのライバルは『文藝春秋』かな(笑)。裏文春と呼ばれたい、な~んちゃって(笑)。

 

1995年10月9日 文責:編集部

 

 

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