解説──掟破り、ということ
自分にとって大切な人が、しかも妻を含めて、次々にこの世を去って行ったとしたら、これはかなりのダメージを心に受けることだろう。おまけにその死が若過ぎ、自殺であったとなると。
そんな事態になったら、おそらく自分が何か不吉なものや禍々しいものを発散しているかのように感じるのではないだろうか。死の縁をわざわざ歩きたがるような人を、向こう側へ突き落としてしまうような邪(よこしま)な要素を自分が備えていると感じるのではないだろうか。あるいは、自分が不幸を招き寄せる体質なのではないか、と。普通、こんな目に遭う人物なんて、滅多にいないのだから。
実は不幸の理由をわたしは知っている。本文を読み進めるうちに、すぐに思い当たった。簡単な話である。著者(以下、Yと略す)がこんな運命に陥ることになったのは、わたしのせいなのである。わたしはYと一面識もない。共通の知人も(たぶん)いない。すなわちYと当方とは接点がない。ただしこちらは彼の仕事を知っている。彼が作った『危ない1号』を読んでいるからである。当時勤めていた精神病院の医局に、なぜかこれが転がっていたので、好奇心半分に手に取ってみたのである。そしてクズみたいな本だと思った。志が低く、屈折した思い上がりが充満し、反社会的であることを自由や純粋さと履き違えているようなゴミ雑誌であった。プライドばかりが高く、しかし才能は乏しく、責任転嫁の得意な薄汚い若者の苛立ちに迎合するような安っぽい雑誌であると思った。おぞましいことこの上ない。洒落にもならないチープ感と虚勢とが、下卑たオーラとなって頁のあいだから悪臭のように漂い出てくるかの如きであった。
こんなものを作ったり書いたりする奴は、品性下劣な人間であると心の底から思った。わたしは、たまらなく不快であった。冗談抜きで、こんな本を作った奴に災いあれと呪ったのである。本気で、不幸が襲いかかりますようにと念じたのであった。
触るのも汚らわしいようなウンコ本であるから、呪いを掛けたあとはさっさと記憶から消し去るように心掛けた。そうしておよそ十年が経ち、わたしは自分の呪いが本当に効力を発揮していたことを知ったのである。したがってYの不幸はわたしの力に依るものであるが、さらに遡って考えれば、彼の不幸は自業自得なのである。わたしは彼に同情をする気はない。ついでながら、テクノ/トランスも大嫌いである。
Yの周囲にいて、早々と彼岸へと旅立ってしまった三人は、共通したトーンを備えている。なるほどYから見れば、才能をきらめかせ、強烈な個性に彩られ、衆愚に迎合しない気骨を持ち、けれどもきわめて繊細で傷つきやすい魂の持主たちということになるのだろう。所詮、澁澤龍彦を読むことで自分の精神が高貴であると自分に言い聞かせているようなレベルであろうと、やはり眩しい存在ということだったのであろう。サラリーマンを、その画一的なスーツ姿ゆえに内面もまた唾棄に値すると決めつけるような類の底の浅い精神性しか持ち合わせていなくとも、ランボオの末裔みたいに映ったのであろう。
彼らは、死に魅惑されていた。たとえ死を恐れようと、それ以上に死へ惹きつけられてた。なぜ死は魅力的なのか。最強のカードであり、多くの人たちをうろたえさせるからである。ただし、死は誰にでも訪れる。死なない人間はいない。死は月並みであり、たとえどんな死に方をしようと「死」そのものは凡庸である。どうして気取った人たち、自らを精神的な貴族と任じているような人たちは、かくも凡庸なものに固執するのか。そもそも死は生理現象の一環であり、そうした意味では汗や口臭や垢や便の仲間なのである。そんなものを特別扱いする心情が分からない。
自殺をする人たちを観察していると、彼らの動機は結局のところ二つであることが分かってくる。すなわち、《逆上》と《うんざり》である。前者は頭に血が上った状態で衝動的に行われる。後者は、この世の中や人間そのものや自分自身に心底幻滅した挙句の行為である。したがって両者が合体することもある。
彼ら三名は(そしてYも)、実家の家族内に歪(いびつ)な心性が潜在し、そうした家庭で育ったことによって、自分だけではコントロールのつけようがない怒りや自己嫌悪や空虚感を自身に内包してしまった気配がある。そのような観点からは、彼らは生まれながらの被害者的な側面もあるのかもしれない。傲慢さや傍若無人なトーンの背後には、深い「よるべなさ」や違和感や絶望感が潜んでいたに違いない。彼らは認めたがらないだろうけれど、家族への反感や怒りと同時にそのような感情を持ってしまった自分に対して罪悪感を覚え、それがために自身を持て余してしまう部分があったのかもしれない。
死は凡庸である。だからこそ、彼らは死に寄り添うとき、本音の部分において寛げたのではないのか。なぜなら、もはや虚勢を張らなくても良いのだから。誰にとっても前代未聞であるのに、呆れるばかりに退屈なしろものが死なのである。自分自身を持て余し、特別であろうとすることに疲れたとき、究極の凡庸に飛び込んでみたくなるのも無理からぬ話なのかもしれない。
ところでYは、物故した三名に比べれば遥かに凡俗である。だからこそ、コンビニで働いてでもこうして生きながらえている。凡庸さは生を肯定したがると同時に、死が凡庸の極みであるという事実はまことに興味深いが、Yがその両極をバランス良く携えていたからこそ、精神的に不安定な三人は彼の周囲に集まって来たのだろう。実際、Yはろくでもない本を作りジャンキーになりかけているボンクラであるが、優しい。善意があり、誠意がある。ウエットで、(気恥ずかしい位に)ロマンチストである。『危ない1号』と、本書から窺えるYの人柄とはしばしば繋がり難いように思えてしまう。だがその奇妙な併存の加減こそが、三名にとって気の休まる存在だったということなのだろう。
Yは、案外と不器用で立ち回りの下手な人物に感じられる。まあ小賢しい男であったならば三名は直感的に毛嫌いしたに違いないし、わたしから呪いを掛けられるような隙も見せなかったであろう。本書のような情けない物語を綴ったりもするまい。彼の人柄ゆえに三人は近付いてきて、やがて彼らは《逆上》だか《うんざり》だかで自壊していった。おそらくYの存在が少しばかり自壊の速度を遅らせ、才能を発揮させる触媒として作用したことだろう。だが結局は死へと突入し、Yはどこかでそれが自分の責任であるかのように感じている。それは錯覚である。Yに悪い部分はない。問題があるとしたら、中途半端な鬼畜編集者であったがゆえにゴミ雑誌を世に出し、読者であるわたしから呪われてしまったことだけであろう。
本書は、いったいどのように読まれるべきなのか。背徳風味のボリス・ヴィアン的な青春物語としてか。パーソナリティーに問題を抱えた人たちの症例報告か。ある種のカルチャーにおいてはスターであった人たちにまつわる内幕話か。それとも、愛する人たちを失った男による慟哭の手記か。
そのどれであっても、本書は詰めが甘く「ぬるい」。正直なところ、金を取って他人に読ませる水準の文章なのだろうかと首を傾げたくなる。Yはドラッグで脳が萎縮しているのではないか。それとも、もともと駄目人間なのか。たぶん、両方とも正解のような気がする。ただし、注目すべきはこの本に限っては卑しげな雰囲気がないことであろう。自己憐憫にふけっていても、泣き言を述べていても、苦笑したくなるようなつまらぬ正論を語っていても、とにかく無防備で正直である。本文にこんな箇所がある。
本書の原稿のダイジェスト版をある出版社の女性編集者に見せたことがある。彼女は「私は早紀さんを知りません。そういう他人の立場から言うと、この原稿に書かれている早紀さんを好きにはなれないですね。オヤジに依存しバブルに踊り、生きにくくなったら死んじゃう。はっきり言って同情できません」
わたしも女性編集者と同意見である。しかしYは記す、「女性編集者が冷静でいられるのは『愛』がないからだ」と。
ここで愛を持ち出してしまったら、もはや「ああそうですか」としか答えようがないではないか。まともな物書きであったなら、愛などという身も蓋もない言葉は持ち出すまい。あの三人が死という「掟破り」を持ち出したように、Yは愛という「掟破り」ですべてを肯定しようとする。そのなりふり構わぬところに、本書の意味はあるのかもしれない。言い換えれば、愛の無力さと盲目ぶりとがここに描かれているということになろうか。そのように考えてみれば、なるほど本書には予想以上の価値があるのかもしれない、『危ない1号』とは違って。
────精神科医
※この文章は2008年刊行の幻冬舎アウトロー文庫版より転載いたしました。
1962年東京生まれ。明治大学文学部卒。バブル期に就職を迎え、出版界に入る。以来、ずっとフリーで雑誌・書籍の編集に従事。バブル末期には雑誌編集の傍ら就職情報誌や企業案内パンフレットなどを手がけ、「出版バブル」を体験する。海外取材雑誌『エキセントリック』編集部を経て、サブカルで勢いがあった頃の『別冊宝島』で編集・ライターをするようになる。95年~97年、雑誌形式のムック『危ない1号』(データハウス)の編集に従事。著書に『自殺されちゃった僕』(飛鳥新社/幻冬舎アウトロー文庫)『タイ〔極楽〕ガイド』『ハワイ〔極楽〕ガイド』(共に宝島社文庫)など、編・著書に『アダルトグッズ完全使用マニュアル』『危ない1号』(共にデータハウス)『サイケデリック&トランス』(コアマガジン)など多数。近年、編集より執筆の仕事に重きをおくようになる。